その日有里は教室に帰って来ず、気が付いたときには教室から鞄も無くなっていた。翌朝彼が普通に登校して来たのを見て、俺はひとりでホッとした。
有里が何も言ってこなかったので、こちらも何も言わなかった。
昼休みになり、俺はいつものように近江達と弁当を食べる場所を作ろうと立ち上がった。いつも通りに手近な机を動かそうとし始めたとき、有里がふっと俺の脇に立った。
「饗庭、昼一緒に食お」
いつものように無表情で、感情の無い声。
「お、おう。いいけど」
驚きながらも答えて、俺は友人達にアイコンタクトで了承を得る。俺達は当然、有里はここに混ざりたいと言っているのだと思った。
友人達が有里の場所を空けてくれようとしたが、有里はそれには全く反応せずに、俺に向かって「来て」と言い置いて、勝手に教室の外に向かって歩き出した。
「あ――。ごめん、行ってくるわ」
俺は驚き戸惑う友人達に目を向けてから、弁当袋を掴み有里の後を追いかけた。
「おい――お前、有里。感じ悪いぞ」
どんどん歩いていく有里に追い付き、俺は言う。
「別にどう思われてもいいし」
「お前が良くても相手が嫌な気するって言ってんの」
「……」
有里は俺を無視してズンズン廊下を進んで行く。どこに行くのかと思いながら付いて行くと、渡り廊下を通り、階段を上って、教科棟の三階にある史学準備室の扉を引いた。
扉には鍵が掛かっていて開かなかった。
「開かないじゃん」と俺が言おうとしたとき、有里はポケットから鍵を取り出して、当たり前のように鍵穴を回した。
「なんで鍵持ってんの?」
俺は少し狼狽えながら聞く。咄嗟に、こいつがどこかから鍵をくすねてきて、勝手に入ろうとしているのでは無いかと思ったのだ。
「神川先生に貸してもらってる。俺、自由に使っていいことになってるんだ。体育のときとかここにいる。着替えもここでするし、昼もここで食ってる」
有里は慣れた手つきで扉を開け、中に入ると電気と冷房を点けた。
「へぇ、凄い」
特別扱いじゃん、と出掛かった言葉を飲み込んだ。
その特別扱いはきっと背中の火傷痕由来のもので、そんな風に言われたくないかもしれないと思ったから。
俺は史学準備室に初めて入った。ここは社会科を教える先生達のテリトリーで、生徒が出入りできるイメージの場所では無かった。
歴史関係の史料が所狭しと置かれ、雑然とした部屋の中央辺り。左側の壁に沿うように三人掛けソファと低めのテーブルがあって、部屋の奥三分の一ほどは衝立で仕切られている。衝立の向こう側に、先生達の机があるのがチラリと見えた。
有里はソファの奥側に座り、
「まあ座りなよ」
と、まるでこの部屋の主のように自分の隣を顎と視線で示した。
大人しく隣に座ると、有里はこちらを見もせずに
「昨日はありがとう」
と言った。
こちらを見て頭を下げないところ、相変わらず矜持が高そうだ。別に感謝されたいわけでは無いからいいのだが。
「いいよ、別に。大丈夫だった?」
「うん、大丈夫」
「……ええと、それで、なんで昼飯誘われたの、俺」
「さすがにいろいろ気になってるだろうから、教えてあげようと思って」
いちいちどこか上から目線な有里は、こちらを見て首を傾げた。
「何が一番気になってるの? なんでも聞いていいよ」
黒く大きな瞳がこちらを見つめる。俺もその目をじっと見返した。
「……お前、いつ寝てんの」
有里はぽかんとして、それから吹き出した。
「なにそれ、お前、本気で言ってるの? 一番気になるの、それ?」
「だってお前……。昨日倒れたの、寝不足もあるんじゃない? ああいう店が何時までやってるのか、どのくらい働いてるのか、知らないけどさ。お前ガリだし、ちゃんと寝てんのか、食ってるのか、気になるよそりゃ」
有里は感心したようにしげしげとこちらを眺めた。
「はーっ、本物なんだな、お前って。俺、聞かれるとしたら二択でどっちかだと思ってたのに」
「どっちか?」
「お前の背中はどうして化け物みたいなんだ? ――か」
有里は視線を落として、自嘲するような笑みを浮かべた。
「男が好きだからあんな店で働いてるの? か」
そうしてひたと、またこちらを見た。
自分で聞いておいて、恐らく、有里はそれらが一番言われたくないことなのだろうと思った。自衛のために、先回りして自分で言って、こちらを睨みつけている。
「……そりゃ、あれだけの怪我を見ればどうしたのかは気になるし、仕事だって……なんであんなとこで働いてるんだろうとは思うよ。大体いいの? 高校生がああいう店で働いて」
「よしよし、じゃあ順番にぜーんぶ教えてあげる。――ほら、弁当食べて」
有里はどこか楽しそうに、偉ぶって言った。そして俺が弁当の包みを解くのを見ながら話し始めた。
「俺は昔――多分三歳くらいのとき、多分火事に遭って、多分孤児になった。それで、児童養護施設で育った」
俺は弁当の蓋を持ったまま、有里の方を見て固まった。
「この辺りまでのことは、今でもよく分からない。施設の人も何でも教えてくれるわけじゃないし、そもそも全部把握もしてなかったんだろうし。何より自分自身、物心ついたときにはもうそこにいたから。施設暮らしが当たり前で、疑問に思うことが無かったんだよね。だから、そんなに聞きもしなかった。四歳……五歳……、自分のことをなんとなくでも考えられる歳になったとき、俺は施設で他の子ども達と暮らしてて、背中には火傷があったし、家族はいなかった。親戚とかそういう、身寄りが全く無かったみたい」
有里は視線を正面に向けていたが、何かを見ているという風でもない。
「幼稚園とかは行ってなくて、読み書きとかはある程度施設で習って、小学生になった。そこで初めて知らない子ども達と一緒になって……、まあ、いじめられるよね。分かるでしょ、背中、怖いもん。悪いことをしたからこんな風になったんだろうし、触ったら移るし、呪われる。俺だって、自分のことじゃなかったらそう思ったかもね」
有里は前を向いたまま瞬いて、その表情は明日の天気の話でもするように穏やかだった。
「ただ、小学校に入学して半年くらいで俺に転機が訪れた。子どもができなくて養子を探していた有里夫妻が、施設にいた子達の中から俺を選んでくれたんだ。父さんは医者で社会的な信用があって、有里家は金持ちだった。そうじゃなきゃ、なかなか養子なんて難しかっただろうね。――で、俺は有里になった。前の名字はもう分からん。忘れた。親に――育ての方ね――聞けば分かるかもだけど」
有里は俺の方を見て、ちょっと苦笑いした。
「綺羅は勿論生まれた時の名前だよ。なかなかに奇抜な名前でしょ。もしかしたら俺の親――産みの親はなかなかにヤンキーだったのかもしれないな。……でも大切に思ってるんだ。唯一残ったものだから」
俺は言葉が無くて、そのまま有里を見つめていた。
「今の家に来て、学校も変わった。その機会に、俺は人前で服を脱ぐのを止めたんだ。もう絶対に、同級生に火傷のことを知られたくなかったから。親もそれに理解を示してくれてね。小学校、中学校、高校と、学校に掛け合って、生徒達にバレないように、先生に全面協力してもらえてる。――饗庭も、気が付かなかったでしょ?」
こちらを見た有里に、俺は黙って頷く。
でもその代わり、彼には真偽不明の噂が付き纏っている。服の下に火傷があるとは、恐らく誰も想像もしていない。
「うちの両親って、すっごく理知的なんだよね。引き取った子どものことを尊重して、ちゃんと一人格として認めてるっていうのかな? 必要なものを与えて、きちんと育ててくれたよ。親子関係って他の家と比べる機会がそんな無いじゃん? だから俺は、それが普通なんだと思って育ってきたんだけど……」
有里の口調に影が差した気がして、俺は戸惑った。
「うん……?」
話を聞いている限り、実際に普通だと思う。お金のある家の、理解ある両親。なんなら普通よりも恵まれた生活をしている。
「そんな有里君の人生に、小学四年生の時またも転機が訪れる。なんだと思う?」
有里が小首を傾げてこちらを見て、俺は瞳を揺らした。
「……全然分からない」
有里はじっとこちらを見つめ、勿体ぶるように「溜め」を作った。
「――なんと、妹が出来たんだよね」
俺は瞬いて、有里は苦笑した。
「両親もまさかだったと思うよ。妹が産まれたとき、俺を引き取って三年経ってた。――俺なんて引き取る必要無かったんだ。でももう、今更無かったことにもできない」
「……」
「俺は妹と両親の関わりを見て、初めて“本当の親子”ってものを目の当たりにした。愛情を掛けて本気で甘やかして、時には本当に怒って。俺に対しての一線引いた扱いとは全然別物だった。年齢の違いか? 性別の違いか? いや、違う。本当の子かどうかの違いだよ」
淀みなく滔々と語っていた有里は、ここでやっと息を吐いた。
「なるほどなぁって思って、いつからかな、早く家を出ることだけを考えてきた。あの家族のことを、なるべく邪魔しないように」
「……」
「うちの親は、とにかく俺が学校に行ってくれさえすりゃいいのよ。不登校の引きこもりになられたら面倒なんでしょ。近所の目もあるし、親戚にだって体裁悪い。それで俺が引きこもったりしないように先生にいろいろ交渉してくれてるから、割と自由にできるわけ。やりたくないことはやり無くないで済むし、授業サボろうと遅刻しようと許されるし、この部屋も使わせてもらえる」
