見返りを君に

「お母さん、帰って来た?」
 翌朝の教室で、有里が気遣わし気に聞いてきた。
「うん、昨日あの後帰って来たよ」
「そっか」
 有里がホッとしたように笑って、俺は微笑んで応じた。――だが、正直母が家にいるというのはあまり良いことでもない。
 有里が漁港に遊びに来た日の夜、母は久々に帰ってきた。
 二十歳で俺を産んだという母はまだ三十七で、同級生達の平均的な母親と比べるとかなり若い。
 水商売が続いていることからも分かるようにかなり容姿に恵まれていて、小柄で童顔、細身で、二十代だと言われれば誰も疑わない若々しさ。息子の俺から見ても、次から次へと恋人が作れる訳が分かる気がした。
 しかし家に帰ってきているということは、今母は恋人と上手くいっていないか、別れたのだ。母が今、男と上手くいっているのかどうなのか。そんなことをもう、母の行動や雰囲気から当たり前に察せるようになっていた。
 恋人がいなくなると、母は俺への執着が増す。
「お前さえいなければ」
 と悪態を吐いてみたり、
「あなたがいなければ死ぬ」
 と縋ってみたり。
「あんたは年々あの人に似てくる」
 恐らく父を指しているその言葉が憎々しげで、言われる度に緊張する。
 だからここ数年、実は母がいない方が俺は家で安心できた。
 しかしそんなことをわざわざ言って、有里を困らせても仕方が無い。俺は有里が気に掛けてくれたことに感謝だけしておいた。
 昨日有里に家の事情を話して、なんだか少し、心が軽くなった気がした。
 艮野とか、漁港の人達とか、昔からの縁でうちのことを知っている人達もいる。でも、自分の口から話したのは有里が初めてだった。 
 ――聞いてもらったところで、どうにかなるわけじゃないけど。
 有里に何かしてもらいたいわけじゃない。でも、事情を知っていてくれて、親身になってくれる人がいるというのは心強い。初めてそれに気が付いた。
 自分ももしかしたら有里にとってそうあれているのかもしれないと思うと、少し、嬉しいような気持ちもした。
 下校時に食料品を買って家に帰ると、今日も母は家にいた。
 いつもの派手な服を着て、濃い化粧をしてる。きっとこれから出勤なのだろう。
 母の仕事が水商売だということは、いつということもなく成長するに従って段々と理解した。それで数年前にふと、「その稼ぎに加えて父親らしき人からの振り込みもあるのに、なんでうちはこんなにお金が無いのだろうか」と疑問に思った。しかしそれも母の生活ぶりを改めて考えてみれば分かった。
 酒と男。そして多分、母の美しさを保つのにも大半の金が消えている。
「ただいま」
 と声を掛けた俺に「おかえりさない」と嬉しそうに笑った母は、今日は機嫌がいい日らしい。ホッとしたのも束の間、母は次の瞬間に顔を固くした。それを見て、俺も反射的に緊張する。
「それ何? 前は付けてなかったよね」
 母が指さしたのは、有里に貰ったジンベエザメのぬいぐるみ。通学鞄に付けてしばらく経つけれど、母は今初めて気が付いたらしい。
「クラスメイトに貰ったんだ。――女の子からじゃないから」
 静かに付け足したのは、母がとにかく、自分に近付く女子の影に敏感だからだ。
「そう……」
 母はジンベエザメを指さす手を下ろしたが、まだ声に疑いを含んでいる。
 ――記憶の限り、初めは小学校三年生のとき。
 クラスメイトの女の子に、バレンタインデーのチョコレートと共に告白された。
 当時、確かに嬉しかったと思う。
 その子のことが好きだったわけでは無いけれど、人から恋心を向けられるという初めての経験に心がソワソワとして、ドキドキしたのを覚えている。
 その場で返事は求められなかったが、ホワイトデーに何を返そうかと考えて、例えば休みの日に遊んだり、交換日記なんかしてみたり、そんな関係になれたらいいなと純粋にワクワクした。
 だが家に帰ってすぐ、チョコレートを見咎めた母に、箱ごとぐしゃぐしゃに潰されてゴミ箱に捨てられた。
 怒ろうとか抗議しようという気は起きなかった。とても驚いて、同時に自分がとても悪いことをした気がしたのだ。
 その子には何の返事もお返しもせずに、それからもクラスメイトとして接して卒業した。彼女とは中学は同じだったが、高校は離れている。
