電車の中はクーラーが効きすぎていて、私、一色結衣は、必死にくしゃみを我慢した。
 駅についてもお昼と呼ぶには少し早い時間で、私と篝くんはバス停のベンチに腰掛ける。

「結衣、体調は大丈夫か?」
「今日は絶好調です」

 温泉街の時は、ごめんなさい。
 声には出さないまま、私は心の中で謝った。

「明澄夏は……まだみたいだな」
「まだ、集合時間にはちょっと早いですから」

 バス停の裏の檸檬の木が、ほんのりと甘い香りで風に揺れる。
 いつもの制服と違って、私は温泉街に行ったときと同じTシャツの上にシースルーレースのカーディガンとジーンズ。肩掛けのミニポシェットと、頭には日除けにツバ付きの帽子を被っている。
 横に座る篝くんは、制服とは大きく印象の変わるオーバーサイズなパーカーと、ワイルドバンプを履いていて。
 いつもと違う時間、違う服装、違う場所。
 理由は上手く説明できないけど、なんだかちょっとだけドキドキする。

「なぁ結衣」
「は、はい!」

 びっくりして、少しだけ声が上ずった。
 けれど、篝くんはそんな事に気づく様子もなく。
 バス停のトタンの屋根の隙間から、ジッと空を見上げていた。

「あの雲、ネコっぽくないか?」
「あ、はい。ですね」

 うん。いつもの篝くんだった。
 ふと、座ったままのベンチを見下ろす。
 色はわからないけど、少し塗装の剥がれたベンチは、どこか美術室の扉に似ている。
 頬が緩んだ。全部知らない世界に来たみたいで、ほんの少しだけ怖かったから。

「あの、篝くん」
「どうした?」

 ぼーっと、どこかを見ていた篝くんが、こっちを見ずにぼーっと返事を返した。
 気持ちよさそう。私も、ぼーっとしよう。
 澄み渡る空の色は、わからないけれど。心地よさを感じることはできた。

「……いい天気、ですね」
「だな」

 今でもたまに、篝くんと出会った日を夢に見る。
 あの日から、私のすべてが動き出した。
 灰色に染まった世界に生きるネコさんと、そこで生きていた篝くん。

「ほんとに、今日もいい天気です」
「眠くなるくらいにな」

 ふたり、またぼぅっとする。

「そういえば」

 ぼうっとしたまま、篝くんが言った。

「シュレディンガーの猫って、知ってるか?」
「シュレ……ネコですか?」

 聞き慣れない単語に、思わず私は聞き返してしまう。

「量子力学の思考実験の一種らしい。小さな部屋に一匹の猫、時限爆弾を用意する。この時限爆弾は半分の確率で爆発し、爆発すればネコは確実に死亡する状況を作る」

 篝くんは、遠くの空を見つめたまま。

「すると次に扉を開ける時まで、ネコが死んでいるのか、生きているのか誰にもわからない……。つまり誰かが部屋の中を観測するまで、ネコは生きている状態であり、死んでいる状態でもあるって話らしい」

 よくわからないけど、と篝くんは前置きを置いてから。

「なんでネコに酷いことすんだろうな」

 つい、私の頬が緩む。……でもたぶん、そういう話じゃないんだと思います。
 二人が座るバス停の中を、透き通るミントと檸檬の風が過ぎてゆく。
 ――――あの、篝くん。 

「やっほー!結衣ちゃんに篝も!」

 バス停から顔を覗かせると、手を振る明澄夏さんが見えた。
 デコルテの上に着たシアーシャツはスッキリとしたシルエットを見せ、ロングパンツはスポーティーな魅力をさりげなく強調する。