有里は得意げで、そういう特別扱いってなんだか嫌なものなのではないかと思う俺とは、感覚が違うようだった。
「本当は中学卒業したら働こうと思ってたんだよね。でもさ、やっぱり今の時代、『高校は出てて当然!』って感じだし、『実子が出来たから養子を中卒で家から追い出した!』なんてことになると、あの人達の世間体が悪いじゃん? 高校くらいは出るのが親孝行かなぁ、なんて。それで、申し訳ないんだけど高校卒業までは置いてもらうことにして。その分ね、せっかくできた猶予だから、卒業したらすぐ出て行けるように、今のうちに金貯めることにしたんだ」
そう言って有里は、執り成すようにパンと膝を叩いた。
「というわけで、歳二つごまかして、この春高校出たばかり、三月生まれの十八歳って設定で四月からあそこで働き出したの。――ここまでオーケー?」
経緯は理解したけど、全然オーケーじゃない。
「なんであんな仕事。もっとなんかあるだろ?」
有里はやれやれと首を振った。
「俺だって、何も初めからあの店で働こうと思ったわけじゃないよ。ちゃんといろいろ検討して、あそこに落ち着いたの。――まず一つ、ああいう店は身分確認が甘い。大きい店ならちゃんとしてるんだろうけど、あの店じゃあ身分証の確認もされなかった。だから、歳を誤魔化して働けてる。十七歳の高校生じゃ雇ってもらえないよ、勿論」
「いや、そもそも高校生が働けるとこで働けば――」
有里は俺の言葉を遮るように「二つ」と言った。
「前にも言ったと思うけど、稼ぎがでかい」
「それは――」
「そして給料手渡し。これが俺からしたらとっても大きい」
「……うん?」
俺が頭にハテナを浮かべると、有里は「分かんない?」と馬鹿にしたように笑った。
「俺は働いてること親にバレたくないの。通帳に振込の跡が残るのは困るんだよ。俺名義の口座はあるけど、一応親管理だし」
「あー、なるほどな……」
俺が頷くと有里も満足げに頷いて、「そして三つ」と言った。
「俺多分、女の人に色恋営業掛けて騙すよりも、お金持ってるおじさん転がす方が性に合ってると思うんだよね」
有里は至って真面目な顔で言う。
「どう考えても、女の人チヤホヤしてお金貢いでもらうより、おじさんにチヤホヤしてもらって貢がれる方が向いてるもん。――それに女の人はさ、本気になっちゃったら付き合ってほしいとか、そういう話になってきちゃうでしょ。その先には結婚とか。愛憎の果てに刺されちゃったりしてね。でも男相手ならまあ、そうはならんでしょ」
「そう……かぁ……?」
その世界のことは何も知らないけど、でも知らないなりに、無いことは無いんじゃないかという気がする。
「まあ、体使って客取ってる人もいるよ、中にはね」
有里は俺から目をそらし、何でもない調子で続ける。
「でもまあ、俺はそこまでは。目の前にニンジンぶら下げて、期待させるくらいのことはするけどさ」
そして、ニッコリ笑って俺を見た。
「まあ俺ほど魅力的だと? ワンナイトとかは誘われますけどね。でもまあ、今のところ上手いことあしらってるから」
「危なくないのか」
「大丈夫大丈夫。女の子じゃないんだから、いざとなったら殴って逃げるよ」
有里は右腕を上げて、力こぶを作るようにぎゅっと力を入れてみせた。残念ながら、制服の薄いシャツの上からでも筋肉らしいものは全く見えなかった。
「力ある方だし、俺」
「ああ、そう……」
本人は本気で言っているようだが、先日簡単に壁に押し付けられていた奴に言われても、なんの説得力も無い。
「話、聞いてくれてありがとう」
有里が微笑んでこちらを見つめた。
思いがけない礼の言葉にびっくりして、何より彼が微笑んだことに驚いた。
こんな顔ができるとは――虚勢を張って人を睨みつけているよりも、全然良いと思う。
「いつか誰かに聞いてほしかったんだ。でも話せる相手なんていなくて。頭の中で何度も話す練習してたから、上手くなっちゃった」
苦笑しながらそう言って、有里は視線を落とす。
「あと何だっけ……。ああ、いつ寝てるのかと、飯ね。店は週三くらいだからそのときは四時間睡眠かな。それ以外の日はもっと寝てる。それに眠い時は授業サボってここで寝てるから、ご心配なく。――飯も食ってる。ほら」
有里はコンビニの袋を持ち上げた。中のサンドイッチと紙パックの野菜ジュースが透けて見えた。
「饗庭はお弁当、いいね」
有里が机の上に広げた俺の弁当を見る。
メインの焼き魚に卵焼き。野菜の煮物も入った、男子高校生のお弁当として十分な、量も栄養も揃った弁当。有里の話に引き込まれて、まだ一口も食べていない。
俺は有里が机の上に出した昼食を見た。ハムサンドが三切れ入ったパックが一つと、野菜ジュース。他には何も無いらしい。
「お前そんなんで足りるの」
「いつもこんなもんだよ」
「だから倒れるんじゃないの」
「俺が熱中症になりやすいのは汗腺が少ないからだよ。火傷が深くて、背中からほとんど汗掛けないから熱が籠りやすいの。だから体育は出ないんだけど、昨日はちょっと、運動じゃないと思って油断した」
また何と言っていいか分からなくなって固まった俺を見て、有里はいたずらっぽく笑った。
「でもそんなに心配ならさ、お弁当、恵んでくれてもいいんだよ?」
俺は卵焼きを箸で掴んで、有里の顔の前に突き出した。
「ほら、まだ食べてないから」
有里はパチパチと瞬いて、素直に卵焼きを食べた。
「――おいしい。饗庭んちの卵焼きは甘く無いんだね」
「俺が、その方が好きだから」
「ふうん、羨ましい」
と、有里は大して羨ましくもなさそうに言った。
「――と言うわけで、黙ってもらってることが増えたな。見返り、ちゃんと考えといてよ」
「いいよ。だって、服脱げって言っちゃったし」
ははっと、有里は笑った。
「真面目かよ。あんなの見返りになんないでしょ。――ちゃんと別の考えといて」
今聞いたばかりの話に胸がいっぱいで食欲が無かったが、俺は急いで弁当を掻き込んだ。
有里はサンドイッチを食べ終わると黙って隣でスマートフォンをいじっていた。本来学校では出すなと言われているけれど、これも有里だからいいんだろうか。
始業十分前に食べ終わって、俺は弁当箱をしまって立ち上がったが、有里は座ったままだった。
「お前、戻らないの?」
「次あれでしょ? 修学旅行の話し合い」
「うん」
「俺行かないから、出る必要ない」
「……そう」
スマートフォンに目を落としたままの有里を残して、俺は教室に戻った。
翌日からも、有里は昼休みになると「昼飯」と言いに来て、言うだけ言うと返事も待たずに勝手に教室を出て行った。戸惑う友人達に断りを入れて、俺はそれを追いかける。
有里と二人の昼休みは、意外にも居心地が悪くない。
初日以降、有里は段々と本性(?)が出てきて、調子に乗ったことも言い始めた。
「店で俺と喋ろうと思ったら、最低でも二万近くは掛かるんだからね。まあ実際のところ俺の取り分は三千円くらいだし、それでもいいよ」
ある日はお店の料金システムについて説明し、ドヤ顔をしてそう言った。
「何でお前と喋るのに俺が金払うんだよ」
俺がぶっきらぼうに言うと、有里はべぇっと舌を出す。
「金出してお前に会いに行く奴の気がしれないわ」
見た目だけなら、まあ。美少年として売り出して広告に偽りは無いと思う。
しかしこの可愛げの無い性格で、店で人気が出るとは到底思えな――
有里が、スッと両手で包み込むように左手を握ってきて、俺はギョッとした。
「な、何だよ」
少し身を引いて、有里を見る。有里は胸の前で俺の左手をぎゅっと握ると、じいっとこちらを見つめてきた。
「どうしてそんなこと言うの……」
「え?」
「饗庭君って、僕のこと、嫌い……?」
悲し気にそう言う有里の瞳は、いつもよりも少し、潤んでいる気がする。
「や、別に嫌いではないけど……」
有里の突然の行動に、俺は少々狼狽えて、手を握らせたままで視線を泳がせた。
「僕は饗庭君のこと大好きだよ」
「はぁ……それはどうも……?」
「饗庭君ともっとお話ししたい」
有里はそう言って、グッと顔をこちらに寄せる。そして、思わず助けてあげたくなるような、麗しい困り顔で小首を傾げた。
「ねえ、だめ?」
「いや、別に何にも駄目では無いけど……」
俺がドギマギしながらそう言うと、有里はニッコリ笑った。
「じゃ、今日はラストまでいてね」
「……」
あー、なるほど。
俺はすんっと心を落ち着ける。
「そういうキャラクターでやってるわけね」
「そう」
有里もスッと真顔に戻って、パッと俺の手を離した。
「次期エースと名高いアリサちゃんを舐めないでほしいね。ちゃんとやってんだ、仕事は」
「アリサちゃん」
有里は得意げな顔をした。
「面接に行ったら即採用でさ。その場ですぐに源氏名を決めろって言われて、そんなの分かんないじゃん? で、咄嗟に出た名前が『アリサ』――饗庭君なら『アイちゃん』だね」
有里は言って、あっと声を上げ
「駄目だ。うちの店もうアイちゃんいるや。どうする?」