 その件以外にも似たようなことがいくつかあって、経験と成長と共に俺は段々と理解していった。
 母は、自分を誰か、他の女に取られることを恐れているのだ。
 かつて父が消えたように、息子が自分を捨てて消えることを怖がっている。
 それにしては()わる()わる恋人を作り家を空けていて、そのことに矛盾を感じないわけでは無いけれど。母はとにかく淋しくて、弱くて、可哀想な人だった。
 安心させてあげたいと思った。
 自分はどこにも行かない。大丈夫だと示す努力をして、ずっとずっと、優しく接してきた。
 ラブレターの類は読まずに捨てて無視したし、直接の告白は全てその場で断ってきた。
 一度、通学鞄にいつの間にか忍ばされていた手紙が家で見つかったとき、母は半狂乱になりながら泣いた。
 抱き締めて、慰めて、手紙は母の目の前でライターで燃やした。
 このジンベエザメだって、もし女の子から貰ったものだったら、俺は絶対鞄に付けたままで家に持って帰ってきたりしなかっただろう。
 でも、有里に貰った物なんだから、いいよな? 堂々としていれば大丈夫。変に誤魔化すような仕草をしてしまったら、また母を不安にさせてしまう。
「有里っていうんだよ。出席番号が俺の次で、修学旅行も同じ班だったんだ。二年になって初めて同じクラスになってさ。最近よく昼ご飯も一緒に食べるんだ。――あ、そうだ。昨日漁港に飯食いに来たんだよ。長沢さんとかも会ってるから、聞いてみて。凌も知ってるよ」
 安心させるための言葉がスラスラと出る。長年の母との対話の中で染み付いたものだ。
「なんかちょっと、今までにいないタイプでさ。変なわけじゃないんだけど、突拍子も無いし、振り回されるしで大変で。――でも、それが面白くてなんか飽きなくて……」
 俺は有里の顔を思い浮かべて苦笑する。 
「葉山のお坊ちゃんで、お父さんがお医者さんなんだって。家もめちゃめちゃデカくて――」
 俺はそこで言葉を止めた。母を信用させたいが余り、言わなくて良いことまで言ってしまった気がした。
 後ろめたいことがあるわけでもないのに、母の顔が見られなかった。しかし、母がじっとこちらを見つめている視線に気が付いて、戸惑いながらゆっくりとそちらを見た。その目に何か、違和感を覚えた。
「買い物、冷蔵庫にしまわなきゃ」
 俺は急いで冷蔵庫の方に振り返り、母の視線から逃げた。冷蔵庫を開けて買ってきた物をしまいながら、動悸がしていた。
 ――母のあの目は、どういう意味だろう。
 ――お金持ちだというところに引っ掛かった? まさか、金を借りてこいとか、そういうことは言わないと思うけど……
 言い出しても驚きはしないが、実際にこれまで金の無心をされたことは無い。
 ――もしそういうことを言われても、口座に多少の蓄えはあるし、自分がバイトした分もあるし。
 だから、大丈夫。
 そう考えて心を落ち着かせ、俺はこのことを考えるのを止めて、母の方へ振り向くための笑顔を作った。


 十二月の最初の土曜日に文化祭があった。
 我がクラスの出し物はたこ焼き屋になった。それもただのたこ焼き屋では無い。女子達が可愛らしい動物の耳を付けて接客する『ケモ耳たこ焼き』だ。
 男は基本的に裏方で、耳を付ける必要は無いのだが「男子でも客寄せになる者は付けるべき」と女子からお達しがあり、指名された者は耳を付けられることになった。
 身近なところでは有里と御門が選出されて、選ばれなかった近江は膝を殴った。
「選ばれたいか? あれ」
「耳付けたくなくない?」
 城井と洲鎌は首を捻り、近江は
「俺は耳を付けたいんじゃないの! 女の子に選ばれたいの!」
 と主張して、同意を求められたけど、俺にもちょっと、よく分からなかった。
 当日、有里は黒猫にさせられて、ちゃんとクラスの役に立っていた。準備段階から女子達に可愛い可愛いとチヤホヤされてニコニコしていて、楽しそうで良かったと思う。
 てっきり史学準備室で「俺にコスプレさせようなんて店でなら料金が〜」とかなんとか言い出すかと思ったが、そんなこともなく。
 ……そういえば、その手の発言をしばらく聞いていない。
 そう思ってある日の昼休み、ふと
