「周さん、本当に一緒に来ないんですか?」
「ああ、わたしはここ待ってるから二人で行ってくるといい」

 明澄夏が演奏するコンクール、長岡祭の会場となるホールの駐車場。
 周さんに送ってもらい、少し早く着いた俺と結衣は周さんの車の中にいた。
 他の車も似た境遇なのか、駐車してあるほとんどの車には人が座っている。

「コンクールには入場規制もかかってないですし、周さんも一緒に行きませんか?」

 結衣が運転席の周さんを覗き込む。この質問が何度目かは、もう数えていない。
 周さんが「車で待っている」と言ってから、ずっとこの調子だ。

「会場の椅子の数は限られてるんだろう? 駐車場だけでこの数だ、観客の数はきっと想定してるよりずっと多いだろう。なら、わたしよりずっと本気で見たい人たちに譲ってあげるのが道理だ」

 周さんは何度でも小さく笑うと、助手席に座る結衣の頭を軽く撫でる。
 ……ごもっともだ。ごもっともな意見では、あるのだが。

「すみません、ここまで送ってもらったのに」

 結衣はまだしも、結果として俺も足みたいに使ってしまったのが、すごく申し訳ない。

「はぁ……君も何度目だ。そもそも、会場で生で聞きたいと言ったのは結衣だろう。君は目的地が同じだから、道すがら拾われただけで。君が気にする事じゃない」

 だとしても、気が引けるものは引けるのだ。

「飲み物の一つぐらい買ってきますよ」
「そうかい? それじゃ遠慮なく。って、君じゃわたし好みの飲み物はわからないだろ。わたしも一緒についていく」

 運転席の扉を押し開けて外に出た周さんが、結衣に声を掛ける。

「結衣の分も買ってくるから、車の留守番よろしく」
「わかりました」

 屈託のない笑顔で、結衣は周さんに微笑んだ。

 車から自動販売機はそう遠くなく、数分程でたどり着ける距離だ。
 俺が緑色に点灯した自動販売機のボタンを押すと、周さんが言った。

「これは、独り言なんだが」

 振り返ると、周さんは空を見上げていた。
 遠くを飛ぶ鳥を見る様に、ただ何気なく。

「……今朝。結衣の薬の棚から、錠剤が一つ消えていた」
「え?」

 周さんは顔は動かさず、視線だけが俺へと移動する。
 ナイフの先端ほど鋭く、どういう意味だ、とは言わせない視線だった。

「あの薬は予防効果がある様な効能じゃない。そもそも薬というのは不調を問題ない状態に調整する為のものだ。健康体で使えばそれは毒と相違ない」

 すると結衣は、今朝から調子が悪い。
 そして、それを結衣は周さんにバレたくない、という意味だろうか。
 調子が悪いのであれば、万が一でも結衣の症状は……最悪の可能性が脳裏を過る。

「会場に入る前に、止めた方がいいんですか」
「それが出来るなら、ここまで車で連れてきたりしないよ。できるなら頼みたいくらいだ」

 海外のドラマみたいに、周さんはわざとらしく首をくすめる。
 確かにそれはそうか。家から出てはいけないと言えば、それだけで済む話なのだから。

「はじめてだよ、あの子が我儘を言うなんて。一色の家を追い出されそうになった時ですら、眉一つ顰めなかったあの子が。はじめて、わたしに嘘をついてまで、この会場で演奏を聞きたかったんだ」

