夏休みを目前とした7月の中旬。
午後22時を少し過ぎた頃。学校の規定のジャージを身にまとい、親に見つからないように細心の注意をはらいながらこっそりと家を出た。
この時間に盗人のように音を立てずに家を出たのにはそれなりの理由がある。数時間前の夕刻、飼っているカブトムシの虫かごを持って近所の公園を訪れた。その際、虫かごの中から出したカブトムシが僕の手の中から飛び立ち、逃げ出してしまったのだ。
「カブトムシを捕まえるなら、やっぱりこの時間がベストなんだよな…。」
確かこの辺りだったはず…と、数時間前の記憶をたどっていたとき…ドカッと大きな物音がして臆病な僕はその場にピタリと立ち止まり持ち前の影の薄さを最大限利用して空気と同化する術を試みる。
「あんまり、調子乗んなって言ったよな?」
「一年のくせに生意気なんだよ。」
聞こえてきたのは複数の男の声。内容から察するに、関わるべきではないと脳内サイレンが警報を鳴らす。すぐさま回れ右をして退場させてもらおうと思った僕の視界を渡るように、目の前を遮ったひとつの影。
(あ、あれは…僕のヘラクレス!!!)
見間違えるはずがない美しいシルエット。ショップに売り出されていたのを見つけて即買いし、寝る間も惜しんで大事に世話をしてきた僕のヘラクレスオオカブト!!
外来種の為、逃がしてしまうと他の生態系を壊してしまう恐れもあるので…何としても捕獲しなければならない。
そんな僕の思いをカブトムシが汲んでくれるはずもなく。弄ぶかのように宙を舞う姿は…とても尊い。その美しい舞に魅了された僕は、数分前の記憶をどこかへ落としてしまっていたようで。
追いかけたヘラクレスオオカブトが降り立った場所は、公園の隅の方にある手洗い場。しかし…そこにいたのは僕の求めていたカブトムシだけではなく、ガラの悪そうな男たちが複数人存在した。
それもただ遊んでいたという訳ではなさそうな雰囲気。複数人で一人を取り囲み、心無い言葉を浴びせているという最悪の状況。
普段の僕なら迷うことなく秒で逃げていた。というよりも、こうなる前に退散していたはずだ。
しかし…あろうことか、僕のカブトムシは輪の中心で力無く座り込んでいる男の足元に降り立ってしまったのだ。俯いたままの男はケガでもしているのか全く動く気配がない。彼の安否が気にならないわけではないが…。
(このままではっ、僕のカブトムシが踏み潰されてしまうっ!!!)
手に持っていた虫取り網と虫カゴをギュッと力強く握った時、一番近くにいた男が僕を振り返って不機嫌そうな声を上げた。
「おい、何見てんだよ。痛い目にあいたくなかったらさっさと立ち去れ。」
僕だって出来ることなら今すぐに立ち去りたい。だけど…それが出来ない理由が君たちの足元に存在するのだ。
「構うなよ、そんな雑魚。そのうち逃げ出すだろ。それより…早いとこコイツをなんとかしねぇと。」
男の仲間の一人が僕を雑魚キャラだと言ってくれたおかげで、こちらに向いていた複数の視線が再び輪の中心へと向けられる。
「ああ、確かにそうだな。そろそろ終わりにしよう。」
もう既に決着がついているように見受けられるが、まだ何かしようと考えているのか…一人の男が中心で座り込んでいる男に向かって足を振り上げた。
その瞬間、僕の中に存在した何らかの感情が弾けて大爆発を起こした。
「─…そこまでだっ!!それ以上は、許さないっ!」
自分でも驚く程に、大きな声が出た。
僕の突然の叫びにその場の空気がピンと張り詰めたのを感じた。それでも、止めなければ間違いなく─…奴の蹴りは僕のヘラクレスオオカブトを巻き込む!!!
