虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 大正四年の八月末、霞京は茜色の夕暮れに包まれていた。
 石畳の路地を抜ける風に墨魂(ぼくこん)で灯る提灯が揺れ、ほのかな光が古い町家の軒先を照らす。遠くのカフェからは蓄音機のジャズが流れ、響くのは集う人たちの笑い声。石畳の路地沿いには軒先に吊るされた朝顔の鉢が風に揺れ、小さな鈴の音がかすかに鳴っていた。
 通りの片隅では、駄菓子屋の棚に並ぶ金平糖が夕日の光を受けてきらめき、立ち寄った子どもたちの小さな手が迷いながら伸びていく。川沿いには柳がそよぎ、その葉が水面に落ちるたび、波紋がゆっくり広がった。
 大通りでは洋装の紳士淑女が赤レンガのカフェへ吸い込まれていき、カップの縁から立ちのぼる香り高い珈琲の湯気が、ガス灯の明かりに溶けていく。電線には雀がとまり、屋根の上から人々のざわめきを見下ろしていた。
 霞京は、伝統と新しさが交錯する都市である。
 神社の石碑には命字と呼ばれる魂を持つ文字が刻まれ、夜になると文字に宿る魂が星のように瞬く。いっぽうで洋風のガラス窓や赤レンガのビルが、街に新しい息吹を与えている。

 だが、その華やかさの裏で、無墨民(むぼくみん)と呼ばれる者たちは影のように生きていた。人々から蔑まれ、奉仕の中で沈黙に染まるだけ。
 十八歳の清花(きよか)はそんな無墨民の少女である。
 感情や記憶を墨に溶かし込み、書道や絵画を通じて文字や図形に命を吹き込む異能――墨魂が、無墨民の清花にはない。
 賀茂(かも)家の使用人として、荘厳だが冷たい屋敷で働く日々。着物は洗いざらしの藍色で汗と埃でくすみ、肩に落ちる黒髪は簡素な紐で無造作に束ねられている。その眼差しは儚く、幼い頃に亡くなった母、美百合(みゆり)の記憶が彼女の心をどうにか支えていた。