まだ蛍光灯は点灯していない西階段。
色んな塗料が付着した美術室の木扉に手を掛ける。
「よう一色」
「こんにちは、羽月さん」
スケッチブックと鉛筆を持った一色が、穏やかに口端を上げる。
一色と出会ってから数日。俺は放課後に決まって美術室に顔を出していた。
「にゃー」
「お前また来たのか。毎日ご主人の元へついてくるなんて律儀な奴だな」
クロネコはいつも通り、一色の隣の席でごろんと寝転んでいた。
耳の間を撫でると、心地よさそうに目を細めてゴロゴロと喉を鳴らす。
「一色。こいつ、名前はなんて言うんだ?」
「え? その子って羽月さんの飼い猫じゃないんですか?」
俺たちは互いに、ぱちくりと目を瞬かせてから。
「一色の飼い猫じゃないのか。いつも美術室にいるから、家から一緒について来てるものかと思ってた」
「いえ、いつも私が美術室で絵を描いてると、いつの間にか隣に座ってます。羽月さんが撫でると落ち着いて全く動きませんし、てっきり羽月さんの飼い猫さんなのかと思ってました」
二人して、再び視線をクロネコに戻す。
「んにゃーん」
誰の飼い猫なんて、そんな人間の都合などネコには関係ないらしい。
大あくびのクロネコを見て、俺と一色は少しだけ噴き出して笑い合った。
「まぁ首輪もついてるし、どこかの飼い猫なんだろ」
「ですね。よく考えたら私たち、この子の名前も知りませんでした」
椅子に座った一色がスケッチブックを開いたので、俺も対面の俺も椅子に座る。
クロネコはバーの常連がいつもの席に座るみたいに小慣れた様子で俺の膝上で丸まった。
「今日は何を描いてるんだ?」
「今日もこの子です」
「にゃーん」
制服のボタンが気になるのか、膝元のクロネコがネコパンチを繰り返す。
「この子、羽月さんが撫でてないと、すぐにどこか行っちゃうんです。ポーズも保持してくれないですし、デッサンのモデルとしては困ったさんです」
「困ったさんですってお前な、ネコにそこまで要求するなよ」
「そのために羽月さんが撫でてくれるんじゃないですか?」
そういわれると、そんな気もしてくる。
それから、十数分後。
ふと思い立った俺は、スケッチブックの向こう側の一色に尋ねてみる。
「なあ一色。今書いてる絵、ちょっと見てもいいか?」
「いいですけど……私には色が濡れないので、絵として完成しませんよ?」
「ああ、全然かまわない――――――」
――――色が見えない一色が、作り出しのか。これを。
鉛筆一つで作り出された世界は、実に暖かみで溢れていた。
素人の俺でも理解できるほど、一色の絵は線の一本一本が繊細で軽やかで、それでいて泣きそうなくらい穏やかで。
写生の極点を正確な現実世界の情報を描写するならば、写真を超える美術は存在しない。
しかし、逆説的に言えば写真では現実以上の情報を詰め込むことは出来ないのだろう。
一色の絵には現実世界では存在しない何かが。
ただ存在を感じる事しかできない、掴むことの出来ない何かが。確かに存在していた。
「キレイだな」
「あ、あ……りがとうご、ざいます」
視線を上げると、頬に赤い斜線が入った一色が顔を逸らしている。
「どうかしたのか?」
「い、いえ。上手いと言ってもらえる事はままあるのですが……綺麗、とは初めて言われたので」
「そ、そうか」
なんだか俺も、妙に気恥ずかしい。
頭を振って、思い付きの話題に逸らす。
「そ、そういえば一色、いつも俺以外は誰も美術室には来ないのか?」
「ですね。羽月さんがこのネコさんがいつも来てくれるまでは、一人と一匹です」
なるほど、つまるところ。
「ボッチなのか」
「やめてくださいボッチじゃないです」
思ったより気にしてたらしい。