 手に持った緑茶のペットボトルの水滴が、指の間をすり抜ける。
 初夏の風が、すこし伸びすぎた俺の前髪を軽く揺らした。

「よほど大好きなんだろう。ここで演奏する人が」
「だと思います。いつも一緒にいる時、姉みたいに慕ってますから」
「ならよかったよ。今日、結衣をここに連れてきて」

 それから周さんは何も言わず、内ポケットからココアシガレットを取り出した。
 そして何気なく、箱ごと俺にも差し出す。

「ん」
「いただきます」

 一本受け取り、口に放り投げてかみ砕く。
 俺と周さんは何も言わず、ただ遠くの空を見つめていた。

「周さーん! 篝くーん! 会場、開園しましたー!」

 少し離れた、周さんの車の横。
 待ちきれなかったのか、背伸びした結衣がぴょんぴょんと跳ねて手を振っている。

「あぁ待ってろ! 今行く!」

 小走りで声を張る俺とは対照的に、周さんはゆったりと歩いたまま。
 俺だけに聞き取れるよう、吹く風に声を溶け込ませた。

「あの子の邪魔はしたくない。だから君に頼んだよ。あの子のこと」

 俺は返答をせず、静かに緑茶のペットボトルを顔横まで掲げた。


 入場してから席に着くまで、そう時間はかからなかった。
 長岡祭。全国津々浦々の吹奏楽が集う、高校吹奏楽の甲子園。
 実のところ、幼いころから学校配布のチラシや新聞などで毎年目にしてはいたが、実際に現地に赴くのは今回が初めてだ。

「明澄夏さんたち、いつ頃に演奏するんでしょうか?」
「プログラムによると、ウチの学校の演奏は割と初めの方だな」

 それから、10分ほどが過ぎた頃。
 遅れてやってきた観客たちがぞろぞろと席に着席をはじめ、最終的には会場の観客席はほとんど空きがない状態になってしまった。
 軽く覗き込んだ感じ、まだまだ観客は玄関ホールにいるらしい。周さんの予想は完全に正しかった訳だ。

「……まだ始まらないな」
「……ですね」

 ガヤガヤと来場客がそれぞれの席で雑談を交わし、開場にあたって注意のアナウンスが鳴る。それに紛れて何の機材か分からないが、振動音に近い低音が暫くなっていた。
 座っている手触りの良い椅子に触れてみるも、どうにも手に馴染まなくて乾燥した感じがする。落ち着かない。演奏ステージの真正面という最高の席だけれど、居心地が悪い。
 端的に言えば……俺は今、途方もなく緊張している。
 スマホを取り出してメッセージアプリを起動。
 送信先は、真宮 明澄夏。手早くフリック入力でタイピング。
 何度も入力しては、削除。入力、削除――――。
 結局、コンクールの開園のブザーが鳴り響き、会場が暗転する瞬間まで繰り返して。最後に入力欄に残ったメッセージを送信した。

 ――――がんばれ、明澄夏。

 ◇◇◇

 十五回いや二十回くらいかな。
 あたし、真宮 明澄夏は、この画面を見返した回数を数える事をやめた。
 返信はしなかった。時間的には最初の学校が演奏を始めている頃だろうし、万一スマホが演奏中になろうものなら大問題だ。

「明澄夏センパイ、一年のチューニング終わりましたっす」

 フルートを担当する後輩が、袖から大降りに手を振ってくる。

「うん、ありがと。もうすぐ出番だから、各自移動用の準備開始って伝えて」
「っす」

 意外にも、緊張はしていない。
 自信過剰と称されるかもしれないけど、あたし達の学校がこのコンクールで優勝できると言い切れる練習量と自信があったから。
 思い返せば、吹奏楽部部長としてのあたしはこれ以上にないくらいに最低だった。
 無茶な練習量の要求に、ハイレベルな演奏の強要。部員から嫌われることも想像していたし、退部する部員が出てしまう覚悟も、責め立てられる覚悟も決めていた。
 でも、そんなことは一度も起こらなかった。
 なぜだろう? とは思わない。それは、ついてきてくれた皆を裏切る思考だから。

「お次、千秋高校の皆さん、スタンバイお願いしまーす」

 演奏を終えた前校がステージから引き返す中に紛れ、コンクールスタッフの声がした。
 身体の芯のエンジンが大きく唸って、身体がブルリと震える。


 はじめよう。全力で全部をやり終えて、あたしが誇れるあたしで、迎えに行こう。
 やるぞ。やるぞ。やるぞ。――――待ってて、篝。
 最後の舞台へ、あたしは、最高の演奏を響かせる戦友たちと歩みを進めた。


