夜中。いい気持ちで寝ていたところに、スマートフォンのバイブレーションが鳴った。
 強制的に起こされて、俺は緩慢な動きでスマートフォンを手に取る。
 液晶に浮かぶのは登録された「有里」の文字と、現在の時刻が午前二時過ぎであることを現した数字。
 ……ふざけんなよ、あいつ。
 俺は半分寝た頭で電話に出る。起き上がる気力も無くて、できればすぐに切ってまた寝たくて、寝転がったまま天を仰いだ。
「……おい」
「あはは、でてくれたぁ」
「ふざけんな。今何時だと思ってんだよ」
「んー? わかんない」
 電話の向こうの声はなんだかフワフワとしている。甘えたような明るい口調も、いつものそれでは無い。
 俺は段々と目が覚めてきた。
「……お前、もしかして酔ってる?」
「んー……」
「飲んでないって言ってたじゃん!」
 思わず責める言い方になった。
「お店では飲んでないよー? これはねぇ、あふたぁ」
「アフター?」
 この間聞いたやつだ。店が終わった後にお客さんに付き合う、タクシー代狙いで次回への投資。
「いっぱいお金使ってくれるお客さんでねぇ。ちょっと飲んでみたらー? って言われて、空気読んで飲んでみたの。そしたら、ふふっ、意外といけた」
「いやいや、いけてないからそんなんなってんじゃねーの?」
 俺がツッコむと、有里は高い声を上げてケラケラ笑った。
「あいばくん、おもしろーい!」
 呆れた。随分と楽しそうでいらっしゃること。酔って楽しくなって夜中に電話してくるなんて、俺も随分懐かれたものだ。
 そんなことより、めちゃめちゃ迷惑なんですが。
「それで、なんの用だよ」
「んー、うふふ」
「用事無いなら切るぞ」
「……うん、出てくれてありがとう」
 有里が急にまともな声を出した気がして、その瞬間、なんだか胸騒ぎがした。
「お前、今どこにいるの?」
「んー?」
「どこにいんの。家か?」
 家であれ、という願望交じりに強く訊く。
「ふふふ。うーん、ホテル?」
「は?」
「ラブホテルってやつだね、これは」
「はぁ⁉」
 俺はガバリと起き上がった。眠気は一気に吹き飛んでいた。
「なんでそんなとこいんだよ」
「分かんない。なんか、起きたらベッドで寝てた」
「何……、お前、一人なの……?」
 一瞬の内にいろいろなことが脳内を駆け巡って、心臓がドキドキとした。
「うん……」
 肯定するような返事に、ひとまず俺はホッとする。
「なんだ。――なんで一人でそんなとこいんだよ」
「シャワーしてるから」
「ん?」
「俺のこと連れてきた人。いい子で待っててねって、ゆわれた」
「……は?」
「いやー、参ったね。俺に気があるとは思ってたけど、ははっ」
「笑い事じゃないだろ」
「まあそっかぁ……。そうじゃなきゃねぇ、お店、通って来ないよねぇ……。金払いはいいし、つまんねーことも言ってこねーし、こんな都合の良い奴いるんだなと思ってたんだけど……まあ、いねぇよなぁ」
 有里はしみじみと言う。
「俺ねぇ。もしかしたらこの人は、なんにも求めてこないのかなと思ってたの。俺がなんにもしなくても、隣に座ってるだけでいいって思ってくれてるのかなって。でもまあそんなわけなくて、今ちょっと落ち込んでるんだ。――がっかりしてんのよ、現実に。俺は見返り無しに人から無償の愛を与えてもらえる人間じゃないっていう現実にね」
「お前今そんなこと言ってる場合じゃないだろ」
 俺は有里のマイペースな語りをぶった切る。
「え、待ってよ。どうすんの、お前……」
「やだなー、背中見せたくないなー。服着たままがいいって言ってみようかな。そういうプレイもあるよね?」
「……」
 俺は戸惑って、なんと言ったらいいか言葉を探す。
「ええっと……お前、その人のこと……なんていうか……いいと思ってるの?」
 なんとか見つけた言葉で恐る恐る聞くと、有里は乾いた笑いを零した。
「んなわけないじゃん。さえねーおっさんだよ、気持ち悪い。手ぇ繋ぐだけでゾッとする」
「じゃあダメじゃん!」
「でも多分だけど、もう覚悟決めなきゃいけない感じ」
