恋人と別れて三か月が経った。ひとつ上の先輩で、相手が転校したことで自然と距離ができ、互いに離れることを選んだ。どちらも合意のうえで別れたのだ。だから一方的な別れではない。
それなのに。
ふとしたときに思い出す、杏耶の笑顔。心に居座る彼を追い出せない。火種が燻るように心でじりじりと消えずにいる感情が不可解で不快で、もう杏耶のことは考えないと決めた。それでも考えてしまう。
「そっか」
まだ好きなんだ。
今さら理解して、もう一度やり直せないかと思案するようになった。あんなに好きだと言ってくれた杏耶ならば、まだ桜佑を好きでいてくれる。互いに気持ちが残っているのだからやり直せる。そう考えたら気持ちが浮上し、明日にでも杏耶の転校先の高校に行こうと決めた。善は急げだ。
学校の帰りに自宅とは反対方向の電車に乗る。杏耶の転校先までは一時間半かかる。たかが一時間半の距離が、あの頃の自分にはひどく遠く感じた。毎日学校で会える距離感に慣れすぎていたのだろう。会いに行こうと思っても、また今度でいいか、と延ばし延ばしにすることも多くあった。
電車に揺られながら窓の外を見る。目的地が近づくにつれて胸が高鳴り、杏耶がいつも見ている景色を見られることに心が高揚した。それほどにまだ好きなのだとわかり、あの日の別れの決断を馬鹿だと思う。
別れて気がついたのは、杏耶の誠実さ。キスもそれ以上も、まだ自分たちで責任が取れる年齢じゃないから、と言ってしてくれなかった。でも、と桜佑がわがままを言うと苦笑して、額にキスをくれた。
――今はこれで我慢しような。
その真面目すぎる性格にもやもやしていたのは事実だ。そんなに重大なことと考えなくたっていいのに、といつも唇を尖らせる桜佑を、杏耶はあやすように頭を撫でた。それが杏耶の思いやりだと、あの頃にはわからなかった。目先のことばかりを追いかけている桜佑に彼は呆れず、何度も同じことを言わせるな、なんて冷たく言われたこともなかった。諭すように繰り返し丁寧に話してくれた。どうして今ではないのか、なぜ触れないのか。そのすべての意味がようやくわかった。杏耶は桜佑を大切にしてくれていたのだ。それも、これ以上ないほどに。
杏耶の高校の最寄り駅につき、人の流れにのって電車を降りる。
「ただちょっと近くまで来たから、ついでに……」
作った言いわけを口の中で繰り返す。会いに来たなんて言ったら重いから、あくまで気軽に、ちょっと寄っただけなんだよ、という体で行く。本当は会いたくて会いたくてたまらないけれど、それを顔に出さないように表情を引き締めた。
「……!」
改札を出て高校があるほうの出口に向かっていたら、駅内のコンビニの前にいる杏耶を見つけた。
「ただちょっと近くまで来たから、ついでに……」
もう一度言いわけを呟いてから、足をコンビニに向けた。
「きょ、杏耶先輩」
「え?」
声をかけると、虚を突かれたように杏耶は目を丸くした。すぐに桜佑だとわかってくれて、朗らかな笑顔を向けてくれる。
「桜佑? 久しぶりだな。どうしたんだ、こんなところで」
「あ、あの……ちょっと……」
用意した言いわけが口からうまくでない。そんな桜佑を訝るでもなく、杏耶は話しかけてくれる。
どうしてる?
背伸びたんじゃないか?
元気にしてるか気になってたんだ。
ちゃんと授業についていけてるか?
