季節は静かに巡り、後宮に優しい春の気配が差し始めた。

 清婉の腹は、すでに誰もが振り返るほど大きく膨らみ、
 宮女たちはひそやかに囁き合った。
 「まるで慈母観音のようだ」と――。

 その微笑みには母の柔らかさと、后としての威厳が宿り、
 誰もが自然と頭を垂れていた。
 それほどに、彼女の存在は、後宮だけでなく帝国そのものの“中心”となっていたのだ。

 

 ある静かな夜――。

 寝所の障子を開けて入ってきた凌煜は、清婉の姿を見るなり、目元を緩ませた。
 ふっくらとした腹を抱え、文を読んでいた彼女の横顔が、まるで春の陽だまりのように優しくて、
 彼は思わずその傍らに膝をついた。

 「疲れてはおらぬか?」

 「ええ、少し眠たくて……でも、この子がよく動くから、なかなか寝つけなくて」

 清婉は微笑みながら、腹を撫でた。
 その手は、かつて多くの苦しみを耐えた手とは思えぬほど柔らかく、
 母としての愛に満ちていた。

 凌煜はそっと手を重ね、腹の上に耳を当てた。
 小さな命が確かにそこにいて、元気に動いている――それだけで、胸が熱くなる。

 「この子は、きっと強い子になる。
 お前のように、優しくて、賢くて……俺たちの誇りだ」

 彼の声は、どこまでも静かで、深かった。
 王としての声ではなく、ひとりの父となる男の声だった。

 清婉はそんな彼を見下ろし、そっと呟いた。

 「……陛下。私は、あなたの傍にいられることが、何よりの幸せです」

 「俺もだ、清婉。
 お前が俺の隣にいてくれるだけで、帝位など、ただの椅子にすぎない」

 そう言って、彼はそっと彼女の手に唇を寄せた。

 

 ――その夜。月は静かに満ち、星は天に瞬いた。

 帝と華嫁。
 二人の愛は、過去の陰謀や憎しみすら、すべて洗い流すほどに強く、美しいものとなっていた。

 

 

 そして――その日は訪れた。

 

 風がざわめき、庭の百花が揺れる朝。
 清婉の産気が突如として始まった。

 「陛下! 華妃様が……!」

 慌てて駆け込んできた侍女の声に、凌煜の顔色が変わる。
 すぐに彼はすべての政を止め、側近たちを下がらせた。

 「清婉のそばを片時も離れぬ!」

 厳命が飛び、宮中は一瞬で緊張に包まれた。
 だが、彼の心はただ一つ――愛する者を守り抜くという信念だけで動いていた。

 

 数時間にわたる苦しみ。
 清婉は、脂汗を滲ませながらも、決して声を荒げなかった。

 ふとした瞬間、額から垂れた髪を後ろに払う彼女の眼差しに、凌煜は確信する。
 この女は、すでに皇后以上の存在なのだと。

 命を繋ぐという偉大な務めを背負いながら、毅然とした気高さと深い慈しみを忘れぬその姿に、
 凌煜は心から敬意と誇りを抱いた。

 

 そして――。

 「……おぎゃあっ! おぎゃあっ!」

 産声が、空気を震わせた。
 その瞬間、誰もが息を呑み、次いで、あらゆる者が涙を流した。

 「皇子様にございます!」

 そう高らかに告げられた瞬間、凌煜は清婉の手をぎゅっと握りしめた。

 「……よく、頑張った。お前は……俺の誇りだ」

 涙をこらえきれぬ彼に、清婉はかすかな微笑みを浮かべた。

 「この子……あなたに、似ていますね……」

 「いや。お前に似た、強くて美しい心を持つ子になる」

 その言葉に、清婉の瞳が潤む。

 

 こうして、皇子が誕生した。

 帝国に新たな未来が芽吹き、
 後宮には、かつてなかった喜びと希望が満ちた。

 民は祝い、街には灯火が揺れ、夜を徹して祝いの鐘が鳴り響いた。

 その晩。赤子が眠る揺り籠を見つめながら、
 凌煜は静かに清婉の肩を抱いた。

 「この子が、いつか玉座に座る日が来たとき……お前の名は、永遠に帝国の母として語られる」

 「……そんな、私はただ、あなたの華嫁でいたいだけです」

 「それが、この国の柱になるのだ。お前という存在が」

 

 夜風が二人を包み込む。
 月は優しく照らし、赤子の寝息は安らかに響いていた。

 そして、誰よりも強く、誰よりも深い愛で結ばれたこの家族は、
 新たな帝国の時代を――静かに、確かに、歩み始めていた。