虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 霞京(かきょう)の中心にある墨神(ぼくしん)(やしろ)——その最奥、墨殿(ぼくでん)の静寂は、時の流れさえも沈黙させていた。
 黒漆(くろうるし)の柱が並ぶ回廊を抜け、男はひとり、石の床を踏みしめて進む。彼の足音はまるで封印された記憶を呼び起こすかのように、墨殿の空気を震わせた。
 奥に鎮座する巨大な石碑は微動だにせず、その意志を刻み続けている。
 その表面には墨のように黒く、しかしどこか血のように艶めく文字――命字(めいじ)がひとつ。
 男はそれを見上げた。瞳には墨で書かれた字の闇に似た欲望が宿る。ただ静かに、確実に。
 霞京を掌に収めようとする意志が、彼の眼差しの奥で蠢いていた。

 「この命字は、誰にも触れさせてなるものか……」

 男の声が墨殿の闇に溶けていく。
 石碑の前で男が静かに目を閉じた瞬間、殿の空気がわずかに揺れた。まるで、石碑が呼吸をはじめたかのように――。