次から次へと言葉をかけてくれる杏耶に胸がいっぱいになり、確信する。杏耶もまだ好きでいてくれるのだ。そうでなければこんなに桜佑のことを気にするはずがない。
言わないと。
もう一度やり直しませんか――そのひと言を心の中で一度言い、唇にのせようと顔をあげた。
「杏耶さん、お待たせしました」
「え……?」
コンビニから出てきた、杏耶と同じ制服を着た男子生徒が杏耶の隣に並んだ。桜佑より少し背は高いけれど、それでも小柄な男子生徒は杏耶にペットボトルの水を差し出す。
「ありがとう、蓮実。買いに行ってもらって悪かったな」
「僕も買いものがあったからついでですよ」
杏耶が男子生徒――蓮実に向ける笑顔は、先ほど桜佑に向けてくれたものとまったく違った。目尻がさがっていて顔全体が柔らかくて、はっきりとわかる違いに愕然とする。
「あ、お話し中でしたか? すみません」
桜佑に気がついた蓮実は慌てたように頭をさげる。恰好いい杏耶に声をかけている知らない男に対しても、疑うことなく素直に頭をさげられる姿に胸が痛む。
「杏耶さん、僕先に行ってますね」
「いや、俺も行くよ。桜佑、悪いな。なにか用事だったか?」
「いえ」
ただちょっと近くまで来ただけで、と今になってようやく言いわけが口から出た。
「そうか。気をつけて帰れよ」
「はい……」
ああ……そうなんだ。
歩き出した杏耶と蓮実は自然に手をつないで改札に向かった。その背を見送り、ようやく理解する。自分はもうすでに過去になっていたのだ。今の恋人は蓮実で、過去に未練があったのは桜佑だけ。
「もう、俺たち終わったんですね……」
わかっていなかったのは桜佑だけだった。
しばしそのままぼんやりとコンビニの前で佇み、人が流れていくのを二回見送ってから桜佑も改札に向かった。行きと反対方向の電車に乗り、来た道を戻る。
電車に揺られながら、頭がまだ混乱していた。行きの電車の中では期待に満ちていた胸が、からからに干からびている。
「素直そうな人だった……」
桜佑と同い年の二年生だろうか、それともひとつ下の一年生か。童顔でも杏耶と同じ三年生という可能性もある。どこからどう見ても恰好いい杏耶と並ぶと若干の違和感がある、平凡な人だった。
「……俺もか」
見た目だけならば桜佑も蓮実に負けず劣らず平凡だ。でも杏耶は見た目で人を判断したりしないし、恋人を外見で選ぶようなこともしない。だから蓮実は杏耶がきちんと好きになった相手だ。
素直そうな蓮実、ひねくれた自分。
笑顔が可愛い蓮実、不愛想な自分。
人前で手をつなげる蓮実、すぐに照れて逃げていた自分。
比べては落ち込み、また比べては落ち込んだ。どこを取っても敵うわけがない。なにより杏耶が好きになった相手なのだ。過去は過去でしかない。桜佑はもう杏耶の隣には並べないのだ。
「今さら」
今さらだ。今さら会いに行ってやり直そうなどと思った自分が滑稽で仕方がない。でも笑うこともできなかった。あのときの自分は、精いっぱいの気持ちで足を進めていたから。まさかこんな結末があるなんて思わなかったのだ。帰りには、やり直せた幸福を胸にいだいて電車に揺られているとばかり信じていた。
「……今さら」
現実は痛い。今さらこんな行動を起こしたところで遅かった。もっと早く動いていたら結末は違ったかもしれない。でも時間は戻せない。
終わった恋は忘れないといけない。でも――――忘れ方がわからない。
誰か、恋の忘れ方を教えてください。
それなのに。
ふとしたときに思い出す、杏耶の笑顔。心に居座る彼を追い出せない。火種が燻るように心でじりじりと消えずにいる感情が不可解で不快で、もう杏耶のことは考えないと決めた。それでも考えてしまう。
「そっか」
まだ好きなんだ。
今さら理解して、もう一度やり直せないかと思案するようになった。あんなに好きだと言ってくれた杏耶ならば、まだ桜佑を好きでいてくれる。互いに気持ちが残っているのだからやり直せる。そう考えたら気持ちが浮上し、明日にでも杏耶の転校先の高校に行こうと決めた。善は急げだ。
学校の帰りに自宅とは反対方向の電車に乗る。杏耶の転校先までは一時間半かかる。たかが一時間半の距離が、あの頃の自分にはひどく遠く感じた。毎日学校で会える距離感に慣れすぎていたのだろう。会いに行こうと思っても、また今度でいいか、と延ばし延ばしにすることも多くあった。
電車に揺られながら窓の外を見る。目的地が近づくにつれて胸が高鳴り、杏耶がいつも見ている景色を見られることに心が高揚した。それほどにまだ好きなのだとわかり、あの日の別れの決断を馬鹿だと思う。
別れて気がついたのは、杏耶の誠実さ。キスもそれ以上も、まだ自分たちで責任が取れる年齢じゃないから、と言ってしてくれなかった。でも、と桜佑がわがままを言うと苦笑して、額にキスをくれた。
――今はこれで我慢しような。
その真面目すぎる性格にもやもやしていたのは事実だ。そんなに重大なことと考えなくたっていいのに、といつも唇を尖らせる桜佑を、杏耶はあやすように頭を撫でた。それが杏耶の思いやりだと、あの頃にはわからなかった。目先のことばかりを追いかけている桜佑に彼は呆れず、何度も同じことを言わせるな、なんて冷たく言われたこともなかった。諭すように繰り返し丁寧に話してくれた。どうして今ではないのか、なぜ触れないのか。そのすべての意味がようやくわかった。杏耶は桜佑を大切にしてくれていたのだ。それも、これ以上ないほどに。
杏耶の高校の最寄り駅につき、人の流れにのって電車を降りる。
「ただちょっと近くまで来たから、ついでに……」
作った言いわけを口の中で繰り返す。会いに来たなんて言ったら重いから、あくまで気軽に、ちょっと寄っただけなんだよ、という体で行く。本当は会いたくて会いたくてたまらないけれど、それを顔に出さないように表情を引き締めた。
「……!」
改札を出て高校があるほうの出口に向かっていたら、駅内のコンビニの前にいる杏耶を見つけた。
「ただちょっと近くまで来たから、ついでに……」
もう一度言いわけを呟いてから、足をコンビニに向けた。
「きょ、杏耶先輩」
「え?」
声をかけると、虚を突かれたように杏耶は目を丸くした。すぐに桜佑だとわかってくれて、朗らかな笑顔を向けてくれる。
「桜佑? 久しぶりだな。どうしたんだ、こんなところで」
「あ、あの……ちょっと……」
用意した言いわけが口からうまくでない。そんな桜佑を訝るでもなく、杏耶は話しかけてくれる。
どうしてる?
