虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 あの日の黒い霧は、今でも明臣の胸に深く重く刻まれている。以来、明臣は自身の感情を極限まで抑えて生きてきた。
 清花の逆筆は、そのときの霧に似ていた。危険でありながら、惹きつけられる力だ。
 明臣の視線が机の端にある書状へ落ちる。
 ふたりの間で交わされた契約書である。
 無墨民でありながら逆筆を宿す少女。常識を逸脱した存在。
 明臣は、彼女のその力を初めて目の当たりにしたときのことを思い返す。

 ――命字が、溶けた。

 和紙が震え、屋敷の〝繁栄〟の文字が滲み落ち、墨が命のように蠢いた。
 明臣の心臓は不意に一拍、打ち損ねた。
 その中心にいたのは清花――あの少女だった。
 小柄で、着古した藍の着物を身に纏い、怯えた瞳をしていた。
 その瞳の奥には姉と同じ光があった。書に込めた心が、墨魂を揺らすあの独特の余韻が。

 (だが、彼女は崩した。姉さんとは違う。命字に拒絶されたのではなく、拒絶〝した〟のだ)

 契約書に署名した清花の字の墨魂が乱れ、室内の気温が瞬間的に下がる。
 あのとき明臣の目はただ一点、清花の手元を見据えていた。

 (逆筆だ。……本物の)

 あの黒い揺らぎ、魂を解体する墨の軌跡。それは姉が命を落としたあの夜と酷似していた。
 言葉が喉に詰まり、冷静な判断が鈍る。
 道具として使えると口にしたのは、反射のようなものだった。
 死を回避するための条件提示とでも言おうか。立場を守る策。賀茂家の秩序と繁栄。
 それらは明臣がもっとも嫌悪していた父、正史郎の理屈と同じだった。

 (いや、違う。……違うのか?)

 相反するふたつの気持ちがせめぎ合う。
 清花の目は揺れていた。恐れと混乱の中に、どこか悲しみに似たものが潜んでいる。
 その光が姉の瞳と重なったとき、一瞬、明臣は立場を見失いかけた。
 蝶が舞い上がったあのとき、心のどこかが熱を持った。忘れていた感覚が呼び覚まされそうな、そしてそれに対する恐れが渦を巻く。

 明臣は混乱していた。
 蝶が舞い上がり、命字から静かな反響が発せられる。それは、この世のものとは思えないほど美しかった。
 まるで紫桜の筆跡を再び見たような、かすかな夢のような感触だ。

 (……だからといって、情を移すわけにはいかない)

 明臣は筆を握りなおし、和紙に文字を描いた。

 〝責任〟

 その二文字が静かに墨を吸う。だが、筆は震えていた。

 (なぜ……)

 あのとき清花の目の奥に見えたものを捕らえようと凝視したが、明臣にはできなかった。
 無墨民という烙印に閉じ込められながらも、彼女の心には光が灯っているように見えた。
 その光はかつて紫桜が愛し、そして散った命字の美しさと、あまりにも似ていた。
 感情を殺し、明臣は自らに〝冷徹〟を課してきた。命字に呑み込まれないために必要だと考えたからだ。

 『明臣、誰かを道具にしてはいけないよ』

 いつか言っていた姉の言葉を思い出す。

 (いや、これは必要なことなんだ。彼女は僕の力で制御しなければならない)

 自分の心に強く命じながらも、蝶が舞った跡は明臣の筆に消えない余韻を残していた。