「小学校とか中学校とか、仲良かった奴はいないのかよ」
「……なにぶん、絵の道一筋で生きてきたものでして」
なるほど。
美術に詳しい訳じゃないが、たった16年の月日で一色の腕前を手にしている方が異常な様な気すらする。
「ちょっと待ってろ」
制服のポケットから取り出したスマホに指を滑らせ、連絡先をタップする。
スマホがコール音を鳴らしている間、撫でる手が止まったことに困惑するクロネコと、目の前の一色が一緒に首を傾げた。
◇◇◇
翌日の放課後。
俺の数少ない友人である間宮 明澄夏が美術室に立っていた。
事情ありそうな「色が見えない」事を伏せ、明澄夏に一色を紹介したところ、深くは問わずに美術室にやってきてくれた。
「はじめまして。一色さん、だよね?クラスメイトの間宮 明澄夏です」
「は、はじめました。い……一色 結衣です」
噛んでいる一色は委縮しているのか、俺の背後で縮こまっている。
通常ですら小さいのに、今は小学生と見紛うほどに小さい。
「悪いな明澄夏。部活中だったろ」
「ううん、だってここで練習するだけでしょ?お安い御用、それくらい」
サブバッグから譜面台を用意し、光沢のある楽器を取り出し始めた明澄夏。その様子を一色は、少し興味深そうに俺の背後から覗き込んでいる。口空いてるぞ、一色。
「ねぇ一色さん」
「は、はい⁉」
突然語り掛けられ驚いたのか、再び俺を盾にする一色。
「音楽、好き?」
「……お、音楽、ですか」
明澄夏が、覗き込む形で俺の奥の一色に声かける。
「そう、音楽。あたしはね、好き!大好き!」
そう語らなくともわかる。
楽器を手にした太陽の様に無邪気な、はにかんだ明澄夏の笑顔が何よりの証明であった。
「篝も久々でしょ? あたしの演奏聞くの」
「確かにそうだな」
言われてみれば、いつ以来だろうか。二か月、四カ月、いやもっとかもしれない。
「威厳をみせてくれよ、部長さま」
「あったりまえ!」
すぅっと、胸いっぱい。明澄夏が息を吸い込んだ。
楽器からあふれ出すソレは、希望の音。
「…………あ」
一色は真っ白な絹の様な髪の隙間から明澄夏をじっと見つめて、意識してか否か、取り出したスケッチブックに一本また一本と線が描かれる。
ただ楽譜を見つめて、楽器を通じて魂を音に乗せる明澄夏。
目に見えないモノ、聞こえないモノを絵の中に丁寧に描き上げる一色。
俺がどこかに落としてしまった、希望に満ち溢れた真っすぐな音と線。
熱を見つめるだけの俺は、この美術室から下手糞な切り取り線でハブかれたみたいで。
「…………またバットが振れたら、どれだけ良かったか」
小さな小さな俺の弱音は、誰の耳には入る事もなく消えていった。
それからしばらくして。
明澄夏の奏でる演奏に聞き入っていると、ふと右肩に違和感を感じた。
「……あっ……っうぅ」
右肩には、隣に座った一色が小さな呻き声と共に寄りかかっていた。
「一色、どうかしたか」
「い……え、すみません、大丈夫……です、なんでもないです」
小さくふらふらと左右に揺れて、唇をかみしめている一色。
顔色はいつもの綺麗なミルク色から、青ざめた病人みたいに血色が悪くなっていた。
「どう見ても大丈夫じゃないだろ」
「いえ、持病みたいなものなんです。薬を飲めばすぐ治りますから」
明澄夏の集中を切らさない様、静かに一色はバックから錠剤を取り出す。
小さな口で数種類の錠剤を何度も分けて水で飲み込む一色の姿が、美術室の窓から見えた曇り始めた空と重なって。
なんでもないその瞬間は、どうも俺の脳裏から離れないでいた。
◇◇◇
数週間が過ぎ去った。
俺と一色は、やはり放課後は美術室に居て。
一色のデッサンを、俺とクロネコは静かに見る。暗くなったら、解散する。