「ごめんね、もしかして待たせちゃった?」
「いえ!私たちも丁度、いま着いたところですから」

 隣の篝くんも無言で頷いて、それを肯定した。
 明澄夏さんが来て、どこか、ちょっとだけの安心。
 篝くんに何を言おうとしたのか、自分でもよく分らなかったから。

「それで明澄夏、今日はどこに行くんだ?」
「うーん、適当に買い物と、あとは夕飯たべて解散かな」

 篝くんは、慣れた手つきで上ポケットからスマホを取り出す。

「了解、親に夕飯いらないって連絡入れとく」
「あ、私も連絡しておきます」

 メッセージアプリで、周さんを選択してメッセージを送る。
 周さんと明澄夏さん、篝くんしか連絡先は持っていないけど。

「ささ、貴重な休日、思いっきり楽しんでいくよー!」
「お、おー!」
「おー」

 鼻息荒く天に腕を突き伸ばす明澄夏さんに、私と篝くんも続けて同じポーズを取る。
 するとタイミングを合わせた様に、丁度良くバスが目の前で停まった。

 『はい、発車しますぅ。ご注意くださぃ』
 
 一番奥の席に3人仲良く連なって座る。窓側から私、明澄夏さん、篝くん。
 バスが右へ左へ、ガタン、ごとんと揺れてゆく。時々運転手さんが、しゃがれた声で「はい止まりますぅ、ご注意ください」と放送を入れる。バスは再び走り出して、右へ左へがたんごとん。
 思い返してみれば………バス、生まれて初めて乗ったかもしれない。
 停まって、進んで。周さんの車と違って、いつもよりもずっと高い位置で流れる景色。
 雲、道路標識、車、歩行者、電柱、植木、駐車場。全部、同じ色に見えるけど。
 初めて感じる、声に出すには憚られる感情が。胸の奥にいくつも浮かび上がってくる。

「ねぇ結衣ちゃん、正直に話してね。……違ったらゴメンなんだけど」

 いつになく真剣な表情の明澄夏さんが、耳元で静かに囁いた。
 私は、何も言えなかった。溢れだしてしまいそうだから。
 髪をすり抜けた吐息が耳に掛かって、一気に背中の鳥肌が逆立ってゆく。

「もしかして、酔った?」

 ごめんなさい、正直もう吐きそうです。
 

「す……すみません……」
「あはは、わかるかも。あたしも慣れない内は割と気持ち悪くなったから」

 ショッピングモールに入ってすぐ、右手のベンチに私はぐったりと横たわる。
 その横で、篝くんと明澄夏さんはなんの不調なく立っていた。どうして。

「水のおかわり、いるか?」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」

 明澄夏さんが介抱してくれている間に、篝くんが水を買ってきてくれた。
 酔ってしまったのは、バスの中で視線を右往左往させたことが原因らしく、確かにバスから下車してからは良くなってきた……と思いたい。 

「まぁ車酔いだからな。休んでいれば、じきに楽になるだろ」
「そうだね。しばらくはあんまり動かない方がいいかも」

 そんな。せっかく友達と遊びに来たのに。
 あまり調子は良くないけど、ゆっくりと身体を起こしてなんとか声を絞り出す。

「時間も限られてますし、私の事は気にせず、お買い物に行ってきてください」
「いやいや、調子悪い結衣ちゃんを置いてはいけないよ」
「いえ、明澄夏さん。私はひとりでも大丈夫です」

 ちょっと無理して、両腕をムキッとしてみたりする。ぜんぜん筋肉はないですけど。

「いえ、今日はコンクールが近い明澄夏さんの気分転換の日ですから」
「えっと……そうなんだ?」

 半分目を閉じてジッと視線を送る明澄夏さん、その先の篝くんはバツが悪いのか不自然過ぎるくらい反対側を見ていた。
 いつもお姉さんみたいに優しい明澄夏さんだけど、ここだけは甘えたくない。
 吹奏楽部の部長として毎日遅くまで練習を欠かさず、誰よりも明るく前を向いて部員の士気を高める明澄夏さんの在り方を、何度も篝くんからも聞かせてもらっていたから。
 きっと私が絵を描いている時と同じ感情、同じ在り方なんだと思った。
 キャンバスに向いた時、楽器を手に持った時。この世界から抜け出した感覚が、好きで好きでしょうがなくて、目を覚ましてしまうのが惜しくて惜しくて仕方がないって気持ち。
 だって、吹奏楽と向き合う明澄夏さんは、どんな名画よりも輝いて見える。

