あの後、見慣れた制服姿の人達が辿り着き始め、有里はそれに気が付くと手を離していなくなってしまった。
 俺は有里の助けになれたはずだと思った。きっとあれが仲直りになったはず。
 帰りの新幹線にも有里はいなかったけれど、次に学校で会えば、俺たちはまたいつも通り話せるだろう。
 修学旅行明けの月曜日、有里は学校を休んでいた。
 旅行で疲れたのだろうか。俺が送った見舞いのメッセージに、今のところ返事は無い。
 午後のロングホームルームの時間、今日は文化祭で掲示する修学旅行報告の準備をすることになっていた。まずは、旅行中に使い捨てのフィルムカメラで撮った写真を班の皆で見て、思い出を振り返る。
 俺達五人は机を合わせ、写真の束を持った御門が一枚ずつ机に写真を並べていった。
 フィルムカメラの写真は、スマートフォンで見る画像とはどこか違っていて、なんだか懐かしい感じがした。
「あ、俺、東大寺の柱の穴くぐったときのやつ見たい」
「待て待て、順番」
「ここの昼飯うまかったよな」
「石舞台古墳でかくてびっくりした」
「藤原京跡のコスモス、満開でよかったなー」
 修学旅行の思い出を語りながら一枚一枚見ていると、御門が手元の写真を見て「わぁ」と声を上げた。
 全員が御門を見る。御門はチラッと俺を見てから、手元の写真を机に置いた。
 それは俺と有里が眠っている写真だった。掛け布団から顔だけ出して、朝の光の中でいかにも平和そうに、幸せそうに、顔を突き合わせて眠っている。
 一瞬で奈良のホテルでの写真であること、撮ったのは近江に違いないことを理解した。
「お前何撮ってるんだよ」
 俺は近江の首を掴んで揺すった。
「いやぁ、めちゃめちゃ幸せそうに寝てるなぁと思って、思わず。いい仕事するでしょ?」
「なんで一緒に寝てるの」
「こいつにベッド取られたから」
「あー、近江、結局饗庭の部屋で寝たんだ」
「なるほど」
 城井がチラッと、遠くに座っている艮野の方を見た。
「しかし絵になるねぇ」
 御門はほうっと溜め息を吐いて写真を眺めた。
「このまま雑誌の表紙になりそう」
「でしょうでしょう、そうでしょう? 俺、カメラマンになろうかな」
「調子に乗んな」
 俺は近江をひっぱたく。
「被写体がいいんでない。こうやって見ると、やっぱり美人だね、有里は」
「顔しか写ってない写真だと女子に見えなくもないな」
「はい、回収!」
 俺は写真を取り上げる。
「えーっ、貼らないの」
 御門が残念そうに抗議の声を上げた。
「貼りません」
 俺は机の中にあった美術の教科書にその写真を挟んだ。一番開かない教科書だから、保管に打ってつけだ。
 ――有里が来たら、見せてやろう。
 彼が写真を見て言いそうなことが、なんだかもう、頭に浮かぶ。
 俺は友人達に気が付かれないように、浮かんできた笑みを噛み殺した。


 俺は自分の見通しが甘かったことに数日経ってやっと気が付いた。有里は次の日も、その次の日も、学校に出て来なかったのだ。
 電話をしても出ないし、メッセージを送っても既読にもならない。
 五日目に、神川先生から毎日家庭訪問していることを聞いた。家にいるのは確かなようで安心したけれど、それと同時に段々と事の重大さが分かってきて俺は顔を青くした。
 だがどうしても、あのとき有里に肩入れして艮野を警察に突き出すべきだったとは思えない。
 それは俺と同じように、誰もいない有里の机を見て青い顔をしている艮野を見れば明白だった。
 ――でも何か、もっと別の解決方法があったのではないか。
 有里の傷付いた顔が忘れられず、俺はグルグルとそのことばかりを考えていた。
 俺のそんな思いとは裏腹に、周囲ではどうやら自身の評判が上がっているらしい。大体の噂は近江達を通して伝わってきた。
「有里君のピンチに颯爽と駆け付けて」