と俺を見た。
「どうもしないけど……」
「急に聞かれてもなかなか決められないもんだからさ、先に考えておいた方がいいよ」
「……お前、俺のこと働かせようとしてる?」
「うん」
有里はニコニコした。
「なかなか向いてると思うよ」
「冗談じゃない」
「マジマジ」
有里はぐいと迫ってくる。
「手ほどき、してあげよっか……?」
「はいはい、結構です」
俺はおかずを一つ、箸で掴んで有里の口に押し込んだ。この餌付けも習慣化してきていて、俺が差し出せば有里は当たり前に食べる。
「にゃにこれ」
口をもごもごさせながら有里が言った。
「メバルの唐揚げ」
「へえー、うま。ね、卵焼きもちょうだい?」
有里はおねだりするように、上目遣いに小首を傾げて俺を見る。穿って見るに、彼はこの顔で客に店で金を落とさせているのだろう。
「お前、食えんならもっと持ってきたら?」
俺が取り合わずに冷たく言うと、有里はふんっと鼻を鳴らした。
「いいんだよ、細い方が店でモテるし」
「あ、そう……」
「可憐で……儚げで……守ってあげたくなるでしょ?」
「いや、全然……」
俺が引き気味に答えると、有里は笑った。
なんだか嬉しそうにしているが、こちらとしては……
「介護してる気分なんだよなぁ……」
俺が呟くと、有里はムッとした顔をした。
「もうちょっと他に言い方無いの。『桜に攫われてしまいそう』とか『風に手折られてしまいそう』とか」
「んな良いもんじゃねーよ」
「ね、饗庭君はもっと肉ついてる方が好み?」
「好みって何」
「饗庭君がもっと太ってほしいって言うんなら、俺、頑張るけど?」
「……まあ、今のお前は転んだだけで骨折しそうだし、それはあんまり良くないんじゃない? 普通に、健康な高校生として」
「ふーん」
つまらなそうに呟いてから、有里はひとり、嬉しげに笑った。
有里は見返りのことを忘れたわけではないようだった。
ある日「見返り、そろそろ決まった?」と聞いてきた有里にクリームパンを所望すると
「お前って本当に善人だね」
と有里は呆れた顔をした。
「こういうのって普通はもっと、自分の欲のために使うんだよ」
俺も有里を呆れた顔で見た。
「お前さぁ、あんな店に勤めてるから感覚おかしくなってない? 普通は、人の秘密を知ったからって黙ってる見返り寄越せなんて言わないんだよ」
有里は少し淋しげに視線を落とした。
「そうかなぁ。俺は今でも、見られたのが饗庭以外の奴だったらと思うとゾッとするけどね」
それから顔を上げて微笑んだ。
「だから感謝してるんだ。なんでだっていいよ。なんでもしてあげる」
「じゃあ店辞めろよ」
俺が言うと、有里は嫌そうな顔をした。
「それは駄目。本末転倒じゃん。そもそもお前になんのメリットも無いだろ。もっと自分の利益になることにしなよ」
「利益ねぇ……」
有里は俺のふとももに手を置いて、指を這わせるようにゆっくりと上に向かって撫でた。
「俺程の美少年がなんでもしてあげるって言ってるんだよ? なんかもっと、してほしいこと、無いの……?」
そう言って俺の目をじぃっと見つめてくる。
有里のこういう、ある種の自信には圧倒されるというか、恐れ入る。
「無い」
俺は有里の手をパシリと叩いて、そのまま掴んで本人のふとももに乗せた。
「止めてくれます?」
「サービスなのに」
「いらんわ」
こいつはこのサービスとやらを普段から店でやってるんだろうか。あんまり想像できないけど。
「俺には分からない世界だ」
ぼそりと呟くと、有里は首を傾げる。
「なぁに? 一回お店来てみる?」
「やだよ」
「なんで」
「興味無いし……。それに気が付いたら大金取られてそう。怖い」
「そんな、うちはぼったくる店じゃないよ」
有里はムッとした顔をした。
「心配だったら最初に、お店の人に例えば五万円渡して」
「五万」
俺はギョッとして冗談かと思ったけれど、有里は至って真面目な顔をしていた。
「それでストップしてって言っておくの。五万円来たら帰るって。そしたらちゃんと、止めてくれるから」
「……それは五千円とかでもいいの?」
有里は馬鹿にしたように笑った。
「五千円じゃ座ったら終わりだよ。てか、座れない」
「やっば」
「そんな俺と二人きりで話しができるなんて、饗庭君、それだけで一日数万得してるからね?」
「アホらし。そんな価値無いよ、お前に」
「失礼な」
有里は頬を膨らませた。
「人に向かって価値が無いだなんて」
「そうじゃなくて、そんなバカみたいな値段で……売り物にするなって言ってるんだよ、自分を」
有里は虚を突かれたように目を瞬かせ、それからハッと笑った。
「はいはい、御高説どーも」
そして話をそらすように俺の弁当を覗いて、俺が掴んだおかずに目を留めた。
「それ何?」
「鮪の角煮」
「まぐろ⁉ まぐろって生で食べるもんじゃないの?」
「煮てもおいしいよ」
ほら、と箸で差し出すと有里は遠慮無くぱくりと食べた。
「うわー、ホントだ。うま」
有里は幸せそうな顔をした。
「饗庭んちはいいな。夕飯もうまそう」
「……有里だって、夜は普通に食べてるんでしょ?」
「うーん、店あるから適当にコンビニでおにぎり買ったりすることが多いかな。家で食うときもあるけど、まあ、三人家族プラス俺だからね。肩身狭くて味しないや。基本的には部屋で食べたり、ちょっと時間ずらしたりしてる」
有里は目を伏せて淋しそうに笑う。
「夕飯も饗庭と食えたら、楽しいだろうな……」
「有里――」
「大丈夫、本気で言ってやしないよ。饗庭家の家族団欒を邪魔できないしね」
「……」
「誰かに身請けでもしてもらえたら、俺にも家族ができるのかな」
「みうけ」
知らない単語を、俺はただ復唱する。有里が小馬鹿にした顔をした。
「客に店から買い取ってもらうこと。聞いたこと無い? 昔の遊郭で、お金持ちが店に大金払って、気に入った遊女を買い取って自分の物にしちゃうやつ。買って終わりじゃなくて、その後の人生もちゃんと面倒見るの。――勿論、今のお店にそんなシステム無いよ。だから半分冗談」
半分本気なんかい、と心の中だけでツッコんでおく。
「でも、普通に俺のこと引き取って、養ってくれる人いたらいいじゃん? あんまりおじさんだと困るけど、二十代の御曹司とか、三十代の社長さんとか? そういうお金持ちで清潔感のある人になら、貰われてもいいかなー」
「……」
自分だったら絶対に嫌なので、有里のこういう感覚はよく理解できない。
「ま、あの店にそんないい人来ないんだけどね……」
しょんぼりとそう呟いた有里は、次の瞬間何か思いついた様子でバッとこちらを見た。
「ねぇ、饗庭は大学行くの? 就職する?」
急に話が飛んで、目が白黒する。
「就職すると思うけど……」
「そっか。じゃあ、二年待ってあげるから、今のうちに唾付けとかない?」
「つば?」
「饗庭君に身請けされてあげてもいいよって言ってるの」
話は飛んでいなかった。
何が悲しくて同い年の男を買い取って養わなくてはいけないのか。
「御免被るわ」
俺が無表情に言うと、有里はいつものようにちぇっと舌打ちしたが、その顔はやはり嬉しそうだった。
いつの間にか有里と史学準備室で昼食を摂ることが当たり前になって、「来て」と言われなくても勝手に史学準備室に行くようになった。
今日の午前中は校外学習だった。少し離れた街のお菓子工場の見学に有里は来なくて、俺は昼休みになって初めて史学準備室で有里に会った。
外を歩き回るものでも無いのだから来れば良かったのにと言うと、有里は嫌そうな顔をした。
「アリサちゃんと店外デートしようだなんて、本来なら三万円からなんだから」
「デートじゃないし、お前はアリサちゃんじゃなくて有里君だろ」
俺が首根っこをガッと掴むと、有里は「うわっ」と身を縮めた。
「……ていうかお前、そんなことまでしてんの?」
「ん?」
「店外デート」
「……んー、俺はしてないけど」
その言い淀みは、完全にやっている奴のそれに感じた。
「万が一外で誰かに見つかったら大変だし、俺は基本店内専門。同伴とかアフターっていうのもあるんだけど、まあそんなに……しないし……」
「同伴って?」
「ご飯とか一緒に食べてから、お客さんとお店に行くの。夕飯いいもん御馳走してもらえるし、同伴料っていうの貰えるし、いいんだ」
有里はニコニコした。
「ああ、そう」
「で、アフターっていうのはお店終わった後にお客さんに付き合うことね。タクシー代としていくらか貰えることが多い」
そう言って有里は苦い顔をする。
「無いときもあって、そうすると付き合い損でやってらんないんだ。まあ、また来てもらうための投資だね」
「……まあ、お前が何してたっていいけどさ。でも、気を付けろよ」
「はぁい」
有里は一つも響いてなさそうな、気の抜けた返事をした。
俺の方も、具体的に何にどう気を付けろと言っているのかは、自分でもよく分からない。
「あのさ、純粋な疑問なんだけど」
俺が言うと、有里は小首を傾げてこちらを見た。
「そんな疑似恋愛みたいなことしてて、客を好きになったりしないの」
「しないよぉ」
有里はうんざりした顔と声で言う。