 観客席から大仰なカーテンコール一枚を挟んだ、ステージの上。
 譜面台の前へ用意された椅子へ、チューニングを終えた部員たちが静かに向かう。
 各員が楽器に対する譜面台の高さや、制服の端々のしわを丁寧に整え腰掛ける。
 すると、あるべきモノがあるべき姿に整った。そうあるべきと定められたが如く、綺麗に塵ばかりの誤差なくストンとパズルの入り込む感覚が場を包んだ。
 真上の照明を反射するトランペットに、そっと指を添える。
 最後まで付き合ってくれて、ありがとう。お願い。もう少しだけ、あたしに付き合って。

 舞台袖から様子を窺う係員に片手を挙げて合図を送ると、ステージの両端から低い機械音が響き、大きく視界を覆っていた巨大な深紅の壁が上昇を始める。

 そして、ぷつりと小さくマイクの電源が入る音。

「プログラム4番。新潟県立千秋高等学校吹奏楽部。演奏曲は長虎景尾作曲、白菊に過ぎて。指揮は吹奏楽部顧問、綿貫 匠です」

 ゆったりと指揮台の横まで歩を進めた顧問の指揮者が、丁寧に頭を下げる。

 パチパチ、パチパチ。
 会場を包む、洗礼の拍手。

 こつん、こつん。静けさが浸る会場に響く革靴の音。指揮者が指揮台に上がる。

 指揮者はあたしたち部員を隅まで見渡して、穏やかに小さく笑って両手を挙げた。
 呼応して、あたしたちも一斉に楽器を顔程まで掲げる。
 これはツバサだ。一人が一つ手に持った、金属で作られた光沢を持つツバサ。
 あたしたちが青い春に這いずって、足掻いて、背一杯に響かせる黄金のツバサ。

 指揮者が両腕で腕を振り下ろしリズムを取る一瞬、砂時計の一粒が落下する時間。

 あ、見つけた。

 スポットライトに照らされた塵から、微かに息を吸い込む音まで、完全に静止した。
 トランペットを掲げた向こう側、観客席の影が、あたしを世界から切り取ってしまったから。薄ら闇の中でもはっきり認識できる程に見慣れた、二人の姿。
 意図せず、トランペットに構えた口端が緩んでしまう。
 あの日、あの時。あたしの演奏を綺麗って言ってくれて。ありがとう、篝。
 演奏だけで幸せに生きていけるって目を輝かせてくれて、ありがとう。結衣ちゃん。

 ――――最高の演奏で、羽ばたくから。
 
 すぅ。大きく息を吸い込む瞬間から、静止していた時間は再び動き出す。

 鮮烈で可憐で情熱的で、涙と汗血に塗れた青くて赤くて黄金の磨き上げたツバサ。その巻き起こる羽ばたきが、会場を駆け抜ける。
 高音域を活き活きとリードを奏でるフルートとピッコロに続き、木材特有の温かみのある音でクラリネットがメロディーの空虚感をさりげなくカバー。操作難易度の高く重厚感のあるオーボエとファゴットは振り回されるのではなく、舞い踊る様にメロディーに寄り添って深みを持たせてゆく。

 笑っていた。気が付いた時に、楽器もあたしたちも。

 そう、そうだよみんな。もっと楽しく、跳ねる様に笑顔で!
 あたしたちが磨いたツバサは、こんなにも透き通る!  こんなにも眩しく輝ける!
 
