夜明け前の空は、まだ誰にも踏み荒らされていない静けさを湛えていた。
 薄墨を滲ませた絹のように、淡く、儚く、東の空に色が差し始める。

 都の石畳を鳴らして進むのは、金と朱をふんだんにあしらった華やかな婚礼の馬車。
 香の匂いを纏い、ゆっくりと、しかし確かな足取りで紫宮――皇帝のいる内裏へと向かっていく。

 その内に座すのは、名家・蘇家の長女、蘇清婉。
 緋の礼装に身を包み、顔には控えめな紅。膝の上で細い指を絡めるようにして、沈黙を守っていた。

 ──今日、彼女は皇帝・凌煜の“華嫁”として、後宮に入る。

 華嫁とは、皇帝の正室に次ぐ格式を持つ妃のこと。
 名家出身の娘であることが、その選定の条件だった。

 清婉の母は、先帝の姪という血筋を持つ高貴な婦人であった。正妻として蘇家の威信を保ち続けた彼女は、清婉がわずか五つの年に病没した。

 その日を境に、清婉の世界は静かに、しかし確実に変わった。

 家を仕切るようになったのは、父が溺愛する愛妾――今は“夫人”と呼ばれる女。
 元は妓楼で名を馳せた者で、成金商人の寵を受けてのし上がり、やがて蘇家に買われるようにして入った身。

 上品なふりをしてはいたが、血には逆らえぬものがあるのだろう。
 義母の扱いは、冷酷そのものだった。

 与えられた衣は粗末で、書を学ぶ時間は妹・蘇瑶の半分以下。
 人前では娘として扱われるが、内実は下働きに限りなく近い扱いだった。

 けれど、それでもなお、血筋は偽れなかった。
 蘇家は、代々皇族と姻戚関係を結ぶ名門。
 妾腹の妹でも、卑しい身から成り上がった義母でもなく――選ばれたのは、自分だった。

 「……本当に、ここまで来てしまったのね」

 馬車の揺れに合わせて、ふっと呟く。
 けれど、返事を返す者はいない。

 対面の席に控える侍女・雪蘭は、義母が付けた付き添いだった。
 口元に笑みもなく、冷めた目で清婉を見据えている。まるで、心の奥底で「失敗すればいい」とでも呪っているかのように。

 冷たい空気が、閉ざされた馬車の中を満たしていた。

 

 ──数刻前。

 「華嫁、ですって? 名家の血ってだけで。ふん、笑わせるわ」

 義母は手にしていた扇を、机に打ちつけた。
 白粉を厚く塗った顔が、怒りに紅潮している。

 背後には、妹・蘇瑶が控えていた。
 桃色の衣に身を包み、まるで桃の花のように華やかで、媚びた笑みを口元に浮かべている。

 「姉様……強さを知らないまま、あんな怖ろしい場所に行ってしまうなんて。どうか、どうか、お身体だけはご自愛くださいね」

 その声音は、まるで慈しみに満ちているかのようだった。
 けれど、言葉の端々には、明確な侮蔑が含まれていた。

 彼女たちには、どうしても許せないのだ。
 蘇家の名を背負うのが、妾腹の妹でもなく、苦労知らずと蔑む清婉であることが。

 清婉は、目を伏せるだけだった。
 反論しても、無意味だと知っていたから。

 (私は、私の務めを果たすだけ。母の名に恥じぬように)

 言い聞かせるように、心の内で繰り返す。
 傷つきながらも、凛と背筋を伸ばす彼女の姿は、誰にも見えないところで、気高い光を放っていた。

 

 ──そして今。馬車は静かに止まる。

 香が焚かれた回廊、玉石の敷かれた床、そして遠くにそびえる金龍の門。
 そのすべてが、清婉の知っている“家”とは異なっていた。

 ここは、権力と野心、そして密やかな陰謀が渦巻く世界。
 息を吸うだけでも、身を切るような緊張が伴う場所。

 門の奥から、低く響く声が聞こえた。

 「……入れ」

 玉座の奥に座する男。皇帝・凌煜。

 思っていたよりも若かった。
 だが、それ以上に目を引いたのは、彼の瞳だった。
 威圧や驕慢ではなく、深い孤独と静けさを湛えた瞳。

 「初めまして。蘇清婉と申します」

 清婉が膝をつき、頭を垂れると、凌煜はほんのわずかに、口元を緩めた。

 「……来てくれて、ありがとう。そなたは……怖くなかったのか?」

 「……はい?」

 「この座に近づくということは、命を賭けることだ。
 多くの者が、私を恐れながら笑っている。だが、そなたは……まっすぐに私を見るのだな」

 その一言に、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 (この方もまた、孤独なのだ)

 力を持つ者ほど、孤独に苛まれる。
 どれほどの人間が、この玉座を狙って牙を剥いたのだろう。

 「私は、ただ、務めを果たすためにここに参りました。
 私がこの世に生まれた意味を、果たすために」

 そう答えた清婉に、凌煜は黙って頷いた。

 「……今夜は、儀だけにしよう。
 疲れただろう。休むがいい」

 その配慮に、心がほんの少し緩んだ。

 (私は、物ではない。彼はそう思ってくれている……)

 心に静かに沁み渡る温かさが、胸の奥に灯った。

 

 ──その夜。

 清婉のもとを訪れたのは、侍女・雪蘭だった。
 銀の盆の上には湯気の立つ茶碗が置かれている。

 「入内のお祝いです。どうぞ、温かいうちに」

 そう言って差し出された湯のみ。
 清婉はそれを受け取り、そっと口元に近づけた。

 けれど、香の中に、微かに混じる違和感。

 薬草とも、香料とも異なる。
 鼻腔にぬるりとまとわりつく、嫌な感覚。

 (……これは)

 喉を通す前に、彼女は湯を静かに下げた。
 そのまま、何事もなかったように横になり、目を閉じる。

 眠りに落ちたのは、しばらくしてからだった。

 

 ──だがそのとき、不意に。

 体の奥が、ふっと温かく灯ったような感覚に包まれた。

 心臓の鼓動とは違う、もう一つの脈動。
 どこか懐かしく、けれど初めて感じる、確かな気配。

 (……まさか、こんなに早く……)

 震える手で、そっと下腹部に触れる。

 その奥に――いる。
 小さな命が、確かに。

 まだ誰も知らない。彼さえも知らない。
 けれど、間違いなく、自分の中に芽吹いた命。

 蘇清婉は、皇帝・凌煜の子を、宿していた。