「は…?お前、さっきから何なんだよ。雑魚が出しゃばってくんじゃねぇよ!!」
足を上げていた男が僕に向かって怒鳴る。その足は地面に下ろされているが、まだ安心は出来ない。
「その足を、一ミリでも動かしてみろ。その瞬間にお前の人生はここで終了する。」
もちろん、目の前の男たちの人生を終了させるような技を僕が持ち合わせているはずも無い。アニメやドラマで聞いたようなセリフを口にして、この状況を何とか切り抜けようと考えた結果、口から出たのが今の言葉だった。
「笑わせんな、お前みたいな見るからに弱そうな奴に何が出来るって言うんだよ。」
「雑魚に助けられても、乾も嬉しくないだろうよ。」
「さっさと失せろ。これ以上は…こっちも黙ってねぇぞ。」
何を勘違いしているのか、僕が人助けをしようと思っているらしい男たち。座り込んでいる男には悪いが、そんな善意は一ミリたりとも持ち合わせていない。
僕が助けたいのは、″僕のカブトムシ″だ。
「その子から離れろ、今すぐに!!それ以上近付いてみろ…僕にも考えがある。」
虫取り網と虫カゴを置いて、背負っていたリュックを下ろし…中から虫除けスプレーを取り出す。
「なにお前…乾の知り合い?どう見てもダチじゃねぇだろうし、どういう繋がり?パシリとか?」
「うるさいっ!!それ以上、僕の宝物に近づくな!」
片手に虫除けスプレー、もう片方の手には虫取り網。
「うわぁああぁ!!!」
スプレーを噴射しながら、虫取り網を振り回して男たちの群れに突っ込んでいけば…彼らは「なんだよ!」と文句を言いながらも散っていく。
その時、タイミング良く遠くの方でパトカーのサイレンの音が聞こえた。
「聞こえるか?!通報したのは僕だ!もうすぐここに警察が来る!!」
もちろん警察に通報などしていない。でもいま、この状況を乗り切るにはこれしかないと思った。嘘も方便というのはまさにこのことだ。
案の定不味いと思った様子の男たちは舌打ちをしながら走り去っていった。
「ふざけた真似しやがって…顔、覚えたからな?このままで済むと思うなよ。」
約一名、悪役キャラが言いそうな捨てセリフを残していったことに若干の不安を感じたが…名前を名乗ったわけでもないし、僕のようなモブキャラが彼らのような陽キャラ軍団と関わりを持つことは二度とないように思う。
とりあえず…無傷でこの場をやり過ごした自分を誇らしく思うことにして、そろそろヘラクレスオオカブトを捕獲して家に帰ろう。
っと、振り返った時…その場に座り込んだままの男がいたことを思い出し、息を飲んだ。
「あ………だ、大丈夫…ですか?」
ケガをしていると思わしき人に声をかけずに立ち去るほど自分も落ちぶれた人間では無い。リュックの中には応急セットも入っている。必要なら簡易的な処置を…と思い一歩近付いた時…男が顔を上げた。
その瞬間、僕は手に持っていた虫除けスプレーと虫取り網を地面に落とした。
「いっ……いぬ、」
口をパクパクとさせて一歩後ずさった僕を見上げたまま、動こうとしない目の前のこの男のことを……僕はよく知っていた。
「乾…くん」
乾 凛太郎…彼は、僕と同じ学校に通うひとつ年下の後輩だ。後輩と言っても、バイト先が同じで彼のことを知っているというだけで学校で彼と絡むようなことは一切ない。それに、僕がバイトを始めたのは最近のことなので、先にバイトをしていた乾くんの方がバイト内では先輩という微妙な立ち位置。
見た目も地味で冴えない僕の事を乾くんが慕うはずもなく、バイト初日から「成瀬さん…よろしく。」という具合にタメ口で接してきた。
襟足が長めの派手な金髪はいつも綺麗にセットされているというのに…今日はかなり乱れている。ピアスが輝いている耳は少し赤くなっているように見えるし…切れ長の瞳を覆っている瞼は酷く腫れ上がっている。
殴り合いの喧嘩でもしたのだろうか…?どこの誰か知らない不良達の揉め事だと思っていたが…どうやら襲われていたのは僕のよく知る後輩だったらしい。
「すごいケガしてるみたいだけど…大丈夫?立てる?」
