あの日、きみに恋をした。

 入試の日は喉の調子がよくなかった。ときおり出る空咳に緊張も重なって、身体が強張っているのが藤安(ふじやす)自身もわかる。風邪ではないけれど周囲に配慮してマスクはつけていた。これはのちに後悔することになる。
 試験会場の教室に入り、受験番号の書かれた席に座る。落ちる心配はしていなかったけれど、こういう厳格な雰囲気が苦手で、試験やテストだと実力が出せない。それは中学の進路指導教員からも言われていた。まずは深呼吸だ、と助言をもらったことを思い出し、深呼吸をしたら咳が少し出た。
「大丈夫?」
 先行きが不安になったところに声をかけられ、顔をあげる。隣の男子生徒は藤安にのど飴をふたつ差し出した。少し離れたところにある中学の制服だ。
「お互い頑張ろうね」
 どこか幼い顔立ちで微笑みかけられ、とくんと胸が高鳴る。恋に落ちるには充分すぎる出来事だった。


 無事入学し、すぐに彼を探した。ふたつ隣のクラスにその姿を見つけ、思わず口もとが緩んだ。
 彼は(さわ)桜佑(おうすけ)という名だとわかった。でも入試のときにマスクをつけていたことで、藤安は沢に顔を認識してもらえていなかったのだ。それでもお礼を言いたくて声をかけたら、のど飴のエピソード自体が沢の記憶には残っていなかったようで、不思議そうに首を傾けられた。
 ――人違いじゃない?
 困ったように笑った表情はやはり幼くて、「人違いなんかじゃないよ」の言葉を呑み込む。
 教室に戻っていく沢のうしろ姿を見て、胸がいっそう高鳴った。沢は意識してではなく、自然にあの行動をしたのだ。彼の優しさに胸がいっぱいになり、感動すら覚えた。
 スタート地点に立ったかと思ったのにスタートなんてできなかった。沢を見つめるだけの日々が続く。転びそうだな、と思うと躓くし、荷物が落ちそうだな、と思うと荷物を落とす。沢の行動すべてが藤安の目を引いてどうしようもなかった。でも告白する勇気が出せない。告白というかしこまった状況下で、きちんと気持ちを伝えられる気がしなかったのだ。何度も頭の中でシミュレーションをし、毎回失敗する自分しか浮かばない。
 そんなことをして日々がすぎていき、あるときから沢の隣に一学年上の男の先輩がいるようになった。仲良さそうに話すふたりの空気に察する。花が咲いたように綺麗に微笑む先輩と、少し大人びた笑みを浮かべる沢の姿に、密かに唇を噛む。沢の笑顔の先にいるのが自分ではないことがつらかった。
 勇気を出せば結果は変わったのか。過去を悔いたところで、時間は戻せない。もっと早くきちんと告白していたら、沢の笑顔を受け止めていたのは藤安だったかもしれないのに。
 一学期はもやもやした気持ちを持て余して、食欲も落ちた。昼休みには気晴らしに校内の廊下を歩いてはため息をついた。藤安がどうしても目で探してしまう、沢の姿。でも沢の隣には藤安ではない男がいる。ため息がおさまることはなかった。
 悔しい。
 沢に似合うのは歳より少し幼い、自然のままの笑顔だ。年上の恋人に合わせたような大人びた笑みは、背伸びをしすぎていてせつない。沢に対して勝手で自己中心的な価値観を押しつけている自分が心の中にいた。


 見ているしかできない自分ではどうすることもできない。そうわかっていても声をかけられない。現状では沢に特定の相手がいるのだ。声なんてかけられない。悔しくて苦しくてせつなくて、毎日をぼんやりとすごした。沢が視界に入るのがつらくて、俯いてばかりいた。
「……?」
 二学期に入って、沢の様子が変わった。あの先輩の姿がそばになくなったのだ。別れたのかと思ったが、休み時間にはスマートフォンをいじってあのときの笑みを浮かべている。事情通のクラスメイトに聞いたところ、先輩は転校したとのことだった。
 遠距離恋愛……。
 一瞬頭に浮かんだ卑怯な考えを即座に打ち消す。奪ってしまおうか、なんて、とんでもないことを思いついた自分が気持ち悪い。遠距離恋愛でも沢が幸せならそれでいいだろう。


