有里家に着くとお母さんと紗絢ちゃんが迎えてくれて、温かい夕ご飯が用意されていた。
お父さんと有里と三人でご飯を食べ、お風呂を勧められてありがたく入らせてもらうことにした。
「饗庭君、着替えある? 綺羅の服で合うかしら」
「あ、大丈夫です。あります」
お母さんに案内してもらって、自分の家とは比べるべくもない、一般的な家庭のものより一回りは大きそうな風呂に入った。
突然来たにも関わらず、真新しげなバスタオルや袋に入ったままの新品の歯ブラシが用意されていて、俺はホテルにでも泊まりに来たかと錯覚しそうだった。
風呂を出てご両親に挨拶をしてから有里の部屋に行くと、有里は自分のベッドの隣に布団の準備をしてくれていた。有里はこちらを見て
「なーんだ、俺の服着てないじゃん」
と残念そうな顔をした。
「そりゃ着替えくらい持ってきてるよ」
「なんも持ってこなくていいって言ったのに」
有里はむくれた。
「俺の服着てほしかったのにな」
「なんでだよ」
「彼シャツだよ、彼シャツ。知らないの?」
「知ってるけど……。でもあれって、体格差があるからいいんじゃないの? 俺がお前の服着たところで普通に服着てるだけでは?」
なんならちょっと小さい可能性すらある、多分。
有里は俺の表情を見て、何か察したようにムッとした。
「あ、今お前俺の服の方が小さいと思っただろ。ふざけんなよ、同じだ同じ。来年には俺の方が背ぇ伸びてる可能性すらある。見てろよ、そのうちぶっかぶかの服着せてやるから」
「なんも言ってないじゃん……」
有里が風呂に行って、俺はすることも無くて布団に潜り込んだ。ふかふかの布団からは清潔感のあるふわりとした良い匂いがした。
――段々、心が戻ってきた感じがする。
こうして落ち着いてから改めて考えてみると、有里に電話までして呼び出してしまったことが少し恥ずかしくて情けない。でもそうしたおかげで、有里に、有里の家族に助けてもらえて、今こうして温かい部屋の中にいられる。
もし今夜独りであの家にいたら、どれだけ寒かったことだろう。
俺は目を閉じる。すごくリラックスしているのだけど、どこか気持ちが高揚している感じもあって、眠たさは全くない。独りでは無いことに安心感があって、今は母のことを考えずにいられた。
――すごく、ありがたい。
何よりありがたいのは有里の存在だ。「来て」と言って、来てくれる人が俺にもいること。そのことがとても嬉しかった。
そのまま目を閉じていると、しばらくして有里が部屋に戻ってきた音がした。
「饗庭、寝ちゃった?」
囁くような有里の声が聞こえて、俺は目を開けた。ベッドの端に座って、いたずらっぽく含み笑いをした有里がこちらを見下ろしていた。
「ううん、起きてる」
「寝る準備出来てる? もう電気消す?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「……ねぇ饗庭君。添い寝してあげよっか?」
久しぶりでお馴染みのからかいだ。ふざけて元気付けてくれようとしているのだと感じたので、
「間に合ってます」
と、目を閉じてぶっきらぼうに返した。
「ええー、もったいない。饗庭君限定のサービスなのに」
「お気持ちだけで」
「今だけですよ? 後悔しませんか?」
「しません!」
「……」
有里が黙ったので、俺は目を開けてみた。有里は思ったよりも、ずっと心配そうな不安そうな顔でこちらを見ていた。
「……どうしたの」
「二人の夜は修学旅行ぶりだね」
「そうだな」
「俺ね……」
有里は言葉を探すように少し瞳を揺らし、視線を落とした。
「今まで本気で、周りにいる奴らの中で、不幸なのは自分だけだと思ってた。自分以外は皆、呑気に幸せに暮らしてると思ってた。それがすごく羨ましくて、惨めで、不安で、堪んなかった」