 パーカッションのリズムに乗せて、コントラバスとチューバが自慢の剛体を披露して。
 トロンボーンと手を繋いだホルンが彩る道を、花弁を散らしたユーフォニアムを靡かせ。
 観客席の全員を打ち抜く圧倒的な存在感のトランペットが、春雷が如く駆け抜けた。

 観客、指揮者、そして当の奏者たちでさえ。
 熱くそして可憐に情熱的で繊細な高揚感に、会場の全てが満たされてゆく。
 天女が舞い踊る姿を幻視するほどの、奏者と楽器が引き起こす相乗効果。
 そして、来たる最大出力に向けて、全身の産毛が逆立ち大きく打ち震える。

 ソロパート。これが部長として、リーダーとしての最大責務。
 賞位を大きく左右する、演奏の顔と言っていい。
 ここまでの奏者(みんな)は完璧だ。文句の付け所もない、間違いなく圧倒的な首位に立っている。ぎゅっと、トランペットを握る手に力が籠った

 ――――いくよ、相棒。これがあたしだよ、篝。
 
 
 息を吹き込む瞬間、指揮者を通り越した観客席へと視線が吸い込まれて。
 そして、すべてが凍てついた。

 瞳に反射したのは、椅子から結衣ちゃんが倒れ込む瞬間だった。

 ぐったりと力の抜けた小さな少女が、魂を失った様に通路へと倒れ込む。
 引き延ばされた1秒は音を不細工に引き裂き、眼前の現実を鼓動が刻み込んできた。
 隣の席に座っていた篝は、蒼白の表情ながら声をあげず、抱きかかえる形で身体を支え。

 そして、こちらを見た。ステージの上のあたしと、ハッキリと視線が合致した。

 何度も何度も砕けるくらい歯を食いしばった篝は、ステージ上のあたしと抱えた結衣ちゃんを激しく交互に視線を揺らす。

 目の前も。頭の中も、どこまでも白になった。
 次に、どうなるのか。篝がどんな行動をするのか。
 本当はずっと前から、もう理解していたから。それでも。認めたくなかったから。

 そして。篝の視線は。
 手元で大切に抱きかかえた、結衣ちゃんで停まった。

 丁寧に抱きかかえた彼女の身体を揺らさない様に、急ぎ階段を駆け上ってゆく。
 重厚な扉に触れたあとは、こちらを一切見ずに、薄暗いホールに差し込んだ僅かな一筋の光に呑まれて、篝は会場から出て行った。

 篝の心の中に座っているのは、あたしじゃない。
 そこは――――もう、結衣ちゃんの席だ。

 ――――あまりにも残酷なことに、指は一拍乱れず無意識に演奏を始めていた。
 楽譜通りにミスひとつ無く、けれど胸の中に湧き上がる情緒を一切隠さずに。
 何度も何度も幾つもの朝と放課後と夜を超えて。気が遠くなるくらい練習した課題曲。

 篝のいない会場の全てが、あたしを見ていた。
 頬を伝う灼けた涙も、流れ出る鼻水も、知ったことか。
 篝に届く事のない、ソロパートなんて知ったことか。
 それでも、指は動く。あたしの胸の中の一切を包み隠さずに。
 篝もあたしも結衣ちゃんも。誰も悪くなんかなくて。
 
 それでも、それでも。それでも。それでもそれでも。
 一年前と同じ、顔も涙でぐしゃぐしゃのまま、全部をトランペットに吹き込む。

 全部が始まったあの日に、好きだって言ってくれた演奏だよ、篝。
 ここでトランペットを吹いてるのは、優しくなんかなくて頑固で負けず嫌いで、本当はジャガイモを剥く下準備で指を切っちゃったり、何度練習しても上手くいかなくて泣きながら吹奏楽を練習してた、部長のプレッシャーに容易く押しつぶされそうだった真宮 明澄夏なんだよ。
 それでも、何一つ包み隠さない演奏を「綺麗だと思う」って照れもせず言って。
 それでも、合うたびに「明澄夏」って名前を呼んで、ぎこちなく微笑んで。