「私は大丈夫ですから、お買い物を楽しんできてください」

 いつもの調子で頭を少し掻いた篝くんは、明澄夏さんの方を振り返って。

「わかった。結衣は俺が見ておくから、明澄夏は買い物に行ってくるといい」
「ダメです。篝くんは、ちゃんと明澄夏さんと一緒に買い物に行ってきてください」

 友達と巡るからショッピング。一人でいったら、それは唯の買い出しになってしまう。
 ……もっとも、この理論だと私は買い出ししかした事がないことになってしまうけど。

「それに、ここで篝くんに介抱してもらうと、何か負けてしまった気がするので」

 すると、篝くんと明澄夏は、互いに見合わせてから軽く笑い合った。

「近くの店にいるから、具合が悪くなったらすぐに呼ぶんだぞ」
「通りかかる人も、きっと助けてくれるから無理したらダメだよ」

 そう言って、お二人はすぐ目の前の雑貨店の方へ歩き出した。

「はーい」

 ベンチから手を振りながら、ハッと気がついた。完全に子供扱いです、私。

「……さて」

 二人の背中が見えなくなった頃、ショッピングモール内を見渡してみる。
 雑貨屋さんにコーヒーショップ、コンタクトレンズショップとドラッグストア。
 ストリートスタイルの専門店、眼鏡屋さんに入浴剤の専門店まで。 
 少し右にある女性下着の専門店では、店頭に大きくポスターが掲げられている。モデルの人がランジュエリーを纏ってベッドに腰掛ける姿には、視線を引き込まれる緩やかさがあった。
 色はわからないけど、大胆にレースをあしらったデザインだけで、誠に残念ながら私みたいなお子様には到底似合わないことだけは理解できてしまう。

「…………」
 ふと、そのポスターの目の前に佇む小さな影が目に留まる。
 最初はお店の宣伝をするための人形かと思ったけど、すぐに違うと気がついた。
 その場に立ったまま、キョロキョロと辺りを見渡していたから。少し辺りを右往左往しては、直ぐにまたお店の前に戻ってくる。
 キャップ帽を被った3歳か4歳くらいの、女の子。

「こ、こんにちは〜」

 声をかけると、女の子は太陽の様に眩しい笑顔を輝かせて振り向いた。
 そして私の顔を見るなり、表情はあっという間に曇ってしまい、今度はジッと下を向いてしまった。やっぱり。もしかしてこの子、迷子かもしれない。
 どうしよう、小さな子とお話したことなんてほとんど無い。

「お、お父さんかお母さんは、どこかにいらっしゃいますか?」
「…………」

 女の子は俯いたまま、 何も言わない。
 ギュッと袖を掴んだままの女の子の服には鼠のキャラクターがプリントされていた。
 私は、急ぎポシェットから、デッサン用のミニスケッチブックと鉛筆を取り出す。

「ちょっとだけ、待ってくださいね」
「………?」

 最速かつ最低限のクオリティは落とさない。鉛筆をスケッチブックに舞わせる。
 確か、背中にはしましまの模様があって。顔はモチッとしてて柔らかそうな感じ。
 視界の隅で、不思議そうに見上げる女の子の姿が映り込んだ。

「じゃ、じゃじゃーん! どうでしょうか!」

 屈んで女の子と同じ目線で、完成したイラストを手渡してみる。
 記憶を頼りに描いたけど、大体の部分は同じだった……はず、おそらく。
 ちょっと違う気もするけど、これはこれで可愛いので許して欲しい。
 受け取ったイラストを受け取った女の子は、手品でも見たかの様にジッとイラストを見つめて、宝物みたいにそれを胸に強く抱いた。

「おねーちゃん、すごい!」
「うん、ありがとうございます」

 よかった。間違いじゃなかったみたい。
 でもきっと、明澄夏さんや篝くんなら、もっと上手に解決しちゃうだろうなぁ。

「お母さん、どこにいるかわかりますか?」

 お人形みたいな、小さく頭が横に振られる。
 けれど今度は、女の子は俯いてはいなかった。

「おかーさん、おみせに行ってるあいだにはぐれちゃったの」
「なるほど、大変ですね」

 屈んだまま掌を上にして、そっと女の子に手を差し出す。

「安心してください。お姉さんが、お母さんの元へ案内してあげますから」
「うん」

 さて、威勢よく言ったはいいものの。
 こんな時にどうしたらいいのかもわからず、とりあえず女の子の手を引いてサービスセンターへ向かった。

「はい、迷子のご案内ですね」

 どうやらサービスセンターは迷子センターも兼用しているらしく、女の子を預かって迷子の放送もしてくれる事になった。
 係員さんに頭を下げ、女の子に別れを告げようとすると、カーディガンの端が摘まれる。
 私よりもずっと小さくて、ずっと柔らかくて優しい手。