「店に来る客なんてモテない奴ばっかりだぜ? 金無きゃ通って来らんないから、基本、結構なおじさんだし。そういう人が金払って相手にされに来るんだ。好きになると思う? こっちは“接客”してあげてるだけ」
つーかさ、と有里は俺の目を真っ直ぐ見た。
「俺ってやっぱり男好きだと思われてるの?」
真っ直ぐな瞳でそう言われて、俺はギョッとして有里を見つめ返したまま言葉が出てこなかった。
有里はやれやれと俺から視線を外した。
「どうせ皆そう言ってんでしょ、別にいいけど」
有里は投げやりに言う。
「でも、自分たちも狙われる可能性があるとでも思われてんなら、心外だな。思い上がりもいいとこよ。心配しなくても俺は金のねぇガキに用事ねぇっつーの」
そして、あっと声を上げ、こちらを見て小首を傾げた。
「饗庭君は別だよ。心配しないでね」
有里が俺をからかうときの態度は大変分かりやすい。
わざとらしく芝居がかった猫なで声になって、俺を“饗庭君”と呼んでくる。
「してません」
そして俺がぶった切ると、なんだか嬉しそうな顔をする。
今日も俺の仏頂面に、有里はクックと笑った。
そのまま黙ってお互い昼飯を食べて、俺はもう一つ、気になったことを聞いてみた。
「有里はさぁ……。彼女ほしいと思ってたりするの?」
「うーん、彼女はいいかな……」
「そうなんだ……」
なんで? と聞くのは野暮だろうか。
彼氏ならほしいと言われたら、どうしよう。いや、別にどうも、俺には関係ない話で好きにすればいいが。
――でも、別にそういう感じにも見えないんだよな、こいつ。
俺にはよく気があるかのようなことを言ってくるが、それは明らかにからかいを含んだ冗談だし。
俺は上手く会話を続けられず、弁当を食べることに集中しようした。有里はこちらを向いて、にっこり笑ってこてんと首を傾げて見せた。
「なんで、って聞かないの?」
「え……、な、なんで……?」
有里は俺の狼狽えをクスクス笑い、遠くを見る目をした。
「だってほら、結婚しない方がいいだろうし」
「え?」
「子どもなんて産まれたら、相続とか関係してくるからさ。俺、法律上実子だからねー。でも親は、本当は全部妹にやりたいだろうから。俺だけなら相続放棄できるけど、ここに子どもがいて、奥さんの意思が絡んでくると面倒なことになるかもしれないでしょ」
有里は静かに続ける。
「付き合ってくれる人がいたとして、結婚しないって決めてるのに時間奪うのもどうかと思うからね。女の子はそういうの嫌がるでしょ、多分。そうすると、彼女は作らない方がいいという結論になる」
有里は遠くを見たまま微かに笑った。
「俺はそもそもいなかった人間として、有里家に影響を与えずにそっと死んでいきたいんですよ」
そう言って、こちらを見てにっこりした。
「ね、可哀想でしょ」
「……」
返事ができなくて静寂が降りた。
「親より先に死ぬっていうのもいいんだけど、自殺はちょっとね。それも親が責められそうだし、申し訳ないからなかなか」
有里は溜め息を吐く。
「中途半端なことして障害負って生き残ったりしたら本当にまずいし、やるならちゃんとやらなきゃね」
そして俺の目を見た。
「饗庭は死のうと思ったことはある?」
「いや、無い」
「なんで?」
「なんで……?」
今まで生きてきて、何故自分が死にたいと思わないのかなんて、考えたことが無い。
「母さんが悲しむと……思う……」
やっと出した答えに、有里は微笑んで頷いた。
「いいね、立派な理由だ。――それにさ、目下の問題として、俺、できないじゃん」
「何が?」
「セックス」
ゴホンッと噎せた俺を無視して、有里はあっけらかんと続ける。
「こんな醜い体、女の子の目に触れさせられないでしょ。見せたら絶対引かれるし。怖がられたり気持ち悪がられたら、こっちも傷付くし。俺だけ脱がないっていうのもありだと思うけど、ずっとそうやって騙し続けるのも無理だろうし……」
真剣に考える風を見せていた有里は、俺の顔を見てニヤァっと笑った。
「なぁに、顔赤くしちゃって。もしかして饗庭君って結構初心? こういう話駄目だった? ごめんね?」
「いや、大丈夫だけど……」
近江とか他の友達とだって、そんな話することもあるし。全然、駄目なわけじゃない。
顔、本当に赤くなってるのかな。自覚は無い。ただ……
「有里ってあんまりはっきりそういうこと言わなそうだったから、不意打ちだったというか……」
狼狽えながら答えると、有里はニヤニヤした。
「ごめんねぇ、夢壊して」
「別に夢見てねーわ」
「じゃあ教えといてあげるけど、お店ではもっと凄い会話してるから」
有里は何故だか得意げな顔をした。
「でもね、店ではそういう話になっても、ぽかんとして何にも分からないふりしたり、戸惑ってみせたり、照れて恥ずかしそうにしてあげるのがコツ。その方が客受けがいい」
「はぁ」
俺は一体何をレクチャーされているのだろう。
「まあでも今はアリサちゃんじゃなくて有里君なわけだから? 饗庭相手に接客してあげなくてもいいかなぁって思って」
「うん、そうして……」
同い年の男にカマトトぶられても、なんにも面白くない。
「それでいうと、今の饗庭の反応はなかなか良かった。素質あるよ。――ねぇ、やっぱり饗庭も働かない? 二人で店のダブルエース目指そうぜ」
「いや、いいです」
「俺がちゃんと教えてあげるから」
「できないって」
「できるできる」
有里はそう言って、ぐいっと顔をこちらに寄せた。
「饗庭さ、普通にカッコいいもん。俺とは系統違うけど、全然合格ライン」
「はぁ、どうも」
「ご両親美男美女でしょ」
「どうかな……」
俺は寄ってきた顔から目をそらす。
「母さんには、父さんに似てきたって、言われる……」
「ふぅん、お父さんイケメンなんだ。――ほら、その顔を活かしてひとつ。ブ男じゃ働きたくても雇ってもらえないんだから。カッコよく産まれた特権だよ?」
「む! り!」
俺が断固拒否すると、グイグイこちらに迫ってきていた有里は、何かに気が付いて「ああ」と身を引いた。
「そっか。そりゃ、普通親が許さないか」
ぽつりとそう言って、淋しそうな顔をする。俺は溜め息を吐いた。
「そういうことじゃなくて、俺自身が無理ってこと。やりたくないの!」
ちぇっ、と有里はそっぽを向いた。
「紹介料一万円なんだけどなぁ……」
「それが目的かい」
全くこいつは、金を稼ぐことに関して油断も隙もない。
「……というわけで。大分話逸れたけどさ、俺は彼女はいらないと思ってるし、生涯独身でいいと思ってるから」
でも、と有里がこちらを見た。
「饗庭はいいお父さんになるんじゃない? なんか、目に浮かぶな」
「え?」
「だって凄く優しいし、面倒見も良くて。いいご両親に育てられたんだろうね」
「……そんなことないよ」
「ちゃんとした親がいる奴ほど、そういう贅沢な謙遜するんだよな。あーあ、羨まし!」
有里はそう言いながら時計をチラリと見て、
「もう予鈴鳴るな。そろそろ戻る?」
と立ち上がった。そして、返事も待たずにさっさと歩き出す。
「あのさ!」
俺はその背中に声を掛けた。
「ん?」
有里が振り返る。
「あのさ、大丈夫だと思うよ。――ちゃんと有里のことを好きで、大切にしてくれる人となら」
まとまらなくて上手く言えるか分からないけれど、伝えたい気持ちがあった。
「結婚しなくても、子どもを持たなくても、それでも有里と一緒にいたいっていう人、いると思うよ」
だって、俺だって今、有里と一緒にいるのが楽しい。
「だから、最初からそんな風に、諦めなくてもいいんじゃないか」
「……」
「――綺麗だったよ」
有里は俺の言葉の意味が分からないようで、瞬きをしてただこちらを見返している。
「そりゃあ火傷痕自体は、綺麗だなんて言うのはおかしいかもしれないけど。でも――すごく綺麗な体だと思った」
保健室で体を見たとき、不快感なんて一つもなかった。
俺は美術に造詣が深いわけでもないから、なんと言っていいか分からないけれど。心痛むものに美を見出す感覚があるのだとしたら、多分それ。
俺はあの時、まだ夏が残る青空を背景に見た有里を、綺麗だと思った。
――でも、これは言わない方がいいだろうな。
自身の怪我を鑑賞品のように言われて、気分がいいわけがないから。
でもきっと、自分と同じように思う女の子だっているはずだと思う。勿論中には理解を示さない人もいるだろうけど、火傷痕を嫌がるような人は、そもそも選ばないでほしいし。
じっと見つめ合って数秒、
「やだぁ。饗庭君たら、人の体めっちゃ見てるじゃない」
有里がふざけた口調で言った。
「目に入ったの!」
俺は思わず言い返し、有里は笑った。
「俺、そういう綺麗事嫌いじゃないよ」
「綺麗事って――」
言い返しかけて、言葉を飲んだ。
安易な否定はできないと思った。有里が俺の言葉を本気にして、もし上手くいかなかったとき、傷付くのは彼なのだから。
有里もそれ以上何も言わなくて、見つめ合っていると予鈴が鳴った。
「じゃあ俺、先に行くね」
有里は扉に手を掛け、こちらを向いてふっと笑うと
「次は俺好みの、全てを受け入れてくれる優しくて美人な恋人を屏風から出して言って」
