虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 
 夜の帳が降り、賀茂家の廊下はひっそりと静まり返っていた。
 畳を踏む音さえ遠く、屋敷全体が墨で書かれた幻のように沈黙する。
 書斎の障子を閉め、明臣は深く息を吐いた。
 書斎は屋敷の奥まった一角にあり、外界から切り離されたような空間である。障子を閉めると、わずかな灯だけが残り、墨の匂いが静かに立ちのぼる。
 壁際には筆や硯が整然と並び、木製の棚には古びた巻物と和綴じの書物がきっちりと収められている。中には封も解かれていない文書があり、触れることをためらわせるような重みを感じさせた。

 明臣は低い文机に膝を折り、左手で文箱の蓋を静かに撫でた。漆塗りの表面に描かれた淡い花びらは、姉の筆致である。音のない空間に包まれながら、明臣は過去の声を聞こうと耳を澄ませた。
 窓の外には竹の葉が夜風に揺れていたが、その気配すら届かぬほどに、書斎の内は沈黙に満ちている。

 墨と記憶が絡み合うこの場所で、明臣は袖に隠した細身の筆を取り出した。黒檀の軸に淡い桜の焼き印――姉の名を象ったものだ。
 紫桜(しお)
 かつてこの家にたしかにいた、声を上げて笑う人間だった。

 『明臣、筆は斬るものじゃないのよ。抱くもの』

 そんな言葉が、いつまでも明臣の耳に残っている。
 紫緒は筆聖として霞京の命字を管理する役割を担い、中心地にある墨神の社で厳格な訓練を受けていた。
 穏やかで優しい性格の彼女は市民の大多数を占める、通称墨民の青年と出会い恋に落ちた。

 ある夜、墨神の社、儀式のための掛け軸が広がる静寂の場に立つ紫桜を、明臣は遠目に見ていた。
 燭台の火はほのかに揺らぎ、周囲の命字が祈るように壁に刻まれている。彼女の指先に宿る墨魂が、命字〝調和〟を象る筆先へと集中されていく。
 しかしその刹那、心の奥に沈めていた想いが筆の動きとともに揺れだした。青年への想いを抑えきれず、命字に余計な感情を流れ込ませてしまったのだ。

 命字に込めるのは感情そのものではなく、昇華された感情。つまり理解し、調律したうで書に映す力である。これにより命字は調和のとれた魂の断片となる。
 しかし感情を未処理のまま制御せずに墨魂に流し込んだ場合、文字の輪郭が崩れ、命字が暴走してしまう。
 紫桜が青年の名を思い出した瞬間、筆から溢れた墨が淡い紫に染まり、空気の流れが変わった。

 墨は突然、掛け軸に絡みつくようにうねり、中心部の文字が歪んでいく。社内は重く震え、墨柱が巻き上がった。静寂を破る黒い霧の渦から、巨大な龍――乱龍が姿を現す。
 その躯は墨の海を纏い、輪郭は揺らぎ、眼は哀しみに濡れていた。まるで紫桜の恋心と罪悪感が形を成したかのように。
 乱龍が咆哮すると命字が砕け、周囲の墨が奔流となって空間を荒らした。社の障子は破れ、墨香が一気に辺りを覆う。

 紫桜は墨魂の崩壊を察していたが、筆を捨てず、空に向かって命字を繰り返し書き続けた。消えかけた命字〝調和〟を何度もなぞり、墨魂の粒子を自らの身体から滲ませていく。

 「乱龍……ごめんなさい。これは……私の祈りなの」

 その声に応えるように、乱龍がゆっくりと身を屈める。墨が引き裂けるような音とともに、紫桜の体は墨粒となって空へと舞い上がった。その粒子は、まるで桜の花びらのように、社の天井を超えて夜空に溶けていく。
 最後に筆先が描いた〝調和〟は、かすかに光りながら半分崩れた状態で残った。その光は紫桜の魂の残滓であり、命字の奥に秘められた感情の痕だった。

 そして乱龍はその光に包まれ、静かに墨へ還っていった。
 明臣が十五歳のときだった。