翌朝、清花がいつものように掃除を進めていると、墨の香がかすかに漂う座敷の奥、畳の上に無造作に置かれている白いワイシャツが目に留まった。
(……これは明臣様の?)
襟の尖端部分にボタンがあるものを明臣は好んで着る。
そっと手に取ると少しだけ皺が寄っていて、袖のあたりに明臣の気配が残っているよう。
(あっ、これ……)
ふとボタンのひとつが、糸を引いたまま今にも落ちそうになっていることに気づく。誰かにボタンつけをお願いしようと思い、そのまま忘れたのだろうか。
言いつけられたわけではないが、気づいた以上このままにはしておけない。
清花は自室から針箱を持ってきて、座敷の隅に腰を下ろした。
針先に糸を通しながら、彼の顔が思い浮かぶ。まだその眼差しに触れると胸がざわつく。恐れとは少し違う。深い水面のように、言葉にできないなにかが揺れる。
慣れた手つきで針を動かし、ちょうど玉止めをして糸を切ったそのとき、不意に頭から怒号が浴びせられた。鋭い声に座敷の空気が一瞬で引きしまる。梅だった。
障子の陰から現れた梅は銀髪をきつく束ね、眉間には深い皺が刻まれていた。視線は鋭く、まるで一点を切り裂くかのようだ。その目が清花に向いた瞬間、空気が重くなる。
「こらっ、清花! みんな忙しく働いているというのに、こんなところでなにをのんびりしているんだ」
清花の肩は大きく弾み、指先がわずかに跳ねて針が皮膚をかすめた。痛みよりも、梅の怒気に胸が強く締めつけられる。
「も、申し訳ありません……」
慌てて立ち上がり、肩を丸めて頭を深く下げる。視線は畳の目から離せない。
「それは……」
梅の吊り上がった目は、まるで釘のように清花の手元を打ちつける。目を細め、口元には険しい影が落ちる。清花が手にするワイシャツを見た瞬間、その表情はさらに険しさを増した。
「これは明臣様の」
「お前、なにを勝手に触ってるんだ」
鬼の形相――その言葉がぴたりと当てはまるほど、梅の顔は厳しく、怒りに染まっていた。目尻は吊り上がり、唇はきつく結ばれている。その声には容赦がなく、言葉の一つひとつが清花を追い詰めるようだった。
「ボタンが取れかかっていたので……」
「お前がやる仕事ではないだろうが。よこしなさい!」
言い放った梅の手が勢いよく伸び、清花が反射的に身体を引こうとした、その刹那。別の手が静かに、しかしたしかな動きでふたりの間に割って入った。
すらりとした指先が梅の腕を制すようにそっと押し戻し、白いワイシャツの端を守るように包んでいる。その手の主は――明臣だった。
「それを下げなさい、梅」
声は落ち着いていたが、いつもより低く、底にひそやかな圧が宿っている。
梅は驚きに眉を跳ね上げたが、言葉を継ぐことなく手を引いた。
清花は目を見開いたまま固まる。胸の奥がざわついていた。
明臣に助けられ、どこか違う感情を呼び起こす。
「彼女がやったのなら、いい仕事だ」
明臣はそう言い、ワイシャツを軽く手に取る。その指先が繕われた部分をひと撫ですると、唇の端にほんのわずかだけ笑みが浮かんだように見えた。
「それ以上、叱らなくていい」
梅はしぶしぶ頭を下げると、視線を逸らして座敷をあとにした。
座敷に残った清花は針箱を胸元で強く抱きしめながら、ただ静かに頭を下げる。
「余計な真似をして申し訳ありませんでした」
肩をすくめたまま、針箱を胸に抱く。指先にはかすかな痛みが残っている。刺した傷は深くはないが小さな赤みが滲んでいた。
「いや」
短く答えた明臣は、ふと清花の手元に視線を落とした。
「……それ、刺したのか?」
その言葉に清花は一瞬、目を上げる。
明臣の視線は指先に注がれていて、いつもと変わらぬ静けさの中に、ごくわずかに曖昧な色が混じっていた。
「はい……少しだけ。でも大丈夫です」
清花は慌てて針箱で手元を隠すようにしたが、明臣の手がふと動く。決して触れはしない。しかし指先が清花の手のすぐ近くに留まり、小さく息を吸ってから低く言った。
「見せてみろ」
命令ではなく、気遣いに近い響きだった。
清花は反射的に手を引いて、胸元に抱きなおすように針箱ごと隠した。
「いえ、大丈夫です……。これくらい、すぐ治ります」
主である明臣に傷の心配をさせるわけにはいかない。
明臣はそれ以上、強く言わなかった。ただ彼女の視線の動きを一度だけ受け止めるように見つめる。
「そうか」
それだけ言い、彼はワイシャツを持って座敷をあとにした。残された空気に、どこか言葉にできない温度が漂っている。
清花は指先に残った小さな痛みに触れながら、誰もいない座敷の静けさに耳を澄ませた。恐れはまだある。でも彼の言葉や目線に、ほんの少しだけ尖ったものが和らいだ気がしていた。
(……これは明臣様の?)