そう言い残して出て行った。俺は一人取り残されて、少し、今の会話を思い返していた。
有里が何も言ってこなかったので、こちらも何も言わなかった。
昼休みになり、俺はいつものように近江達と弁当を食べる場所を作ろうと立ち上がった。いつも通りに手近な机を動かそうとし始めたとき、有里がふっと俺の脇に立った。
「饗庭、昼一緒に食お」
いつものように無表情で、感情の無い声。
「お、おう。いいけど」
驚きながらも答えて、俺は友人達にアイコンタクトで了承を得る。俺達は当然、有里はここに混ざりたいと言っているのだと思った。
友人達が有里の場所を空けてくれようとしたが、有里はそれには全く反応せずに、俺に向かって「来て」と言い置いて、勝手に教室の外に向かって歩き出した。
「あ――。ごめん、行ってくるわ」
俺は驚き戸惑う友人達に目を向けてから、弁当袋を掴み有里の後を追いかけた。
「おい――お前、有里。感じ悪いぞ」
どんどん歩いていく有里に追い付き、俺は言う。
「別にどう思われてもいいし」
「お前が良くても相手が嫌な気するって言ってんの」
「……」
有里は俺を無視してズンズン廊下を進んで行く。どこに行くのかと思いながら付いて行くと、渡り廊下を通り、階段を上って、教科棟の三階にある史学準備室の扉を引いた。
扉には鍵が掛かっていて開かなかった。
「開かないじゃん」と俺が言おうとしたとき、有里はポケットから鍵を取り出して、当たり前のように鍵穴を回した。
「なんで鍵持ってんの?」
俺は少し狼狽えながら聞く。咄嗟に、こいつがどこかから鍵をくすねてきて、勝手に入ろうとしているのでは無いかと思ったのだ。
「神川先生に貸してもらってる。俺、自由に使っていいことになってるんだ。体育のときとかここにいる。着替えもここでするし、昼もここで食ってる」
有里は慣れた手つきで扉を開け、中に入ると電気と冷房を点けた。
「へぇ、凄い」
特別扱いじゃん、と出掛かった言葉を飲み込んだ。
その特別扱いはきっと背中の火傷痕由来のもので、そんな風に言われたくないかもしれないと思ったから。
俺は史学準備室に初めて入った。ここは社会科を教える先生達のテリトリーで、生徒が出入りできるイメージの場所では無かった。
歴史関係の史料が所狭しと置かれ、雑然とした部屋の中央辺り。左側の壁に沿うように三人掛けソファと低めのテーブルがあって、部屋の奥三分の一ほどは衝立で仕切られている。衝立の向こう側に、先生達の机があるのがチラリと見えた。
有里はソファの奥側に座り、
「まあ座りなよ」
と、まるでこの部屋の主のように自分の隣を顎と視線で示した。
大人しく隣に座ると、有里はこちらを見もせずに
「昨日はありがとう」
と言った。
こちらを見て頭を下げないところ、相変わらず矜持が高そうだ。別に感謝されたいわけでは無いからいいのだが。
「いいよ、別に。大丈夫だった?」
「うん、大丈夫」
「……ええと、それで、なんで昼飯誘われたの、俺」
「さすがにいろいろ気になってるだろうから、教えてあげようと思って」
いちいちどこか上から目線な有里は、こちらを見て首を傾げた。
「何が一番気になってるの? なんでも聞いていいよ」
黒く大きな瞳がこちらを見つめる。俺もその目をじっと見返した。
「……お前、いつ寝てんの」
有里はぽかんとして、それから吹き出した。
「なにそれ、お前、本気で言ってるの? 一番気になるの、それ?」
「だってお前……。昨日倒れたの、寝不足もあるんじゃない? ああいう店が何時までやってるのか、どのくらい働いてるのか、知らないけどさ。お前ガリだし、ちゃんと寝てんのか、食ってるのか、気になるよそりゃ」
有里は感心したようにしげしげとこちらを眺めた。
「はーっ、本物なんだな、お前って。俺、聞かれるとしたら二択でどっちかだと思ってたのに」
「どっちか?」
「お前の背中はどうして化け物みたいなんだ? ――か」
有里は視線を落として、自嘲するような笑みを浮かべた。
「男が好きだからあんな店で働いてるの? か」
そうしてひたと、またこちらを見た。
自分で聞いておいて、恐らく、有里はそれらが一番言われたくないことなのだろうと思った。自衛のために、先回りして自分で言って、こちらを睨みつけている。
「……そりゃ、あれだけの怪我を見ればどうしたのかは気になるし、仕事だって……なんであんなとこで働いてるんだろうとは思うよ。大体いいの? 高校生がああいう店で働いて」
「よしよし、じゃあ順番にぜーんぶ教えてあげる。――ほら、弁当食べて」
有里はどこか楽しそうに、偉ぶって言った。そして俺が弁当の包みを解くのを見ながら話し始めた。
「俺は昔――多分三歳くらいのとき、多分火事に遭って、多分孤児になった。それで、児童養護施設で育った」
俺は弁当の蓋を持ったまま、有里の方を見て固まった。
「この辺りまでのことは、今でもよく分からない。施設の人も何でも教えてくれるわけじゃないし、そもそも全部把握もしてなかったんだろうし。何より自分自身、物心ついたときにはもうそこにいたから。施設暮らしが当たり前で、疑問に思うことが無かったんだよね。だから、そんなに聞きもしなかった。四歳……五歳……、自分のことをなんとなくでも考えられる歳になったとき、俺は施設で他の子ども達と暮らしてて、背中には火傷があったし、家族はいなかった。親戚とかそういう、身寄りが全く無かったみたい」
有里は視線を正面に向けていたが、何かを見ているという風でもない。
「幼稚園とかは行ってなくて、読み書きとかはある程度施設で習って、小学生になった。そこで初めて知らない子ども達と一緒になって……、まあ、いじめられるよね。分かるでしょ、背中、怖いもん。悪いことをしたからこんな風になったんだろうし、触ったら移るし、呪われる。俺だって、自分のことじゃなかったらそう思ったかもね」
有里は前を向いたまま瞬いて、その表情は明日の天気の話でもするように穏やかだった。
「ただ、小学校に入学して半年くらいで俺に転機が訪れた。子どもができなくて養子を探していた有里夫妻が、施設にいた子達の中から俺を選んでくれたんだ。父さんは医者で社会的な信用があって、有里家は金持ちだった。そうじゃなきゃ、なかなか養子なんて難しかっただろうね。――で、俺は有里になった。前の名字はもう分からん。忘れた。親に――育ての方ね――聞けば分かるかもだけど」
有里は俺の方を見て、ちょっと苦笑いした。
「綺羅は勿論生まれた時の名前だよ。なかなかに奇抜な名前でしょ。もしかしたら俺の親――産みの親はなかなかにヤンキーだったのかもしれないな。……でも大切に思ってるんだ。唯一残ったものだから」
俺は言葉が無くて、そのまま有里を見つめていた。
「今の家に来て、学校も変わった。その機会に、俺は人前で服を脱ぐのを止めたんだ。もう絶対に、同級生に火傷のことを知られたくなかったから。親もそれに理解を示してくれてね。小学校、中学校、高校と、学校に掛け合って、生徒達にバレないように、先生に全面協力してもらえてる。――饗庭も、気が付かなかったでしょ?」
こちらを見た有里に、俺は黙って頷く。
でもその代わり、彼には真偽不明の噂が付き纏っている。服の下に火傷があるとは、恐らく誰も想像もしていない。
「うちの両親って、すっごく理知的なんだよね。引き取った子どものことを尊重して、ちゃんと一人格として認めてるっていうのかな? 必要なものを与えて、きちんと育ててくれたよ。親子関係って他の家と比べる機会がそんな無いじゃん? だから俺は、それが普通なんだと思って育ってきたんだけど……」
有里の口調に影が差した気がして、俺は戸惑った。
「うん……?」
話を聞いている限り、実際に普通だと思う。お金のある家の、理解ある両親。なんなら普通よりも恵まれた生活をしている。
「そんな有里君の人生に、小学四年生の時またも転機が訪れる。なんだと思う?」
有里が小首を傾げてこちらを見て、俺は瞳を揺らした。
「……全然分からない」
有里はじっとこちらを見つめ、勿体ぶるように「溜め」を作った。
「――なんと、妹が出来たんだよね」
俺は瞬いて、有里は苦笑した。
「両親もまさかだったと思うよ。妹が産まれたとき、俺を引き取って三年経ってた。――俺なんて引き取る必要無かったんだ。でももう、今更無かったことにもできない」
「……」
「俺は妹と両親の関わりを見て、初めて“本当の親子”ってものを目の当たりにした。愛情を掛けて本気で甘やかして、時には本当に怒って。俺に対しての一線引いた扱いとは全然別物だった。年齢の違いか? 性別の違いか? いや、違う。本当の子かどうかの違いだよ」
淀みなく滔々と語っていた有里は、ここでやっと息を吐いた。
「なるほどなぁって思って、いつからかな、早く家を出ることだけを考えてきた。あの家族のことを、なるべく邪魔しないように」
「……」
「うちの親は、とにかく俺が学校に行ってくれさえすりゃいいのよ。不登校の引きこもりになられたら面倒なんでしょ。近所の目もあるし、親戚にだって体裁悪い。それで俺が引きこもったりしないように先生にいろいろ交渉してくれてるから、割と自由にできるわけ。やりたくないことはやり無くないで済むし、授業サボろうと遅刻しようと許されるし、この部屋も使わせてもらえる」
