あたし、真宮明澄夏の家は最寄り駅から二十分ほど歩く。
 
 その道中にある、廃れてはいないけど、賑わっているとも言いづらい田舎町の商店街。
 若者にウケのいい街ではないかもしれないけど、活気溢れるこの街が好きだ。
 今はシャッターが閉まってるけど、元井さんのお肉屋さんに、平原さんの八百屋さん。松永さんの眼鏡屋さんと、小岸さんの文具屋さん。
 その端にある、夕焼けに取り残されたレンガと日焼けで色褪せた赤と白の庇テントの店。
 あたしが生まれるよりずっと前から、街に馴染んでる。喫茶、チャップリン。
 それが、あたしの家の名前だ。

「ただいま」

 チリンと裏口玄関のベルが鳴る。返事はない。
 お父さん、厨房で明日の仕込みしてるのかな。
 階段を上がって、自分の部屋に荷物を置いていく。
 薄暗い廊下を抜けて半透明の扉を引くと、ぼんやりと蝋燭のみたいな灯りが見えた。

「お父さん」
「あれ、明澄夏。おかえり」
「うん、ただいま」

 清潔に整えられた髭と櫛ですっきり整えられた揉み上げ、原木みたいに丸い身体の父には、まるで生まれる前から定められてるみたいに白いコック服が良く似合う。
 見立て通り、お父さんは寸胴の前に立って明日のビーフシチューの仕込みをしていた。
 立ち上る湯気は換気扇に吸われてゆくも、トマトの芳醇な香りは調理場を彩る。
 お父さんは数種類のスパイスを丁寧に入れて、少し惚けてから器用に寸胴鍋を大きくかき混ぜる。
 ………我が父ながら、幸せそうで何よりです。

「また薄暗い中で作業してる」
「ははは、レトロなのがいいんだよ。レトロなのが」
「目が悪くなるよ」

 お父さんは、はははと笑って誤魔化した。
 厨房のシンクで手を洗い、あたしも棚から縞模様のエプロンを身につける。
 上ポケットに入っているゴムで髪を結って、換気扇についた付箋を見上げた。
 えっと玉ねぎ、ひき肉とセロリ、にんにく、赤ワイン……。
 はいはい……今日は、デミグラスソースね。

「いつも吹奏楽もあるのに悪いね、ほんと助かってるよ」

 みじん切りにして野菜を炒め、ニンニクを潰している最中にお父さんが言った。

「いいの。吹奏楽も仕込みの手伝いも、あたしが好きでやってることだから」
 
 そう。吹奏楽も、洋食の下準備も、篝のことも。
 全部、好きでやってること。だから逃げるなんてありえない。
 長岡祭で最高の演奏をして、吹奏楽部みんなで金賞を手に入れるんだ。
 お父さんの下準備を勉強して、お店をみんなから愛される店として引き継いでいくんだ。
 ――――――全部、全部叶えてみせる。
 そうしたら、この燻らせた想いを篝に伝えるんだ。電車の中で隣り合わせで座って、一緒のイヤホンで音楽なんか聞いたりして………あれ?
 
 ……トトトトト、とリズミカルに包丁を動かしていた手が、ふと止まった。
 篝って、どんな音楽が好きなんだろう?  朝の占いとか気にするタイプなのかな?
 朝起きて一番にやることは? 子供の頃に怖かった絵本は? 
 ……やっぱり。あたし、篝のこと何にも知らないや。

「明澄夏? どうかしたかい?」
「……ううん、なんでもない」

 いや、違う。あたしは篝を知るのが、拒絶されるのが怖いんだ。
 ちょっと難しい小説が好きで、無口っぽいけど話してみると感情豊かで、優しいことを当たり前みたいにしちゃう。そういう表面的な篝しか、あたしは知らない。

「………」

 篝に知られるのが、幻滅されるのが怖いんだ。
 優しくなんかなくて頑固で負けず嫌いで、本当はジャガイモを剥く下準備で指を切っちゃったり、何度練習しても上手くいかなくて泣きながら吹奏楽を練習する、真宮 明澄夏を知られるのが怖いんだ。
 レトロと名のついた薄暗い照明灯が、ロンドンの街灯みたいに厨房の空で静かに揺れる。

「明澄夏? 本当に大丈夫かい?」
「…………」

 ………うん、ダメだよね。このままじゃ。
 もっと知りたい。もっと、篝のことを。
 もっと知ってほしい。もっと、あたしのことを。

「お父さん」
「うん?」
「来週、友達を呼んでもいい?」

 お父さんの口が、おの字になる。

「うちにかい?」
「うん」
「珍しいね」

 お父さんとこんなこと話すのなんて、小学生以来かも。
 お店の邪魔にならない様に、いつも2階のあたしの部屋で遊んでた。
 一緒に宿題したり、ゲームとか、トランプとかしたり。
 でも、今回は違う。篝に、あたしの事を知ってほしい。
 喫茶チャップリンで、あたしが育った味を食べて欲しい。