「は……」
「でさ、なんでだろうね。最後にお前の声が聴きたくなったんだ」
 そんな、まるでこれから死にに行くみたいな。
「……最後とか言うなよ」
 言葉が見つからなくて、それしか返せなかった。本当はもっと言わなければいけないことがある。考えなければいけないことがある。
 ――どうしよう。こういうときって、一体どうすればいいんだろう。
 今にも眠りそうな有里に声を掛けながら、俺は頭をフル回転させた。
「なあ、そういうとこって、フロント? とかに通じる電話とかあるんじゃない?」
「あるかもねぇ……」
「かもじゃなくて! 見て! 探して!」
「ふむ……」
「電話掛けるんだよ。それで、自分は未成年で、無理矢理連れてこられたって言うの。できるだろそれくらい!」
「……ん」
「寝んな!」
 思わず怒鳴りつけた。
「ほら、電話探して」
「……」
「有里?」
「……」
「おい!」
 心臓が早鐘のように鳴っていて、それなのにとても寒い。氷でも飲み込んだように胸の辺りが冷たい。
 絶対に有里を助けなければいけない。そうでなければ、このまま世界が終わってしまうような心地がしていた。
「なあ……」
 何度目かの呼び掛けに、クスクスと笑い声が返ってきた。
「……お前何笑ってんだよ」
 人がこんなに必死に――
「なんでお前がそんな必死なの」
「えっ……」
 そんなことを聞かれて、戸惑う。なんでって、そんな、理由なんて考えていない。分からない。
「ねえ、一回抱かれてみようかな。案外大したこと無いかもしれないし」
 有里はふわふわと、まるでこちらをからかうような声で言った。
「いいんだ。誰か悲しむ人がいるわけでも、困る人がいるわけでも無いんだから。でさ、そんなんで金になったらラッキーじゃない?」
「……俺が困るよ」
 気が付いたときには口が動いていた。
「悲しむから、有里、そんな簡単に諦めたりしないで」
「……」
「なあ、そこどこなんだ。行くよ。場所教えろ」
「分かんない」
「分かんないじゃなくて!」
「……」
「横浜か? あの店の近く? なあ」
「来なくていいよ、大丈夫」
 ――ブツッ。
 突然電話が切れた。
 慌てて何度か掛け直してみたけれど応答は無い。メッセージも送ってみたけれど、既読にもならない。
 俺は家を飛び出そうと立ち上がって――そして、座り込んだ。
 横浜までは電車で一時間以上掛かる。
 当然こんな時間に電車は無いし、最寄り駅までのバスも無い。車も免許も勿論持ってない。
 タクシーに乗ったら……一体いくら掛かるんだろう。手持ちの金でどうにかなるとは思えない。
 そもそも有里がいるのは横浜なのか? そうだとしてどこなのか。
 前回有里に会った店の場所だって、もう記憶が朧気で、辿り着けるか分からない。
 俺はまた電話を掛ける。それしかできなくて、何度も続ける。
 何度目かの電話にとうとう「お掛けになった電話は……」の応答が返ってきて、俺にできることはいよいよ何も無くなった。


 明け方までまんじりともせず、俺はバスの始発で家を出た。
 有里に会うには学校に行くしかない。嫌な動悸と共に早朝の通学路を足早に進んだ。
 こんなに早い時間から学校に向かうのは初めてで、ひんやりとした朝の通学路には誰もいなかった。
 職員室で鍵を受け取って教室に向かう。落ち着かない気持ちで席に座り、何もできずにひたすら有里が来るのを待った。
 やがて一人、二人とクラスメイト達が登校してきた。初めの数人は俺が早く来ていることに驚いて声を掛けてきて、俺はそれに気も(そぞ)ろに応えた。やがてクラスメイト達が教室に増えていくと、俺の存在はいつもの光景と混ざり合い、注目されることも無くなっていく。
 いつものように城井と洲鎌が話し掛けてきて、御門が加わり、近江が来て、朝いないことも多々ある有里は、そこに居ようが居まいが誰も気にしていなくて、俺だけが誰かが来る度に入り口を見てビクリとした。
「なあ、饗庭大丈夫?」
 近江が、会話への反応が薄い俺の顔を覗き込んできた。