 ――――――あんたが、好きだって言ったんだよ! 聞けよ、バカっ‼
  

 ◇◇◇

 あまりに重いホールの扉を抜けた俺は、全力で階段を駆け下る。
 脳裏に鮮明に刻み込まれた、視線を交わした瞬間の明澄夏の表情を置き去りにして。
 一秒でも早く結衣を病院へ送り届けるために、訛りきった足を必死に動かす。

「もう少しの辛抱だ!」
「…………」

 声掛けにハッキリとした反応もなく、腕中の結衣は血色の失せた顔色で俯いたまま。

「しっかりしろ、結衣!」

 想像も、したくない。
 無駄な事を考えるな。いま、俺に出来る事は。
 ひたすらに走る。両手で抱きかかえた結衣を、一秒でも早く病院に送り届ける。

「こっちか!」

 建物を吹き抜ける大階段を下り、全力で玄関フロアを駆け抜ける。
 じれったい自動ドアが開く、少しの隙間に肩を通して、俺は送迎フロアに出た。
 コンクリートの匂いを乗せた風に目を眩ませると、その先に周さんの車。
 精一杯の喉が焼け切れそうなくらいに、力一杯に大声で叫ぶ。

「周さんっ、救急車を!」

 それから5分ほどして、救急車のサイレンが響いた。

 ◇◇◇

 周さんは自分の車で向かうため、救急車には俺が乗った。

「結衣ちゃん、聞こえるかな?」

 救急車内では何度も救急救命士が声かけるも、結衣が反応を示すことはない。
 結衣の身体や指先へ、幾つかのケーブルの繋がった電極が取り付けられる。
 広くない車内では電子音と救急救命士の確認の声、運転走行音が入り混じって聞こえた。

「お兄さん、この子が倒れた時は一緒にいた?」
「はい」

 電極に繋がった小型のモニターを手にした女性の救急救命士が何かを聞こうとする。
 同時に、助手席に座っていた男性の救急救命士がカーテンを開けてこちらを覗き込んだ。

「関根さん、この子……」
「なに、見せて」

 関根、と呼ばれた救急救命士が、手渡されたボードリストを見て僅かに眉を揺らす。

「なるほど……じゃ先生に電話入れておいて」
「わかりました」

 ふと、指先に何かが触れた。
 驚き視線を下ろすと、呆然としたままの結衣が手先に触れていた。
 微かながら瞼も開いていて、大きな瞳が動いているのもわかる。

「……篝くん?」
「結衣!」

 すかさず、救急救命士が腰を落として声を掛ける。

「結衣ちゃん、聞こえるかな?」
「……はい、聞こえます」
「今から、ちょっと病院の方で――」

 それから幾つかの問答を行い、救急車が病院へ辿り着いた。
 結衣を乗せた担架が、救急外来の入り口から運び込まれる。
 医療機器や点滴、ベッドの並んだ部屋から広がる、病院特有の消毒薬の臭い。
 周囲で看護師や医師が忙しなく動く中、結衣はあるベッドに寝かせられた。
 なぜか不明瞭な、デジャヴとは異なる既視感に襲われ、手先の感覚が敏感になる。

「この子か」
「はい。先生、お願いします」

 程なくして、入室してきた白衣の男性が診断を始める。
 恰好こそ違うものの、特徴的な目元には見覚えがあった。
 俺の手術を担当した、モグラ先生だ。
 既視感。そこで初めて、気が付いた。
 ここは以前、色を失ったあの日に。俺が入院していた病院だ。あの日以来、初めて来た。