何も言葉を発さない彼に内心ビクビクと怯えながらも声をかけ、彼の目の前に膝をついてしゃがみ込んだ。
「……さっきの…あれ、何?」
どことなく気まずそうに言葉を選ぶようにしてそう言った乾くん。何のことかと首を傾げた僕を見て、彼は不機嫌そうに声をあげた。
「俺のこと…″宝物″だって、言ってた。」
その瞬間に察した。
彼はとんでもない勘違いをしているのだと。
「あ…えっと、その発言については色々と事情が…」
説明するよりも見てもらった方が早いと思い、彼の足元にいた僕のヘラクレスオオカブトに視線を送る。しかし…つい先程まで確かに存在したはずの僕のヘラクレスは、もう既にどこかへ旅に出てしまったようで。
上手い言い訳が出てこないのと、カブトムシを逃がしてしまったことによるショックで…僕は言葉をなくした。
その僕の行動が乾くんをさらに勘違いさせてしまうことになる。
「……別に、偏見があるとかそういうんじゃなくて。ただ、なんて言うか…成瀬さんのことをそういう対象で見たことが無かったっていうか…。」
何とも言えない表情をしながら、僕から視線を外した乾くん。ストレートに酷い言葉をぶつけてこないところを見るに、彼の内面は派手な見た目とは反してきっといい子なのだろう。
「ああ…うん。そうだよね、ごめん…変なこと言った。忘れてくれていいから。」
何だか僕が振られたみたいになっているが、わざわざ事の流れを一から説明するよりも、このままフェードアウトさせた方が丸く収まるような気がしたので特に否定することなく話を終わらせた。
──つもりだった。
「……忘れるとか、無理だろ。」
「…え……?」
ガシガシ、と苛立ったように自身の金色の髪を掻き、目にかかっていた前髪を後ろへ流した乾くん。たったそれだけの行動がやけに艶っぽく見えるのは…彼が魅力的な人間だからだろう。同じ行動をしても僕に魅了される人などきっと存在しない。
「自分より明らかに強そうな人間、しかも複数同時に相手するなんて…普通出来ねぇよ。」
「あ…あの時は、身体が勝手にっ」
「……嬉しかった。」
「…へ……?」
「俺の為に成瀬さんが体張ってくれたこと、嬉しかった。なんか、すげぇ…響いた。」
……待て。
待て待て待て、待ってくれ。
「い、いや……その、それはだから、なんて言うか、あの時は僕も必死で!あれは本心じゃないというか、何と言いますか、」
「今更、隠す必要ある?」
「…乾くん、誤解なんだ。僕は、」
「無かったことになんて…出来ない。忘れるとか、普通に無理だって。俺なんかを助ける為に、自分より強い相手に立ち向かってくれた成瀬さんのこと…俺も知りたい。」
「な…なんて……?!」
「だから…俺も、知りたい。成瀬さんのこと、ちゃんと知ってからもう一度…返事をさせて欲しい……です。」
急にしおらしくなり、僕に対して初めて敬語を使った乾くん。しかし、そんなことはこの際どうだっていい。それ以上にヤバい案件が発生しているのだ。
思考回路が停止し、フリーズした僕をよそに、乾くんはゆっくりと立ち上がり、制服に付着している砂を手で払い始める。その砂が、しゃがみ込んだままの僕の元へと降り注いできたのでハッと我に返り立ち上がる。
「乾くん…あのね、実は、」
「凛太郎でいいですよ。その代わり…俺はナル先輩って呼んでもいいですか?」
「…急だな。いや、全然呼び方は何でもいいんだけど。」
「ナルセ先輩だから、略してナル先輩。」
「ああ…もう……どうにでもなれ……。」
身長が168センチくらいの僕。そんな僕を見下ろすようにして口角を上げて笑う彼は…同性の僕が見てもカッコイイと思う。そうつまり、乾 凛太郎という男はモテる。学校で関わりがない僕でも知っているほどに、学校内でよく彼の話題が上がっているのを耳にする。
そんな年下モテ男くんをピンチから救い出したのが、モブ男の僕だなんて。誰が信じる?僕だって信じられない。というより、実際はカブトムシを救うためだった。なんて…そんなこと、今更言えるはずもない。
──最悪だ。
どうしてこんなことになった?