「なんか顔青くない?」
「ああ、うん、ちょっと……」
 俺は有里の机を見る。その視線を追って、近江も有里の机を見た。
「有里? 何? なんかあった?」
「……」
 有里は家に帰っただろうか。帰っていなかったとして、彼に無関心らしい両親はいつそれに気が付くだろう。神川先生が来て有里の休みを知らないようなら、先生には話すべきだろうか。
 そうしてもし有里の行方が分からないのなら、警察に連絡することになるんだろうか。自分は何をどこからどこまで、先生や警察に話せばいいんだろう。
 不安を抱えて、でも、近江に話せることは何もない。
「いや……、大丈夫」
「大丈夫って顔かぁ? 寝てねーの?」
 三人で話していた御門達が、こちらの様子に気が付いて俺を見た。
「いや、ホント大丈夫。ちょっと考え事してて――」
 友人達を誤魔化そうとしたその時、後ろの入り口から有里がすっと入ってきた。心臓が跳ね上がった。
「あ――」
 同じく有里に気が付いた近江が何か言い掛けたが、俺はそれを気に掛ける余裕なんて無くて、音を立てて椅子から立ち上がり、有里に駆け寄った。
「来い」
 顔を見る間も惜しくて、俺は有里の腕を掴んで教室を飛び出す。有里は何も言わず、なんの抵抗もせず、腕を引かれるままに付いてきた。
 朝のホームルームが始まる直前の、教室の外にも生徒達が多い時間帯。たくさんの視線を浴びたけれど、そんなことはどうでもいい。
 俺達は廊下を駆け抜けた。
 史学準備室に行こうかと思い、神川先生と鉢合っては面倒だと思い直す。どこで止まろうか考えながら、とりあえず人のいない方へと進む内に階段を上がって、結果的に屋上に出た。
 始業開始直前の屋上には誰もいなかった。俺の気持ちとは裏腹な、気持ち良く高い秋の空が広がっていた。
 屋上の真ん中まで飛び出して、俺は有里の腕を離し、しかしすぐには振り向けなかった。まだちゃんと顔を見ていない。なんだか見るのが怖かった。
 俺と有里はしばらく無言で、走って階段を二階分登ったせいでお互い荒い息をしていた。
 いつ振り返ろうか、何を言おうかと考え(あぐ)ねていると、後ろでハアハアと息をしながら有里が言った。
「お前さあ、俺が汗かけないの忘れたの? もうちょっと優しくしてほしいんだけど」
 俺は勢いよく振り返る。
 いつも通りの有里がそこにいた。他の人ではきっと気が付けない程度に、少しだけ眠そうな顔をしていた。
「そんな幽霊見たみたいな顔しないでよ。腕、掴めたでしょ?」
「……」
 俺は言葉が出なかった。聞きたいことも言いたいことも山ほどある。
 昨日あの後何があって、何がどうしてどうなったのか。どうして電話に出なかったのか。メッセージくらい送ってくればいいではないか。学校に無事来てくれて良かった。いや、「無事」かどうかは、もしかしたらまだ分からないのかもしれない。何を当たり前みたいな顔をしているのか。俺がどんな気持ちで朝まで過ごしたと思っているのか。お前から言うことがあるんじゃないか。それをそんな、お前の汗腺のことなんて、今は気にしている余裕が無いに決まってる。
 危険な行動を怒ればいいのか、会えたことにホッとすればいいのか、まだ、何も分からない。
 呆然としている俺の前で、有里は「あっ」と言い、しゃがんで、持ったままだった通学鞄を開いた。そして「はい」と、手で掴んだものを俺に差し出してきた。
「何これ」
「一万円」
 そんなことは見れば分かった。有里が差し出しているのは、どこからどう見ても一万円札。しかし俺が聞きたいのはそういうことではない。
 さすがに有里もそれは分かったのか、一万円札をこちらに差し出したまま
「昨日のおじさんに貰ったの。三万円」
 と言った。俺が唖然としていると、
「昨日の夜迷惑掛けたから、これは迷惑料。――ごめんね?」
 有里は上目遣いに俺の顔を見て、こてんと小首を傾げる。なんだかあざとさに磨きが掛かっているような気がする。
 三万円って、それってつまり、そういうことなの?