「……………これは………これから検査室で詳しくやろう」
「はい、運びます」

 微睡んだままの結衣の耳元に顔を近づけ、救命士がハッキリと声を出す。

「ごめんね結衣ちゃん、ちょっと揺れるよー!」

 掛け声と同時に、何名かの救命士が結衣を再び担架に乗せてどこかへ運び出す。
 それと同時に、助手席に座っていた救急救命士が、俺の元へと駆け寄ってきた。

「お兄さんはこちらの方でお待ちください」

 俺が案内されたのは、病院の待合室だった。
 誰もいない部屋の中で、やや慣れ始めた消毒液の香りに浸る。
 無風でテレビもなく、空調も止まった部屋では自分の鼓動が鮮明に聞こえた。
 気紛らわしにサーバーからコーヒーを注ぎ、口にするも、薄い苦みが舌を撫でるだけ。

「少年」

 しばらくして、周さんが待合室に入ってきた。
 ふとスマホを見ると、病院へ運び込まれて2時間ほどの時間が経っていたらしい。

「結衣は……無事なんですか」
「…………………」
「周さん?」
「…………とりあえず今は、命の危険はない。安定した状態になったそうだ」

 言葉とは裏腹に安堵の表情には遠い周さんが語り、俺もひとまず溜めた息を吐く。

「よかった」
「今は本人も意識がハッキリしているが、混乱しているから面会はおすすめしない」
「わかりました」

 今更になって、大袈裟な後付けの疲労感が背中や足を締め付ける。

「少年」

 それからややあって、周さんが口を開いた。

「はい?」

 周さんの表情は、むしろ先より影が差している気すらした。
 待合室の張り詰めた空気が痛々しく肺を刺す。
 なにか嫌だ。嫌な予感がする。聞きたくない。
 耐えきれなくなった俺は椅子に座り、掌で顔を覆う。

「結衣がいない今だからこそ、ひとつ、君にどうしても聞きたいことがある」
「…………なんですか」

 俯いたまま手で隠した顔は晒さない。晒すことは、できない。
 周さんは声のトーンを変えずに、訥々と質問を続ける。

「結衣から話を聞いた時、妙に君の名前に聞き覚えがあった。わたしがまだ一色の家のメイドだった時、当主が一度だけ口にしていたのを聞いたからだ」

 もしかして、それは。

「羽月 篝くんには申し訳ないが、結衣の治療を優先させてもらおう――と」

 あの日に足を失ったメロスが、待合室で立ち尽くす。
 膝の間からワックスで加工された床を見る。ネコと共にあった、幼き俺が立っていた色無き世界の日々が手を振っていた。

「――――君が、あの時の少年なのか」
「………」

 静かに口を噤む。否定も、肯定もしない。
 しかしその行為こそ、肯定以外の何物でもない。

「そうか……名前を聞いたとき、もしやとは考えた。それでも、それでもあの子があんなにも楽しそうに君の事を語るのを……止められなかった。全部わたしの杞憂で、そんな皮肉めいた偶然などありえないと考えていた……いや、そう思い込みたかったんだ」

 丁寧に手を添えて、深々と周さんが頭を下げる。
 深く深く過ちを噛み締めて、震えた声で言った。

「本当にすまなかった」

 思い返す。そう遠くない、あの日。
 あの渓流の懺悔で、過去から救われたのは、結衣だけじゃない。
 たとえきっかけが、結衣の傷を癒すための関係だったとしても。

「周さん」

 内側を刺す痛みを我慢しながら、胸いっぱいに隅々まで息を吸い込む。
 待合室の消毒液の匂いが、この瞬間だけは、渓流の潤いで満ちた香りへと変わる。

「あの日、手術を受ける筈だった少年は――――――確かに、俺です」

 結衣が前を向く事を、約束してくれたから。
 奪った者の責任を、負うと約束してくれたから。

 結衣の未来を守れたのならば――――俺は。

「ちょっと一色さん、まだ動いちゃダメですよ!」
 
 静寂の世界を打ち破る様に、待合室の扉の向こうで僅かに声が聞こえた。女性の声だ。
 扉越しに聞こえた、ほんの小さな声だった筈なのに。
 脳内で僅かな違和感が、耳障りなハウリングを起こし指先まで身体が強張る。