「夕飯、うちで食べさせてあげたいんだけど。いいかな?」
 目を瞑ったお父さんは、何度か顔を前後に振ったあと、何かを飲み込む顔をして。

「とびっきりのを、作ろうかね」
 それから、にっこりと笑って見せた。

 トマトスープに染まった厨房の扉を閉めて、薄暗い廊下の階段を上がる。
 お父さんが仕上げを代わってくれたから、今日の仕込みは思ったよりも早く終わった。
 さっさとお風呂に入って、寝よう。明日も朝練あるし。
 階段を上がってすぐ手前の部屋は、厨房と対照的に電子的な照明でピカピカ光っている。

「お兄ちゃん、ただいま」
「ん」

 坊主頭はヘッドホンをつけたまま、モニターの前から振り返らない。
 お兄ちゃんの、ん、には色んな意味がある。
 おかえり、了解、あとでやるつもり、ありがとう。それが全部、ん。

「ん、明澄夏」
「なにー?」

 身体だけ乗り出して、お兄ちゃんの部屋の扉から顔を覗かせる。
 珍しい。お兄ちゃんが声をかけてくるなんて。
 昼間にチャップリンでウェイターをしてる以外は、いつもずっとゲームしかしないのに。
 相変わらず振り返らない坊主頭は、手元のコントローラをかちゃかちゃ忙しなく操作している。

「親父、下でなんかしてたのか」
「ううん、いつも通り下ごしらえしてただけ」

 ちなみに、お兄ちゃんはウェイター以外は何もしない。
 特にこの店に思い入れはないって本人も言ってた。別に悪いこととは思わないけど。

「そうか」
「そう」

 着替えを用意して、若干急な階段を下ってそのまま洗面所へ。
 うー寒い。暖房のない洗面所は冷え込むから、あんまり長居したくない。
 手早くジップロックにスマホを入れて、衣服をポイポイ洗濯機へ放り込む。

「うぁ!」

 お風呂場のタイルが冷たくて、思わず変な声が飛び出た。
 温かいシャワーで身体を洗って、念入りに足元をかけ流す。
 トリートメントと、ヘアオイル。コンディショナーと順に手を伸ばす。
 浴槽に腕を伏せて、脱力。やっぱりお風呂が一番リラックスできるなぁ。
 さて、さてさて。
 チャットアプリを起動して自分に言い聞かせるみたいに、操作しづらいジップロック越しで猫のアイコンをタップした。

 『篝』『起きてる?』

 ものの数秒で既読がつく。

 『なんだ』

 チャットだし、絶対にそんな訳ないんだけど。
 いつも一瞬だけ、カメラがオンになってないかと緊張する。

 『週末、空いてたりする?』
 『緊急の用事はないけど、なんでだ?』

 なんで。なんでかぁ。
 うーん、そうだなぁ。

 『遊びに行かない?』

 既読がついてから、数分の間があった。
 ……何か悩んでる?
 ピロン、と軽やかな通知音。

 『長岡祭、近いんだろ? 大詰めだし、吹奏楽に集中しなくて大丈夫なのか?』

 長岡祭。あたしたちの最後の決戦の場、真剣勝負のコンクール。
 それでも吹奏楽部のみんなも、あたしも、時間が足りないなんて練習はしてきてない。
 部長として、絶対に金賞を取れる。そう自分に断言できるくらい、練習してるから。

 『あたしは大丈夫だよ。むしろ、ちょっとリラックスしたかったから』

 また、数分のインターバルが開いた。
 なんというか、篝らしい。
 画面の向こうでは真剣な顔で、返信すべき言葉を考えてるんだと思う。
 再びぽろん、と軽快な通知音が鳴る。

 『わかった。ちなみに、土曜と日曜どっちだ?』
 『日曜かな』
 『了解、ちょっと待ってくれ。先約が入ってるから確認してみる』

 もしかしなくとも、なんとなく予想はついていた。
 篝がずっと、放課後に通ってる場所に心当たりがあったから。

 『結衣も一緒でもいいか』

 やっぱり。一色 結衣ちゃん。
 あの子が可愛いからとかじゃなくって、篝にしかできない何かがあるんだって。
 事情は話してくれないけど、すべき事をしてるんだって、顔を見たらすぐにわかった。
 結衣ちゃんはいい子だ。一緒に美術室で過ごす時間が増えてから、これ以上ないくらいに実感した。いい子過ぎて、怖いくらい。
 あたしの事を姉みたいに慕ってくれて、本当はいけないらしいのに上手すぎる絵までプレゼントしてくれた。
 絵の異次元さといい、苗字といい、美術をするために生まれてきたみたいな女の子。
 汚れなんて知らなくて、真っ白な天界からやってきた、か弱い天使みたいな女の子。
 こんな風に身勝手な嫉妬を感じたこともなくて、ちょっぴり負けず嫌いで可愛い女の子。

 ……ずるいなぁ。いいなぁ。
 いつの間に、名前呼びになってたんだろ。……ばーか。

 『いいよ』

 返信してから、スマホを桶に入れて窓枠に載せた。
 少し熱めのお湯に、口元まで浸る。
 あーあ。キーボードの文字で、表情まで届いたらいいのに。