背伸びたんじゃないか?
元気にしてるか気になってたんだ。
ちゃんと授業についていけてるか?
次から次へと言葉をかけてくれる杏耶に胸がいっぱいになり、確信する。杏耶もまだ好きでいてくれるのだ。そうでなければこんなに桜佑のことを気にするはずがない。
言わないと。
もう一度やり直しませんか――そのひと言を心の中で一度言い、唇にのせようと顔をあげた。
「杏耶さん、お待たせしました」
「え……?」
コンビニから出てきた、杏耶と同じ制服を着た男子生徒が杏耶の隣に並んだ。桜佑より少し背は高いけれど、それでも小柄な男子生徒は杏耶にペットボトルの水を差し出す。
「ありがとう、蓮実。買いに行ってもらって悪かったな」
「僕も買いものがあったからついでですよ」
杏耶が男子生徒――蓮実に向ける笑顔は、先ほど桜佑に向けてくれたものとまったく違った。目尻がさがっていて顔全体が柔らかくて、はっきりとわかる違いに愕然とする。
「あ、お話し中でしたか? すみません」
桜佑に気がついた蓮実は慌てたように頭をさげる。恰好いい杏耶に声をかけている知らない男に対しても、疑うことなく素直に頭をさげられる姿に胸が痛む。
「杏耶さん、僕先に行ってますね」
「いや、俺も行くよ。桜佑、悪いな。なにか用事だったか?」
「いえ」
ただちょっと近くまで来ただけで、と今になってようやく言いわけが口から出た。
「そうか。気をつけて帰れよ」
「はい……」
ああ……そうなんだ。
歩き出した杏耶と蓮実は自然に手をつないで改札に向かった。その背を見送り、ようやく理解する。自分はもうすでに過去になっていたのだ。今の恋人は蓮実で、過去に未練があったのは桜佑だけ。
「もう、俺たち終わったんですね……」
わかっていなかったのは桜佑だけだった。
しばしそのままぼんやりとコンビニの前で佇み、人が流れていくのを二回見送ってから桜佑も改札に向かった。行きと反対方向の電車に乗り、来た道を戻る。
電車に揺られながら、頭がまだ混乱していた。行きの電車の中では期待に満ちていた胸が、からからに干からびている。
「素直そうな人だった……」
桜佑と同い年の二年生だろうか、それともひとつ下の一年生か。童顔でも杏耶と同じ三年生という可能性もある。どこからどう見ても恰好いい杏耶と並ぶと若干の違和感がある、平凡な人だった。
「……俺もか」
見た目だけならば桜佑も蓮実に負けず劣らず平凡だ。でも杏耶は見た目で人を判断したりしないし、恋人を外見で選ぶようなこともしない。だから蓮実は杏耶がきちんと好きになった相手だ。
素直そうな蓮実、ひねくれた自分。
笑顔が可愛い蓮実、不愛想な自分。
人前で手をつなげる蓮実、すぐに照れて逃げていた自分。
比べては落ち込み、また比べては落ち込んだ。どこを取っても敵うわけがない。なにより杏耶が好きになった相手なのだ。過去は過去でしかない。桜佑はもう杏耶の隣には並べないのだ。
「今さら」
今さらだ。今さら会いに行ってやり直そうなどと思った自分が滑稽で仕方がない。でも笑うこともできなかった。あのときの自分は、精いっぱいの気持ちで足を進めていたから。まさかこんな結末があるなんて思わなかったのだ。帰りには、やり直せた幸福を胸にいだいて電車に揺られているとばかり信じていた。
「……今さら」
現実は痛い。今さらこんな行動を起こしたところで遅かった。もっと早く動いていたら結末は違ったかもしれない。でも時間は戻せない。
終わった恋は忘れないといけない。でも――――忘れ方がわからない。
誰か、恋の忘れ方を教えてください。