「うん……」
「饗庭が全部受け入れてくれて、一緒にいるって言ってくれてね。俺、あのときめちゃめちゃ安心して、幸せな気持ちになったんだ」
有里が俺の顔をじっと見る。
「だから今度は俺があの時の饗庭みたいに、饗庭のことを安心させてあげたいなって思うんだけど」
そして、有里はふいと顔をそらした。
「でも、饗庭が望んでいないなら、いいです」
「……」
俺は掛け布団を剥いで体を布団の左半分に寄せた。それから両腕を大げさに広げて見せた。
「どうぞ」
有里は目をパチパチとさせて、それからいそいそとベッドから降りてきた。俺は枕を自分の方に引いて、有里もベッドから自分の枕を下ろして俺の枕の隣に並べる。
有里が俺の隣にこちらを向いて寝転んで、俺は掛け布団を自分達に掛け直して仰向けになった。視界の端で有里が満足そうにニコニコしていた。
「よしよし、次はどうする? 子守歌うたってあげようか?」
「結構です」
俺がきっぱり言うと、有里は上目遣いに俺を見て含み笑いした。
「じゃあ饗庭君は何してほしいの?」
「別になんにもしてほしくない……」
「今日は近江の邪魔も入らないし、なんでもし放題よ?」
「し放題ってことは無いだろうよ。お父さんもお母さんも、紗絢ちゃんもいるんだから」
「あらー、いなかったらどうするつもりだったの?」
「別にどうもしない!」
有里は声を上げて笑った。
本当にこいつは。俺をからかっているときが一番活き活きしているかもしれない。
――まあいいや、有里が楽しいならそれで。
俺は多分もうずっと前から、有里に対してそう思っている。楽しそうに笑っているときが一番いい。
「……有里、今日はありがとう」
俺は笑い続ける彼に静かに声を掛けた。有里は笑うのを止めてこちらを見、穏やかに微笑んだ。
「俺はしたかったことをしたまでよ。それに、全部父さん母さんのおかげ。俺だけじゃ何もしてあげられなかった。迎えにも行けないし、あったかいご飯も食べさせてあげられない。寝るとこだって用意してあげられない」
「勿論お二人にもすごく感謝してるけど、でも、有里がいてくれなきゃ俺は今ここにいられなかったよ。今頃うちで、もしかしたらまだ泣いてた。だから有里にすごく感謝してる。ありがとう」
有里は少し悲しそうに表情を歪めて微笑む。それから何か思いついたように急に顔をパッと晴れさせて、
「そう⁉」
と声を上げた。俺は何事かと目をパチパチさせた。
「確かにそうかもなー。俺のおかげかもなー」
彼はニヤニヤして、何か企んでいる顔をした。
「俺は別にいいんだけどなー。饗庭君がそこまで言うならしょうがないなぁ。どうしよっかなー」
「どうってなんだよ」
「見返りに何してもらおうかなー、ってこと」
「……いいよ、なんでもする」
有里は俺をからかって茶化して言ったのだろうけど、俺は真剣に有里を見つめる。
本当に感謝しているから、有里のしてほしいことならなんだってしたいと思った。
有里はニマニマ笑った。
「じゃあ、ちゅーしてもらおうかな」
「は」
「だって俺、饗庭君のこと大好きだしぃ。感謝の気持ちがあるなら、キスくらいしてくれてもいいんじゃない?」
「……分かった」
「え」
俺が仰向けの体を起こして顔をズイと有里に近付けると、有里は大きな目を見開いてその分体を後ろに引いた。
「待て待て待て待て、何してるんだよ」
「えっ」
「もう!」
有里は怒った顔をして寝返りをうち、こちらに背を向けた。
「え、何」
一体今の会話のどこに怒る要素があったのか、全く分からずに俺はぽかんとする。
「あのさぁ!」
有里は向こうを向いたまま、怒った声で言う。
「そんなのお礼ですることじゃないでしょ! もっと自分を大切にして!」