「そんな……貰えないよ、俺」
 俺はなんとか声を絞り出す。有里は首を傾げるのを止めて、冷めた顔をした。
「あげるって言ってるんだから、貰っときなよ」
 有里は立ち上がって一万円を押し付けようとしてくる。
 俺がたじろいで一歩下がると、有里はそれに合わせて一歩進んできた。
「ほら」
「俺、分かんないや、お前のこと。前から分からなかったけど、最近ちょっと、分かってきたかと思ってた。でも、やっぱり分からない。理解できない」
 有里が大きな目を見開いた。
「俺には無理だ。もう……」
 俺は首を振りながら後退って、有里の脇を走り抜けて教室に戻ろうとした。
「待って――待って饗庭、ごめん!」
 有里に後ろから抱き留められた。
「なんか気まずくて……、分かんないふりしちゃった。ごめん。ちゃんと帰ったんだよ、あの後。大丈夫だから」
「……」
 取り繕うような言葉に、それだけでは俄に信じられなくて、俺は黙って立っていた。
「饗庭が言ってくれた通り、相手にね、本当は十七歳なんです、高校生なんですって謝って、それで帰してもらったの」
「……帰してもらえるもんなの? それで」
 俺は不信感を隠さない声音で言う。有里は背中に引っ付いたままで言った。
「俺、あの人の写真も連絡先も持ってるからさ。会社も仕事仲間の人達も知ってるし。そこら辺のことをこう……あんまり言っちゃうと脅迫になるじゃん? うーっすら匂わせる感じで……」
 体からガックリ力が抜けた。
「逞しいわ、お前……」
 振り返ろうと体を(よじ)ると有里は素直に体を離して、俺はまた有里と向き合った。
 昨夜からの独り相撲が馬鹿みたいだ。
 こいつは俺の助けなんて、そもそも要らないんじゃないか?
「饗庭のおかげだよ」
 有里は青空を背に、こちらを見て微笑んでいた。
「正直なところもうね、本当にもういいかなとも思ったんだ。俺の人生こんなもんかな、そーゆー生き方もあるのかなぁって。でも、饗庭が止めてくれたから。だからちゃんと帰った。饗庭に勇気を貰ったから、ちゃんと自分でどうにかしようって思ったんだ。――ありがとう」
 ――ああ、ずるい。
 あれだけ心配して眠れない夜を過ごしたのに、さっきまで焦れて苦しい思いをしていたのに。こんな風に素直に謝られて微笑みを向けられると、そんなことは瑣末なことだったように感じて、全て許す気持ちになってしまう。
「まああの人も悪い人じゃないのよ。常識人だから」
 黙ったままの俺を見てどう思ったのか、有里は執り成すように言った。
 十八歳を自称する人間に酒を飲ませてホテルに連れ込む大人が、常識人だとは思えないのだけど。
「タクシー乗せてくれてさ、口止め料も入ってるんだろうね。三万握らせてくれて」
「それで家帰れたんだな」
 俺が勝手に言葉を継ぐと、有里は呆れたような表情をした。
「帰んないよ。あんなとこからタクシー乗ったら家まで二万飛ぶし。ワンメーターで降りて、近くに住んでるお店のお姉さんの家で寝かせてもらって、それでそのまま学校来た。スマホ充電できなくてさ、連絡しなくてごめんね?」
「お前な――」
「だからはい、これ」
 有里はもう一度一万円札を差し出す。
「本当にただの迷惑料。あと、感謝の気持ち」
「いいよ、いらない」
 有里はムッとした顔をする。
「何、汚い金はいらないとか言うつもり? 綺麗だろうが汚かろうが、価値は同じだからね」
「そうじゃない」
「何」
「俺そんな、金貰うようなことしてないから。自分が心配したくてしてただけだから。そんなの、お金に変えられない」
「出た、お人好し」
 有里は笑って、一万円札をポケットにしまった。
「じゃあこれはありがたく、俺の独り立ちの資金にしますから。後からくれって言っても、やらないからね」
「言わないよ。――っていうか」
「何?」
「お前が自分から金手放そうとすること、あるんだな」
 有里はぽかんとした。そしてムスッとむくれる。
「人を守銭奴みたいに……」
 みたいというか、そうだと思ってるけど。
 だって、一円でも多く金が欲しいから、あんなバイトをしているんだろう。