「そういえばお前、最近迫ってこないね」
 と言うと、有里は久しぶりにニヤニヤした。
「なにー? 饗庭君、淋しいの? もしかして待ってた?」
「待ってない!」
 俺が反射的に大きな声を出すと、有里はくつくつと笑って
「俺さ、店辞めたんだよね」
 と、さらりと言った。
 俺は目を丸くした。
「えっ、いつ⁉」
「ちょっと前。はっきりいつっていうか、行かなくなってふんわりフェードアウト? みたいな」
「そんな簡単に辞められるもんなの?」
 辞めろ辞めろと言っておいてなんだが、ああいうお店はしつこい引き留めがあったり、怖い人が出てきて辞めさせてもらえなかったりするんじゃないかという勝手なイメージがあった。
「店出なかったらオーナーから電話があってさ。『本当は高校生なんですぅ、学校にバレそうでぇ』ってやったら、秒で終わった」
「……ホント逞しいよ、お前って」
「で、最後の十日分くらい給料貰えてないんだよ。これって取りに行っていいよな?」
「止めとけよ、勉強代だ」
「そっかぁ……」
 有里は残念そうで、そして嬉しそうだった。
「でも、どういう風の吹き回し?」
「ん?」
「だって絶対辞めそうになかったのに……」
 辞めろと言ったのは俺だけど、それで言うことを聞く有里じゃないのはもう分かっている。
「……対等になりたかったから」
「え?」
 有里は何か思い詰めたような、真剣な横顔をしていた。
「饗庭と対等に、一緒にいるのに相応しい人間でいようと思ったら、男に媚び売って稼ぐような仕事、駄目じゃん。――それに、もし周りにバレたときさ、饗庭までそういう目で見られたら、嫌だし」
「……」
「そういうのは辞めて、ちゃんと学校に通って勉強して、人とコミュニケーションとって社会性身に付けて、饗庭のこと困らせない人間になりたいと思ったの」
 有里はまっすぐ俺の目を見た。俺も有里の目をまっすぐ見返した。
「そうじゃないと、ね。一緒にいられないでしょ? 堂々と饗庭の横に立てない。――それに一番はやっぱり、自分がもう無理だなって」
 有里は視線を落とす。
「別にもうなんでもいいやって思ってたときは、全然平気だったんだけどね。でももう、仕事とはいえ恋愛の真似事するのが嫌になって。まあ別に、元々ノリノリでやってたつもりは無いけどさ。……ああいうのって、やっぱり心が擦り減るよ。その分良い金貰えるわけだけど、今の俺にはもう無理だ」
 有里はまた俺を見て、少し微笑んだ。
「饗庭と一緒にいたいから、ちゃんと身辺綺麗にしなきゃなって思ったの」
 そして、あっと声を上げて真顔になった。
「言っとくけど、お前に養ってもらおうとは思ってないからな。勘違いすんなよ! そういうつもりじゃない。けど――」
 有里は少し言い淀んで、一度唇を噛む。
「隣にいさせてくれるなら、これからの人生めちゃめちゃ楽しいし、安心して生きていけると思うんだ」
 そして、真摯(しんし)な眼差しで俺を見つめた。
「饗庭、俺、ちゃんと頑張るから。これからも一緒にいてくれる?」
「うん……、分かった」
 俺は有里に向かって頷く。
 なんだが胸が熱くなって、じんわりとした何かが心に広がった。
 これは喜びの気持ちだろうか。有里の心の変化が嬉しく、何かが満たされていく気持ちがする。
 俺が笑ったのを見て、有里もホッとした顔で嬉しそうに笑った。
「あ、あとさ、饗庭にもう一個報告なんだけど。最近ちょっと、家族といい感じなんだよね」
「え?」
「本当の子どもじゃないからなんて、達観したふりして拗ねてるの、ガキ臭いんじゃないかと思って」
 有里は少しバツ悪そうに頬を掻いた。
「ちゃんと向き合ってみることにしたんだ。自分から話し掛けて、積極的に関わって、気遣いもしてね。多分めちゃめちゃ不器用なんだけど、そういう風にやってみたの。――そしたらなんかさ、『あ、父さん母さんの方も、俺との向き合い方が分からなくなってただけかな?』って。『お互いめちゃめちゃ気を遣ってたのかな』って、気が付いて。今まで俺が拘ってたことって、なんだったんだろうって思ったよ。――あの人達はちゃんと、俺の親だ。妹も、俺の妹だ。血の繋がりじゃない、そう思う」
「うん」
 有里君の真剣な眼差しに、俺も真摯に頷く。
