虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 見物人が三々五々に散っていく中、清花が密かに新たな決意をしていると、背後から聞き覚えのある声が鋭く突き刺さる。

 「ちょっとそこのあなた」

 振り返った瞬間、清花は背筋を凍りつかせた。
 視界の端に、艶やかな小紋と藤の簪が揺れる。真美子だった。
 以前、三木谷家で下働きをしていた頃、何度もその視線に晒された相手である。その顔には、あの頃と変わらぬ冷笑が浮かんでいた。

 「やっぱり下女虫じゃないの」

 真美子はゆっくりと歩み寄りながら、扇子を手に持ち、口元を隠すようにして笑った。

 「どうしてあなたが賀茂家の明臣様と一緒にいるのよ。どういうことだか言ってごらんなさい」

 清花は一歩だけ後ずさる。だが、すぐに足を止め、視線を真美子から逸らさずに答えた。

 「……共鳴者なんです」

 その言葉に、真美子の眉がぴくりと動いた。一瞬、理解が追いつかないような顔をしたあと、すぐに嘲笑が浮かぶ。

 「はあ? なにを戯けたことを言ってるの」

 彼女は扇子をぱちんと閉じ、清花の顔を覗き込むように身を乗り出した。

 「無墨民のあなたが筆聖の共鳴者? 笑わせないで」

 その声は、周囲の静けさを裂くように響く。その目には憐みとも軽蔑ともつかない色が浮かんでいる。
 清花は唇を結び、真美子の言葉に動じないよう指先に力を込めた。

 「どう丸め込んだの? 汚らわしい。まあ、いいわ。どうせすぐに賀茂家に見限られるでしょうし」

 彼女は扇子を再び広げ、顔の半分を隠すようにして言った。

 「墨も持たず、家柄もなく、礼儀も知らない。そんな子が賀茂家にふさわしいはずがないもの」

 清花は黙ってその言葉を受け止めた。心の奥に波紋が広がるのを感じながらも、なんとか堪えて表情は変えなかった。ささやかな意地だ。
 そのとき、遠くから「真美子!」と男の声が響いた。
 真美子は苛立たしげに振り返り、声の主を確認すると、清花に向きなおって舌打ちをした。

 「覚えておきなさい。身の程をわきまえない者は、いつか必ず落ちるのよ」

 そう言い残すと彼女は踵を返し、絹の裾を翻して去っていく。
 残された清花は、真美子の言葉を反芻しながら静かに息を吐いた。胸の奥に残るざらついた感情を、吐息とともに外へ逃がすように。絹の裾が去ったあとに残されたのは、静けさと重い疲労感だった。
 それを破るように、背後から足音が近づいてくる。やわらかいが、迷いのない歩調。清花は振り返る前から、それが誰かを悟っていた。

 「今のは?」

 明臣の声は低く、感情を抑えた響きだった。

 「賀茂家に来る前に、下働きしていた三木谷家のお嬢様です」

 言葉を選びつつ声が震える。
 明臣はしばらく清花の顔を見つめたまま、なにも言わなかった。その沈黙が、清花の胸にゆっくりと広がる。

 「彼女の言葉に、惑わされる必要はない」

 ようやく口を開いた明臣の言葉は静かで、それでいてたしかな重みを持っていた。清花が彼女になにを言われたのか、おおよその見当がついたのかもしれない。

 「君がここにいることは、僕の意志だ。それ以上の理由はいらない」

 清花は目を見開きかけたが、すぐにそれを抑え、そっと頷いた。その頷きは誰に見せるでもない、自分自身への確認だった。
 明臣はそれ以上なにも言わず、清花の隣に立った。ふたりの間に言葉はなかったが、風の音がどこか優しく感じられた。