黒蛇の言葉を待つ花緒に、彼は金色の瞳をついと向けた。
「……ここにいては危険だ。下等妖魔がうろついている」
「え……」
予想していなかった黒蛇の一言に、花緒は目を瞬く。黒蛇がふいに雑木林に目をやった。光る一つ目が無数にこちらを見つめている。どうやら木の陰に隠れていたようだ。
花緒は怖気を震う。
「ひっ……」
「怖がる必要はない。俺がいれば襲っては来ない」
「そう、なのですか」
か細い声でそう答えるのが精一杯だった。妖の王である黒蛇が傍にいれば平気ということなのだろう。けれども、花緒にとっては両者とも恐ろしい存在に違いはない。自分に逃げ場などないのだと改めて気づく。心臓が縮む思いがした。
黒蛇は、怯えている花緒を憂うように一瞥して、視線を前方に戻した。
「……だが、長居は無用だ。おまえを安全な場所へ連れて行く」
黒蛇が立ち上がる。その長い指先をついと前に向けると、青く揺らめく光が二列、奥へ向かって順々に点灯した。何もなかった真っ暗闇に道を成していく。提灯の灯りかと思ったけれど、光は揺らめきながら様々に形を変えている。あれは狐火だ。
花緒は恐怖も忘れてその幻想的な光景に目を奪われる。
なんて美しいところなのだろう。こうして足を踏み入れるまでは、魑魅魍魎が跋扈する地獄のような光景を想像していた。けれども実際は恐ろしくも美しい所なのだ。
花緒は、少し前方に佇んでいる黒蛇の大きな背中を盗み見る。
(この美しい場所でこの方に喰われて死ねるのなら、それでもいいのかもしれない)
花緒は、絶望的な気持ちから、諦めに似た気持ちに変わっていく。自分にあがくことはできない。今は、彼に従ってついていくしかないのだ。そのとき――。
――……カラ、カラ、カラ、カラ。
耳慣れない金属音が、狐火の道の先から響く。車輪が回る音だろうか。
(何の音?)
花緒は無意識に黒蛇を見上げる。黒蛇は花緒の不安そうな視線に気がつくと、こちらを見下ろして僅かに口角を持ち上げた。花緒はたじろぐ。
(見間違い? 今、微笑んでくださったような)
まるで安心させようとしてくれたかのよう。けれど、自分の見間違いだろうと花緒は思い直す。
不気味な車輪の音はだんだんとこちらに近づいてくる。暗がりからその全容が目視できるようになった。それは頭巾を被った人型の妖魔の引く人力車だった。
頭巾の妖魔は花緒と黒蛇の所まで来ると、足を止め、人力車の舵棒を下ろす。赤いビロードの布を地面に敷いた。そのまま人力車の黒い車体の目に無言で佇む。花緒と黒蛇が乗り込むまで待っているのかもしれない。
振り返った黒蛇が、花緒に片手を差し出す。
「――乗れ」
「……っ!」
花緒は、黒蛇の差し出された手と顔を交互に見やる。黒蛇は相変わらず無表情で何を考えているのかわからない。
(……なぜこんなに親切にしてくださるの?)
贄姫として、傷一つない状態で喰らう予定だからなのだろうか。そうとはいえ、こんなにも手厚く迎えられるとは思わなかった。黒蛇に惨たらしく喰われて終わりになると思っていたからだ。
しかし、容易く黒蛇の手を取れるような身分ではない。花緒は逡巡してから己の手を引っ込める。人力車の高さならば、よじ登れば自分だけでも何とか乗れるだろう。
一向に手を取らない花緒に、黒蛇は怪訝そうに眉をしかめる。
「……ああ。配慮が足りなかったな」
そうぼやくと、何を勘違いしたのか黒蛇は花緒の背中と膝の裏に腕を差し入れ、そのまま軽々と抱き上げた。
花緒は急激に持ち上がった目線の高さに混乱する。
「きゃ! な、何を――」
「…………」
黒蛇は無言で手元の花緒を見下ろす。花緒は、近づいた黒蛇の端正な顔立ちに息が止まりそうになる。まるで金の光が散りばめられたかのような瞳。密着したせいでより強く感じる甘美な桜の香り。
(本当に、なんて美しい人なんだろう)
見惚れている花緒の身体を、黒蛇は難なく人力車の座面に座らせた。そうして自分も花緒の隣に身軽に飛び乗る。
「出せ」
黒蛇が一言告げると、頭巾の妖魔は舵棒を持ち上げる。
状況が呑み込めずに混乱している花緒と、無表情の黒蛇を乗せて、人力車は狐火の路を駆け始めた。