有里は得意げで、そういう特別扱いってなんだか嫌なものなのではないかと思う俺とは、感覚が違うようだった。
「本当は中学卒業したら働こうと思ってたんだよね。でもさ、やっぱり今の時代、『高校は出てて当然!』って感じだし、『実子が出来たから養子を中卒で家から追い出した!』なんてことになると、あの人達の世間体が悪いじゃん? 高校くらいは出るのが親孝行かなぁ、なんて。それで、申し訳ないんだけど高校卒業までは置いてもらうことにして。その分ね、せっかくできた猶予だから、卒業したらすぐ出て行けるように、今のうちに金貯めることにしたんだ」
そう言って有里は、執り成すようにパンと膝を叩いた。
「というわけで、歳二つごまかして、この春高校出たばかり、三月生まれの十八歳って設定で四月からあそこで働き出したの。――ここまでオーケー?」
経緯は理解したけど、全然オーケーじゃない。
「なんであんな仕事。もっとなんかあるだろ?」
有里はやれやれと首を振った。
「俺だって、何も初めからあの店で働こうと思ったわけじゃないよ。ちゃんといろいろ検討して、あそこに落ち着いたの。――まず一つ、ああいう店は身分確認が甘い。大きい店ならちゃんとしてるんだろうけど、あの店じゃあ身分証の確認もされなかった。だから、歳を誤魔化して働けてる。十七歳の高校生じゃ雇ってもらえないよ、勿論」
「いや、そもそも高校生が働けるとこで働けば――」
有里は俺の言葉を遮るように「二つ」と言った。
「前にも言ったと思うけど、稼ぎがでかい」
「それは――」
「そして給料手渡し。これが俺からしたらとっても大きい」
「……うん?」
俺が頭にハテナを浮かべると、有里は「分かんない?」と馬鹿にしたように笑った。
「俺は働いてること親にバレたくないの。通帳に振込の跡が残るのは困るんだよ。俺名義の口座はあるけど、一応親管理だし」
「あー、なるほどな……」
俺が頷くと有里も満足げに頷いて、「そして三つ」と言った。
「俺多分、女の人に色恋営業掛けて騙すよりも、お金持ってるおじさん転がす方が性に合ってると思うんだよね」
有里は至って真面目な顔で言う。
「どう考えても、女の人チヤホヤしてお金貢いでもらうより、おじさんにチヤホヤしてもらって貢がれる方が向いてるもん。――それに女の人はさ、本気になっちゃったら付き合ってほしいとか、そういう話になってきちゃうでしょ。その先には結婚とか。愛憎の果てに刺されちゃったりしてね。でも男相手ならまあ、そうはならんでしょ」
「そう……かぁ……?」
その世界のことは何も知らないけど、でも知らないなりに、無いことは無いんじゃないかという気がする。
「まあ、体使って客取ってる人もいるよ、中にはね」
有里は俺から目をそらし、何でもない調子で続ける。
「でもまあ、俺はそこまでは。目の前にニンジンぶら下げて、期待させるくらいのことはするけどさ」
そして、ニッコリ笑って俺を見た。
「まあ俺ほど魅力的だと? ワンナイトとかは誘われますけどね。でもまあ、今のところ上手いことあしらってるから」
「危なくないのか」
「大丈夫大丈夫。女の子じゃないんだから、いざとなったら殴って逃げるよ」
有里は右腕を上げて、力こぶを作るようにぎゅっと力を入れてみせた。残念ながら、制服の薄いシャツの上からでも筋肉らしいものは全く見えなかった。
「力ある方だし、俺」
「ああ、そう……」
本人は本気で言っているようだが、先日簡単に壁に押し付けられていた奴に言われても、なんの説得力も無い。
「話、聞いてくれてありがとう」
有里が微笑んでこちらを見つめた。
思いがけない礼の言葉にびっくりして、何より彼が微笑んだことに驚いた。
こんな顔ができるとは――虚勢を張って人を睨みつけているよりも、全然良いと思う。
「いつか誰かに聞いてほしかったんだ。でも話せる相手なんていなくて。頭の中で何度も話す練習してたから、上手くなっちゃった」
苦笑しながらそう言って、有里は視線を落とす。
「あと何だっけ……。ああ、いつ寝てるのかと、飯ね。店は週三くらいだからそのときは四時間睡眠かな。それ以外の日はもっと寝てる。それに眠い時は授業サボってここで寝てるから、ご心配なく。――飯も食ってる。ほら」
有里はコンビニの袋を持ち上げた。中のサンドイッチと紙パックの野菜ジュースが透けて見えた。
「饗庭はお弁当、いいね」
有里が机の上に広げた俺の弁当を見る。
メインの焼き魚に卵焼き。野菜の煮物も入った、男子高校生のお弁当として十分な、量も栄養も揃った弁当。有里の話に引き込まれて、まだ一口も食べていない。
俺は有里が机の上に出した昼食を見た。ハムサンドが三切れ入ったパックが一つと、野菜ジュース。他には何も無いらしい。
「お前そんなんで足りるの」
「いつもこんなもんだよ」
「だから倒れるんじゃないの」
「俺が熱中症になりやすいのは汗腺が少ないからだよ。火傷が深くて、背中からほとんど汗掛けないから熱が籠りやすいの。だから体育は出ないんだけど、昨日はちょっと、運動じゃないと思って油断した」
また何と言っていいか分からなくなって固まった俺を見て、有里はいたずらっぽく笑った。
「でもそんなに心配ならさ、お弁当、恵んでくれてもいいんだよ?」
俺は卵焼きを箸で掴んで、有里の顔の前に突き出した。
「ほら、まだ食べてないから」
有里はパチパチと瞬いて、素直に卵焼きを食べた。
「――おいしい。饗庭んちの卵焼きは甘く無いんだね」
「俺が、その方が好きだから」
「ふうん、羨ましい」
と、有里は大して羨ましくもなさそうに言った。
「――と言うわけで、黙ってもらってることが増えたな。見返り、ちゃんと考えといてよ」
「いいよ。だって、服脱げって言っちゃったし」
ははっと、有里は笑った。
「真面目かよ。あんなの見返りになんないでしょ。――ちゃんと別の考えといて」
今聞いたばかりの話に胸がいっぱいで食欲が無かったが、俺は急いで弁当を掻き込んだ。
有里はサンドイッチを食べ終わると黙って隣でスマートフォンをいじっていた。本来学校では出すなと言われているけれど、これも有里だからいいんだろうか。
始業十分前に食べ終わって、俺は弁当箱をしまって立ち上がったが、有里は座ったままだった。
「お前、戻らないの?」
「次あれでしょ? 修学旅行の話し合い」
「うん」
「俺行かないから、出る必要ない」
「……そう」
スマートフォンに目を落としたままの有里を残して、俺は教室に戻った。
翌日からも、有里は昼休みになると「昼飯」と言いに来て、言うだけ言うと返事も待たずに勝手に教室を出て行った。戸惑う友人達に断りを入れて、俺はそれを追いかける。
有里と二人の昼休みは、意外にも居心地が悪くない。
初日以降、有里は段々と本性(?)が出てきて、調子に乗ったことも言い始めた。
「店で俺と喋ろうと思ったら、最低でも二万近くは掛かるんだからね。まあ実際のところ俺の取り分は三千円くらいだし、それでもいいよ」
ある日はお店の料金システムについて説明し、ドヤ顔をしてそう言った。
「何でお前と喋るのに俺が金払うんだよ」
俺がぶっきらぼうに言うと、有里はべぇっと舌を出す。
「金出してお前に会いに行く奴の気がしれないわ」
見た目だけなら、まあ。美少年として売り出して広告に偽りは無いと思う。
しかしこの可愛げの無い性格で、店で人気が出るとは到底思えな――
有里が、スッと両手で包み込むように左手を握ってきて、俺はギョッとした。
「な、何だよ」
少し身を引いて、有里を見る。有里は胸の前で俺の左手をぎゅっと握ると、じいっとこちらを見つめてきた。
「どうしてそんなこと言うの……」
「え?」
「饗庭君って、僕のこと、嫌い……?」
悲し気にそう言う有里の瞳は、いつもよりも少し、潤んでいる気がする。
「や、別に嫌いではないけど……」
有里の突然の行動に、俺は少々狼狽えて、手を握らせたままで視線を泳がせた。
「僕は饗庭君のこと大好きだよ」
「はぁ……それはどうも……?」
「饗庭君ともっとお話ししたい」
有里はそう言って、グッと顔をこちらに寄せる。そして、思わず助けてあげたくなるような、麗しい困り顔で小首を傾げた。
「ねえ、だめ?」
「いや、別に何にも駄目では無いけど……」
俺がドギマギしながらそう言うと、有里はニッコリ笑った。
「じゃ、今日はラストまでいてね」
「……」
あー、なるほど。
俺はすんっと心を落ち着ける。
「そういうキャラクターでやってるわけね」
「そう」
有里もスッと真顔に戻って、パッと俺の手を離した。
「次期エースと名高いアリサちゃんを舐めないでほしいね。ちゃんとやってんだ、仕事は」
「アリサちゃん」
有里は得意げな顔をした。
「面接に行ったら即採用でさ。その場ですぐに源氏名を決めろって言われて、そんなの分かんないじゃん? で、咄嗟に出た名前が『アリサ』――饗庭君なら『アイちゃん』だね」
有里は言って、あっと声を上げ
「駄目だ。うちの店もうアイちゃんいるや。どうする?」
と俺を見た。
「どうもしないけど……」