「……」
一拍置いて、俺は思わず吹き出した。
「え、な、何」
有里が戸惑った様子でこちらを振り返る。
「お前がそれ言うの」
有里が目を見開いて、多分、言いたかったことは伝わったと思う。
自分を大切にして、売り物にしないでって。それは俺が有里に言ってきたことじゃないか。
有里はまた俺の方に向き直って、真剣な顔で俺を見た。
「……それはそう。でも、俺はもう辞めたし、やらないから。饗庭もそうして」
「うん、分かった」
俺も真摯に頷いて、でもさ、と少し口元を緩めた。
「俺別に、そんなに献身的なわけじゃないよ。前にも言ったと思うけど、誰にでも優しくしてるわけじゃないし」
確か前にこう言ったのは、二人きりの修学旅行の夜だった。あの時はそれ以上、詳しい説明をするつもりは無かったのだけど。
「俺が気に掛ける相手は、ずっと母さんだけだった。母さんを怒らせたり悲しませたりしないことが一番で、波風立てないことが大切だった。他のことを構ってる余裕が無くて、興味も無かった。だから、多分いろんなことに知らん顔してきた。――有里のことも」
有里はじっとこちらを見て、俺の言葉を聞いている。
「孤立してるなって気が付いてたけど、理由なんて気にしてなかった。どうでも良かった。これまでにも気に掛かったことは他にも多分たくさんあって、でも俺は全部わざと見逃してきたんだ。有里のことだって、その中の一つってだけのはずだった。――そのはずなのに、なんでだろうな。有里に関わるようになってから、どうしても気持ちが素通りできなくて、気になって。危ないことしてたら心配だし、楽しそうにしてたら嬉しい。こんなこと初めてで、自分でもなんだか不思議なんだ」
真剣な顔で聞いていた有里は、段々と嬉しげな顔になって、照れくさそうに笑った。
「そっか。それはなんか、嬉しいな。喜んで良いのか分かんないけど」
「いいと思う」
「そう?」
「うん。だって、有里が喜んでくれたら嬉しいし」
「じゃあ嬉しい」
有里は素直に笑った。俺は一つ頷いた。
「だから別に今のも、頼まれたからとか、お礼でとか、それだけでいいよって言ったんじゃないよ。気が進まない相手に言われたって、しない」
俺は左手を伸ばして、有里の頬を包んでみた。有里は少しだけ迷うように視線を揺らして、それからまっすぐ俺を見た。
「俺だって、饗庭にじゃなきゃ言わないよ」
沈黙が降りて、見つめ合って、俺達はキスをした。
こういうときって、もっと緊張して胸がドキドキするものかと思っていたけど。
それよりもなんだか、ほうっと安心したような、じんわりと幸せになるような感覚があって、ああ自分はいつの間にか有里のことが本当に好きになっていたんだなぁと思った。
この間の漁港でのことがあるから初めてというわけではないんだけど。でも、あのときはなんだか風が吹き抜けたみたいに突然で、感想を持つような暇も無かったから。
唇をひっつけたまま俺がそんなことを思っていると、有里から急に唇をペロリと舐められた。
「うわっ」
俺は反射的に顔を離した。
「うわってなんだよ」
有里がムッとした顔をする。
俺は唇を指で押さえて目を瞬かせた。
「あ、や、ちょっとびっくりして思わず……」
「あー、ごめんねぇ。饗庭君は初心なお子さまだもんねぇ。知らなかった? 大人のキスって唇にチュッてするだけじゃないんだよ? 分かんないかぁ。お兄さんが教えてあげようか?」
くっくと笑う有里に今度は俺がムッとした。
「知ってるし」
知ってるよ。ただちょっと、感動に浸ってただけだ。
笑っている有里にがばりと覆い被さって、もう一度キスをした。
正しいやり方なんて知らないし、上手くリードだってできないけど。
