霞京の朝は、霧が薄く立ち込める川辺からはじまる。
秋が近づく九月、賀茂家の屋敷は静寂に包まれていた。屋敷の庭では、墨魂で動く石灯籠がほのかに光り、朝露に濡れた苔が湿った香りを漂わせる。
清花は使用人としての務めを果たすため、日の出とともに起き出して粗末な藍色の着物を身にまとい、髪を簡素な髷に結い上げていた。
動きから無駄を省き、慎重に、そして自分の存在をなるべく小さくしようと心掛ける。人の目に触れるのは、できるだけ避けたかった。
賀茂家の大きな庭を臨む廊下の清掃は、清花の朝の仕事である。一直線に長く続く廊下をひたすら雑巾がけしなければならない。
「清花、もっと丁寧にやれ。塵ひとつ落ちていたら、ただでは済まないからね」
賀茂家に古くから仕える使用人、梅が鋭い声で注意する。
梅は小柄だが背筋をぴんと伸ばしており、六十歳という年齢を重ねた身体からは一種の威圧感が漂っていた。
灰墨色の和服を身に纏い、袖口と裾には擦れた跡があるが、丁寧に繕われていて清潔感を保っている。その装いは飾り気がなく、まるで彼女自身の厳格さを反映しているようだった。
顔立ちは骨ばっていて、目尻には深く刻まれた皺が幾筋も走っている。鋭い目つきは、見る者の心の奥を射抜くような鋭さを持ち、唇は常にひと筋に結ばれていた。その口元は滅多に笑うことがなく、笑ったとしてもそれは苦味の混ざった嘲笑に近い。
髪は銀交じりの黒を短く束ね、後ろでしっかりと留めてある。どこか軍人のような規律を感じさせるのは、由緒正しき賀茂家の使用人頭の誇りからか。近くを通るだけで、空気が少し重くなるような存在感を放つ。
屋敷の秩序を支える影のような人物であり、彼女の足音が遠くから聞こえるだけで、清花の背筋は自然に伸びる。
清花は慌てて頷き、「はい、気をつけます」と小さく答えた。
「お前のような下働きが、明臣様の共鳴者だなんて。墨魂も使えない人間をどうするおつもりなんだかね」
梅は墨民で、霞京に暮らすほとんどの人がそうであるように無墨民を軽く見ており、清花の存在を屋敷の必要悪としか思っていない。
清花は梅の言葉に反論することもできず、ただ胸の奥に小さな痛みを抱えた。墨魂も使えない。共鳴者としても不完全。
その言葉は、清花が自分でも感じていた不安を容赦なく突きつけてくる。
だが、蝶が舞ったあの瞬間を思い出す。
あれは幻ではなかった。母の笑顔のように、たしかに心が墨に触れたのだ。
それでも黙っているしかない。この屋敷で生きるには体を潜め、存在を薄くするしかないのだから。
清花は唇を噛み、黙々と作業を続ける。
「それにしても賀茂家で墨崩れが起こるなんて、いったいどうしちまったのか。なにかよくないことが起こるんじゃないかと気が気じゃないったらありゃしない」
梅はボソボソと皮肉めいた口調でひとり言を呟いた。
清花の逆筆によって引き起こされた墨崩れによる庭の痕跡は、明臣の命字によって修復されたものの、あれ以降、屋敷内では梅のように囁き合う言葉があちこちで聞かれるようになっている。
「明臣様がなにか禁忌を試されたのでは?」
「なにかが起こる前触れなのかもしれない」
十数名いる使用人たちは口々に言い合うが、無墨民の清花に由来するものだとは思ってもいない。その中には賀茂家の繁栄に影が差したと、ほかの家で働こうとする者もいた。
また、中には明臣が清花と墨契婚を結んだせいなのではと考える者もおり、清花への風当たりが強くなっているのも事実だった。

