その夜、清花は賀茂家の裏庭を抜け、霞京の街角へ向かった。使用人の務めを終え、束の間の休息を求めて。
使用人はその日の仕事が終われば外出を許されている。とはいえ朝早くから分刻みで働いても、自由になるのは夜の時間のほんのわずか。日を跨ぐのは禁じられている。
街は夜の帳の中で、やわらかな命字の光に満ちていた。
提灯に刻まれた〝健〟や〝祝〟といった命字は人々の願いを映し、ほんのりと色合いを変えていく。赤茶色の街道には濡れた石畳が敷かれ、夜が深くなるにつれ気温の下がる空気が衣の裾を冷やした。
霞京の街は和洋折衷の看板が並び、着物姿の娘や洋装の紳士が行き交う。提灯に刻まれた命字が街を照らし、川辺には墨魂で動く小さな舟が浮かぶ。
清花はいつもの露店で、友人の澄江と落ち合う約束をしていた。
露店からは墨煮豆の香ばしい匂いや、和紙細工の紙鳶が風に揺れる音が聞こえる。
清花は片手で髪の結い目をたしかめながら、足元を気遣うように慎重に歩く。だがその顔には、賀茂家の重圧からひととき逃れた安堵がうっすらと浮かんでいた。
先に到着していた澄江が手を振る。洋風の帯を合わせた麻の着物は、霞京の夜風とよく馴染んでいる。
「遅かったね、清花。今日も梅婆さんに怒られた?」
梅を梅婆と呼ぶ澄江の言葉は冗談めいているが、その声には寄り添うあたたかさがある。清花は思わずふっと笑い、自然と肩の力を抜いた。
澄江は墨民だが心根が優しく、清花を蔑んだりしない。
彼女との出会いは五年前、清花が十三歳のときに遡る。
ある日、街で清花は墨民が作った茶碗を誤って割ってしまい、ひどい剣幕で怒鳴られていた。そこへ現れ『この子、私の妹なんです』と咄嗟に庇ったのが澄江だった。
澄江は墨民として育てられているが、じつは母が無墨民という出自であった。血筋に混じりがあると、純粋な墨民からは半端者として扱われる。澄江も周囲から浮く存在だったのだ。
その出会いは心を閉ざし、互いに居場所を求めていたふたりが触れ合った瞬間だった。
外に並べられた椅子に隣り合って腰を下ろし、澄江は手に持った雑誌を広げる。
「これ見て。これ素敵でしょう? 清花に似合いそうじゃない?」
細身のブリムを持つその帽子は淡い灰桜色のフェルト地で作られ、縁にはごく控えめなレースが添えられている。
清花は苦笑し、首を振る。
「私には似合わないわ。地味なほうがいい」
華やかな色は不釣り合いだ。
「なにを言ってるの。清花はもっと自分を大事にしなさい。自由に生きないと」
澄江は笑い、清花の手を取った。彼女の明るさが、いつも清花の心に小さな灯をともす。
しかし、無墨民の自分では自由を望めないことは清花自身が一番よくわかっていた。
使用人はその日の仕事が終われば外出を許されている。とはいえ朝早くから分刻みで働いても、自由になるのは夜の時間のほんのわずか。日を跨ぐのは禁じられている。
街は夜の帳の中で、やわらかな命字の光に満ちていた。
提灯に刻まれた〝健〟や〝祝〟といった命字は人々の願いを映し、ほんのりと色合いを変えていく。赤茶色の街道には濡れた石畳が敷かれ、夜が深くなるにつれ気温の下がる空気が衣の裾を冷やした。
霞京の街は和洋折衷の看板が並び、着物姿の娘や洋装の紳士が行き交う。提灯に刻まれた命字が街を照らし、川辺には墨魂で動く小さな舟が浮かぶ。
清花はいつもの露店で、友人の澄江と落ち合う約束をしていた。
露店からは墨煮豆の香ばしい匂いや、和紙細工の紙鳶が風に揺れる音が聞こえる。
清花は片手で髪の結い目をたしかめながら、足元を気遣うように慎重に歩く。だがその顔には、賀茂家の重圧からひととき逃れた安堵がうっすらと浮かんでいた。
先に到着していた澄江が手を振る。洋風の帯を合わせた麻の着物は、霞京の夜風とよく馴染んでいる。
「遅かったね、清花。今日も梅婆さんに怒られた?」
梅を梅婆と呼ぶ澄江の言葉は冗談めいているが、その声には寄り添うあたたかさがある。清花は思わずふっと笑い、自然と肩の力を抜いた。
澄江は墨民だが心根が優しく、清花を蔑んだりしない。
彼女との出会いは五年前、清花が十三歳のときに遡る。
ある日、街で清花は墨民が作った茶碗を誤って割ってしまい、ひどい剣幕で怒鳴られていた。そこへ現れ『この子、私の妹なんです』と咄嗟に庇ったのが澄江だった。
澄江は墨民として育てられているが、じつは母が無墨民という出自であった。血筋に混じりがあると、純粋な墨民からは半端者として扱われる。澄江も周囲から浮く存在だったのだ。
その出会いは心を閉ざし、互いに居場所を求めていたふたりが触れ合った瞬間だった。
外に並べられた椅子に隣り合って腰を下ろし、澄江は手に持った雑誌を広げる。
「これ見て。これ素敵でしょう? 清花に似合いそうじゃない?」
細身のブリムを持つその帽子は淡い灰桜色のフェルト地で作られ、縁にはごく控えめなレースが添えられている。
清花は苦笑し、首を振る。
「私には似合わないわ。地味なほうがいい」
華やかな色は不釣り合いだ。
「なにを言ってるの。清花はもっと自分を大事にしなさい。自由に生きないと」
澄江は笑い、清花の手を取った。彼女の明るさが、いつも清花の心に小さな灯をともす。
しかし、無墨民の自分では自由を望めないことは清花自身が一番よくわかっていた。