「艮野に殴り掛かられても怯まずに」
「なんかカッコいいこと言って黙らせて」
「泣いてる有里をお姫様だっこで助け出したんだって?」
 してないしてない、そこまでは。有里も泣いて無ければ、艮野も俺を殴ったりしていない。
「大体お前ら見てただろ?」
 と俺が言うと、近江は肩を竦めた。
「噂っていうのはおもしろおかしく広まっていくもんだよ。勿論聞かれたら訂正してるけどさ。信じてもらえないのは艮野の日頃の行いの悪さのせいだぜ」
 噂には尾ひれがついて、元々評判の良くなかった艮野には今や大悪党のレッテルが貼られていた。
 その内、「そもそも有里がクラス内で孤立し、体育や行事に参加していなかったのは、艮野に脅されていたからだ」という話が(まこと)しやかに広まり始めた。
 有里が孤立しているのも体育や行事に出ないのも小学生の頃からの話で、高校二年で出会った艮野が関係しているわけがないのだが、矛盾を無視して憶測は広がっていく。
 艮野なら一睨みで黙らせられるだろうに、彼はその無茶な噂を否定しなかった。
 「取り巻き」と称されていた奴らもすっかり艮野に寄り付かなくなって、艮野はかつての有里より孤独に見えた。


 有里が学校に来なくなってから一週間。俺はその日も沈んだ気持ちで下校していた。最寄り駅からバスに揺られ、海岸線を進んだ先に俺の家はある。キラキラした海と空が、沈んだ心に眩しい。
 考えるのは有里のことばかりだ。自分はどうしたらよかったのか、これからどうすればいいのか、なかなか答えは見つからない。
 家の最寄りのバス停で降りると、歩道と海を隔てる防波堤に、艮野が腰掛けていて驚いた。
 俺と目が合って、彼は気まずそうに目をそらしながら立ち上がった。
「おかえり」
 自分も今同じところから帰ってきたのだろうに、艮野はそう言う。
 艮野の家の最寄りのバス停は二つ手前だが、彼は自転車通学である。恐らく急いで自転車を漕いで、ここで俺を待っていたのだろう。艮野の傍に自転車もあった。
「どうしたんだよ」
 艮野は目をそらしたまま頭を掻く。
「有里、どうしてるかなと思って」
「……さあ」
 艮野は俺を見て目を丸くする。
「饗庭も知らねぇの? てっきり、連絡取ってると思ってた」
「いや、連絡しても返事返ってこねえし」
「そうなんだ……」
 沈黙が下りた。俺は黙って艮野の方を見て立っていた。少し間があって、艮野が言った。
「……あれって、火傷?」
「うん」
「有里はずっと、あれを隠してたんだ」
「うん。……俺からはちょっと、勝手に詳しいことは言えないけど」
「そうか、そりゃあそうだよな。――お前は知ってたんだ」
「うん」
「……近江とか、他の奴は?」
「知らない。先生以外は、俺しか知らない」
「そうか……」
「……」
「あのさっ」
 艮野が勢いを付けて言って、俺はきっと艮野は謝るのだろうと思った。「代わりに謝っておいてくれ」と、そう頼まれるのだろうと。
 引き受けるのは構わないが、いつ会えるかは分からない。それにきっと有里は許さないだろうとも思った。
「あの時部屋に一緒に行ってた奴らが、火傷に気が付いたかどうか、一応探り入れてみたんだ。でも、誰も気が付いて無かった。見たのは俺だけだ」
 俺は黙って艮野を見つめる。
「俺は言わないよ、誰にも。――だから、有里が人に知られたんじゃないか、広まってるんじゃないかと思って心配してるなら、大丈夫だからって、それを伝えてやってほしいと思って」
 俺は目を見開いた。
 そうだ。本来、艮野はこういう奴だった。
「悪かった。……って、饗庭に言っても仕方ないけど」
 艮野は下を向いて、首を掻く。