「おねーちゃん、いっしょにいて」

 困った。私はここにいてもいいのかな。
 そっと入口の係員さんに目配せすると、係員のお姉さんは笑顔で頷いてくれた。

「わかりました。お母さんが来るまで、一緒にいましょうか」

 迷子センターの柔らかいブロック椅子へ腰掛ける。
 女の子もおもちゃで遊ぶ他の子たちには混ざらず、私の横の椅子に座った。

「おねーちゃんも、ひとりになっちゃったの?」
「うーん……そうですね。私もそんな感じです」

 バス酔いで動けなくて、一人で待ってました。なんて恥ずかしくて言えない。

「こわくなかったの?」
「え?」
「わたしは、ひとりぼっちになって、こわかった」

 ぎゅっと掴んだ私の袖を、女の子は離そうとはしない。

「もうおかーさんに、あえないかもって。おもって。ひとりぼっちになっちゃうって」

 何気なく、女の子の小さな手の上に、そっと手を重ねる。
 温かい。純粋で綺麗で、涙が出てしまいそうな位に美しい無垢だ。

「大丈夫です。一人でも、ひとりぼっちになんてなったりしません」 
 潤んだ瞳の女の子が、私を見上げた。
 思い切り、笑って見せる。

「ひとりでも、ひとりぼっちじゃないの?」
「ええそうです。私も一人でしたけど、ひとりぼっちではありませんでしたから」

 一人で泣いていた灰色だけの世界を否定せず、不器用だけど背中を押してくれる篝くん。
 姉妹みたいに沢山の事を教えてくれて、楽しい毎日を一緒に笑ってくれる明澄夏さん。
 後継や家柄や周囲の視線など気にもせず、ただ私の身だけを思ってきてくれた周さん。
 やっぱり、ひとりぼっちなんかじゃない。こんなにいっぱいの人に支えられてる。

「だから、大丈夫です。お母さんも、きっとすぐに迎えにきてくれます」
「そういうものなの?」
「はい、そういうものなのです」

 重ねた手の上に、女の子はそっともう片方の手も乗せた。
 巡る血の色はわからない。でもお日様みたいに良い匂いで、とっても温かい。

「おねーちゃん」
「はい?」
「おねーちゃんのおてて、あったかい」

 二人とも温かいなんて不思議だけど、なんとなく理由はわかる気がした。

「あやの!」

 とその時、女の人の声がした。
 迷子センターの入り口には、長い髪を後ろで丁寧に結った若い女性が立っている。

「おかーさん!」

 飛び跳ねたポップコーンが如く、女の子は飛び出していく。

「ありがとうございます、本当にご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、好きでやったことですから」

 何度も何度も、女の子のお母さんが深々と頭を下げて礼を言った。
 迷子の放送を聞いたお母さんは、急いで駆けつけてくれたらしい。一緒に買い物をしていたらいつの間にはぐれてしまい、放送が入るまでお母さんも血眼になって女の子を探していたのだとか。

「おねーちゃん!」

 お母さんの足に抱き着いた女の子は、うんと背伸びしてから私の方を見た。

「はい」
「やっぱりわたし、ひとりぼっちじゃなかった!」

 不安なんて吹き飛ばしてしまう爽やかな笑顔に釣られて、つい私も微笑む。

「ばいばい、おねーちゃん!」

 手を振る。うん、ばいばい。
 手を繋いでいるのは、もう私じゃない。

「さて、私も戻らないとです」

 女の子の背中が見えなくなった頃、肺の空気が全部入れ替わる程に安堵の息が漏れた。
 篝くんと明澄夏さんに連絡せずに行動しちゃったし、心配をかけてしまっているかも。

「ひゃぁ!」

 突然、背筋に冷たいものが当たって、思わず私はネコみたいに跳ね上がった。
 振り向くと、ペットボトルの水を片手に悪戯っぽい笑顔を浮かべた篝くんと、どこか呆れながらも口元を緩ませている明澄夏さんが立っていた。

「一応、買ってきたけど必要なさそうだな。お疲れさん」
「……どこから見ていたんですか?」

 飲み物を受け取りながら問うと、二人は顔を見合わせてから目を細める。

「いや、つい今しがた着いたばかりだ」
「……ほんとですか?」

 別に悪事をしていた訳じゃないので問題はないけれど。なんだか少しむず痒い。

「結衣ちゃん」

 明澄夏さんが、両手を肩から回して優しく抱きしめてくる。

「ヒーローみたいで、かっこよかったよ」

 孤独だったあの子を、私は助けてあげられたのだろうか。
 孤独だった私を、篝くんが助けてくれたみたいに。

「さーさ、お次のお店へ向かおうか!」
「は、はい!」

 パッと私から離れて、再び専門店街へ向かう明澄夏さん。
 その後ろを、私と篝くんも続いて歩く。

「結衣、どうかしたのか?」
「あ、いえ。なんでもありません」

 いけない、いけない。ギュッと頬を両手で挟んで伏せる。
 今はこうして。どうしても緩む頬を誤魔化さないと。
  

 ◇◇◇
 
 迷子センターを出て専門店街に戻る為に俺、羽月 篝は、明澄夏と結衣に続いてエスカレーターを下る。

「あ、そういえば」

 エスカレーターの最前で立っていた結衣が、振り返り瞼を瞬かせた。

「どうして、丁度お二人は迷子センターにいたんですか?」

 連絡が付かない世間知らずな結衣となれば、ほとんど迷子の幼児と変わらない。
 だからショッピングモール全体へ、迷子センターで放送してもらおうと思ったのだ。
 ……とは、正直に言えるわけもあるまい。