「勿論どうしても遠慮はあるんだけど、でも、ちゃんと愛されてるって思えてるよ。――まあ俺ももう十七だし、取り返せないこともあるのかなとは思うけどね。母さんに抱き付いてみたかったなとか、父さんに甘えてみたかったなとか、今更だけど思わないわけじゃない」
 有里は苦笑いする。
「でも、もうさすがにそんな歳じゃないや。お兄ちゃんとして、親と一緒に紗絢を大切にしていきたいって、今はもうそういう気持ち」
「そっか……」
「まあいいんだ!」
 有里は急にふざけた口調になって、俺の左腕に絡みついてきた。
「俺には饗庭君がいるしぃ」
「あー! うっとおし!」
 俺は腕を振り解いたりはせずに、言葉だけでうんざりしてみせる。有里は楽しそうに笑って、強く腕を絡めてきた。
 有里はクラスメイト達とも馴染み始めているし、家族との関係も良くなっている。その上バイトも辞めて、今、彼の周りの全てが上手く回っている。
 俺はそのことをとても嬉しく思った。


 十二月も半ばを過ぎたその日、「クレープが食べたい」と言う御門の希望で、俺と有里は彼に付き合って放課後クレープ屋に寄り道することになった。
 木枯らしの吹く中を三人で、時折寒さに叫びながらクレープ屋に向かう。
 御門が転校してくる前、有里と仲良くなる前のメンバーでは絶対に無かった種類の寄り道先が、なんだか新鮮で楽しかった。
 ――最近、毎日が楽しい。
 勿論以前だって楽しくなかったわけではないけれど。近頃――具体的には、有里と仲良くなってから。
 彼の問題を取り除いて、俺の話を聞いてもらって、未来への道が明るく広がってきている感覚がある。
 なんとなく半透明だった自分自身にしっかりと色が付いたような、ずっと俺を押し付けていた何かが無くなって、重しの取れた体が軽くなったような。
 自分自身がしっくりとハマる居場所を見つけられたような安心感があって、心が穏やかに凪いでいる。
 今の二人の関係が、自分の気持ちが、友達という言葉に収まるものかは、よく分からない。
 でも、確認しあってルールを決めて。そんな契約みたいな話し合い、必要無い気がしてるから。
 御門と有里がクレープを食べながら楽しそうに話しているのを、俺は幸せな気持ちで眺めた。
 ふと、有里と並べて置いた通学鞄のジンベエザメが目に留まった。二匹のジンベエザメがちょうど寄り添うように隣り合っていて、二匹ともなんだか楽しそうに見えた。
 駅で二人と別れ、俺は寒さも気にならないような浮ついた気分で家路に着いた。
 ――楽しかったな、今日も。
 俺はバスの中で、ジンベエザメの頭を指で軽く撫でてみる。ジンベエザメも俺と同じように浮かれた顔をしている気がする。有里のジンベエザメと一緒に過ごせて、きっと嬉しかったんだろう。
 これからもずっとこんな日々が続いていくのだろうと、思うともなく思う。俺は幸せだった。
 家に帰ると玄関の鍵が開いていて、途端に少し緊張した。――母が帰っているのだ。
 母はよく鍵を開けっぱなしにする。不用心ではあるのだが、そこは田舎のこと。俺自身も泥棒なんて入らないと思っているところはあるので、それほど気にしていない。盗られるような物も無いし。
 ただ、母がいないのが当たり前になり過ぎて、家にいること自体に驚く。何も、いけないことは無いのだけど。
 一度息を吐いてから、口元を笑顔の形に結んで扉を開けた。
 そろそろ明かりを点けても良さそうな黄昏の中、部屋の明かりは点いていなかった。母はそういうことに無頓着で、もっと暗くても平気でいることが多いので、特に違和感は無かった。
 玄関を入ってすぐ、台所には母はいない。家の中は外とほとんど変わらない寒さだった。
 ――この寒いのに、暖房も付けないで。
 明かりと同じく、母は暖房の類にも無頓着なところがある。早く部屋を暖めて、温かいお茶を淹れてあげないと。
 奥の部屋を覗くと母の後ろ姿が見えた。
 狭い家なので、俺には自室というものが無い。奥の部屋の隅に自分の物をまとめて置いてある棚と、勉強用の机がある。私物と言えるような私物もあまり無いので、俺の持ち物といえば学校で必要なものと着替えが主だ。
 母は畳の上にだらりと座っていて、辺りに俺の勉強道具やら服やらが広がっていた。――たまにあることだ。