「もう近づかないし、話し掛けたりしない。目に付かないようにするよ。だから、学校に来てほしい――そう思ってる。許してほしいとは言わないけど、本当に悪かったって思ってるから。それが、有里に伝わったら嬉しい。それで、有里の気持ちが少しでも軽くなるなら」
「……分かった」
 俺が頷くと、艮野はホッとした顔をして、それから右手で頭を掻いて髪をぐしゃりと握った。
「初めは普通に気になったんだ。いつも独りでいるのが。単純に、気になって声を掛けたんだよ」
「うん」
 昔からそういう奴だ、こいつは。小学生の頃はそうやって周囲を巻き込んで、教室の中で影になる子を作らない、太陽みたいな奴だった。
「でも全然相手にされなくて、ムカついて、その内気に入らなくなった。一人だけ勝手な行動してるのが目に付いた。俺は先生に目を付けられてて何でも怒られるのに、あいつはなんでも許されてるのが腹立って」
「うん」
「何か事情があるんだって、ガキじゃないんだから分かったはずだ。――ホント、自分が馬鹿過ぎて、参ってる」
「ホントだよ」
 俺はやれやれと溜息を吐く。
「否定はしないぞ。今回のことはお前が悪い」
「うん……。できること精一杯考えて、これだけだった。饗庭にも迷惑掛けたな」
「いや、俺のことは別にいいんだけど。……ただ、一応引き受けたけどさ、いつ伝えられるかは分かんねえぞ。俺ももう会ってもらえないかもしれないし。多分、まあまあ嫌われたから」
「え、俺のせい?」
「うーん、いや、違う。……俺がずるいことしたからだ」
「……そう」
 そうして俺達はまた少し黙った。
 艮野が大きく息を吐いた。
「しかし意外だったなぁ。お前が人に興味持つなんて」
「なんだよ」
 俺は眉を上げて艮野を見る。
「自分から人に寄ってく人間じゃないじゃん、お前。近江がいなきゃ、今頃ぼっちだったろ」
「失礼な」
 反射的に言ったが、確かに艮野の言う通りだった。
 俺に初めに声を掛けてくれて、周りを巻き込んでいった近江がいなければ、今のような友人関係は築けていなかっただろう。
 俺は艮野のことをよく分かっているつもりでいるけれど、艮野も俺を分かっている。
「俺とつるんでもなー。お前、タイマン張りに横須賀まで行ったりしないだろ?」
「しねーなぁ……」
 実は昔は結構、俺達は学校でも近所でも、大人達からセットに数えられる程度には仲良しだったのである。
 中学に上がってわりと直ぐだろうか。グレたというのとはちょっと違うと思うのだけど、髪を染めて、ピアスを付けて、制服を着崩して。似たような格好をした先輩と一緒に、あからさまに“そっち”の路線に行ってしまった艮野とは、自然とつるむことが無くなった。
「まあそんなお前がだ。有里のことは特別気に掛けてるから、俺はお前を心配してもいたんだぞ。一応言っとくけど」
「……」
「また何か、新しく背負い込んでるんじゃないかと思って」
 その言葉の意味は、俺と艮野にしか分からないかもしれない。
「大丈夫、有里はそういうんじゃないから」
 艮野は訝しげに俺を見る。
「お前の気持ちはよく分かった。反省はして、でも、あんまり気に病むなよ。大丈夫。あいつ、多分お前が思ってるよりずっと逞しいんだ――」
 黄昏が迫る海沿いの道を、自転車で帰っていく艮野を見送った。
 できること、やるべきことが見つかった気がした。
 有里は電話に出ないし、メッセージにも返信が無い。家の場所も葉山としか知らない。
 八方塞がりでどうしようもない――はずだったが、俺には一つ、彼に会える心当たりがある。
「――よし!」
 俺は一つ決意を固めて、北の空を見据えた。


 その日、俺は独りで部屋のベッドに突っ伏していた。
 修学旅行から戻って十日。それからのほとんどをこうして部屋で過ごしている。
 学校を休んで三日目から、毎日神川先生が家庭訪問に来ていた。三浦から葉山まで、毎日申し訳ないけれど、登校する気は無い。
