ひと晩寝て、翌朝学校に行くときには苛立ちが起こっていた。苛立つままに足を乱暴に前に出す。
 簡単に次の恋人ができた杏耶は、実はたいして桜佑を好きではなかったのだ。引きずることもせずに次に行った杏耶にも、なにも知らずに無邪気に笑っていた蓮実にも苛立って仕方がない。自分が悪いのはわかっているのに、誰かのせいにしていないと立ちあがれなくなりそうだった。そんなところさえ蓮実と比べ、いっそう自分の足りなさを痛感した。
「杏耶先輩の馬鹿」
 馬鹿は桜佑だ。わかっているのに文句が止まらないし、苛立ちもおさまらない。どんどん自分が嫌になっていく。
 杏耶に会いに行ったのだって気まぐれで、別にやり直したいわけではなかった。ただ久しぶりに会いたかっただけ。
 気持ちを取り繕えば取り繕うほどに虚しくなる。どれだけ文句を胸中で繰り返したところで状況は変わらないのに、変わらない現実を受け入れられない。結局まだ杏耶が好きなのだ。
「こんなにプライド高かったっけ」
 負けた気がしてそれが許せない高慢な気持ちもあって、自分自身が嫌になる。杏耶が蓮実の素直さに惹かれたとしたら、それは当然のことなのだ。桜佑のように自分のことばかりを主張してわがままを言って杏耶を困らせたりしないのならば、なおさら惹かれるだろう。
 なにもかもが嫌になってきた。現実が痛すぎて受け入れられない。まだ心のどこかに、でも杏耶先輩なら、と考えてしまう自分がいる。蓮実から奪うつもりか、と自分を嘲笑する。馬鹿げている。捨てられるのはどう考えても今さら縋る桜佑だ。
「ばあか」
 杏耶先輩の馬鹿。
 蓮実の馬鹿。
「――」
 俺の馬鹿。大馬鹿。
 あのときどうして別れようなんて思ったのだろう。こんなに好きなら距離なんて関係なくそばにいればよかった。会いに行こうと思って行けない距離ではないのに、それをしなかった。
 どれだけ杏耶が大切か、手放してわかった。

 授業中も集中できなかった。そんな日に限って日直だから、やることがいろいろとある。社会科資料室に向かいながらため息を零した。歴史の担当教諭は古い地図や紙の資料、形のあるものにこだわる。資料もタブレットで共有せずにプリントへのコピーを使うのだ。
「……」
 こんなとき、蓮実なら桜佑が呟く文句なんてかけらも思いつかないのだろう。また比べてしまって自分で落ち込む。
 もし蓮実が桜佑と同じ状況に――恋人と物理的な距離ができたら、どうしただろう。蓮実のことをまったく知らないから勝手な想像しかできないが、まっすぐにぶつかっていく気がする。会えないなら、「会いたい」と言って会いに行く。寂しいときには「寂しい」と素直に言う。
「……はあ」
 それができなかった桜佑のほうこそ、杏耶への想いはその程度だったのだ。気持ちが物理的な距離に負けた。障壁を乗り越える努力もしなかった桜佑に、杏耶を責めたり蓮実に嫉妬したりする資格はない。

 恋はどうやったら忘れられるのだろう。花が散ったらどうなるのだろう。散った桜佑は、このまま土と同化するとしか思えない。
 昼休みになり、購買に行くために教室を出る。とぼとぼと廊下を歩き、またため息が零れる。
「どうかした?」
「……?」
 うしろから声をかけられて振り向くと、クラス委員の藤安(ふじやす)が微笑んで立っていた。
(さわ)くんも購買だろ? 一緒に行こうよ」
「……? うん」
 どうして桜佑が購買に行くとわかったのだろう。不思議に思いながらも並んで歩く。藤安は頭もいいし外見も整っている。今もすれ違う女子がちらちらと藤安を見ているのがわかる。なんでも持っている人は持っているものだな、と隣の桜佑はなんとなく居心地が悪くて肩をすぼめる。
「……」
「……」
 藤安とはほとんど話したことがないから、なにを話したらいいかわからない。ちらりと隣を見あげると、一瞬杏耶の姿が重なって視界が涙でじわりと滲んだ。慌てて手の甲で瞼を軽く押さえ、唇を引き結ぶ。
「いい天気だよな。僕、春は花がたくさん咲くから好きなんだ」
「え? あ、うん。そうだね」
 雑談だ。たぶん互いに無言だったので、藤安も話題を探して無難な天気や季節の話になったのだ。当たり障りのない話題をすぐに思いつくのがすごい。頭のいい人は違うな、とぼんやりと思った。
「……藤安くんはさ」
「うん?」
「花が散ったらどうなると思う?」
 聞いてみたくなった。頭がいい藤安ならば、桜佑とは違う答えを出せる気がした。
 一瞬不思議そうにした藤安は、それでも微笑んで窓の外に目をやった。桜佑もつられて窓のほうを見る。木々が春風に揺れていて、気持ちよさそうだ。
「そうだな……。時が巡って、また花が咲くんじゃないかな」
 視線を桜佑に戻した藤安と目が合った。柔らかく細められた瞳はアカシア色で、まっすぐに桜佑を見つめる。黄色に近い澄んだ瞳が宝石のように輝いている。あまりに美しくて桜佑は自然と足が止まった。
「あのさ、桜佑くんって呼んでもいい?」
 一歩先で歩を止めて振り向いた藤安は、小さく首をかしげた。
「え?」
 突然話題が飛んで、桜佑も首を傾ける。
「だめかな?」
「……いいけど。どうして?」
 問いかける桜佑に、藤安は「どうしてだろうね」と優しく微笑んだ。
「理由を考えてみてくれたら、僕は嬉しいな」

(終)