でもいいんだ、きっと。正しくなくたって、上手くなくたって。二人が想い合って、同じ気持ちでここにいることが幸せなんだと思うから。
大人のキスは、体がじんとしびれるような、ふわりと体が浮くような心地がした。
その感覚に酔っていると、今度は有里の方が俺を軽く押し返してきた。俺が素直に離れると、荒い息をして顔を紅く染めた有里と目が合った。
「待って」
そう言って、有里は顔をそむける。
「だめ、もう」
「え、ごめん」
俺は思わず謝った。同じ気持ちであることが大切だと、今思っていたところなのに。
「なんか嫌だった……?」
俺が戸惑って聞くと、
「そうじゃないよ、でも」
と、有里は顔をそむけたまま腕で顔隠した。
「こんなのもっと好きになっちゃう。今だって大好きなのに」
「うん?」
それは俺もそうかもしれない。でも、それで何か困るだろうか。
「離してあげられなくなっちゃう」
「離す?」
「これ以上好きになったら、いつか饗庭に彼女ができて、それでフられんの、俺、耐えらんなくなるよ」
「彼女なんて作らないよ」
有里は少々考え過ぎなところがあるよなぁと、俺は彼を安心させたくてはっきり言った。
「だって、俺だって有里に彼氏できたら嫌だし……」
俺が真顔でそう続けると、有里はムッとした顔をしてこちらを見た。
「おいこらふざけんな。俺も彼女の心配をしろ」
「あ、そっか」
俺はマヌケに呟いて、苦笑した。
有里はいかにも心外という顔をしていたが、大体、こいつのこれまでの行いのせいじゃないだろうか。
「だってやっぱり、お前がお客さんにベタベタしてるのも、されてるのも嫌だったし。どうしてもそういうイメージあるよ」
「それは、ごめん。――もうしないから、絶対」
有里は気まずそうに視線をそらす。
「……あのね。改めてちゃんと言っとくけど、俺は仕事としてあれを選んでただけで、男が好きなわけじゃないの、ホント。……かと言って、女の子と付き合いたいわけでもないんだけど」
そして、俺をまっすぐに見た。
「つまりね、そういうんじゃなくて、俺は饗庭がいい。それに饗庭のこと誰にもあげたくない。ずっと一緒にいたいの。……いい?」
俺が肯定の返事をしようと口を開きかけると、有里は「あ」と声を上げて俺を止めた。
「待って。ちょっと違うな。俺の一番の望みはそうじゃないかも」
「うん?」
俺は内心首を傾げる。今有里はすごく良いこと言っていたと思う。訂正する必要があるだろうか。
「一番はやっぱり、饗庭に幸せでいてほしい。それが一番大事」
有里はまっすぐ俺を見る。
「饗庭の傍にいたいっていうのは、幸せにしてあげられるのが俺だったらいいのになっていう、願望。だから、もし違うなら無理しないでね」
俺は瞬いて有里を見つめた。
いつもあんなに自信満々なのに、こういうときにしおらしく目を伏せるのはなんだかいじらしい。
「……俺さっきね、独りで家にいるとき。誰かのことを頼りたいと思って、有里のことしか思いつかなかった。有里に側にいてほしかった」
有里がこちらを見て、代わりに俺が目を伏せる。
「俺はとっくに今の生活に慣れてて、独りで大丈夫だと思ってたんだ。でもどうしても有里に会いたくなって、声が聞きたくて、それで電話しちゃった。いつの間にか有里が必要な存在になってたんだよ。俺は、有里の隣にいるときが一番楽しくて、幸せだ」
俺は有里を見つめる。
「だから、これからも側にいてほしい」
有里はぽかんと俺を見て、それからふふっと嬉しそうに笑った。
「うん、分かった。ずっと一緒にいるよ。俺もいたいからいる。絶対独りにしないから」
「うん……」
自然と沈黙が降りて、二人見つめ合ったまま時が止まった。
――で、ここからどうするの?
お互いに目がそう言っている。
もう一度キスしたいけど、でもそうなったらその後は――?
