後宮に渦巻いていた嫉妬と陰謀は、数々の真実が暴かれた今、すでに多くが崩れ去ったかに見えた。
だが、かつて清婉を執拗に貶めようとした義母と蘇瑶の心には、なおも澱のような憎悪が残っていた。
栄光を失い、居場所を追われた彼女たちは、すでに後宮の秩序の外にある存在だった。
けれど、その孤独な闇は深く、彼女たちを復讐という名の狂気へと引きずり込んでいた。
(あの女だけは許さない……! このまま終わってたまるものか……)
悔しさに唇を噛みしめながら、義母はなおも機会を伺っていた。
しかしその頃、清婉はすでに、これまでとは違う立場へと変わっていた。
――華嫁。
そして、皇帝の子を宿す、唯一の妃。
清婉の腹の中で育まれる命は、日を追うごとに力強くなっていき、
彼女の身体だけでなく、心までをも満たしていた。
どれほどの困難に襲われても、この命がある限り、自分は折れない――そう信じる力があった。
月が柔らかく光を投げかける静かな夜。
清婉は帳の下、そっと腹に手をあて、微笑んだ。
「……あなたは、私のすべて……。
命をかけて守る。母として、女として、私の存在すべてで」
そのとき、背後から温かな気配がそっと近づいてきた。
振り向くと、そこには凌煜が立っていた。金の刺繍がほどこされた夜衣に身を包み、穏やかな笑みを湛えている。
「清婉……」
彼は言葉を選ぶように、ゆっくりと近づき、彼女の腰にそっと腕を回した。
その動きには迷いも、偽りもなかった。
「俺は……お前を、この上なく愛している」
低く、優しいその声に、清婉の胸がふるりと震える。
凌煜は、彼女の腹に目をやりながら、さらに言葉を重ねた。
「誰が何と言おうと、お前が俺の華嫁だ。
この子は、俺の血を引く子……皇帝の子だ。絶対に守る。命を懸けてでも」
彼の声には揺るぎがなかった。
その言葉は、清婉の心の奥底にまで沁みわたり、抑えきれない熱が彼女の胸にこみ上げた。
「陛下……っ」
頬が紅潮し、目尻がかすかに濡れる。
だがその涙は悲しみではなく、幸福に満たされたものだった。
長い間、誰にも守られなかった自分。
ただひたすら耐え、気づかれぬように傷を隠してきた日々。
そんな自分を、今、こんなにも深く愛してくれる人がいる。
彼の腕の中にいるときだけは、すべての闇が消えるような気がした。
――しかし、闇は、最後のあがきを忘れてはいなかった。
***
義母は諦めてなどいなかった。
ある夜、後宮の裏通路――普段は使用されない侍女たちの抜け道に、こっそりと罠を仕掛けた。
その罠は、清婉に仕える侍女たちの名誉と命を汚す、卑劣極まりない企みだった。
彼女たちを辱め、混乱を起こし、清婉を再び孤立させる。
まさに、“弱き者”を踏み台にしての逆襲だった。
陰謀の一部始終を見下ろしながら、義母は静かに嗤った。
「ふん……力などなくとも、貴女を壊す方法ならいくらでもあるのよ、清婉」
だがその動きは、すでに凌煜の監視網に捕らえられていた。
「許さぬ……!」
怒声とともに、凌煜は玉座から立ち上がった。
普段は冷静な彼の双眸に、燃え上がるような怒りの焔が宿っていた。
「私の妃を、私の子を、その侍女たちすらも狙うとは……義であろうが、もはや容赦せぬ」
彼はすぐさま後宮の警備を強化し、義母の通る道すべてに目を光らせた。
そして、清婉の元へ駆けつけると、何も言わずに彼女を抱きしめた。
「お前は……俺の光だ。絶対に離さない。誰にも触れさせはしない」
その言葉に、清婉の心が一気にほどけた。
彼の腕の中は、いつもより少しだけ強く、そして、とても温かかった。
その温もりに包まれたとき、初めて清婉は安心して涙をこぼすことができた。
流れ落ちた涙は、痛みではなく、愛の証だった。
――翌日。
清婉に危害を加えようとしたすべての証拠が揃い、義母はついに後宮から追放されることとなった。
御前に引き出されたその姿は、以前のような威厳も尊厳もなく、ただ哀れな老女にすぎなかった。
その場に立ち会った清婉は、堂々と前に進み出て、義母を真っ直ぐに見据えた。
「あなたの嘘と陰謀は、すべて暴かれました。
もう、誰もあなたの言葉に耳を貸す者はいません」
声は静かだった。だが、その凛とした響きには、決して折れない芯があった。
「どうか……二度と私の前に姿を現さないでください」
義母は顔を赤く染め、悔しさに身を震わせた。
「ざまぁみろ……清婉……お前なんか……!」
そう吐き捨てるその声は、もはや虚しく響くだけだった。
誰の心も動かさず、誰の耳にも届かない。
その場の誰もが、清婉の言葉こそが真実であると確信していた。
――その夜。
凌煜は、清婉を自らの私室へと静かに招いた。
そこは、皇帝である彼が唯一心を休めることのできる空間。
誰にも邪魔されない、ふたりだけの場所。
「……俺だけを見てくれ。お前は誰にも渡さない」
そう言って、彼はそっと清婉の頬に触れた。
そして、ゆっくりと唇を重ねる。
その口づけは、ただの情熱ではなかった。
愛おしさと感謝と、守るべきものを得た男の覚悟が、すべて込められていた。
彼の手が清婉の腰を撫で、その背中に刻まれた刺青が、月明かりの下で静かに輝く。
それは、皇帝としての誓い。
そして、清婉を誰よりも愛し、守ると決めた男の誇りだった。
「あなたの子を産み、あなたの華嫁でいられることが、私の誇りです」
清婉は、瞳を潤ませながらも、静かに囁いた。
その夜、ふたりは寄り添い、熱く、深く、結ばれた。
――今、後宮を支配しているのは、
かつての冷たい陰謀でも、偽りの愛でもない。
清婉と凌煜の揺るぎない愛、そして命の絆だった。
「お前と、この子が……俺の未来だ」
その言葉に、清婉は深く頷き、静かに目を閉じた。
もう誰も、彼女からすべてを奪うことはできない。
彼女は戦い抜き、愛を手に入れ、そして未来へと歩み出したのだった。



