明臣との訓練は二週間に及んだ。
ときに逆筆の疼きに襲われながらも、明臣と共同でいくつかの命字を完成させた。
ある昼下がり――。
広場にはやわらかな陽光が射し、空は澄んだ青をたたえていた。
街外れにあるその場所は、普段は静かな憩いの場として親しまれている。しかし今日は墨神の社からの試練を見届けるために多くの人々が遠巻きに集まり、張り詰めた沈黙が空気を包んでいた。
清花は明臣と石碑の前に並んで立ち、命字を刻むための筆と墨を慎重に並べた。
淡い灰茶の質素な布地でできた着物は袖口のほつれが目立つが、今日の清花の晴れ姿である。帯の結びも慎ましく、裾が風に揺れるたびにその粗末さが際立った。決して見栄えのする装いではないが、清花なりにきちんと整えたものだ。
対して明臣は濃藍の紋付き羽織に白金の織りが入り、一歩立つだけでその場の空気が引き締まるようだった。金糸の家紋が陽光にちらりと輝き、羽織の裾が風に翻るたび、墨神への敬意と彼自身の威厳が感じられる。
その姿は賀茂家の後継者としての役目と誇りを象徴していて、周囲の人々も自然と視線を向けていた。
その中には〝賀茂家の次期当主と一緒にいるのは誰だ?〟という興味本位の視線もあり、清花は居心地の悪さを感じずにはいられない。なにしろ清花は身なりからして明臣と釣り合わず、使用人以外の何者でもないからだ。
そんな女が晴れ舞台とも呼べる場所に並んでいれば、人々の興味を引くのも無理はないだろう。
広場の周囲に吊された提灯は命字を灯し、秋の風に揺れている。命字の光がちらちらと瞬くたび、それが清花の心拍を映しているように見えた。
胸の奥が詰まるように苦しく、吸い込む息は浅くなる。肌を撫でる風すら、鼓動を乱すほどに鋭く感じられた。
無墨民として生まれ、筆を握る資格などないと蔑まれてきた清花にとって、この場はあまりにも重い。人々の視線を浴びながら、墨神の社からの試練で命字を記すなど――。
その意味の大きさに足が震える。
筆を取る前、ふと明臣の視線を感じた。いつもより少しだけ長く向けられたそれは、冷ややかさよりも、なにかを探るような……観察にも似た色を帯びていた。
心臓が跳ね、視線を返しそうになる。しかし清花はその衝動を抑え、背筋を真っすぐに伸ばした。
(……失敗したら、私はどうなるのだろう)
明臣や正史郎をはじめとした賀茂家の人間に、厳しく罰せられるかもしれない。
不安が胸を占めるいっぽうで、明臣がすぐそばに立っている事実だけが清花をかろうじて現実に繋ぎ止めていた。
(不安になっている場合じゃないわ。今は命字と向き合わないと)
清花は浅く息を吸い込んで、筆先に目を落とす。指先の冷たさを感じながらも、心の奥にひと筋、凛とした気が芽生えはじめていた。
石碑の表面には、試練の刻印がぼんやりと浮かび上がっている。その輪郭が獣のように見えるのは、墨魂の反応か、それとも社の意志か。
横目で彼をちらりと見る。鋭い輪郭を持つ顔立ちに、いつも通りの冷静さ。しかしその表情が少しだけやわらいでいるように見えたのは、錯覚だろうか。街の人々が息を呑む中、隣に立つ明臣の気配が、ほんの少しだけ緩んだのだ。
胸の奥がわずかにあたたかくなる。
「お前の文字は心を映す。信じろ」
明臣の声は小さかったが、清花の心に強く刺さった。
その言葉が、不意に母の記憶を呼び覚ます。
『静かに、強く』
深く息を吸い、清花は筆を握った。手の中に墨の重みがずしりと宿る。
自分が命字を書く役割を果たすなど、以前なら想像もできなかった。
筆先を石碑に向け〝守護〟の命字を刻みはじめる。墨がゆっくりと染み、墨魂が光を放ってゆっくりと形を成していく。
墨魂の光が浮かび、命字の輝きに同調するように街の空気がわずかに震えた。
ところがそのとき、逆筆の疼きが清花の中で弾けるのを感じた。胸がざわつき、視界がわずかに霞む。筆先がぶれ、書かれた文字が波打つ。文字が揺らぎ、その輪郭が不安定に歪んだ。
「清花、集中しろ!」
明臣の声が鋭く走る。そのひと言に、清花の迷いは断ち切られた。
(心を映す。――怖れも不安も、全部受け止めて)
彼の言葉、母の教え、自分の決意。それらを胸に刻みながら、清花は目を閉じて、心の輪郭を整えた。
すると再び筆先が安定する。墨魂が共鳴するように輝き、命字の姿が整いはじめた。石碑の表面に浮かび上がるそれは、静かな強さとあたたかみを備えた姿をしていた。
広場の空気が震え、人々が再び息を呑む。拍手が響く直前、清花はちらりと明臣を見た。
彼の眉は、いつもより緩やかだった。契約の日の無表情とは違う、控えめな優しさ。それが錯覚だったとしても、その一瞬は清花の胸にあたたかな余韻を残した。
「……よくやった」
明臣は小さく頷き、初めて微笑んだ。
(明臣様が……笑った……)
清花は密かな驚きとともに、試練を終えた安堵で胸を撫で下ろす。広場の提灯が風に揺れ、その灯りに導かれるように清花の心にも小さな達成感が灯った。
しかし墨魂はまだ不安定で、試練の成功は一時的なものにすぎない。光の中に浮かぶ命字が静かにこちらを見つめているようで、清花は再び自分の内にある恐れと向き合う覚悟をそっと呼び起こした。