「結衣ちゃんの姿が見えないから『きっと迷子の子でも見つけて、案内所に連れてってあげてるんだろう』って篝が言ったから、迷子センターに向かってみたの」

 一段下にいる明澄夏が、結衣の死角になる様に人差し指を小さく振る。

「ね、篝?」

 結衣の大きな瞳に、俺の姿が反射する。
 流石に先ほど結衣と一緒にいた女の子ほどではないが、やはり結衣も幼く見えた。

「篝くん、そうなんですか?」
「……まぁ、そんな感じだ」

 俺は、甘んじて明澄夏のフォローに乗っておくことにした。
 そうこう言っている間にエスカレータは終点へ辿りつき、振り向いていた結衣のつま先に、立つ地を吸い込んでゆく乗降板がコツンと触れた。

「あ、わたたた……」
「はい、大丈夫?」

 バランスを崩した結衣の手を取って、明澄夏は冷静にエスカレーターを降りる。

「あ、ありがとうございます」
「うん、気を付けてね」

 慌てる結衣の手を取って微笑む明澄夏は、やはりどこか仲睦まじい姉妹に見える。

「さて、これからどうしようか」
 少し先のベンチに俺たち3人は腰掛け、俺たちは一息つくことにした。
 明澄夏は買いたいものは揃ったらしく、結衣は特筆して買いたいものはないらしい。
 俺はというと、結衣や明澄夏とは違い、そもそも買うお金も持っていないので特に語ることもない。今日は明澄夏の気分転換かつ荷物持ちのつもりで来ているのだ。

「それじゃ、そろそろ夕ご飯でも行こっか」
「どこの店とかは決まってるのか?」
「うん、一応」

 俺と結衣の間に座る明澄夏がスマホのマップに映った、ある店をタップする。

「喫茶チャップリン、ってところ。まぁ喫茶というより、レストランなんだけどね」

 スマホに、コーヒーと共にズラリと並んだ料理の画像が映し出される。
 きめ細かい湯気を上げる料理は、どれも作り手が丁寧に作っているのが伝わってくる。
 結衣は宝石の様な目を輝かせては、はー! と、声にならない歓声を上げている。

「明澄夏さん、明澄夏さん! どの料理もすごくおいしそうです! どんなお店なんですか?」
「うーん、基本的には洋食かな。わりとガッツリしたのもあるけど」

 メニューを見ると、ハヤシライスやハンバーグ、チーズフォンデュなんてものもある。
 コーヒーの深みが増す様なレトロな店内に、コーヒーの種類や料理に合わせて適切に皿も変更しているらしい。
 やはり、写真一枚でもわかるこだわりの深さ。
 ……しかしその分、俺の軽い財布では心もとない。

「でもこのお店、お高くないのか?」
「ううん、大体どの料理も700円くらいかな」

 チェーンのレストランと、ほとんど同じくらいか。むしろ少し安いかもしれない。
 そのくらいなら、俺の持ち金でも問題なく好きなものを食べられる。

「それじゃ、行くか」
「おー!」
「は、はい!」

 ショッピングモールを後にし、バス停から再びバスに乗り込む。
 先の反省を活かし、酔いやすい結衣を運転席の真後ろの席に座らせ、俺と明澄夏はその横に立ち形でバスが発進した。

「……なぁ、結衣」
「なんでしょう、篝くん!」
「……いや、なんでもない」

 結衣が窓の外を見つめる目力がすごくて、過ぎゆく人がビビっている気がする。
 おそらく、先ほどネットで目にした『遠くを見ていると酔いにくい』を懸命に行なっているんだろうが、これはむしろ逆効果な気もする。きっと言わないほうがいいのだろう。