「……ここにいては危険だ。下等妖魔がうろついている」
「え……」
予想していなかった黒蛇の一言に、花緒は目を瞬く。黒蛇がふいに雑木林に目をやった。光る一つ目が無数にこちらを見つめている。どうやら木の陰に隠れていたようだ。
花緒は怖気を震う。
「ひっ……」
「怖がる必要はない。俺がいれば襲っては来ない」
「そう、なのですか」
か細い声でそう答えるのが精一杯だった。妖の王である黒蛇が傍にいれば平気ということなのだろう。けれども、花緒にとっては両者とも恐ろしい存在に違いはない。自分に逃げ場などないのだと改めて気づく。心臓が縮む思いがした。
黒蛇は、怯えている花緒を憂うように一瞥して、視線を前方に戻した。
「……だが、長居は無用だ。おまえを安全な場所へ連れて行く」
黒蛇が立ち上がる。その長い指先をついと前に向けると、青く揺らめく光が二列、奥へ向かって順々に点灯した。何もなかった真っ暗闇に道を成していく。提灯の灯りかと思ったけれど、光は揺らめきながら様々に形を変えている。あれは狐火だ。
花緒は恐怖も忘れてその幻想的な光景に目を奪われる。
なんて美しいところなのだろう。こうして足を踏み入れるまでは、魑魅魍魎が跋扈する地獄のような光景を想像していた。けれども実際は恐ろしくも美しい所なのだ。
花緒は、少し前方に佇んでいる黒蛇の大きな背中を盗み見る。
(この美しい場所でこの方に喰われて死ねるのなら、それでもいいのかもしれない)
花緒は、絶望的な気持ちから、諦めに似た気持ちに変わっていく。自分にあがくことはできない。今は、彼に従ってついていくしかないのだ。そのとき――。
――……カラ、カラ、カラ、カラ。
耳慣れない金属音が、狐火の道の先から響く。車輪が回る音だろうか。
(何の音?)
花緒は無意識に黒蛇を見上げる。黒蛇は花緒の不安そうな視線に気がつくと、こちらを見下ろして僅かに口角を持ち上げた。花緒はたじろぐ。
(見間違い? 今、微笑んでくださったような)
まるで安心させようとしてくれたかのよう。けれど、自分の見間違いだろうと花緒は思い直す。
不気味な車輪の音はだんだんとこちらに近づいてくる。暗がりからその全容が目視できるようになった。それは頭巾を被った人型の妖魔の引く人力車だった。
頭巾の妖魔は花緒と黒蛇の所まで来ると、足を止め、人力車の舵棒を下ろす。赤いビロードの布を地面に敷いた。そのまま人力車の黒い車体の目に無言で佇む。花緒と黒蛇が乗り込むまで待っているのかもしれない。
振り返った黒蛇が、花緒に片手を差し出す。
「――乗れ」
「……っ!」
花緒は、黒蛇の差し出された手と顔を交互に見やる。黒蛇は相変わらず無表情で何を考えているのかわからない。
(……なぜこんなに親切にしてくださるの?)
贄姫として、傷一つない状態で喰らう予定だからなのだろうか。そうとはいえ、こんなにも手厚く迎えられるとは思わなかった。黒蛇に惨たらしく喰われて終わりになると思っていたからだ。
しかし、容易く黒蛇の手を取れるような身分ではない。花緒は逡巡してから己の手を引っ込める。人力車の高さならば、よじ登れば自分だけでも何とか乗れるだろう。
一向に手を取らない花緒に、黒蛇は怪訝そうに眉をしかめる。
「……ああ。配慮が足りなかったな」
そうぼやくと、何を勘違いしたのか黒蛇は花緒の背中と膝の裏に腕を差し入れ、そのまま軽々と抱き上げた。
花緒は急激に持ち上がった目線の高さに混乱する。
「きゃ! な、何を――」
「…………」
黒蛇は無言で手元の花緒を見下ろす。花緒は、近づいた黒蛇の端正な顔立ちに息が止まりそうになる。まるで金の光が散りばめられたかのような瞳。密着したせいでより強く感じる甘美な桜の香り。
(本当に、なんて美しい人なんだろう)
見惚れている花緒の身体を、黒蛇は難なく人力車の座面に座らせた。そうして自分も花緒の隣に身軽に飛び乗る。
「出せ」
黒蛇が一言告げると、頭巾の妖魔は舵棒を持ち上げる。
状況が呑み込めずに混乱している花緒と、無表情の黒蛇を乗せて、人力車は狐火の路を駆け始めた。