「急に聞かれてもなかなか決められないもんだからさ、先に考えておいた方がいいよ」
「……お前、俺のこと働かせようとしてる?」
「うん」
有里はニコニコした。
「なかなか向いてると思うよ」
「冗談じゃない」
「マジマジ」
有里はぐいと迫ってくる。
「手ほどき、してあげよっか……?」
「はいはい、結構です」
俺はおかずを一つ、箸で掴んで有里の口に押し込んだ。この餌付けも習慣化してきていて、俺が差し出せば有里は当たり前に食べる。
「にゃにこれ」
口をもごもごさせながら有里が言った。
「メバルの唐揚げ」
「へえー、うま。ね、卵焼きもちょうだい?」
有里はおねだりするように、上目遣いに小首を傾げて俺を見る。穿って見るに、彼はこの顔で客に店で金を落とさせているのだろう。
「お前、食えんならもっと持ってきたら?」
俺が取り合わずに冷たく言うと、有里はふんっと鼻を鳴らした。
「いいんだよ、細い方が店でモテるし」
「あ、そう……」
「可憐で……儚げで……守ってあげたくなるでしょ?」
「いや、全然……」
俺が引き気味に答えると、有里は笑った。
なんだか嬉しそうにしているが、こちらとしては……
「介護してる気分なんだよなぁ……」
俺が呟くと、有里はムッとした顔をした。
「もうちょっと他に言い方無いの。『桜に攫われてしまいそう』とか『風に手折られてしまいそう』とか」
「んな良いもんじゃねーよ」
「ね、饗庭君はもっと肉ついてる方が好み?」
「好みって何」
「饗庭君がもっと太ってほしいって言うんなら、俺、頑張るけど?」
「……まあ、今のお前は転んだだけで骨折しそうだし、それはあんまり良くないんじゃない? 普通に、健康な高校生として」
「ふーん」
つまらなそうに呟いてから、有里はひとり、嬉しげに笑った。
有里は見返りのことを忘れたわけではないようだった。
ある日「見返り、そろそろ決まった?」と聞いてきた有里にクリームパンを所望すると
「お前って本当に善人だね」
と有里は呆れた顔をした。
「こういうのって普通はもっと、自分の欲のために使うんだよ」
俺も有里を呆れた顔で見た。
「お前さぁ、あんな店に勤めてるから感覚おかしくなってない? 普通は、人の秘密を知ったからって黙ってる見返り寄越せなんて言わないんだよ」
有里は少し淋しげに視線を落とした。
「そうかなぁ。俺は今でも、見られたのが饗庭以外の奴だったらと思うとゾッとするけどね」
それから顔を上げて微笑んだ。
「だから感謝してるんだ。なんでだっていいよ。なんでもしてあげる」
「じゃあ店辞めろよ」
俺が言うと、有里は嫌そうな顔をした。
「それは駄目。本末転倒じゃん。そもそもお前になんのメリットも無いだろ。もっと自分の利益になることにしなよ」
「利益ねぇ……」
有里は俺のふとももに手を置いて、指を這わせるようにゆっくりと上に向かって撫でた。
「俺程の美少年がなんでもしてあげるって言ってるんだよ? なんかもっと、してほしいこと、無いの……?」
そう言って俺の目をじぃっと見つめてくる。
有里のこういう、ある種の自信には圧倒されるというか、恐れ入る。
「無い」
俺は有里の手をパシリと叩いて、そのまま掴んで本人のふとももに乗せた。
「止めてくれます?」
「サービスなのに」
「いらんわ」
こいつはこのサービスとやらを普段から店でやってるんだろうか。あんまり想像できないけど。
「俺には分からない世界だ」
ぼそりと呟くと、有里は首を傾げる。
「なぁに? 一回お店来てみる?」
「やだよ」
「なんで」
「興味無いし……。それに気が付いたら大金取られてそう。怖い」
「そんな、うちはぼったくる店じゃないよ」
有里はムッとした顔をした。
「心配だったら最初に、お店の人に例えば五万円渡して」
「五万」
俺はギョッとして冗談かと思ったけれど、有里は至って真面目な顔をしていた。
「それでストップしてって言っておくの。五万円来たら帰るって。そしたらちゃんと、止めてくれるから」
「……それは五千円とかでもいいの?」
有里は馬鹿にしたように笑った。
「五千円じゃ座ったら終わりだよ。てか、座れない」
「やっば」
「そんな俺と二人きりで話しができるなんて、饗庭君、それだけで一日数万得してるからね?」
「アホらし。そんな価値無いよ、お前に」
「失礼な」
有里は頬を膨らませた。
「人に向かって価値が無いだなんて」
「そうじゃなくて、そんなバカみたいな値段で……売り物にするなって言ってるんだよ、自分を」
有里は虚を突かれたように目を瞬かせ、それからハッと笑った。
「はいはい、御高説どーも」
そして話をそらすように俺の弁当を覗いて、俺が掴んだおかずに目を留めた。
「それ何?」
「鮪の角煮」
「まぐろ⁉ まぐろって生で食べるもんじゃないの?」
「煮てもおいしいよ」
ほら、と箸で差し出すと有里は遠慮無くぱくりと食べた。
「うわー、ホントだ。うま」
有里は幸せそうな顔をした。
「饗庭んちはいいな。夕飯もうまそう」
「……有里だって、夜は普通に食べてるんでしょ?」
「うーん、店あるから適当にコンビニでおにぎり買ったりすることが多いかな。家で食うときもあるけど、まあ、三人家族プラス俺だからね。肩身狭くて味しないや。基本的には部屋で食べたり、ちょっと時間ずらしたりしてる」
有里は目を伏せて淋しそうに笑う。
「夕飯も饗庭と食えたら、楽しいだろうな……」
「有里――」
「大丈夫、本気で言ってやしないよ。饗庭家の家族団欒を邪魔できないしね」
「……」
「誰かに身請けでもしてもらえたら、俺にも家族ができるのかな」
「みうけ」
知らない単語を、俺はただ復唱する。有里が小馬鹿にした顔をした。
「客に店から買い取ってもらうこと。聞いたこと無い? 昔の遊郭で、お金持ちが店に大金払って、気に入った遊女を買い取って自分の物にしちゃうやつ。買って終わりじゃなくて、その後の人生もちゃんと面倒見るの。――勿論、今のお店にそんなシステム無いよ。だから半分冗談」
半分本気なんかい、と心の中だけでツッコんでおく。
「でも、普通に俺のこと引き取って、養ってくれる人いたらいいじゃん? あんまりおじさんだと困るけど、二十代の御曹司とか、三十代の社長さんとか? そういうお金持ちで清潔感のある人になら、貰われてもいいかなー」
「……」
自分だったら絶対に嫌なので、有里のこういう感覚はよく理解できない。
「ま、あの店にそんないい人来ないんだけどね……」
しょんぼりとそう呟いた有里は、次の瞬間何か思いついた様子でバッとこちらを見た。
「ねぇ、饗庭は大学行くの? 就職する?」
急に話が飛んで、目が白黒する。
「就職すると思うけど……」
「そっか。じゃあ、二年待ってあげるから、今のうちに唾付けとかない?」
「つば?」
「饗庭君に身請けされてあげてもいいよって言ってるの」
話は飛んでいなかった。
何が悲しくて同い年の男を買い取って養わなくてはいけないのか。
「御免被るわ」
俺が無表情に言うと、有里はいつものようにちぇっと舌打ちしたが、その顔はやはり嬉しそうだった。
いつの間にか有里と史学準備室で昼食を摂ることが当たり前になって、「来て」と言われなくても勝手に史学準備室に行くようになった。
今日の午前中は校外学習だった。少し離れた街のお菓子工場の見学に有里は来なくて、俺は昼休みになって初めて史学準備室で有里に会った。
外を歩き回るものでも無いのだから来れば良かったのにと言うと、有里は嫌そうな顔をした。
「アリサちゃんと店外デートしようだなんて、本来なら三万円からなんだから」
「デートじゃないし、お前はアリサちゃんじゃなくて有里君だろ」
俺が首根っこをガッと掴むと、有里は「うわっ」と身を縮めた。
「……ていうかお前、そんなことまでしてんの?」
「ん?」
「店外デート」
「……んー、俺はしてないけど」
その言い淀みは、完全にやっている奴のそれに感じた。
「万が一外で誰かに見つかったら大変だし、俺は基本店内専門。同伴とかアフターっていうのもあるんだけど、まあそんなに……しないし……」
「同伴って?」
「ご飯とか一緒に食べてから、お客さんとお店に行くの。夕飯いいもん御馳走してもらえるし、同伴料っていうの貰えるし、いいんだ」
有里はニコニコした。
「ああ、そう」
「で、アフターっていうのはお店終わった後にお客さんに付き合うことね。タクシー代としていくらか貰えることが多い」
そう言って有里は苦い顔をする。
「無いときもあって、そうすると付き合い損でやってらんないんだ。まあ、また来てもらうための投資だね」
「……まあ、お前が何してたっていいけどさ。でも、気を付けろよ」
「はぁい」
有里は一つも響いてなさそうな、気の抜けた返事をした。
俺の方も、具体的に何にどう気を付けろと言っているのかは、自分でもよく分からない。
「あのさ、純粋な疑問なんだけど」
俺が言うと、有里は小首を傾げてこちらを見た。
「そんな疑似恋愛みたいなことしてて、客を好きになったりしないの」
「しないよぉ」
有里はうんざりした顔と声で言う。