「周さん」
「どうかしたか?」
「今の声、聞こえましたか」

 一筋の冷たい汗が、存在感を隠さず背を伝う。
 待て。待ってくれ。
 ………聞かれたのか? 結衣に?
 一度の大きな鼓動のあと、強烈な吐き気が襲い全身の産毛が逆立った。

「少年⁉」

 俺は弾かれた弾丸が如く、全力で扉の方へ走り込む。
 引き戸を開けて勢いよく身体を乗り出すと、看護師さんが眉を潜ませて廊下を見ていた。

「もう、あの患者さん」
 朧げながら、エレベーターへと続く角道を、一つの人影が過ぎていくのを捉える。
 あの儚い白髪を間違う訳が無い。
 結衣だ。
 聞かれていた。周さんとの話を、全部。
「待ってくれ、結衣!」

 再び全力で、駆け出して後を追う。
 角を曲がった瞬間には、既に結衣の姿はなかった。
 眼前のエレベーターはチンっと音を鳴らしてランプが灯り、下階へ着いたことを示す。

 猛烈に、嫌な予感がした。
 思考する時間もなく、すぐ横にある階段へと駆け込む。

「っはぁ……くっそ、遠いなっ!」

 駆け降りても、駆け降りても階層が変わるのがあまりに遅い。
 なだらかに続く階段は何度も折り返し、その終わりすら見えない。
 落下するのとほとんど同じ要領で階段を下り続け、軋む思考を叩き起こす。

「っは、はぁ!」

 既に疲弊し切っていた体力が底をついて少し経った頃、エントランスへと辿り着いた。
 エレベーターは、全て一階で停まっていた。
 動悸で滑る視線を、正面玄関の自動ドアの方へ向ける。

「結衣っ!」
 ガラスの自動ドアの向こう側では、一台のタクシーが発車する瞬間だった。
 黒色で縁取られた、濁り緑のタクシー。その後部座席。
 その白髪は、夕暮れの美術室の色ではなく、遮光ガラスの薄暗い色に染まっていた。

 ズボンのポケットに突っ込んだスマホが震える。周さんだ。

「少年! 結衣が病室から――」
「すみません、追いつけませんでした」

 食い気味に応え、荒れる息を抑える。
 少し間があってから、スマホのスピーカーが小さく震えた。

「すまない少年……少し休んでくれ。結衣はわたしが探しておく」
「……見つけたら連絡しますから」

 それだけ言って無理矢理、通話を終了する。
 スマホが再び震えるが、ポケットにしまい込んで画面は見ない。
 冷静じゃないことは、自分でも痛いくらいわかっていた。
 けれどそんな些細なことは、理由にならない。
 結衣の傷を癒す筈だった俺が、彼女の最も深い傷をより残虐に抉ってしまったのだ。
 悲鳴を上げる身体を無視して、俺は自動ドアへと足を向けた。

 病院を出て、すぐ右手。いつか、明澄夏からメッセージを受け取った坂道。
 周囲の環境も同じで、太陽が沈んだとはいえまだ夜とは呼べない逢魔が時。

 走る。ただ、走る。
 そして、考える。

 結衣が病院を抜け出して向かった先は、どこだろうか。
 美術室。コンサートホール。ショッピングセンター。
 ……あるいは。あの日の、渓流。

「はぁ、はぁ」

 まずは、学校だ。
 学校に行って、自転車を回収する。
 そしたら、自転車で、足が千切れても結衣を探し出す。
 一刻も早く。結衣と会って、伝えなければ。

 …………何を?
 ふと、走る足が緩まる。
 俺は結衣に会って、何を伝えようとしている?