 学校なんてもう行かない。饗庭にももう会わない。会いたくない。
 ただ、本当にもう二度と会えないとなると、それはとても淋しい。
 もう二度と合いたくないのに、今すぐ会って話したい。二つの相反する気持ちのどちらも本当で、胸が潰されてしまいそうだ。
「……」
 自分以外の誰かに、こんなに気持ちを割くのは初めてだった。
 あの夜、饗庭に通報を断られた俺は、自分が大きな勘違いをしていたことに気が付いた。
 饗庭は自分にだけ特別に優しくしてくれているのだと思っていた。自分の絶対的な味方だと、信じ込んでいた。
 だが違う。彼は恐らく、誰にでも優しい。決して自分が特別だったわけでは無い。
 饗庭はきっと、あのとき同室だったのが違う人でも、同じように泣き付かれたら受け入れてあげてしまうんだろう。
 俺に向けられていたのはただの同情だ。どうしてそれが分からなかった。
 ――有里がしたいなら、いいよ。
 あれは結局、そういうことだ。本当に言葉のままの意味。
 彼は可哀想な人に手を差し伸べずにいられない人で、きっと誰にだって「いいよ」と言ってあげてしまうんだ。
「ああああああー!」
 枕に顔を伏せて足をバタバタさせた。
 あの夜のことが今更顔から火が出るほど恥ずかしい。何を勘違いして、心を曝け出してしまったのだろう。
 もう店に勧誘するのは絶対に止めようと思った。
 初めはその容姿と、気遣いができる性格が向いていると思ったのだが、とんでもない。あんなにチョロい男はいない。
 同情を引いてどうにかしようとするタイプの客に当たったら、奴はホイホイとどこにでも付いて行って、なんでもやらせてやりかねない。行動原理が金では無く情である分、俺よりよっぽど危なっかしい。
 ご両親は彼を心優しい良い子に育て過ぎた。もう少し利己的に、相手の気持ちじゃなく自分の気持ちを考えて行動できるようにならなければ、悪い人に利用されてしまう。
 親御さんはちゃんと息子に「この世には悪い人がいるんだよ」と教えてあげて、それから社会に出さないと――
「ああ……」
 枕に顔を押し付けて俺は唸った。
 その「悪い人」が自分であることに気が付いたからだ。同情を引いてどうにかしようとする奴。それってつまり、俺だ。
 せっかく少し距離が近くなった、饗庭の友人達のことも思い浮かんだ。
 近江にも御門にもあんなに口汚く言い合うところを見せてしまって、きっと城井や洲鎌にもそれは伝わっている。皆完全にドン引いて、もう仲良くしてくれないだろう。
 ――いや、いいんだって。友達なんて要らないんだから。
 俺は寝返りを打って枕を殴った。
 大体これまでまともに同世代とコミュニケーションを取ってこなかった自分に、そう簡単に友達が作れるわけが無かったのだ。
 饗庭がちょっと、お人好し過ぎただけ。だから勘違いをしてしまった。
 恥ずかしい。もう二度と会いたくない。でも、二度と会えないのは淋しい――
 この十日、考えはこれらのことを堂々巡りして、俺はベッドの上でのたうち回っていた。
 饗庭からはメッセージが何通も届いていたが、俺は通知を消して見ないようにしていた。
 彼には家族がいて、友達がいて、未来がある。このまま無視をしていれば、その内俺のことなんて忘れてしまうだろう。
 この二ヶ月、間違いなく人生で一番楽しかった。
 最後に、水族館で息を切らせながら自分のところまで来てくれて、手を繋いでくれた。
 それがとても嬉しくて、もう十分してもらったと思う。
 ――普通はそんなことしてくれないよ、多分だけど。
 なんて優しい人だろう。本当に、饗庭に出会えたことは僥倖だ。
 小学校入学から高校卒業までの十二年に、俺のような人間にもこんな時間があったことは、きっとこれからの人生でも力になるだろう。
