翌日、賀茂家の書斎で、清花と明臣は墨神のからの試練に備えていた。
試練は、霞京の街を守る命字を石碑に刻むこと。明臣は清花に筆を渡し、試作用の小さな和紙に〝守護〟を書くよう命じた。
清花は正座して息を整える。小さな和紙が目の前に置かれ、その白さがやけに鋭い。
明臣は筆を清花に差し出すと、視線を逸らさずに言った。
「失敗は許されない。集中しろ」
その声は静かだが、鋼のように張り詰めていた。
清花は小さく頷き、筆を両手で受け取る。掌にじわっと汗が滲む。心を沈めようとしたが、逆筆の力が内から疼くのを感じていた。脈打つような感覚が手元を支配する。
(……ダメ、堪えて)
筆先が墨に浸り、わずかに黒い揺らぎが和紙に影を落とす。震える手がそのまま〝守護〟の一画目を走らせた瞬間、墨魂が揺れ、黒い霧が文字の形を崩していく。まるで和紙の上から吸い込まれるように、墨が溶けた。
空気が凍る。書斎に重い静寂が落ちる。
明臣の視線が鋭く清花に注がれた。目の奥に、言葉にしない警戒が宿っていた。
「なにをしている」
冷たい声に、清花は息を詰め、背筋が小さく震える。
「も、申し訳ありません! わざとじゃないんです……!」
声音が上ずり、謝罪の言葉は墨の粒よりも脆く崩れそうだった。
一歩踏み出した明臣が、清花の手首を静かに掴む。その手は冷たくもあたたかくもなく、ただ強く現実を突きつけるようだった。
「逆筆か? 隠すな、清花」
その瞬間、清花の墨魂が小さな蝶となって舞い、明臣の指先に触れる。彼はハッと手を離し、目を細めた。
「……お前の力は危険だ」
言葉は氷のように冷たい。そして、どこか探るような響きを帯びていた。
震える唇を噛みしめ、視線を落とす。清花は目元に涙が溜まりそうだったが、懸命に堪えた。
「私、制御できないんです。怖いんです……」
書斎の空気がさらに静まり、時を止めたような沈黙が訪れる。
黙って清花を見下ろしていた明臣は、眉の間にかすかな陰を浮かべて深く息を吐いた。
「訓練を続ける。失敗は私がカバーする。だが、二度と逆筆を隠すな。お前には制御する訓練が必要だ」
言葉の端は冷たいが、強く責めるものではない。その奥には、彼なりの理解と責任の気配が混ざっていた。
清花は小さく頷いたものの、胸の鼓動が収まらない。
書斎の明かりが明臣の顔を照らし、彼の気品ある輪郭を際立たせる。高く通った鼻筋、影に沈む瞳の奥に、一瞬だけやわらかな色が宿っているように見えた。

