結衣ちゃんと篝が、喫茶チャップリンを出てから一時間ほど。
 あたし、真宮 明澄夏は、お湯に浸かったままジップロック越しのスマホを操作して何度もチャットアプリの履歴を見返している。

『明澄夏、今日はごちそうさま』『お代、本当によかったのか?』
『いいの、あたしが誘ったんだから』

 あたしのこと、少しでも知ってもらえたんだから。

『まぁ美味しかったなら、何より♪』
『あぁ、本当にめちゃくちゃ美味しかった』『また遠くないうち、顔を出させてもらうよ』
『はいはーい♪』
『親父さんにもよろしく言っておいてくれ』

 お父さんにも、よろしく。か。
 うん、そっか。

『それじゃ、おやすみ』
『うん、おやすみ』

 口元をお湯につけて、ぶくぶくぶく。
 まだそう長くお湯につかっている訳じゃないけど、頬が熱くなってきた。

「……ふたりとも、喜んでくれてよかったなぁ」

 ついさっきの事だから、当然ではあるんだけど。
 ウチの店のテーブルに、結衣ちゃんと篝が座っているのがどうにも不思議な感覚だった。瞼の裏に焼き付いた視界が、最新のビデオカメラみたいに鮮明に思い出せる。
 結衣ちゃんは難しい顔でメニューとずっと睨めっこして、結局決めるまでに十分近くかかっていたっけ。最後にはオムライスにして、小さな口で何度も美味しそうに噛み締めていた。
 別のお客さんもいるんだし、忙しいだろうから大丈夫って言ってるのに、お父さんはキッチンを出て二人に挨拶しようとするし。お兄ちゃんは、妙にグラスに水を入れようとするし。確かにあたしの育ったお店や味を知ってほしいとは思っていたけど、なんかあたしだけ授業参観みたいで……ちょっと恥ずかしかった。
 そういえば、ハンバーグを注文した篝がデミグラスソースを絶賛していた時には、変に顔がにやけない様に我慢するのが本当に大変だったけ。結局そのあと、お父さんがデミグラスソースの下準備はあたしがしてることバラしちゃったし。
 ……でも、明日のコンクールの気分転換のつもりだったけど、本当に楽しかった。

「さて……っと」

 のぼせる前にお風呂を出て手早くパジャマに着替え、乳液や化粧水などのケアをする。
 脱衣所から出ると湯船で火照った身体には空気が冷たくて、小走りで階段を上った。

「明澄夏」

 少し急な階段を上がってすぐ、聞きなれた声で呼び止められる。
 扉の開いた部屋から顔を覗かせてみた。
 すると、いつも通りのパソコンのモニターをみる坊主頭の後ろ姿。

「ん? なぁにお兄ちゃん」
「あれ、明日だっけか」
「なにが?」
「コンクール」

 びっくりした。お兄ちゃんから吹奏楽の話題が出たことなんてなかったから。

「お兄ちゃん、知ってたの?」
「あれだけ熱心に練習してたら、気になるだろ」

 カチャカチャとコントローラを操作する音がなる。
 その音に紛れて、お兄ちゃんはいつもの口癖を口にした。

「ん」

 その「ん」の意味がわからなくて、あたしはその場で何度か目を瞬かせる。
 これはもしかして、お兄ちゃんなりの頑張れって意味の「ん」なのかな?

「明澄夏、頑張れよ」

 違った。照れ隠しの「ん」だったみたい。

「うん、ありがとう。頑張る」
「ん、おやすみ」
「おやすみ」

 私は、お兄ちゃんの部屋をあとにした。
 お兄ちゃんは結局、一度もこっちを向かずに話していた。

 自室。ベッドの横、カーテンを横に除けて窓のカギに手を掛けると、ほんのりと冷たい。
 静かに開いた窓の向こう側には、紺色の画用紙に散りばめられた星屑が瞬いていた。
 空気は澄んで、どこからか吹いた心地いい夜風が、首後ろの髪の間を透き通ってゆく。

「ん……気持ちいい」

 さて。卓上に置いてあった荷物を膝元に乗せ、皮のケース蓋に手を掛ける。

「よいしょっと」

 中から顔を覗かせたソレは、いつだって重厚感のある銀鼠色を輝かせていた。
 決戦前夜の静かさを奏でる夜空に、そっと静かに掲げてみる。
 ……大粒の涙を流してから一年間、何度も何度も数えきれないくらい手にしてきた。

「明日、か」

 どの賞ももらえない学校があるから、銀賞をもらえる学校がある。
 銀賞で敗れた学校があるから、金賞を手にする学校がある。

 ねぇ聞いてよ――――あたしの相棒。

 あたしが注いできた青春、明日で全部が決まるんだよ。
 今日まで楽しいことばかりの道じゃなかったけど、一緒にいてくれて、ありがとう。
 コンクールに、長岡祭に参加する全ての吹奏楽部は、あたしたちと同じ様に全力で挑む。それでも、絶対に私たちが掴み取る。絶対に、絶対にだ。
 
 明日。
 全力で向き合ってきた吹奏楽で、最高の結果で区切りをつける。
 
 ――――やっと、胸を張って。あたしは篝に想いを伝えられるんだよ。