その繰り返しの、悪くない毎日。
それから明澄夏は、タイミングが合う時には美術室に顔を出してくれた。
「一色、いるか」
退屈な授業を終えた俺は、今日も美術室の古びた扉を開ける。
「いないよ」
返答の通り、紅茶に浸った美術室の中に一色の姿はなかった。
代わりに声の主であろう見知らぬ女性が一人、いつもの一色の席の机に腰掛けていた。
大きなサングラスを頭に掛けて、革ジャンとダメージジーンズはパリッと引き締まっている。オシャレに気を使う大学生というより、自分を最も活かす選ぶべき服を知っている、ブラックコーヒーみたいな余裕のある格好良さがあった。
「や、少年」
「どうも」
誰だこの人。少なくとも学校内では見た事がない。
お姉さんが、ふとジャケットの内ポケットから取り出した白いものを口に咥える。
「ここ、禁煙ですよ」
「知ってる、だからココアシガレットだ」
なんてベタな。
それでもかっこよく似合ってしまうんだから、余裕のある恰好の良さはズルい。
「ん、いるかい少年」
「いただきます」
差し出されたココアシガレットを受け取ったまま口に放り込み、一口で噛み砕いて、俺もその辺の席に座る。
「へぇ案外、図々しいんだな」
「くれるって言ったもんはもらいますよ。身体に有害じゃなかったら」
「はははは、間違いない。嫌いじゃないよ」
軽快な笑いのあと、お姉さんも残りのココアシガレットを一気に噛み砕いた。
「それで、うちの学校になんのようですか」
「まぁそんなに警戒するなよ君、寂しいだろう。……さては、君が羽月くんか?」
驚いた。知ってるのか、俺のこと。
「……まぁはい。お姉さんはどちら様で?」
「お姉さん、お姉さんね。ずいぶん嬉しいこと言ってくれるね」
革ジャンのお姉さんは細身だけど、ずいぶんと背が高い。
177cmの俺と同じか、それより少し小さいくらいだろうか。
「はじめまして。わたしは大田 周。一色 結衣の母親だ」
「え」
あまりに間の抜けた声が漏れた。
だって、一色と目の前のお姉さんはあまりに。
「わたしと結衣、似てないだろ? まぁ当然なんけどな、わたしは実母じゃないから」
言葉を挟む前に「それとも」と言葉を連ねた周さんは、こくんと首を傾けた。
「君は、わたしがあの魔窟に住まう一色家の人間に見えるか?」
あの、魔窟に住まう一色家?
「あの一色家……って言われても、俺も別に一色と出会ってからまだ数週間ですし」
「……ちょっと待て、君」
お姉さん、もとい周さんは素早い瞬きで俺を見て。
「もしかして一色の家について何も知らずに結衣と一緒にいたのか?」
一色の家の事情なんて知りようもないし、考えたこともなかった。
「そんなに有名なんですか、一色の家って」
「………まるで、わたしが恥ずかしいやつみたいじゃないか」
周さんが呟いて頬を掻く。
「今日、美術室に一色が来てないのは、その特殊な家系が関係してるんですか」
「うーん、関係しているといえばしてるし、近からず遠からずってところかな」
首を軽く竦めてから、にやりと笑う周さん。
「ところで君、一色一色って、家の話か結衣の話かわかりずらいな。あの子のことは結衣って呼んでくれない?」
周さんはニタリと露骨に小馬鹿にした笑顔を見せた。
「あ、ごめん思春期の男子高校生には恥ずかしかったか」
「……それで、結衣がどうしたんですか」
「お、いいね。がんばるね君」
いいから、無視だ無視。
名前呼びなんて小学生の時は、誰彼構わず当たり前だっただろ。明澄夏だって名前で呼んでるし。いちいち恥ずかしがってる方が意識してるみたいで更に恥ずかしい。
周さんは教壇に置いてあった教科書を適当に手に取って、俺に放り投げる。