襟の尖端部分にボタンがあるものを明臣は好んで着る。
そっと手に取ると少しだけ皺が寄っていて、袖のあたりに明臣の気配が残っているよう。
(あっ、これ……)
ふとボタンのひとつが、糸を引いたまま今にも落ちそうになっていることに気づく。誰かにボタンつけをお願いしようと思い、そのまま忘れたのだろうか。
言いつけられたわけではないが、気づいた以上このままにはしておけない。
清花は自室から針箱を持ってきて、座敷の隅に腰を下ろした。
針先に糸を通しながら、彼の顔が思い浮かぶ。まだその眼差しに触れると胸がざわつく。恐れとは少し違う。深い水面のように、言葉にできないなにかが揺れる。
慣れた手つきで針を動かし、ちょうど玉止めをして糸を切ったそのとき、不意に頭から怒号が浴びせられた。鋭い声に座敷の空気が一瞬で引きしまる。梅だった。
障子の陰から現れた梅は銀髪をきつく束ね、眉間には深い皺が刻まれていた。視線は鋭く、まるで一点を切り裂くかのようだ。その目が清花に向いた瞬間、空気が重くなる。
「こらっ、清花! みんな忙しく働いているというのに、こんなところでなにをのんびりしているんだ」
清花の肩は大きく弾み、指先がわずかに跳ねて針が皮膚をかすめた。痛みよりも、梅の怒気に胸が強く締めつけられる。
「も、申し訳ありません……」
慌てて立ち上がり、肩を丸めて頭を深く下げる。視線は畳の目から離せない。
「それは……」
梅の吊り上がった目は、まるで釘のように清花の手元を打ちつける。目を細め、口元には険しい影が落ちる。清花が手にするワイシャツを見た瞬間、その表情はさらに険しさを増した。
「これは明臣様の」
「お前、なにを勝手に触ってるんだ」
鬼の形相――その言葉がぴたりと当てはまるほど、梅の顔は厳しく、怒りに染まっていた。目尻は吊り上がり、唇はきつく結ばれている。その声には容赦がなく、言葉の一つひとつが清花を追い詰めるようだった。
「ボタンが取れかかっていたので……」
「お前がやる仕事ではないだろうが。よこしなさい!」
言い放った梅の手が勢いよく伸び、清花が反射的に身体を引こうとした、その刹那。別の手が静かに、しかしたしかな動きでふたりの間に割って入った。
すらりとした指先が梅の腕を制すようにそっと押し戻し、白いワイシャツの端を守るように包んでいる。その手の主は――明臣だった。
「それを下げなさい、梅」
声は落ち着いていたが、いつもより低く、底にひそやかな圧が宿っている。
梅は驚きに眉を跳ね上げたが、言葉を継ぐことなく手を引いた。
清花は目を見開いたまま固まる。胸の奥がざわついていた。
明臣に助けられ、どこか違う感情を呼び起こす。
「彼女がやったのなら、いい仕事だ」
明臣はそう言い、ワイシャツを軽く手に取る。その指先が繕われた部分をひと撫ですると、唇の端にほんのわずかだけ笑みが浮かんだように見えた。
「それ以上、叱らなくていい」
梅はしぶしぶ頭を下げると、視線を逸らして座敷をあとにした。
座敷に残った清花は針箱を胸元で強く抱きしめながら、ただ静かに頭を下げる。
「余計な真似をして申し訳ありませんでした」
肩をすくめたまま、針箱を胸に抱く。指先にはかすかな痛みが残っている。刺した傷は深くはないが小さな赤みが滲んでいた。
「いや」
短く答えた明臣は、ふと清花の手元に視線を落とした。
「……それ、刺したのか?」
その言葉に清花は一瞬、目を上げる。
明臣の視線は指先に注がれていて、いつもと変わらぬ静けさの中に、ごくわずかに曖昧な色が混じっていた。
「はい……少しだけ。でも大丈夫です」
清花は慌てて針箱で手元を隠すようにしたが、明臣の手がふと動く。決して触れはしない。しかし指先が清花の手のすぐ近くに留まり、小さく息を吸ってから低く言った。
「見せてみろ」
命令ではなく、気遣いに近い響きだった。
清花は反射的に手を引いて、胸元に抱きなおすように針箱ごと隠した。
「いえ、大丈夫です……。これくらい、すぐ治ります」
主である明臣に傷の心配をさせるわけにはいかない。
明臣はそれ以上、強く言わなかった。ただ彼女の視線の動きを一度だけ受け止めるように見つめる。
「そうか」
それだけ言い、彼はワイシャツを持って座敷をあとにした。残された空気に、どこか言葉にできない温度が漂っている。
清花は指先に残った小さな痛みに触れながら、誰もいない座敷の静けさに耳を澄ませた。恐れはまだある。でも彼の言葉や目線に、ほんの少しだけ尖ったものが和らいだ気がしていた。