 気が付けば、学校の駐輪場まで歩いていた。

「…っはぁ、はぁはぁ」

 足が止まった途端、吐く息が破裂する。滲む汗が、襟足を濡らす。

 結衣に手術を奪われ、夢へと続く道を奪われたのは、俺だ。
 結衣に奪った者として、果たすべき責務を果たせと言ったのは、俺だ。
 結衣に絵を描いてほしいと、前を向いて歩けと言ったのは、俺だ。
 結衣に真実を隠し、最悪のタイミングで深く傷を抉ったのは……俺だ。

「はぁ、っはぁ……全部……っぁ……俺、じゃないか」

 まるで自分がヒーローであるかの様に、自惚れていた。
 今、俺が結衣を追いかけて。
 何の意味がある。何が………変わるっていうんだ。
 
「……篝?」

 そよ風にかき消されてしまいそうな、弱弱しい声。
 横に立っていたのは、明澄夏だった。
 自転車を押して、呆然と俺を見つめている。

「明澄……夏……」

 声を出そうとする喉が、擦れて息切れる。

「結衣、を……見つけ……ないと」

 過呼吸と乾ききった唇が、懸命に力んだ言葉を阻んだ。
 膝から爪先にかけての筋が、ズキンと痛んで痺れる。
  
「あたしさ、コンクールで金賞取ったんだ!」

 突然、活力のあるハッキリとした明るい声色が飛び跳ねた。
 満面の笑顔を見せる明澄夏。

「部長も先輩からの指名だから頑張ったんだけどさ、ほらあたし、ストイック過ぎるところあるし向いてないかな~とも思ってたんだけど」

 違和感。
 コルクの板に、画鋲で張り付けただけの背景。
 あまりにチープなスポットライトと、演じる気もない明澄夏。

「ソロパートもすっごい緊張したけど、ほんっとに……上手く演奏できてよかったー」

 正面に立つ俺は、何も言わない。
 何も、言えない。

「でもこれで、全部終わったから……やっと言える」

 明澄夏が目を細めて、はにかんだ。

「ねぇ篝」

 やめろ。頼むから、もう辞めてくれ。
 いつか河川敷で燃えた情熱が、今はひどく脆く揺らいでいる。

「ずっと前から好きでした――――あたしと付き合ってください」

 なら。
 なら、どうして、そんなにも。
 涙を流してるんだよ。必死に、引き裂かれた胸を押さえて庇ってるんだよ。

「いやー、やっと言えたけど、やっぱり言葉に出すと照れるね!」

 明澄夏の潤んだ大きな瞳が、街灯を反射する。
 薄影の中で溢れ続ける大粒の涙が、何度も何度も同じ道を辿る。

「うーんと、部長として頑張った吹奏楽に、チャップリンで料理食べてもらう事でしょ? ずっと想ってた篝に告白もしたし………ほら、あたしはやりたい事は全部やったからさ」

 明澄夏は、涙でくしゃくしゃになった顔で笑って見せた。

「――――篝もさ、自分のやりたい事に素直になってよ」

 身体の中を巡る粒が、一斉に中心を目指して大きく波打つ。
 研ぎ澄まされた神経が、僅かに吹く風の吐息を受け止める。
 吹き飛ばされた。―――― 頭の中の、黒い霧が全部。

 やりたいことに、素直に。
 俺の、やりたいこと。

「明澄夏」
「なーに」

 明澄夏は、小さく微笑んだ。

「自転車、借りていいか」
「うん」

 差し出された自転車のハンドルを、左手でギュッと強く握る。

「明澄夏」
「うん」
「ごめん、明澄夏とは付き合えない」
「そっか」

 穏やかに目を瞑った明澄夏が、軽く頷く。そう答えるのが、正しいかの様な。
 風に揺れる桜みたいに、暖かくて優しい笑顔だった。

「行ってくる」
「うん」

 行き先は、決まっている。

「篝」

 何度も倒れかけた足で、ペダルをに足を掛ける。
 とん、と軽く明澄夏が俺の背中を叩いた。

「いってらっしゃい」

 全力で、ペダルを踏みしめて。
 猛スピードで、一点だけを目指して走り出す。

 俺がすべきことなんかじゃなく。
 俺がやりたいことのために。