「ほら、これの適当なページを開いてみな」
「はぁ」
湿気と乾燥を繰り返してヨレヨレになった教科書のページを開いてみる。
そこには世界の美術を作り上げてきた、名画の数々が紹介されていた。
「これがどうしたんですか」
「作者名、順番に見ていってごらん」
意識したこともなかったが、周さんに言われて違和感に初めて気がついた。
「一色って名前ばかりですね」
「そう。一色って文字は、美術界においてそれほどの尊厳と価値がある」
どのページを開いても、日本人、外国人問わず作者のほとんどに『一色・イッシキ』の文字が刻まれている。どれだけ教科書を捲っても『一色』とついていない作者を見つけるのが難しいくらいだ。
「いいかい、少年。一色の家が歩んできた道のりとは、現代に続く美術そのものだ。つまるところ、一色の家の未来は、現代美術の未来に直通していると言って過言じゃない。世界美術の発展、その最先端を常に走り続ける巨匠たちのほとんどは、一色の血を分けた遠い親戚なんだよ」
再びココアシガレットを口に放り込んだ周さんは、どこか、ずっと遠くを見つめる。
「美術界を牛耳る一色の家系において、美術の腕前は全てに勝る絶対的なルール。一族内での地位、教育環境、後継への秘伝の承継。その全てが、美術の腕前のみにおいて判断される」
ふと静かに、俺の脳裏にはスケッチブックを持つ一色の姿が過ぎる。
「生きる価値でさえ、ね」
美術の腕が全ての世界で、色を失った少女はどうなるか。
………俺は苗字の違う周さんが、一色の母親を名乗る思考に蓋をする。
「そんなこと、俺に話してよかったんですか」
「君だから話したんだよ、結衣に共感することが出来る唯一の君だから」
ふいの一言に、思わず拳に力が籠る。
「君、色が見えなかったことがあるんだろ?」
「………」
何も、言えなかった。
「…………結衣はさ、特殊な一色の家系の中でも、更に特殊だったんだ」
周さんがゆっくりと瞼を閉じる。
「あの子は一色家当主の愛人として一夜抱かれた女が身籠った子だ。だから一色の家の中でも扱いは分家も分家、妊娠が発覚した当時は一色の姓を与えるのすら大きく揉めたくらいさ。もちろん結衣は、本家の後継が受ける英才教育なんて受けられないし、最低限の生活費しか支給されてなかった」
どこかずっと遠くを見ながら、周さんは続ける。
「それを差し引いても、色が見えていた頃の結衣は、一色家の中で頭ひとつ抜けていた」
娘を得意げに話す周さんの姿は、紛れもなく愛情を注ぐ母親。
「結衣の絵に対する情熱は、まるで桁が違ったんだ。他の後継者が一色の家で生きるために絵を描いている間、結衣だけは絵を描くためにだけ生きていた。あの子に教育者なんていない。本当に天才だよ。一色の家の作品の見様見真似と、ひたすらの修練。それだけであの子は、一色の後継の中で圧倒的な技術を手に入れたんだから」
窓に反射した日差しが目を刺して、俺は思わず右手を翳す。
「美術の力は一色の家において、あらゆるものより価値がある。結衣が成長するにつれて一色家のバランスは大きく崩れ、まぁ一族を巻き込んだ大混乱に発展したさ。腫れものみたいに扱われていた結衣の実の母親も、いつの間にか正妻みたいに丁重に扱われる様になった」
再びポケットから取り出したココアシガレットを、周さんは俺に差し出した。
俺はそれを受け取り、口の中に投げ入れる。
「結衣は基本的に父親には会えなかった。一色家の当主なんて、日本にいる時間の方が珍しい。正妻の子じゃないのもあるし、当主としても結衣にここまでの才能があるのは予想外だったんだろうさ。そして結衣の母親だが……いい親かと聞かれれば、間違いなく悪い親だったよ」