改めて意識してしまうとどうしていいか分からなくなって、しばらく無言で見つめ合っていると、パタパタと部屋の前の廊下を走る音がした。
紗絢ちゃんの半分寝ぼけたように泣きそうな「ままー?」と甘えた声が聞こえた。
「……寝よっか」
「うん」
有里が電気を消して、二人で改めて布団に入った。
有里が俺の右腕を枕にして抱き付いて来たので、俺は左腕をそっと彼の背中に落とした。
二人でふふっと笑って、有里がぎゅっと腕に力を入れる。俺は有里の背中に力が掛からないように、彼の頭を抱き寄せた。
お父さんと有里と三人でご飯を食べ、お風呂を勧められてありがたく入らせてもらうことにした。
「饗庭君、着替えある? 綺羅の服で合うかしら」
「あ、大丈夫です。あります」
お母さんに案内してもらって、自分の家とは比べるべくもない、一般的な家庭のものより一回りは大きそうな風呂に入った。
突然来たにも関わらず、真新しげなバスタオルや袋に入ったままの新品の歯ブラシが用意されていて、俺はホテルにでも泊まりに来たかと錯覚しそうだった。
風呂を出てご両親に挨拶をしてから有里の部屋に行くと、有里は自分のベッドの隣に布団の準備をしてくれていた。有里はこちらを見て
「なーんだ、俺の服着てないじゃん」
と残念そうな顔をした。
「そりゃ着替えくらい持ってきてるよ」
「なんも持ってこなくていいって言ったのに」
有里はむくれた。
「俺の服着てほしかったのにな」
「なんでだよ」
「彼シャツだよ、彼シャツ。知らないの?」
「知ってるけど……。でもあれって、体格差があるからいいんじゃないの? 俺がお前の服着たところで普通に服着てるだけでは?」
なんならちょっと小さい可能性すらある、多分。
有里は俺の表情を見て、何か察したようにムッとした。
「あ、今お前俺の服の方が小さいと思っただろ。ふざけんなよ、同じだ同じ。来年には俺の方が背ぇ伸びてる可能性すらある。見てろよ、そのうちぶっかぶかの服着せてやるから」
「なんも言ってないじゃん……」
有里が風呂に行って、俺はすることも無くて布団に潜り込んだ。ふかふかの布団からは清潔感のあるふわりとした良い匂いがした。
――段々、心が戻ってきた感じがする。
こうして落ち着いてから改めて考えてみると、有里に電話までして呼び出してしまったことが少し恥ずかしくて情けない。でもそうしたおかげで、有里に、有里の家族に助けてもらえて、今こうして温かい部屋の中にいられる。
もし今夜独りであの家にいたら、どれだけ寒かったことだろう。
俺は目を閉じる。すごくリラックスしているのだけど、どこか気持ちが高揚している感じもあって、眠たさは全くない。独りでは無いことに安心感があって、今は母のことを考えずにいられた。
――すごく、ありがたい。
何よりありがたいのは有里の存在だ。「来て」と言って、来てくれる人が俺にもいること。そのことがとても嬉しかった。
そのまま目を閉じていると、しばらくして有里が部屋に戻ってきた音がした。
「饗庭、寝ちゃった?」
囁くような有里の声が聞こえて、俺は目を開けた。ベッドの端に座って、いたずらっぽく含み笑いをした有里がこちらを見下ろしていた。
「ううん、起きてる」
「寝る準備出来てる? もう電気消す?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「……ねぇ饗庭君。添い寝してあげよっか?」
久しぶりでお馴染みのからかいだ。ふざけて元気付けてくれようとしているのだと感じたので、
「間に合ってます」
と、目を閉じてぶっきらぼうに返した。
「ええー、もったいない。饗庭君限定のサービスなのに」
「お気持ちだけで」
「今だけですよ? 後悔しませんか?」
「しません!」
「……」
有里が黙ったので、俺は目を開けてみた。有里は思ったよりも、ずっと心配そうな不安そうな顔でこちらを見ていた。
「……どうしたの」
「二人の夜は修学旅行ぶりだね」
「そうだな」
「俺ね……」