 沢の表情は日に日に沈んだものになっていったが、三学期に入って少し経った頃にはすっきりとした顔になっていた。それがどういう意味か、藤安にはわからなかった。ただ胸が痛い。沢の視界に入れない自分が悔しい。
 これまでにこんな思いをしたことがない。好きになった相手には、すでに好意を持たれているというパターンばかりだったからだ。藤安の外見だけを見て、中身を知らずに「私も好き」と返ってくる言葉に辟易し、恋愛から距離を置いていた。だからこんな片想いをするのははじめてなのだ。
 沢が幸せなら――そう思ってせつなさを呑み込んでいるのに、その沢の表情がまた沈んだものになった。なにかを思い悩んでいる様子で、こんなときに沢と仲がよかったら相談に乗れるのに、とやはり悔しかった。
 どんな状況でも居場所がない藤安の情けなさを励ますように、二年にあがったクラス替えでは沢と同じクラスになれた。でも、今さらどう声をかけたらいいかわからない。委員決めのとき、クラス委員ならば沢が困っているときに手助けができるかもしれないと、下心だらけで引き受けた。他二十余名のクラスメイトより、ただひとりのためにクラス委員になったなんて言ったら、きっと沢も呆れるだろう。
 同じクラスになっても見ているだけの日が続いた。窓の外には花が散って緑の葉が出てきた桜が春の陽射しを浴びている、そんな日のことだ。登校してきた沢がとても寂しそうに見えた。触れたら散ってしまいそうな儚さにどきりとして、声をかける機会を探した。なにがそんなに沢を落ち込ませているのかわからないが、今声をかけないと一生後悔する気がしたのだ。
 昼休みにいつも購買へ行く沢を追いかけて教室を出た。背中を少し丸めて歩くうしろ姿を、少し距離を置いて眺める。
 勇気を出せ。「購買行くんだよね」と声をかけて、さりげなく一緒に行けばいい。
 心の中で気合いを入れ、ぎゅっと手を握り込む。同時に重く深いため息をついた沢に、気がついたら自然に声をかけていた。頭で考えているよりするりと簡単に言葉が出て、藤安自身が驚いた。
 まるで花がしおれてしまったように肩を落とす姿に胸が痛み、励ましたくて言葉を探す。外に咲く花が綺麗だから、気持ちが少しでもすっきりするといいな、と窓の外に目を向けると、沢も同じ方向に視線をやった。でも逆にさらに落ち込んだ顔をされてしまい、失敗だったか、と反省する。
「花が散ったらどうなると思う?」
 沢の問いかけは縋るような声だった。


「桜佑くん、おはよう」
「おはよう。藤安くんって朝早いよね」
「クラス委員って意外とやることがあるんだよ」
 登校してきた沢に声をかけると、柔らかく笑んでくれた。藤安の胸にあった痛みは、このところ現れない。かわりに甘い疼きが起こり、心臓が激しく暴れるのだ。――沢といるときだけ。
 沢は名前で呼んでいいかと聞いた藤安の本心を、わかってくれてはいないと思う。それでも沢に話しかけることができている現状が、幸せで満ち足りたものだった。
「あのさ」
 わずかに頬を赤く染めた沢が、視線を泳がせる。
「うん?」
「前に、時が巡ったらまた花が咲くって言ってくれたよね?」
 もう一か月も前のことだが、あの日のことは藤安にもたった今の出来事のように鮮明に思い出せる。ようやく沢に話しかけられたのだから、特別な時間だ。
 斜め下で視線を固定した沢は、少し口もとを綻ばせる。
「俺、次に花が咲くときには失敗したくないなって思ったんだ」
「そうだね」
 勇気を出せ。
 あの日と同じように、心の中で気合いを入れる。ぎゅっと握り込んだ手のひらには、じんわりと汗が滲んでいる。
「でも、失敗もいいと思うよ」
「え?」
「失敗があって成功があるから。たくさん失敗して、たくさんいろんな経験をするのもいいんじゃないかな」
 きょとんとした沢だったけれど、すぐに破顔して笑い出した。あの日と同じどこか幼い笑顔に、心拍数が異常になる。
「そうだよね。俺、なんでも恰好つけたくなっちゃうんだ」
「わかるよ。僕もそうだから」
 ふたりで笑っていると、沢の特別な相手になれたような気持ちになって、自然と言葉が出た。
「巡る時間を、僕とすごしてみない?」
「え?」
「次の花はすぐに咲くかもしれないよ」
 言葉に込めた意味がきちんと伝わるかわからず、言い直そうか悩んで頭の中で思考がぐるぐるとまわる。
 やっぱりもっとはっきり言わないとだめだ。
「桜す――」
「藤安くんって、下の名前なんていうの?」
 言葉が重なり、沢は慌てた様子で「ごめん」と早口で謝った。
「なにか言いかけてたよね?」
「いや。いいんだ」
 伝わっているのか、それとも深い意味はないのか。心の中で期待の蕾が膨らんでいく。
「僕の名前はね」
「うん」
 続く言葉に耳を傾けてくれる沢の姿に、泣きたくなった。今、藤安の心を満たす幸せの大きさを沢に伝えたら、きっとすごく驚いて、沢に似合う幼い笑顔を見せてくれるだろう。そうしてまた心に幸せが溢れるのだ。

(終)