右の奥歯で、受け取ったココアシガレットを一気にかみ砕く。
「嫉妬で捻じれた性格、尽きない欲望のまま金を振るい酒に溺れる毎日。災厄を振りまく姿はまさに魔女だった。ただ、生まれ持った面の良さだけは誰にも譲らなかった。当主が結衣に会いたがらなかったのは、過ちで抱いた魔女の面影を重ねてしまうから、って理由も少なくないだろうね」
一人キャンバスに向かう一色の、結衣の姿が眩んだ光と重なる。
「血のつながった娘としてなのか、自分と一色の家を結ぶ楔としてなのか、金色の鶏としてなのかはわからなかったけど、邪知暴虐の魔女でも娘は愛していたらしい。当時は一色の屋敷でメイドとして働いていたわたしも、屋敷の中で何度か二人が仲睦まじく食事をしているところを見た事がある」
それから「けど」と続けたあと、次に周さんが口を開くまで何度の秒針が鳴っただろうか。
数回だった気もするし、もしかすると一度もなっていない気もする。
「結衣はある日、色が見えなくなった」
「……階段から転んで、ですか」
せめて、不幸な事故であったならば。俺は周さんが首を縦に振る事を願って尋ねた。
「いいや、階段から突き落とされたんだ。本家の後継候補の一人にね。……正直言って、誰がどう言おうと言い逃れできない程に明確な状況だった」
些細な願いが、泥に覚えれて静かに朽ちていく。
「結衣の最高傑作になるはずの作品が完成間際だったんだ。あとは色鮮やかに染めていくだけ。あの時の楽しそうな、嬉しそうな結衣の顔は一生忘れられないよ」
その続きは、語られなくても理解できた。
結衣は間違いなく美術史に名を刻む美術家……一色家の当主になっていた筈だ。
「もちろん、突き落とした本人は認めてないけどね。少なくとも一色の家で、そんな事件があったなんて世間には公表できない。だから世間には、階段から足を滑らせたって公表されてる。もちろん扱いとしては事故だから、犯人の跡継ぎ候補を罰する事も出来ない」
淡々と事実だけを羅列する周さんに、先の穏やかな母親の面影はもう残っていない。
「結衣が色が見えなくなったその日……………実の母親は行方を眩ませた」
乾燥した唇が切れて、鉄の味が口端で淀んでいる。……実に不快だ。
「それからは……あっという間だった。ようやく腫物を切り落とせると言わんばかりに、結衣は追い出される形で施設に預けられた。それを見かねた一人の出しゃばりメイドが当主に啖呵を切って仕事を辞めて、お節介にも結衣を引き取り一緒に生活していますとさ。……あたしと結衣の関係は、ただそれだけだ」
周さんの、長い長い御伽噺みたいに残酷な昔話が幕を下ろした。
一服のため再び内ポケットを開くも、その中は既になにも入っていない。
「羽月 篝くん、君に頼みがある」
「………………なんですか」
「どうか結衣に、色を取り戻させてやってくれないか」
ようやく理解できた。なぜ周さんがここにいて、俺にここまで話をしたのか。
あの灰色の世界を知っている人間は、この世界にはそういない。
「簡潔に説明しよう。君、心因性って知ってるかい」
「いえ、知りません」
「医療用語の一つだよ。簡単に言うと、肉体そのものは回復しているけど、精神が拒絶を起こす事で発生する症状のことだ」
なるほど、似たような話の類は聞いた事がある。
重症の事故を起こした運転手が再度運転しようとすると身体が拒絶反応を起こし、上手く運転できなくなるとか。それと似た現象が、結衣にも起こってるってことなのか。
「実のところ、結衣の色彩能力自体はとっくに回復している。つまり本当は、結衣の目は色を前と変わらずに捉える事が出来ている筈なんだ」
見えている筈なのに、感じる事が出来ない。