 まるで恋人の浮気の証拠を掴もうとするように、母は時折俺の持ち物を隅から隅まで調べ上げる。
 何度繰り返されても慣れるものではないが、抗議しても更に大変になるだけだと分かっているので、仕方ないものと諦めている。見られて困るものは何も持っていない。持たないようになった。
 でも今回はなんだかいつもよりも派手に散らかっていて、感情的になって調べたような様子が気になった。
「どうしたの、今日は」
 俺は冷静に、努めて穏やかに振る舞う。
 畳の上に散らばった勉強道具を集め、服を畳んだ。本を棚に並べながら、ふと、あの写真を美術の教科書に挟んだままだったことを思い出した。
 近江が撮った、一緒に眠る俺と有里の写真。なんだかんだあったせいで、有里に見せるのをすっかり忘れていた。最近の美術はずっと実技ばかりで、教科書を開くこともなかったし。
 美術の教科書を手に取って、何気無い様子を偽りながらペラペラとページを捲った。
 ――無い。
 心臓がドクリと鳴った。どうしたんだっけ、あの写真を。
 母が見たらどう思うだろう。いや、見られて問題があるか? 女の子との写真じゃない。クラスメイトの男の、出席番号順で同室になっただけの……
 なんで自分は動悸がしているんだろう。どうして女の子からの好意を隠すかのように、後ろめたい気持ちがしているのだろう。
「母さ――」
 何か言わなくてはと口を開いたところで、バンッと母が畳に叩きつけたのは、やはりあの写真だった。
「この子はなんなの……」
 母が怒りで震えるような声を出して、俺は努めてなんでも無い風に答えた。
「これ? 修学旅行のときの写真だよ。一日目は奈良のビジネスホテルに泊まったの。旅行のしおり、見た?」
 言いながら、母の怒りの理由を頭の中で探す。
 ――こうやって見ると、やっぱり美人だね、有里は。
 ――顔しか写ってない写真だと女子に見えなくもないな。
 友人達との会話を思い出して、ハッとした。
「ああ、ね、母さん。そいつ男だよ。そうだ、ほら、有里。この間言った――」
 グイと、目の前にライターが突き出された。
「……」
 俺はそれを黙って受け取って、隣の部屋の机の上にあった灰皿を持ってきて、母の目の前で写真に火をつけた。
「……分かると思うけど、写真を撮った奴がいるわけだから。三人で寝たんだよ。近江って分かるでしょ? 中学も一緒だった……」
 そう言いながら、俺は涼しい顔をして写真を燃やし切った。
 こういうことには慣れている。執着など微塵も見せずにできたと思う。心の中でそう安堵していると、母が突然こちらに向かって動いた。俺は掴み掛かられると思って反射的に身を引いた。
 だが、母が掴んだのは俺の脇にあった通学鞄――そこに付けられたジンベエザメのぬいぐるみだった。      
 母はジンベエザメを無理矢理引っ掴んで放り投げようとした。吊り上げられた通学鞄が自らの重みと勢いで飛ぶように転がって、ブチリと音を立てて鞄から外れたジンベエザメは、思い切り宙を飛んで壁にぶつかり跳ね返った。恐らく母は、ゴミ箱に投げ込もうとしたのだろう。
 俺は反射的にジンベエザメを拾いに行っていた。
 冷静に考えれば、行くべきでは無かったと思う。しかし考える前に体が動いてしまっていた。
 それで、まるで床に散らばっていたノートを拾うことが目的だったように偽って、拾ったノートの影でジンベエザメをそっと、着たままだったコートのポケットに入れた。
 俺は母の方に戻り、正面に座って向き合って、落ち着いた声で微笑んだ。
「どうしたの、母さん。何かあった?」
 胸にドンッとライターが突き付けられた。
「燃やして」
「え……」
 母はじっと、俺がジンベエザメを隠したつもりのポケットを見ていた。
「燃やしてよ、それ! 要らないでしょう⁉」
 俺は瞠目する。
 いつもの自分なら間髪入れずに「要らない」と言えるのに、このときは声が出なかった。
 有里が、自分に貰ってほしいと思って買ってくれた物。お揃いで付けているぬいぐるみ。要らないとは思えなかった。
「できないよ……それは……」
「どうしてできないの!」
「待って母さん! 落ち着いて。大丈夫――大丈夫だから」
「止めて!」