 これからはその思い出だけで生きていけるかな。今までずっと独りでいられたのだから、できないことは無いはずだ。
 俺はのそりと起き上がった。
 時刻は十七時。――そろそろ出勤の準備をしなければいけない。


 今日の同伴相手は、他の客に比べると大分癖のある人だった。
 一代で財を成した建設会社の社長。絵に描いたような成金で、四十そこそこで不健康に太っている。
 二ヶ月ほど前に店に現れて、一目で俺を気に入ってくれたのはいいのだが。
「アリサがいる日は毎日来るよ」
「アリサが同伴できる日は全部するよ」
「俺の相手だけでナンバーワンにしてあげる」
 何度も何度もそう言うわりに、実際に俺の都合で動いてくれたことは一度も無かった。
 俺が来てほしいと言った日には何かと理由を付けて来ないし、俺が無理だと言った日には絶対に会いたいと食い下がってくる。そうして言うことを聞かせて満足するのだ。
「他の客の席に行かないで」
「同伴しないで」
 と、嫉妬心露わに俺を独占しようとするわりに、自分は耳触りの良いことを言っただけで何かしたつもりになって、俺からの見返りを求めてくる。
 そして、そんなに俺に執心しているというのに、実は家に帰れば妻と子どもがいて、しかも娘は俺と同い年だというのだから恐れ入る。
 夜の店に呑みに来るくらいだ。金はあるだろうに、最小のコストで俺をオトしたい――もしオトせないなら金が勿体ないから、なるべく使わないでおこう――そんな考えが透けて見えて、そんなところにもうんざりしていた。
 そんな客は最前から、高価な食事を目の前に、俺を囲ってプライベートまで全て自分の物にしたいという話をしていた。
 そりゃ俺のような美少年を囲って連れ歩けば、そういう界隈では羨ましがられるだろうね。トロフィーワイフって言うんだっけ? そういうの。まあ実際にはこの人には既に奥さんがちゃんといて、本当にそんなことをする気は無いのだ。俺に「嬉しい」「そうしたい」って言わせて、支配欲を満たしていい気分になりたいだけ。
 そんな不毛な会話が面倒臭くなって、意図に気が付かないふりをして
「じゃあ娘さんの婿に貰ってもらおうかな」
 と冗談めかして言ってみたら、客は「とんでもない」と凄い勢いで拒否をした。
 一瞬、娘にも取られたくないってくらいに俺のことを好いてくれているのかと思ったのだけど。
「だってアリサは高卒でしょ? うちの娘を高卒の男にはやれないわ。最低でも旧帝大をストレートで出て、堅い仕事に就いてないと。夜の店で働いてるような男、無理無理」
 大真面目にそう言う男に向かって「だよねぇ」とにっこり笑いながら、なんだかとても虚しくなった。
 「こんな男が父親だったら絶対に嫌だ」と心の中で蔑んでいるのに、それでもこの男に無条件で愛されている同い年の娘さんを羨ましく思う気持ちがある。
 自分が相手を蔑んでいる以上に相手から下に見られていて、それは恐らく世間的な評価も同じで、自分の価値の無さを思い知らされる。浅はかで無価値な自分に、心が沈む。
 勿論俺はプロだから、自分の気持ちなんて尾首にも出さず、まるで彼に恋しているかのように微笑んで、目の前の高価な食事を美味しそうに食べた。
 そうしながらも、下手な口説き文句を聞きながら食べる贅沢な料理より、毎日饗庭に貰っていた一口のお弁当がおいしかったと思い出すばかりだ。
 ――これが俺の普通なんだよ、饗庭君。
 俺は心の中の友人に、哀れんでほしくて声を掛けてみた。
 ――なんか見返りが無きゃ、わざわざ俺に親切にしようなんて奴いないんだ。
 心の中の彼は呆れた顔をした。
 ――お前だって、相手の金しか見てないじゃん。
 それはそう。でも俺だってね、愛ある家庭でコンプレックスも無く、そう、まるで君みたいにまっすぐ育っていたら、きっとこんなことにはなってない。