「店に来る客なんてモテない奴ばっかりだぜ? 金無きゃ通って来らんないから、基本、結構なおじさんだし。そういう人が金払って相手にされに来るんだ。好きになると思う? こっちは“接客”してあげてるだけ」
つーかさ、と有里は俺の目を真っ直ぐ見た。
「俺ってやっぱり男好きだと思われてるの?」
真っ直ぐな瞳でそう言われて、俺はギョッとして有里を見つめ返したまま言葉が出てこなかった。
有里はやれやれと俺から視線を外した。
「どうせ皆そう言ってんでしょ、別にいいけど」
有里は投げやりに言う。
「でも、自分たちも狙われる可能性があるとでも思われてんなら、心外だな。思い上がりもいいとこよ。心配しなくても俺は金のねぇガキに用事ねぇっつーの」
そして、あっと声を上げ、こちらを見て小首を傾げた。
「饗庭君は別だよ。心配しないでね」
有里が俺をからかうときの態度は大変分かりやすい。
わざとらしく芝居がかった猫なで声になって、俺を“饗庭君”と呼んでくる。
「してません」
そして俺がぶった切ると、なんだか嬉しそうな顔をする。
今日も俺の仏頂面に、有里はクックと笑った。
そのまま黙ってお互い昼飯を食べて、俺はもう一つ、気になったことを聞いてみた。
「有里はさぁ……。彼女ほしいと思ってたりするの?」
「うーん、彼女はいいかな……」
「そうなんだ……」
なんで? と聞くのは野暮だろうか。
彼氏ならほしいと言われたら、どうしよう。いや、別にどうも、俺には関係ない話で好きにすればいいが。
――でも、別にそういう感じにも見えないんだよな、こいつ。
俺にはよく気があるかのようなことを言ってくるが、それは明らかにからかいを含んだ冗談だし。
俺は上手く会話を続けられず、弁当を食べることに集中しようした。有里はこちらを向いて、にっこり笑ってこてんと首を傾げて見せた。
「なんで、って聞かないの?」
「え……、な、なんで……?」
有里は俺の狼狽えをクスクス笑い、遠くを見る目をした。
「だってほら、結婚しない方がいいだろうし」
「え?」
「子どもなんて産まれたら、相続とか関係してくるからさ。俺、法律上実子だからねー。でも親は、本当は全部妹にやりたいだろうから。俺だけなら相続放棄できるけど、ここに子どもがいて、奥さんの意思が絡んでくると面倒なことになるかもしれないでしょ」
有里は静かに続ける。
「付き合ってくれる人がいたとして、結婚しないって決めてるのに時間奪うのもどうかと思うからね。女の子はそういうの嫌がるでしょ、多分。そうすると、彼女は作らない方がいいという結論になる」
有里は遠くを見たまま微かに笑った。
「俺はそもそもいなかった人間として、有里家に影響を与えずにそっと死んでいきたいんですよ」
そう言って、こちらを見てにっこりした。
「ね、可哀想でしょ」
「……」
返事ができなくて静寂が降りた。
「親より先に死ぬっていうのもいいんだけど、自殺はちょっとね。それも親が責められそうだし、申し訳ないからなかなか」
有里は溜め息を吐く。
「中途半端なことして障害負って生き残ったりしたら本当にまずいし、やるならちゃんとやらなきゃね」
そして俺の目を見た。
「饗庭は死のうと思ったことはある?」
「いや、無い」
「なんで?」
「なんで……?」
今まで生きてきて、何故自分が死にたいと思わないのかなんて、考えたことが無い。
「母さんが悲しむと……思う……」
やっと出した答えに、有里は微笑んで頷いた。
「いいね、立派な理由だ。――それにさ、目下の問題として、俺、できないじゃん」
「何が?」
「セックス」
ゴホンッと噎せた俺を無視して、有里はあっけらかんと続ける。
「こんな醜い体、女の子の目に触れさせられないでしょ。見せたら絶対引かれるし。怖がられたり気持ち悪がられたら、こっちも傷付くし。俺だけ脱がないっていうのもありだと思うけど、ずっとそうやって騙し続けるのも無理だろうし……」
真剣に考える風を見せていた有里は、俺の顔を見てニヤァっと笑った。
「なぁに、顔赤くしちゃって。もしかして饗庭君って結構初心? こういう話駄目だった? ごめんね?」
「いや、大丈夫だけど……」
近江とか他の友達とだって、そんな話することもあるし。全然、駄目なわけじゃない。
顔、本当に赤くなってるのかな。自覚は無い。ただ……
「有里ってあんまりはっきりそういうこと言わなそうだったから、不意打ちだったというか……」
狼狽えながら答えると、有里はニヤニヤした。
「ごめんねぇ、夢壊して」
「別に夢見てねーわ」
「じゃあ教えといてあげるけど、お店ではもっと凄い会話してるから」
有里は何故だか得意げな顔をした。
「でもね、店ではそういう話になっても、ぽかんとして何にも分からないふりしたり、戸惑ってみせたり、照れて恥ずかしそうにしてあげるのがコツ。その方が客受けがいい」
「はぁ」
俺は一体何をレクチャーされているのだろう。
「まあでも今はアリサちゃんじゃなくて有里君なわけだから? 饗庭相手に接客してあげなくてもいいかなぁって思って」
「うん、そうして……」
同い年の男にカマトトぶられても、なんにも面白くない。
「それでいうと、今の饗庭の反応はなかなか良かった。素質あるよ。――ねぇ、やっぱり饗庭も働かない? 二人で店のダブルエース目指そうぜ」
「いや、いいです」
「俺がちゃんと教えてあげるから」
「できないって」
「できるできる」
有里はそう言って、ぐいっと顔をこちらに寄せた。
「饗庭さ、普通にカッコいいもん。俺とは系統違うけど、全然合格ライン」
「はぁ、どうも」
「ご両親美男美女でしょ」
「どうかな……」
俺は寄ってきた顔から目をそらす。
「母さんには、父さんに似てきたって、言われる……」
「ふぅん、お父さんイケメンなんだ。――ほら、その顔を活かしてひとつ。ブ男じゃ働きたくても雇ってもらえないんだから。カッコよく産まれた特権だよ?」
「む! り!」
俺が断固拒否すると、グイグイこちらに迫ってきていた有里は、何かに気が付いて「ああ」と身を引いた。
「そっか。そりゃ、普通親が許さないか」
ぽつりとそう言って、淋しそうな顔をする。俺は溜め息を吐いた。
「そういうことじゃなくて、俺自身が無理ってこと。やりたくないの!」
ちぇっ、と有里はそっぽを向いた。
「紹介料一万円なんだけどなぁ……」
「それが目的かい」
全くこいつは、金を稼ぐことに関して油断も隙もない。
「……というわけで。大分話逸れたけどさ、俺は彼女はいらないと思ってるし、生涯独身でいいと思ってるから」
でも、と有里がこちらを見た。
「饗庭はいいお父さんになるんじゃない? なんか、目に浮かぶな」
「え?」
「だって凄く優しいし、面倒見も良くて。いいご両親に育てられたんだろうね」
「……そんなことないよ」
「ちゃんとした親がいる奴ほど、そういう贅沢な謙遜するんだよな。あーあ、羨まし!」
有里はそう言いながら時計をチラリと見て、
「もう予鈴鳴るな。そろそろ戻る?」
と立ち上がった。そして、返事も待たずにさっさと歩き出す。
「あのさ!」
俺はその背中に声を掛けた。
「ん?」
有里が振り返る。
「あのさ、大丈夫だと思うよ。――ちゃんと有里のことを好きで、大切にしてくれる人となら」
まとまらなくて上手く言えるか分からないけれど、伝えたい気持ちがあった。
「結婚しなくても、子どもを持たなくても、それでも有里と一緒にいたいっていう人、いると思うよ」
だって、俺だって今、有里と一緒にいるのが楽しい。
「だから、最初からそんな風に、諦めなくてもいいんじゃないか」
「……」
「――綺麗だったよ」
有里は俺の言葉の意味が分からないようで、瞬きをしてただこちらを見返している。
「そりゃあ火傷痕自体は、綺麗だなんて言うのはおかしいかもしれないけど。でも――すごく綺麗な体だと思った」
保健室で体を見たとき、不快感なんて一つもなかった。
俺は美術に造詣が深いわけでもないから、なんと言っていいか分からないけれど。心痛むものに美を見出す感覚があるのだとしたら、多分それ。
俺はあの時、まだ夏が残る青空を背景に見た有里を、綺麗だと思った。
――でも、これは言わない方がいいだろうな。
自身の怪我を鑑賞品のように言われて、気分がいいわけがないから。
でもきっと、自分と同じように思う女の子だっているはずだと思う。勿論中には理解を示さない人もいるだろうけど、火傷痕を嫌がるような人は、そもそも選ばないでほしいし。
じっと見つめ合って数秒、
「やだぁ。饗庭君たら、人の体めっちゃ見てるじゃない」
有里がふざけた口調で言った。
「目に入ったの!」
俺は思わず言い返し、有里は笑った。
「俺、そういう綺麗事嫌いじゃないよ」
「綺麗事って――」
言い返しかけて、言葉を飲んだ。
安易な否定はできないと思った。有里が俺の言葉を本気にして、もし上手くいかなかったとき、傷付くのは彼なのだから。
有里もそれ以上何も言わなくて、見つめ合っていると予鈴が鳴った。
「じゃあ俺、先に行くね」
有里は扉に手を掛け、こちらを向いてふっと笑うと
「次は俺好みの、全てを受け入れてくれる優しくて美人な恋人を屏風から出して言って」
そう言い残して出て行った。俺は一人取り残されて、少し、今の会話を思い返していた。

