見返りを君に

 翌朝。気持ちの良い微睡みの中で、コンソメスープのような温かくおいしそうな香りが漂ってきて、俺は目を覚ました。隣には有里がいる温もりを感じる。
 俺達は抱き締め合ったまま朝を迎え――られたら大層ロマンチックだったのかもしれないけども、現実問題、それはとっても寝にくくて。
 何度かお互いゴソゴソして、居心地の良い体勢を見つけて、最終的にはただ隣に並んで寝ている状態で朝を迎えていた。
 そして、そういえばアラームを掛けていなかったけど今何時だろう――と目を開けて、俺はじいっとこちらを見下ろしている紗絢ちゃんと目が合ったのである。
「わっ……。おはよう、紗絢ちゃん」
「おはよう」
「どうしたの?」
 俺達の声で、有里も隣で目を覚ました気配がした。
「お母さんが、お兄ちゃん達起こしてきてって」
「あ、そっかぁ。ありがとう……起きたよ……」
 紗絢ちゃんは自身の兄に視線を移す。
「お兄ちゃんはどうしてベッドで寝てないの?」
「ゔぇっ⁉」
 突然の質問に、お兄ちゃんは言葉にならない声を上げた。
「え、ええっと……」
 言い淀むお兄ちゃんに代わって、俺は真面目な顔で紗絢ちゃんを見る。
「紗絢ちゃん、お兄ちゃんはめちゃめちゃ寝相が悪い」
「ねぞうが」
「昨夜暴れてベッドの下に落ちてきたんだよ。下に布団敷いてあってよかったね」
「そっかぁ」
 紗絢ちゃんは得心した様子で
「お母さんに言ってくる!」
 と言うと、こちらにくるりと背を向けて部屋から駈け出していった。
「えっ、ちょっと待って! 言わなくていい! 待って、紗絢!」
 がばりと起き上がった有里が、紗絢ちゃんを追いかけて慌てて部屋を出ていく。
 残された俺は起き上がってしばしぽかんとし、微笑ましいやらおかしいやらで、独りくつくつと笑った。


 リビングに降りていくと、お父さんは出勤したとのことでもういなくて、紗絢ちゃんはご飯を食べ始めていて、お母さんは俺達二人の朝食を準備してくれていた。
 有里と一緒にそれを手伝ってから、俺は有里の向かいに座らせてもらう。
 焼き立てのパンに、ソーセージと目玉焼き。野菜が入ったコンソメスープ。こんな絵に描いたような朝食が、実際に出てくる家があるのだと驚いた。
「おいしい……」
 コンソメスープを一口飲んで俺が思わず呟くと、自分が作ったわけでも無いのに有里は得意げな顔をした。
「饗庭君、これ」
 お母さんが俺に手を差し出した。
 コロリと掌に乗っているのはジンベエザメ。体に薄く柔らかそうな白いリボンが巻かれていて、頭の上、ちょうど昨夜布が破けてしまった所で蝶々結びになっていた。
「縫ってみたんだけど、ちょっと、どうしても縫い目が見えてね。紗絢が『包帯を巻いてあげたら?』って。それで、白いリボンがあったから包帯の代わりに巻いてみたんだけど……」
「かわいいでしょ?」
 有里の隣で紗絢ちゃんが弾んだ声を出す。
「どうかしら。要らなかったら外してね」
 お母さんが優しく微笑んで、俺はジンベエザメを受け取った。昨日は悲しげにしょんぼりとしているように見えたジンベエザメが、今日は自信満々のドヤ顔で俺を見ていた。
 俺はなんだかホッとして、心がじんと暖かくなった。
「ありがとうございます。――紗絢ちゃんもありがとう。可愛いね」
 紗絢ちゃんが得意そうな顔をして、その顔は不思議と有里に似ていた。


 その日の学校帰り。俺と有里は神川先生からフィルムカメラのネガを借りて、二人で街まで写真を現像しに行った。
 俺が指定した一枚をお店の人に現像してもらい、受け取って写真を見た有里は吹き出した。
「なにこれ、いつの間に撮ったの」
「知らないよ。近江が勝手に撮ってた」
「ああ、奈良のホテルだ。へええー、やるじゃん。――こんな顔して寝てたんだな。幸せそう。なんかいいね。照れるけど」
 有里は嬉しそうに笑って、それからニヤニヤして俺を見る。
「この写真を大事に持ってたの? 饗庭君、可愛いとこあるね」
 俺はついと顔をそらす。
「別に、忘れてただけだし」
「へぇぇぇぇ」
「有里が喜ぶと思って貰ってきただけだし!」
 有里は声を上げて笑い
「嬉しいよ」
 と言った。
「じゃあ、これ俺が持ってていいの?」
「……うん。俺は家に置いとけないし、持っててほしい」
「……そっか」
 本当はそこから俺達はそれぞれ逆方向に帰るのだけど、有里は俺と一緒に電車に乗って、そのままバスで俺の家の最寄り駅まで付いて来た。
 最寄り駅は海の近くで、徒歩五分ほどで有名で大きな海岸に出られる。改札まで一緒に来た有里が「海に行きたい」と言い出して、俺はそれを了承した。
 何か用事を作らないと簡単に別れの時が来てしまうから。なんだかそれが惜しくて、お互いそうとは言わないまま、この時間を引き伸ばそうとしていた。
 夏には海の家が立ち並び、観光客でごった返す砂浜に、真冬の今は釣り人と犬の散歩をしている人がまばらにいるだけだった。
 俺達は浜辺に降りると、二人で足を縺れさせながら砂浜を走ったり、貝殻やシーグラスを集めたりして遊んだ。しばらくして遊び疲れ、二人で砂浜にあった流木の上に並んで座った。
 冬の日の入りは早くて、電車を降りた時既に黄昏掛かっていた空が、もう藍色に染まって星が見え始めている。
「はー、帰したくないなぁ」
 有里は体を前に倒し、組んだ腕と膝の上に頭を乗せて俺を見た。相手の顔ももうほとんど見えないくらい辺りは暗い。
「ねぇ饗庭、今日もうち泊まる?」
「大丈夫。いつまでもそうさせてもらうわけにもいかないし」
 穏やかに言う俺に、有里は不満げに口を尖らせて、それからバッと頭を起こした。
「ねぇ、饗庭もううちの子になったら? 饗庭にその気があるなら、俺、父さん母さんに頭下げてお願いするよ。二人も駄目って言わないよ、きっと。どうにかしてくれる」
「いい」
 真剣な顔で言う有里に、俺は苦笑する。
「ありがとう、嬉しい。――でも結局さ、俺やっぱり、母さんのこと放っておけないや」
「……」
「だから帰る」
「……そう」
 明日からもまた、これまでと変わらない毎日が続いていく。
 高校生の俺たちが自分の力で変えられることはあまりに少なく、現状は何も変わらない。
 でも、君がいてくれるから大丈夫。そう思えることが、今までとは違ってとても心強い。
 俺達はどちらからともなく手を繋いで、星が瞬き始めた空を見上げた。