虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 ひぐらしの声が陽の傾きとともに街に滲む午後。賀茂家の提灯に刻まれた命字〝安寧〟が、夜風にそよぐたびに淡い光を放ち、その様子はまるで屋敷そのものが呼吸しているかのよう。
 清花は賀茂家の書斎に立っていた。その壁には命字が刻まれた和紙がずらりと並び、墨魂の光が静かに脈打つ。
 目の前には筆聖の後継者である明臣が、鋭い眼差しで清花を見据えている。

 「清花、命字は魂そのものだ。雑に扱えば墨崩れを招く。わかっているな?」

 明臣の声が低く、冷たく響く。
 白いシャツにネクタイをきっちりと結び整った彼の姿は、霞京のモダンな風潮を象徴していた。
 対して清花の着物は裾が擦り切れ、腰紐には小さなほつれが見える。墨契婚をしたからといって、清花が筆聖の彼と同等の扱いを受けるわけではなかった。
 一般的な婚姻関係とは別物。あくまでも完璧な命字を書くための契約婚なのだ。
 清花の暮らしぶりはこれまでと変わらず、当然ながら明臣と同じ部屋で生活はしない。

 清花は明臣の言葉に小さく頷き、震える手で筆を握った。ふと胸の中に、逆筆の力が疼くような不安が広がっていくのを感じる。
 二週間前の光景が脳裏に浮かんだ。
 賀茂家の命字〝繁栄〟に触れた瞬間、文字の一部が黒い霧に溶けるように消え、庭は墨崩れで荒れ果てた。花は枯れて池は黒く濁り、筆聖たちの怒声が屋敷に響いた。
 そのときのことを思い出すと、未だに体の芯が凍りついたようになる。

 「はじめなさい」

 明臣が命じる。
 机の上には和紙が置かれ、〝調和〟の命字を刻む課題が与えられている。明臣の共鳴者としての訓練が行われようとしていた。
 清花は深呼吸し、母の教えを思い出す。

 『文字は心を映す。静かに強く書くのよ』

 母の声が遠い記憶の中で響く。
 清花は墨の香りに心を落ち着け、筆を滑らせた。

 筆先が和紙を滑り、調和の二文字が流れるように形作られる。墨魂が小さな蝶となって舞い上がり、書斎にやわらかな光を放つ。
 蝶は清花の周りをふわりと旋回し、彼女の心の揺れを映すように揺れた。
 なぜ自分が突然、墨魂を使えるようになったのか、清花はわからずにいる。二週間前、この屋敷の命字に触れるまで、そのような兆候はなかったのだから。
 強い力が込められた賀茂家の命字に触れたことで、その力が清花に注がれ、なんらかの理由で現れたのか。それとも清花の中にもともと眠っていた力が目覚めたのか。――いや、無墨民だから、それはあり得ないだろう。
 母と一緒に書いた文字が同じような現象を引き起こした理由も、今となってはわからない。

 現れた蝶を見て、明臣の眉がわずかに動く。
 蝶の光が弱まり、書斎の空気が一瞬止まったように静まった。
 清花の筆先から、墨がわずかに滴り落ちる。滴は和紙の縁に触れ、ほんのり震えながら染み込む。その瞬間、部屋の命字たちが微かに反応した。
 壁の和紙に刻まれた〝赦〟や〝結〟の文字が、墨魂の波動に揺れるように、まばたく光を返す。
 明臣は呼吸を止め、視線を和紙に走らせた。

 「……墨魂が共鳴したか」

 低く呟いたその声は評価でも警戒でもなく、ただ驚愕の色を含んでいた。
 清花の手は震えたまま、視線が和紙に宿った〝調和〟に向けられる。不思議なことにその文字は、端正であるにも関わらず、どこかあたたかみを帯びていた。まるで心を優しく包む布のよう。

 「どうして私にこんな力が……」

 誰にも聞こえないほど小さな声が漏れた。
 明臣の眼差しが再び清花に向けられる。その瞳には、過去の痛みを思い起こすような光が混じっていた。
 彼は筆を取り、試作用の和紙に向かって文字を書こうとした。だが、筆先が紙に触れる寸前、手が止まった。
 蝶がまだ部屋に漂っている。

 「両親ともに無墨民というのはたしかか」
 「はい。母は綺麗な字を書きましたが無墨民でした。父は私が生まれる前に亡くなったのですが、無墨民だと聞いています」

 そもそも無墨民がそれ以外と結婚する道はほとんどないと聞く。あっても墨民がせいぜい。清花が筆聖の明臣と結婚したのは稀なのだ。
 無墨民同士の間には、当然ながら無墨民の子が生まれる。

 「……墨魂は、時に血を超えるのか」

 ぽつりとこぼれた言葉に、清花は目を上げた。
 無墨民の子どもは無墨民。賀茂家は代々筆聖同士の婚姻で、その血を濃くしてきた。
 それが覆ったのかもしれないと、明臣は言いたいのだろう。
 ならば、清花に宿っているという逆筆は、いったいどこからやってきたのか。
 部屋の隅で灯る石燭が、風もないのに揺れる。〝調和〟を書くたびに、墨の蝶がひらひらと舞った。

 「上出来だ。だが、試練はこれからだ」

 彼の言葉は冷ややかだが、目には驚きが宿っていた。
 清花は視線を落とし、ほっと息をつく。母から教わった書は、彼女の唯一の誇りだった。
 だが、逆筆の疼きは消えない。筆を握るたび、制御できない力が蠢くのを感じていた。