 卵が先か鶏が先か。俺が世界を愛さなかったんじゃない。世界が俺を愛してくれなかったんだ。だから俺は自分をお金に変えて、駆け引きで生きていくしかない。
 客の手を引いて、八時過ぎに店に入った。
 クラブ一夜草(ひとよぐさ)――ここが俺のバイト先である。
 連れてきた客を別のお姉さんに任せて、店に出る準備のため更衣室に入る。椅子に座って、だらりと体を机の上に伸ばして息を吐いた。
 ――ああ、もう、本当に誰か、いい人が現れたらいいのにな。
 性格は饗庭そのままに、上限十歳くらいまでの歳上で、お金持ちで、一生面倒見てくれるような。そんなお客さんがいたらもう本気で狙っちゃうんだけど。
 ――いないよなぁ。
 そもそもあのタイプが、こんなお店に来るはずがないし。(まか)り間違って来たところで、俺を気に入ってくれる可能性はほぼゼロだろう。
 俺がぐいぐい押して一緒にいただけで、優しいから一緒にいてくれただけで、饗庭の方は別に、俺を気に入っていたわけでは無いんだもの。
 ――相手から選んでもらえなきゃどうにもならなくて、俺にはそんな魅力は無い。
 じわりと浮かんできた涙を瞬きでごまかして、俺は勢いよく体を起こした。
 客を待たせたままで、そうのんびりもしていられない。早く着替えて行かないと。
 店にはいろんなタイプのキャストがいる。本当に⼥性のように作り上げた⾒た⽬の⼈もいるし、パッと⾒はただのお兄さんで、話し⽅が⼥性のような⼈もいた。
 そして客にもいろいろなタイプがあって、⾃分の求めている、好みの⼦が⾒つかったらその⼦を指名して通ってくれるようになるという仕組み。
 今⼀度確認しておくが、俺は⼥になりたいわけでも無ければ男に興味があるわけでもなく、俺⾃⾝にはそういう⽅⾯の趣味は特に無い。
 この仕事が出来ている時点でどうなの? と⾔われたら、それは分からん。多分、饗庭みたいに絶対無理っていうのが普通なんだろう。
 ――でも、俺には「普通」っていうのがそもそもよく分からないし。
 俺はただ、美少年とお話ししたいお客さまにお望みの時間を提供し、給料を貰っているだけだ。
 俺には⼥装の趣味もないので、以前饗庭に店の前で会った時もそうだったように、⼥性が着飾るような服を着たりしてはいなかった。いつも自分をなるべく華奢に見せてくれるぴったりとした服、かつ肌が白く見えるような黒や濃い紫の服、そして火傷痕を隠す露出の無い服を着ていた。
 今日はキラキラとした繊維を含んだ、体の線に沿う黒い服をロッカーの中から選んだ。
 化粧もしないけれど、まあ透明のリップグロスくらいは。
 これで唇をテカテカにしておくと、冗談の体で不意打ちにキスしてくるような不貞の輩をブロックできる。この店に半年勤める中で得た、仕事上の知恵である。
 実際にされたことは無いけれど、しようとされたことは幾度となくある。
 そんな時、咄嗟に避けて相手をムッとさせるよりは、そもそも相手がキスしたくならないようにしておくのが、自分を守ることにもなるってわけ。単純に、色っぽくもなるしね。
 ――キス……
 鏡を見てリップグロスを塗りながら、また奈良の夜を思い出して頭を抱えそうになった。リップグロスがいろんなところに付きそうで、思い留まったけど。
 心の中で悶えていると、更衣室のドアがノックされておかっぱ頭のお姉さんが中を覗いた。
「アリサちゃん、ご指名」
「指名?」
 俺は眉を顰める。
 つまり誰か、俺に会いに来た客がいるということだ。
 一緒に来た同伴の客以外、来店の連絡を誰からももらっていないのに、誰だろう。この時間に約束も無しにいきなり来るような人、いたっけ……。
 お姉さんは面白がるような、いやらしげな笑みを浮かべた。
「若いイケメンのお兄さん。一体どこで引っ掛けてきたの?」