後宮という場所は、花の香りと艶やかな衣装に満ちた夢のような世界に見えて、その実、静かに息を潜めた「闇」が潜んでいる。
その闇は、昼も夜もひたひたと音もなく忍び寄り、気づけば足元を絡め取り、心を蝕んでいく。
そして今、その闇が向ける矛先は――ひとりの華嫁、蘇清婉だった。
懐妊の報せは、清婉の名を後宮の中心へと押し上げた。
彼女が命を宿したと知れたとき、誰もがその奇跡に目を見張った。
選ばれし「華嫁」として皇帝・凌煜の元に遣わされ、その上で最初に皇子を身籠った女。
それは間違いなく、皇后候補としての大きな意味を持っていた。
だが、女たちの嫉妬と野心は、そんな慶事すらも穏やかには受け入れなかった。
「なんの実績もない娘が、運だけで子を宿した」
「所詮は地方貴族の娘。皇后の器ではない」
「陛下のご寵愛が冷めれば、誰が味方をするかしらね……」
清婉の背後には、見えない刃がいくつも迫っていた。
昼の陽光の下でさえ、彼女の足元には、凍えるような影がまとわりついていた。
ある晩のことだった。
外は虫の音が静かに響き、月が雲間から覗く夜。清婉は一人、静かに机に向かい、筆を持って日録を記していた。
そのとき、長年仕えてきた侍女・雪蘭が、足音を忍ばせて部屋に入ってきた。
「お嬢様……少し、よろしいでしょうか」
その声はかすかに震えていた。
清婉は筆を置き、静かに雪蘭を見つめる。
「どうしたの?」
「……最近、お嬢様にお出ししているお茶に……何か、混ぜられているかもしれません」
清婉の目が、わずかに揺れた。
それでも彼女は取り乱すことなく、静かに湯のみを手に取り、目の前の茶をじっと見つめた。
そして、そっと、それを机の端に戻した。
「……そう。気づいてくれて、ありがとう」
その言葉に、雪蘭の目からぽろりと涙がこぼれた。
「私、ずっと迷っていたのです。でも……お嬢様のお腹の子を思うと……!」
清婉は黙って雪蘭の手を取った。
その掌は冷たく、かすかに震えていた。
「怖かったでしょう。でも、よく言ってくれた。……大丈夫。私は、負けない」
確かに、自分は狙われている。
その標的は、自分だけではない――腹の中で、日ごとに大きく育っている命まで。
だが、どれほど冷たい悪意が迫ろうと、その命のぬくもりは、清婉にとって唯一の希望だった。
お腹に手を添えるたび、内から伝わる小さな鼓動が彼女を強くしてくれる。
(この子がいる限り、私は折れない。何があっても、この子を守る……)
それは、痛みすら力へと変えてくれる不思議な感覚だった。
苦しいはずの毎日が、かすかに差す光のように、ほんの少しだけ温かく感じられた。
一方その頃、凌煜もまた、静かに心を揺らしていた。
彼は若くして皇帝となり、常に重責と権力の重みにさらされてきた。
その堂々とした振る舞いの裏には、かつて「不義の子」と囁かれた過去があり、己の存在に確信を持てずにいた日々があった。
(私は……本当に、帝としてふさわしいのだろうか)
それでも、清婉の存在だけは、彼の心の軸となり始めていた。
どこか憂いを帯びた瞳、凛とした佇まい。
そして何より、彼の子を懸命に守ろうとするその姿――
「この子を……清婉を、必ず守ろう」
彼の瞳に灯った炎は、初めて“帝”としての決意に近いものだった。
だが、後宮の闇はそんな小さな光を許しはしなかった。
清婉の義母は、ついに「流産」を狙った最悪の計画に手を染めた。
命を摘み取ろうとする、冷酷な策略。
その夜。
清婉が深い眠りに落ちた隙を狙って、覆面の影が彼女の部屋に忍び込む。
雪蘭たち侍女が交代で休みに入ったわずかな隙だった。
影は、用意してあった薬草の包みを取り出し、毒草をすり潰したものを、湯のみの中に滑り込ませる。
静かに去っていく足音。
何事もなかったかのように、部屋は再び静寂に包まれた。
翌朝――
清婉は強烈な吐き気と寒気に襲われ、床に倒れこんだ。
「……っ……これは……!」
胃がねじれるような痛みが、容赦なく彼女を襲う。
額から冷や汗が滴り、指先は痙攣し、全身から力が抜けていく。
雪蘭が慌てて駆け寄り、他の侍女たちが薬師を呼びに走るなか、清婉はわずかに腹を押さえた。
そこに――かすかなぬくもりが、残っていた。
(まだ……生きてる。私の子……)
その瞬間、清婉の瞳が見開かれた。
苦しみの中で、彼女の内側から何かが立ち上がる。
それは、恐れを超えた“母”の本能。
絶望の中でしか目覚めない、静かで強大な力だった。
(……この子は、誰にも渡さない。私は、生き抜く)
数日後。
密かに調査を進めていた凌煜の命により、後宮の一部に抜き打ちの取り調べが行われた。
女官のひとりが震える手で差し出した密告文。
そこには、蘇瑶が偽装懐妊していた決定的な証拠と、義母の指示により毒草が用意された記録が残されていた。
調査の結果、蘇瑶の腹に巻かれた“詰め物”が露見し、義母の策は露わとなった。
後宮の空気は一変した。
「なんという愚かしさ……」
「偽りで皇子を名乗るなど、天罰ものよ」
「清婉殿こそ、真に陛下の華嫁にふさわしい……」
そして、ついに――
凌煜は、後宮全体に向けてこう宣言した。
「蘇清婉こそ、我が皇子の母。ゆえに、我が心の正妃とする」
その言葉は、後宮のすべての影を払い、まばゆい光のように響いた。
清婉はその日、縁側で静かに空を見上げていた。
柔らかな風が髪を撫で、膨らんだお腹が穏やかに揺れている。
彼女の口元に、静かな微笑みが浮かんだ。
「ありがとう……この子がいてくれたから、私は戦えた。
この子が産まれたら、私はもっと強くなる。
義母も、蘇瑶も、もう私を越えることはできない」
腹に宿る命が、再び優しく動いた。
それはまるで、彼女の言葉に応えるようだった。
――後宮の闇を照らす、その光は日に日に強くなっていく。
そしてそれは、ただの華嫁ではない。
未来を変える“母”としての力だった。