 抱き締めて落ち着かせようと思った腕を、全身で暴れて拒否された。俺は抱き締めるのを諦めて両手を広げる。
「ね……、どうしたの母さん。俺、なんもしてないよ。いつも通りだよ。今日は急にどうしたの」
「おかしいと思ってた……最近……」
「おかしい……?」
「あなた、すごく楽しそうだった」
「……そりゃ、楽しいよ、学校は……」
 学校が楽しくて何がいけないだろう。
 冷静にそう思うけれど、同時に、母の責める口調を聞くと悪いことをしているような気持ちになる。罪悪感で胃の辺りが痛む。
「私、分かるのよ」
「……何が?」
「それで騙せてるつもりなの? 男っていつもそう。よそに好きな人ができるとそういう顔をする」
 好きな人ができると――
 胸を貫かれたような感覚がした。
「あの……、ごめん、そうじゃないんだ――」
「あなたは私のことなんてどうでもいいのね」
「そんなわけない! そんなことないよ……」
 母がぼそりと何かを言った。
「……何? ごめん、もう一回言って?」
「許さない」
「母さん?」
「私を放っておいてどういうつもりなの」
「放ってなんてないでしょ」
「じゃあどうして帰ってこないの」
「……帰ってきてるじゃん」
「嘘つき! 私よりも大切な人ができたから、だから帰って来ないんでしょう!」
「俺は家にいたよ。帰ってこなかったのは母さんでしょう」
「一体誰と一緒にいたの」
「誰って……」
「よそに女ができたんでしょう!」
「は? え?」
 母の言っていることは整合性が無い。感情が昂って、現実と、現実では無いことが母の頭の中で入り乱れている気がした。
「何言ってるの……。ちょっと――しっかりしろよ!」
 数年ぶりに母に向かって大声を上げた。
 母が目をカッと開いて、その目は俺を見ているようで見ていなかった。
「よくもそんな口が聞けたわね、クズ」
「……」
「誰のせいで私が不幸だと思ってるの」
「……」
 言葉が見つからなくて、パクパクと口だけが動いた。
「あんたも私を捨てるのね! この裏切り者!」
「す……捨てないよ、俺は――」
「許さない。私を置いて一人で幸せになるなんて許さない。絶対に許さない! ――トウヤ!」
 俺は目を見開いて凍りついた。母からその名前を初めて聞いた。
 母が右手を上げ、そして振り下ろすのがスローモーションのように見えた。
 (したた)かに頬を打たれて、体から力が抜けた。俺は呆然として、その場にへたりと座り込んだ。
 怖かったわけでも、力負けしたわけでもない。母はもう()うに、力で負ける相手ではない。
 ただただ、今の出来事がショックだった。
 叩いた母の方も呆然としていた。その瞬間魔法が解けて、正気に戻ったようだった。
 母はまるで自分が叩かれたかのように傷付いた顔をして、そして、家を飛び出していってしまった。
 残された俺はしばらく呆然として、それからのろのろと立ち上がった。まだ畳の上に散らばっている荷物を拾い集める。
 ――叩かれたのは初めてではないのに。
 なんでだろう。悲しい。すごく悲しい。
 小さい頃にいたずらをして母に頬を抓られたこともあれば、母の機嫌が悪い時に些細なことで叩かれた覚えもあった。
 でもそれは年々少なくなってきて、少なくともここ三年は覚えが無い。それは、自分が学習して母の怒りを買うようなことをしなくなったから。機嫌を取るのが上手くなったからだ。
 ちゃんと寄り添って、誠実に対応して。上手くできていると思っていた。
 ――だからきっともう一生、叩かれることなんて無いと思っていたのに。
 誰かに縋りたいと思った。自分のことを分かってくれる誰かに。そんな人、もうずっといないのだけど。
 心の暗闇の中に誰かを探して、自然と有里の顔が浮かんだ。
 ――有里なら聞いてくれるかもしれない。
 こんな些細なことでも、「見返り」という言葉一つで、俺が聞いてほしいと言ったら聞いてくれるかも。
 そんな風に思ってから、俺はやっと思い出す。
 ――ああ、そうだ。
 俺はもう見返りを使ってしまった。それもあんな使い方をしてしまったのだから、有里はもう俺の言う事を聞いてくれる謂れはないのだ。
「うう……」
 俺は床に崩れ落ちて、後はもう、どうすればいいか分からなかった。