「友達一万で売ろうとしたくせに……」
 俺が呟くと、有里はきょとんとしてこちらを見つめた。
「……えっ、何?」
 てっきり何か言い返されると思っていたので、俺は少し動揺した。
「饗庭って、俺の友達なの?」
「えっ」
 友達じゃなかったら、なんなの。
 じっと見つめ合って数秒。有里が何も言わないので、恐る恐る
「友達だろ……?」
 と言うと、有里は花が咲いたようにパアッと顔を明るくした。
「俺、友達出来たの初めて!」
 俺は思わず固まった。有里はこうやって時々、悲しいことを無自覚に言う。
「そっかー、饗庭って俺の友達なんだ。ふふっ」
 有里はニコニコして、キラキラとした瞳で俺の方に迫ってきた。
「ねぇ、俺達っていつから友達になったの? 保健室連れて行ってくれたときはまだ友達じゃなかったでしょ? いつから友達? 昼飯一緒に食べたから?」
「ちょっと、ちょっと待って」
 俺は圧倒されて、有里の肩を軽く押し返した。
「友達っていうのは、確認しあって『よし、今日から友達ね』ってせーのでなるもんじゃなくて、気が付いたらなってるもんなんじゃない?」
「なるほどぉ、いいね!」
 有里はワクワクと笑った。
「……お前、もう店辞めろよ」
 俺が言うと、有里はパッと笑みを引いた。
「危ないの分かっただろ。絶対また似たようなことあるよ。今回未遂で終わったのは運が良かっただけだ。別に普通のバイトでいいじゃん。その分、金貯めるのは時間掛かるかもしれないけど――」
「時間掛かったんじゃ困んだよ」
「何、辞めるつもりないの? あんな目に遭っといて?」
「……」
 有里はふいと顔をそらす。おい、と肩を掴んでこちらを向かせると、有里は何故か笑っていた。
「……俺、お前が笑うタイミング分かんねぇよ。何で嬉しそうなの? 怒ってんだぞ、俺」
「嬉しいよ、だって。俺のこと想って怒ってくれてるんでしょ?」
 有里は本当に嬉しそうに、眩しそうに、笑った。
「――お前しかいないんだ、俺には」
 気持ちの良い秋の空に、ホームルームが始まるチャイムが反響(こだま)した。
「チャイム鳴っちゃったね。どうする? ホームルーム。今入って行ったら大注目だと思うけど」
 有里は笑った瞳で、試すように俺を見ている。
 恐らく注目はとっくにされている。でも、今教室に二人で入っていく勇気は無い。
「……サボるかぁ」
 屋上の端まで歩いていって、俺は大の字に寝転がった。青い秋の空が、高く自由に広がっていた。
「そう来なくっちゃ!」
 そう言って有里もこちらに駈けてきて、俺の隣に腰を下ろす。
 広い屋上、場所はいくらでもあるのに、有里は人の腕を枕にして寝転んできた。
 ギョッとして有里を見ると、彼は満足そうにニコニコしている。
「一緒に授業サボるなんて、友達! って感じがしていいね!」
「……おう」
 友達はあんまり、人の腕の上に寝てこないと思うけど。
 有里は不思議な奴だ。危なっかしくて、逞しくて。ぶっとんでいるかと思いきや、しっかりした考えも持っていて。無邪気さと(したた)かさのバランスがジェットコースターのようで、俺はそれに振り回されている。
 だがそれが嫌では無い、そんな自分もなんだか不思議だ。
「……なんかあれだな。お前のやってることって……なんだっけ。詐欺というか――」
美人局(つつもたせ)!」
 と、有里はクイズに答えるように弾んだ声を上げた。
「ねぇ、普通美人局って、自分は裏で糸引くだけで女の子にやってもらうもんじゃない? 俺ってば一人で全部できちゃうの? 最強じゃない⁉」
「……やるなよ?」
「やんないよぉ」
 有里は当てにならない気の抜けた返事をした。
「とりあえず、酒は本当に止めとく。後、一人でアフター行くのも止めるから。ね、大丈夫でしょ?」
「うーん……」
 恐らく全然大丈夫ではない。けれどこれ以上強く言って、無理に辞めさせる権限は俺には無いし。本人に辞める気が無いのなら、俺にできることは何も無い。
 ――ああ、今はそれよりもとにかく眠い。
 昨夜ほとんど寝ていないのだから当然だ。気持ちの良い風と暖かな日差しに包まれて、俺は自然と目を閉じていた。