懐妊の知らせは、後宮の隅々まで静かに、けれど確実に波紋のように広がっていった。

 始まりは、何気ない口伝えだった。
 「華嫁・蘇清婉殿が、御子を……」という一言が、侍女の口を介し、女官の耳を通り、やがて各殿の妃たちへと伝わっていく。

 それは風のように軽く、しかし刃のように鋭かった。

 凌煜帝の寵妃は、そもそも少なかった。
 彼は後宮を彩る女たちにほとんど興味を示さず、玉座に就いてからというもの、選りすぐった“華嫁”以外にはほとんど目を向けることがなかったのだ。

 ゆえに、清婉の懐妊は、後宮の静寂を一気に揺るがせる出来事だった。

 「まだ正式な妃ですらないのに、皇子を身籠ったと……?」
 「蘇家の娘だからといって、許されると思っているのかしら」
 「ひっそりと、流れてしまえばいいのに……」

 装束を整えるふりをして交わされるささやき、扇子の陰で隠された嫉妬と悪意。
 言葉の刃は、清婉の背中を刺し続けた。

 だが、清婉自身はその全てを知っていた。
 いや、知っていてなお、受け止める覚悟があった。

 母の血を継ぐ者として、蘇家の名を背負う者として。
 そして、ひとりの命を内に宿す母として――。

 (この子を守る。何があっても……)

 手を腹に添えるたびに、胸の奥から静かな力が湧いてくるのを感じていた。

 

 一方、蘇家の屋敷では、怒りと焦燥が爆発していた。

 「清婉が……懐妊したですって?」

 義母――庶民出身の“夫人”と呼ばれる女は、手にしていた絹の扇を床に叩きつけた。
 その紅に染められた唇がわなわなと震えている。

 この女は、元は妓楼で名を馳せた美貌の持ち主だった。
 商人に見初められ、贅を尽くした暮らしを得た後、清婉の父に「買われる」ようにして蘇家へと入った。

 正妻の死後は、あたかも貴婦人のように振る舞い、「夫人」の称号を得ていたが、貴族たちはその出自を忘れていなかった。
 陰では“卑しい妾”と囁かれ、宴のたびに見下された視線を浴びていた。

 その屈辱を晴らすため、娘・蘇瑶を後宮に入れることは、この女にとって長年の夢だった。

 ──それが、すべて水泡に帰すかもしれない。

 「母上、このままでは……私の入内の道が閉ざされてしまいます」

 隣で控える蘇瑶の声は、いつになく鋭かった。
 普段は男たちを惹きつける笑みを浮かべているその顔も、今は硬く引き締まっている。

 「清婉が皇子を産めば、“皇子の母”として後宮において絶対的な地位を得るわ。そんなこと、絶対に許せない……!」

 義母はしばし沈黙したのち、目を細めて不気味な笑みを浮かべた。

 「……だが、逆に考えるのよ。清婉が懐妊できたのなら、そなたも同じように“懐妊した”とすればいい」

 「偽装懐妊……ですか?」

 「そう。妊婦は後宮に拒まれぬ。
 しかも、もしそなたが“皇子の母”として陛下に認められれば……清婉など、後ろ盾がなくなればただの女。陛下の寵愛など、いつでも塗り替えられるわ」

 蘇瑶はその言葉をじっと聞いていたが、やがて頷いた。

 「……ならば、私も“華嫁”として入内させてください。すべて、準備を整えてください」

 彼女の瞳に宿るのは、清婉に向けた憎悪と、何としてでも玉座の隣に立ちたいという野心だった。

 

 そして数日後――。

 後宮に、もうひとりの“華嫁”が現れた。

 蘇瑶は、腹をわずかに膨らませた装いで現れた。
 顔には柔らかな微笑みを浮かべ、薄桃色の衣を揺らして、堂々とした足取りで清婉の前に現れた。

 「姉様。……お久しぶりですね」

 その声音は穏やかで、まるで昔の姉妹のような響きを持っていた。
 けれど、その瞳の奥には、確かな敵意と勝利の色が滲んでいた。

 「私も、懐妊いたしましたの」

 清婉の指が、わずかに揺れた。
 けれど、表情は変えなかった。

 「……嘘だとわかっているわ。あなたに、あの方の御子を宿す資格はない」

 「ふふ、誰もがそう思うでしょうね。でも……母上の手配で、入内の準備は完璧です。
 今さら“嘘”だと証明されぬ限り、私もまた皇子の母と呼ばれる日が来るかもしれませんわ」

 蘇瑶の声は、まるで氷のように美しく、冷たかった。

 「本物の“皇子の母”が誰か、いずれ時間が教えてくれるでしょう。……それまで、せいぜい穏やかにお過ごしになって」

 

 その夜。
 清婉の部屋に、皇帝・凌煜が静かに現れた。

 彼の顔に浮かぶのは、迷いでも疑念でもなかった。
 ただ、深く、優しく、彼女を見つめる瞳だけがあった。

 「……私の至らなさで、そなたを苦しめてしまったな」

 「陛下……」

 「何も知らず、後宮をこのような場にしてしまった。
 だが、もう誰にも、そなたを傷つけさせぬ。……そなたと、そなたのお腹の子を、必ず私が守る」

 その一言に、清婉の胸は熱く震えた。

 誰かに守られたことなど、これまで一度もなかった。
 幼い頃、母が逝き、父は愛妾に心を奪われ、義母からは蔑まれ続けた。
 それでも必死に気高くあろうと、ひとり耐えてきたのだ。

 けれど今、ようやく。
 彼女の人生に、寄り添ってくれる存在が現れた。

 「ありがとうございます、陛下……」

 

 義母の陰謀。妹の偽装妊娠。後宮の嫉妬と嘲り。
 彼女の周囲には、次々と試練が降りかかる。

 だが、それでも。
 彼女の中に宿る命は、日々確かに育ちつつあった。

 痛みも、苦しみも、越えていける気がした。
 この小さな命のためなら、何でもできると、そう思えた。

 (この子が産まれる頃……私はきっと、もっと強くなっている)

 後宮に二人の華嫁はいらない。
 静かに、しかし確かに――蘇清婉の心に、燃えるような覚悟が灯った。

 

 それは、戦の始まりを告げる静かな狼煙だった。