 『次はぁ、中越ぅ。中越に停まりますぅ』

 幸い先のバス移動ほど時間はかからず、15分ほどで目的のバス停へ到着した。
 バス酔い対策が功を成してか、今回は結衣の体調も万全だ。

「さて、こっちこっち」

 バス停に降りると、明澄夏はスマホを見ることもなく坂道を歩く。俺と結衣も続く。
 進むにつれて坂道は緩やかになり、取り囲む建物は住宅街から商店街へと姿を変えた。
 夕焼けの様に優しい色をした古い暖色ライトが、商店街をほのかに照らす。

「ラッッシャイ! はいラッッシャイ!」
「今日はいい大根が入ったんですよぉ、おでんの具にでもどうですかぁ?」
「あら、高橋さんちのお坊ちゃん、帰ってきたのぉ! よかったわねぇ」

 溢れるほど人々で賑わっている訳ではないが、その商店街には確かに活気が満ちていた。
 少し歩くと、横にいる結衣がぎゅっと俺の服の袖を摘まんでくる。

「どうかしたか?」
「……すみません、人が多いのはあまり得意でないんです」

 結衣は怯えているのではなく驚いているようだった。
 目の前の風船がいきなり爆発して、ビックリした子供みたいな感じ。

「お! 明澄夏ちゃんじゃねぇか!」

 先を歩く明澄夏に、店から出てきた気前の良さそうなおじさんが声をかける。

「どうだい明澄夏ちゃん、揚げたてのコロッケ食べていくかい!」
「こんばんは、元井のおじさん! ごめんね。あたしたち、これから夕飯だから」
「おぉそうかい、そいじゃつまみ食いはいけねぇな! 親父さんのご馳走が入らなくなっちまう!」

 豪快にガハハハと漫画の如く大笑いするおじさんに手を振って、明澄夏は道を進む。
 俺も軽く会釈すると、隣の結衣もそれを真似た。

「おや、こんばんは、明澄夏さん」 

 少し歩いて、また明澄夏が声を掛けられた。
 今度は八百屋で椅子に座っていた、マル眼鏡がよく似合う優しそうな初老の男性だ。

「平原のおじさん、こんばんは」
「はい、こんばんはぁ」

 初老の男性はゆっくりとお辞儀をした後、穏やかに目を細めて俺と結衣の方を見た。

「この子たちは、明澄夏さんのお友達かい?」
「うん、これから夕飯食べるところなの」
「そうかい、この子が……」

 あまりに細い目なので、開いているのか閉じているのかもわからない。
 けれど、初老の男性は俺と結衣を。特に、じっと俺を見据えている……気がした。
 なぜだろうか。芯のようなものを見透かされている気がして、どうにもこそばゆい。
 数秒してから、初老の男性はとサンタクロースの様な微笑みを浮かべて言った。

「うん、あそこの料理はどれも絶品だからねぇ……よく味わってくるといい」
「どうも」「………!」

 再び軽い会釈をする俺を見て、またも結衣が急いで頭を下げる。
 それから商店街の数人に明澄夏は話しかけられ、全員と軽い挨拶をして通りすぎていく。
 結衣は、俺の服の袖は離さないままポツリと呟いた。

「明澄夏さん、お知り合いが沢山いるんですね……」
「うん。まぁ生まれ育った街だから、みんな遠くない親戚みたいなものかも」

 明澄夏は「たはは」と軽く頭を掻き、どこか恥ずかしげに頬に朱色が混ざる。
 生まれ育った街の人だから、親密になるってわけでもないと思うが。
 現に俺は、生まれ育った故郷の街でも近隣の住民とあんな談笑はしたことがない。
 きっと、この地域全体を包む親近感こそ、ふるさとと呼ばれるものなのかもしれない。
 使い古されたクサい言葉ではあるものの、困っている他人へ手を差し伸べる明澄夏が育った地域だと言われると、どうにも納得してしまうものである。

「この辺りで育ったってことは、これから行くチャップリンて店にも何度か行った事あるのか?」
「うーん、行ったことあるっていうのはちょっと違うかも」

 明澄夏が足を止めた、商店街の端。
 レンガと、色褪せた赤と白の庇テントの店。
 太陽の沈んだ町の静けさと、薄れることのない存在感の両立は一種の特殊な領域にすら思える。外見はまるっきりスマホで見たまま。間違いない、ここが喫茶チャップリン。

「さっきの話だけどさ」

 チャップリンの扉に触れた明澄夏は、軽くターンで振り返って、得意げに眩しいくらいのウインクをして見せた。

「知ってほしいから、もっと。あたしのこと」

 いつもと違う悪戯っぽい明澄夏の表情が、どうにも目に刻まれて離れなかった。