有里は言葉を探すように少し瞳を揺らし、視線を落とした。
「今まで本気で、周りにいる奴らの中で、不幸なのは自分だけだと思ってた。自分以外は皆、呑気に幸せに暮らしてると思ってた。それがすごく羨ましくて、惨めで、不安で、堪んなかった」
「うん……」
「饗庭が全部受け入れてくれて、一緒にいるって言ってくれてね。俺、あのときめちゃめちゃ安心して、幸せな気持ちになったんだ」
有里が俺の顔をじっと見る。
「だから今度は俺があの時の饗庭みたいに、饗庭のことを安心させてあげたいなって思うんだけど」
そして、有里はふいと顔をそらした。
「でも、饗庭が望んでいないなら、いいです」
「……」
俺は掛け布団を剥いで体を布団の左半分に寄せた。それから両腕を大げさに広げて見せた。
「どうぞ」
有里は目をパチパチとさせて、それからいそいそとベッドから降りてきた。俺は枕を自分の方に引いて、有里もベッドから自分の枕を下ろして俺の枕の隣に並べる。
有里が俺の隣にこちらを向いて寝転んで、俺は掛け布団を自分達に掛け直して仰向けになった。視界の端で有里が満足そうにニコニコしていた。
「よしよし、次はどうする? 子守歌うたってあげようか?」
「結構です」
俺がきっぱり言うと、有里は上目遣いに俺を見て含み笑いした。
「じゃあ饗庭君は何してほしいの?」
「別になんにもしてほしくない……」
「今日は近江の邪魔も入らないし、なんでもし放題よ?」
「し放題ってことは無いだろうよ。お父さんもお母さんも、紗絢ちゃんもいるんだから」
「あらー、いなかったらどうするつもりだったの?」
「別にどうもしない!」
有里は声を上げて笑った。
本当にこいつは。俺をからかっているときが一番活き活きしているかもしれない。
――まあいいや、有里が楽しいならそれで。
俺は多分もうずっと前から、有里に対してそう思っている。楽しそうに笑っているときが一番いい。
「……有里、今日はありがとう」
俺は笑い続ける彼に静かに声を掛けた。有里は笑うのを止めてこちらを見、穏やかに微笑んだ。
「俺はしたかったことをしたまでよ。それに、全部父さん母さんのおかげ。俺だけじゃ何もしてあげられなかった。迎えにも行けないし、あったかいご飯も食べさせてあげられない。寝るとこだって用意してあげられない」
「勿論お二人にもすごく感謝してるけど、でも、有里がいてくれなきゃ俺は今ここにいられなかったよ。今頃うちで、もしかしたらまだ泣いてた。だから有里にすごく感謝してる。ありがとう」
有里は少し悲しそうに表情を歪めて微笑む。それから何か思いついたように急に顔をパッと晴れさせて、
「そう⁉」
と声を上げた。俺は何事かと目をパチパチさせた。
「確かにそうかもなー。俺のおかげかもなー」
彼はニヤニヤして、何か企んでいる顔をした。
「俺は別にいいんだけどなー。饗庭君がそこまで言うならしょうがないなぁ。どうしよっかなー」
「どうってなんだよ」
「見返りに何してもらおうかなー、ってこと」
「……いいよ、なんでもする」
有里は俺をからかって茶化して言ったのだろうけど、俺は真剣に有里を見つめる。
本当に感謝しているから、有里のしてほしいことならなんだってしたいと思った。
有里はニマニマ笑った。
「じゃあ、ちゅーしてもらおうかな」
「は」
「だって俺、饗庭君のこと大好きだしぃ。感謝の気持ちがあるなら、キスくらいしてくれてもいいんじゃない?」
「……分かった」
「え」
俺が仰向けの体を起こして顔をズイと有里に近付けると、有里は大きな目を見開いてその分体を後ろに引いた。
「待て待て待て待て、何してるんだよ」
「えっ」
「もう!」
有里は怒った顔をして寝返りをうち、こちらに背を向けた。
「え、何」
一体今の会話のどこに怒る要素があったのか、全く分からずに俺はぽかんとする。
「あのさぁ!」
有里は向こうを向いたまま、怒った声で言う。
「そんなのお礼ですることじゃないでしょ! もっと自分を大切にして!」
「……」
一拍置いて、俺は思わず吹き出した。