彼女が欲しいと思ったことは…ある。モテたいと思ったことももちろんある。でも、それがまさか…。こんな形で恋愛を経験することになるとは思いもしなかった。しかも既に告って振られたみたいになっている。というか…待機状態?返事待ち?……なんの?!
「改めて…よろしくお願いします、ナル先輩?」
そう言って握手を求めるように手を差し出した乾くん。月明かりに照らされた彼の金色の髪は、キラキラと輝いて見えて…まるでステージに立っているアイドルのようだ。そんな陽キャラの尊い手を拒めるほど、僕は強い人間では無い。
「よ…よろしくお願いいたします、りんたろーくん。」
手汗で湿った僕の手を握ってくれた彼の手は、とても冷たかった。それでも、嫌な顔ひとつ見せることなく笑ってくれた凛太郎くんはやはり、とても…いい人だと思った。
「ていうか先輩、大丈夫?さっきの奴ら、同じ高校の3年だけど。」
「……え…」
いい人だと思った矢先、彼はそんなとんでもない爆弾を投下した。
「先輩、学校規定のジャージ着てるし。色で2年だってバレただろうし……胸元に苗字の刺繍入ってるから、完全に身バレしただろうね。」
動きやすさを重視して体操服なんて着てきたせいで、僕は名前を晒して歩いていたようだ。
──終わった。
さようなら、僕の平凡な高校生活。
大切にしていたカブトムシには逃げられ、謎の失恋を味わった後に、追い打ちをかけるように訪れた底知れぬ恐怖。明日から僕は先程の不良達にパシられる人生を送ることになるのか…。
自然と俯いてしまっていたようで、僕が放り投げた虫かごが足元に転がっているのが視界に入った。
(あ……僕のヘラクレスオオカブト。)
なんと、転がった際に蓋が開いてしまったのか…僕の探していたヘラクレスオオカブトは、自ら虫かごの中へ戻ってきていたみたいで。
最悪の状況に、一筋の光が見えたような気がした。
「そんな顔、しなくていいですよ。」
随分近くから声がしたと思い、顔をあげると…僕のすぐ側に立っていた凛太郎くん。というか、”そんな顔”ってどんな顔だ?俯いていたせいで落ち込んでいるとでも思われたのだろうか?むしろ、カブトムシが帰ってきて内心ほっとしているのだけれど─…
「学校では俺、無敵なんで。ナル先輩に手出しするような輩は全員俺が排除します。」
………なんて?
「さっき俺が抵抗しなかったのは…喧嘩する理由が無かったから。だからやられてもやり返さなかった。それだけ。」
「……はい…?」
「力は守るために使うものだ、って。ばぁちゃんに言われたから…。俺は理由もなく人を殴ったりはしないって決めてるんです。」
「お…おう……。」
「だから…アイツらが先輩を傷つけようとしたらその時は、容赦なくぶっ倒す。」
「そ、そんな物騒なこと…」
別に…頼んでないんだけどな…と思いつつも内心、心強いと思っている自分を情けなく思う。
「だから、心配しなくていいよ。」
なんなんだろう、この妙に騒がしい胸の鼓動は。
「今度は俺がナル先輩のこと、守る。」
ポン…と頭の上に彼の手が乗せられた瞬間、これまで生きてきて感じたことの無い、むず痒い何かが身体中を駆け巡った。
(これ発作…?!なんの発作?!病気?!!怖っ!)
身体を揺らして驚いた僕を見て、凛太郎くんは眩しいほどにキラキラとした笑みを見せた。なんなんだ、この尊い生き物は。本当に僕と同じ生態か?
「か…かっこいい……。」
思わず溢れ出た僕の呟きが聞こえたのか、気まずそうに苦笑いを浮かべ、僕から視線を外した彼を見て…またもや失言してしまったと反省する。
明日からの学校生活のことを考えると憂鬱な気持ちになるが、とりあえず今日は無事に家に帰ることが出来そうなので良しとしよう。
手元に戻ってきたヘラクレスオオカブトともう一人…なぜか懐かれてしまった年下狼くんと共に、夜の公園を出て帰路に着く。
この最悪な出会いが、僕らを最幸の未来へ導くことなるなんて…この時の僕たちはまだ知らない。
【1話】モブ男、年下狼を救い出して自滅。


