虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 「いつか階級に関係なく、好きに生きていける日がくるといいな」

 キラキラした笑顔で話す澄江に清花は微笑みで返す。
 澄江の無垢な笑顔を見ると、墨契婚の重圧がいっそう重く感じられた。しかし当然ながら逆筆の秘密も、賀茂家の後継者との墨契婚も打ち明けられない。

 「澄江、私ね、いつか自由に字を書いてみたい。母さんみたいに」

 ふと、ささやかな願いが清花の口から零れた。自由に生きられなくてもいい。せめて好きなように字を書けたら。
 その言葉に澄江は目を輝かせる。

 「ぜひそうして! 清花の字、すっごくきれいだから。そしていつか一緒にこんな洋装を着て、カフェで優雅にお茶しようね」

 それはきっと実現不可能な夢だ。カフェでお茶など、無墨民には許されていない。
 虐げられた民は、未来永劫そこから逃れられないのだ。
 霞京の夜空に星が瞬く。川辺の提灯がゆらりと光り、墨魂が小さな魚となって水面を跳ねた。

 「……ねえ、澄江」

 清花がぽつりと名前を呼ぶと、澄江は「なあに?」と小首を傾げた。

 「私の母さんの名前って美……」

 言葉が途中で途切れた瞬間、清花の胸がきゅっと締めつけられる。

 (やっぱり言えない。どうして……)

 どうしてもその一文字で止まってしまうのだ。

 「〝美百合〟さんでしょう?」

 澄江の答えが、その苦しみにそっと触れるように響いた。
 その名が耳に届いた瞬間、胸の奥でなにかがほろりとほどける。忘れてしまった自分を責めていた心が、少しだけ救われた気がした。

 「綺麗な名前なのって、昔からよく言っていたよね」

 その言葉に、遠い記憶がかすかに揺れる。

 (――美百合。そう、綺麗な名前だった)

 その名前を思い出せなかったことが、ひどく怖かった。
 しかし今、それを澄江の口から聞けたことで、かけられた呪いの隙間に光が射したよう。

 「それがどうかした?」

 言われて、清花は一瞬戸惑う。喉の奥に言葉がつかえて、素直に口にできない。

 「あ、ううん」

 笑顔を作るのが少しだけ遅れた。

 「変なの」

 澄江がクスクス笑う。その笑いはいつもと同じ明るさなのに、清花にはどこか遠く感じられた。
 そして清花の胸には、明臣の冷たい言葉がまだ残っている。

 『道具として働いてもらう』

 契約署名の場面が脳裏に浮かぶ。あのときの明臣の無表情な顔と、震える自分の署名。墨魂の蝶が舞った瞬間、彼の目はわずかに揺れていた。

 「……そろそろ戻らなきゃ」

 清花は立ち上がり、夜風に髪をなびかせながら言った。
 澄江が「またね」と手を振る。その笑顔を胸に刻みながら、清花は街の灯を背に歩き出す。
 霞京の夜は静かに深まり、命字の光が川面に揺れている。その光の下を歩く清花の影は細く、でもたしかに前へと伸びていた。