「え、な、何」
有里が戸惑った様子でこちらを振り返る。
「お前がそれ言うの」
有里が目を見開いて、多分、言いたかったことは伝わったと思う。
自分を大切にして、売り物にしないでって。それは俺が有里に言ってきたことじゃないか。
有里はまた俺の方に向き直って、真剣な顔で俺を見た。
「……それはそう。でも、俺はもう辞めたし、やらないから。饗庭もそうして」
「うん、分かった」
俺も真摯に頷いて、でもさ、と少し口元を緩めた。
「俺別に、そんなに献身的なわけじゃないよ。前にも言ったと思うけど、誰にでも優しくしてるわけじゃないし」
確か前にこう言ったのは、二人きりの修学旅行の夜だった。あの時はそれ以上、詳しい説明をするつもりは無かったのだけど。
「俺が気に掛ける相手は、ずっと母さんだけだった。母さんを怒らせたり悲しませたりしないことが一番で、波風立てないことが大切だった。他のことを構ってる余裕が無くて、興味も無かった。だから、多分いろんなことに知らん顔してきた。――有里のことも」
有里はじっとこちらを見て、俺の言葉を聞いている。
「孤立してるなって気が付いてたけど、理由なんて気にしてなかった。どうでも良かった。これまでにも気に掛かったことは他にも多分たくさんあって、でも俺は全部わざと見逃してきたんだ。有里のことだって、その中の一つってだけのはずだった。――そのはずなのに、なんでだろうな。有里に関わるようになってから、どうしても気持ちが素通りできなくて、気になって。危ないことしてたら心配だし、楽しそうにしてたら嬉しい。こんなこと初めてで、自分でもなんだか不思議なんだ」
真剣な顔で聞いていた有里は、段々と嬉しげな顔になって、照れくさそうに笑った。
「そっか。それはなんか、嬉しいな。喜んで良いのか分かんないけど」
「いいと思う」
「そう?」
「うん。だって、有里が喜んでくれたら嬉しいし」
「じゃあ嬉しい」
有里は素直に笑った。俺は一つ頷いた。
「だから別に今のも、頼まれたからとか、お礼でとか、それだけでいいよって言ったんじゃないよ。気が進まない相手に言われたって、しない」
俺は左手を伸ばして、有里の頬を包んでみた。有里は少しだけ迷うように視線を揺らして、それからまっすぐ俺を見た。
「俺だって、饗庭にじゃなきゃ言わないよ」
沈黙が降りて、見つめ合って、俺達はキスをした。
こういうときって、もっと緊張して胸がドキドキするものかと思っていたけど。
それよりもなんだか、ほうっと安心したような、じんわりと幸せになるような感覚があって、ああ自分はいつの間にか有里のことが本当に好きになっていたんだなぁと思った。
この間の漁港でのことがあるから初めてというわけではないんだけど。でも、あのときはなんだか風が吹き抜けたみたいに突然で、感想を持つような暇も無かったから。
唇をひっつけたまま俺がそんなことを思っていると、有里から急に唇をペロリと舐められた。
「うわっ」
俺は反射的に顔を離した。
「うわってなんだよ」
有里がムッとした顔をする。
俺は唇を指で押さえて目を瞬かせた。
「あ、や、ちょっとびっくりして思わず……」
「あー、ごめんねぇ。饗庭君は初心なお子さまだもんねぇ。知らなかった? 大人のキスって唇にチュッてするだけじゃないんだよ? 分かんないかぁ。お兄さんが教えてあげようか?」
くっくと笑う有里に今度は俺がムッとした。
「知ってるし」
知ってるよ。ただちょっと、感動に浸ってただけだ。
笑っている有里にがばりと覆い被さって、もう一度キスをした。
正しいやり方なんて知らないし、上手くリードだってできないけど。
でもいいんだ、きっと。正しくなくたって、上手くなくたって。二人が想い合って、同じ気持ちでここにいることが幸せなんだと思うから。
大人のキスは、体がじんとしびれるような、ふわりと体が浮くような心地がした。
その感覚に酔っていると、今度は有里の方が俺を軽く押し返してきた。俺が素直に離れると、荒い息をして顔を紅く染めた有里と目が合った。
「待って」
そう言って、有里は顔をそむける。
「だめ、もう」
「え、ごめん」
俺は思わず謝った。同じ気持ちであることが大切だと、今思っていたところなのに。
「なんか嫌だった……?」
俺が戸惑って聞くと、
「そうじゃないよ、でも」
と、有里は顔をそむけたまま腕で顔隠した。
「こんなのもっと好きになっちゃう。今だって大好きなのに」
「うん?」
それは俺もそうかもしれない。でも、それで何か困るだろうか。
「離してあげられなくなっちゃう」
「離す?」
「これ以上好きになったら、いつか饗庭に彼女ができて、それでフられんの、俺、耐えらんなくなるよ」
「彼女なんて作らないよ」
有里は少々考え過ぎなところがあるよなぁと、俺は彼を安心させたくてはっきり言った。
「だって、俺だって有里に彼氏できたら嫌だし……」
俺が真顔でそう続けると、有里はムッとした顔をしてこちらを見た。
「おいこらふざけんな。俺も彼女の心配をしろ」
「あ、そっか」
俺はマヌケに呟いて、苦笑した。
有里はいかにも心外という顔をしていたが、大体、こいつのこれまでの行いのせいじゃないだろうか。
「だってやっぱり、お前がお客さんにベタベタしてるのも、されてるのも嫌だったし。どうしてもそういうイメージあるよ」
「それは、ごめん。――もうしないから、絶対」
有里は気まずそうに視線をそらす。
「……あのね。改めてちゃんと言っとくけど、俺は仕事としてあれを選んでただけで、男が好きなわけじゃないの、ホント。……かと言って、女の子と付き合いたいわけでもないんだけど」
そして、俺をまっすぐに見た。
「つまりね、そういうんじゃなくて、俺は饗庭がいい。それに饗庭のこと誰にもあげたくない。ずっと一緒にいたいの。……いい?」
俺が肯定の返事をしようと口を開きかけると、有里は「あ」と声を上げて俺を止めた。
「待って。ちょっと違うな。俺の一番の望みはそうじゃないかも」
「うん?」
俺は内心首を傾げる。今有里はすごく良いこと言っていたと思う。訂正する必要があるだろうか。
「一番はやっぱり、饗庭に幸せでいてほしい。それが一番大事」
有里はまっすぐ俺を見る。
「饗庭の傍にいたいっていうのは、幸せにしてあげられるのが俺だったらいいのになっていう、願望。だから、もし違うなら無理しないでね」
俺は瞬いて有里を見つめた。
いつもあんなに自信満々なのに、こういうときにしおらしく目を伏せるのはなんだかいじらしい。
「……俺さっきね、独りで家にいるとき。誰かのことを頼りたいと思って、有里のことしか思いつかなかった。有里に側にいてほしかった」
有里がこちらを見て、代わりに俺が目を伏せる。
「俺はとっくに今の生活に慣れてて、独りで大丈夫だと思ってたんだ。でもどうしても有里に会いたくなって、声が聞きたくて、それで電話しちゃった。いつの間にか有里が必要な存在になってたんだよ。俺は、有里の隣にいるときが一番楽しくて、幸せだ」
俺は有里を見つめる。
「だから、これからも側にいてほしい」
有里はぽかんと俺を見て、それからふふっと嬉しそうに笑った。
「うん、分かった。ずっと一緒にいるよ。俺もいたいからいる。絶対独りにしないから」
「うん……」
自然と沈黙が降りて、二人見つめ合ったまま時が止まった。
――で、ここからどうするの?
お互いに目がそう言っている。
もう一度キスしたいけど、でもそうなったらその後は――?
改めて意識してしまうとどうしていいか分からなくなって、しばらく無言で見つめ合っていると、パタパタと部屋の前の廊下を走る音がした。
紗絢ちゃんの半分寝ぼけたように泣きそうな「ままー?」と甘えた声が聞こえた。
「……寝よっか」
「うん」
有里が電気を消して、二人で改めて布団に入った。
有里が俺の右腕を枕にして抱き付いて来たので、俺は左腕をそっと彼の背中に落とした。
二人でふふっと笑って、有里がぎゅっと腕に力を入れる。俺は有里の背中に力が掛からないように、彼の頭を抱き寄せた。