「自覚できないくらい、あの子に深く刻まれたんだ。またこんな命の危機にあうならば、もう絵を完成させちゃいけない。色を塗っちゃいけないってね。……だから、無意識的に色が見えなくなった。回復の兆しも見えず、正直もう二度と色が見える事は無いと思ってた」
声に出さなくとも、周さんが一色の家に向ける軽蔑を肌で感じる。
「けど君が現れた」
静かだった秒針が、再び鳴り始めた。
「帰ってきた結衣から満面の笑みで聞いた時には、本当に驚いたよ。ずっと回復の兆しが見えなかった結衣が「同じ体験をしていた友達ができました」って、はしゃぎまわってたんだから」
「……話したことは嘘じゃありません。俺も昔、野球で事故って色が見えなくなって手術でなんとか治療しました。……………後遺症で、野球を続けられなくなりましたけど」
「そう、色の無い世界を体験した君と、この美術室で出会ったから。結衣は灰色の世界から孤独感から少しずつ解放され、心因性の症状が回復し始めた訳だ」
ようやく、話は終着点にたどり着いた。
「つまり、君に頼みたいことは理解できたかな?」
「心因性の症状が治るまで、出来るだけ結衣の近くにいる事。ですか」
パチン、と心地いい周さんの指パッチンが美術室に響く。
「そうだ。それだけが、あの子を灰色の世界から救いだす唯一の方法だ」
結衣が受けた心の傷で生まれた孤独を、寄り添う事で灰色の世界を壊す。
明澄夏の様に、誠実でなく。
結衣の様に、天才でもない。
できるだろうか、何も成していない俺に。
「……………………………」
俺が一度、世界から色を、野球を失った事で。救われる人が、何かがあるのなら。
これまでのすべてが、きっと無駄じゃないのなら。
だとしたら、俺は。これが俺にしかできない事ならば。
「……………………やります」
「うん、いい返事だ」
机から飛び降りた周さんは、指先でチャラチャラと鍵を回す。
「それじゃ、いこうか?」
「どこにですか」
ニヤッと頬の端を釣り上げ、周さんは言った。
「わたしと結衣の家」
「……はい?」
◇◇◇
そこから30分ほど。
周さんの運転する車に揺られ、しばらく山道を走った。
車内で気まずくなるのが嫌だったので、俺は後部座席に座った。
「君、今日の事は結衣には秘密だよ」
「……言えるわけないじゃないですか」
高速道路の下を通って住宅街の端、小さなアパートの前に車が止まる。
こぢんまりとしたアパートの2階の右端、白色の扉から結衣が顔を覗かせた。
階段をゆっくりと降りてくる結衣はいつもの制服ではなく、少し大きめの白Tシャツにフィットした黒ジーンズと、頭にはベージュの帽子を被っている。
なんとなくおしゃれだな、としか感想を持てない俺には、アンバランスな服装も相まっていつもより少し幼く見えた。
うぃんと助手席の窓を開ける周さん。
「ただいま、結衣」
「おかえりなさい、周さん。随分と時間がかかりましたね。何かあったんですか?」
「あぁちょっと野暮用でね。結衣、これからちょっと出かけるよ。このままいける?」
「はい、大丈夫です」
結衣が助手席に乗り込み、シートベルトを着ける。
それと同時に、周さんは「あぁそれから」とわざとらしく手筒を打って。
「後ろの席、プレゼントあるから」
「後ろの席?」
「よう」
「わぁぁあああああ⁉」
俺は住人に出くわした空き巣みたいに、下手糞な引きつり笑いで片手で挨拶する。
飛び跳ねた結衣はの目は、みるみる目は半分閉じて、その頬はぷくぷくと膨らんでいく。
「…………羽月さん、なんでここにいるんですか」
「知らん、俺も周さんに連れてここまで連れてこられたんだ」
実際、なにも聞かされずにここまで連れてこられたのは事実だ。
「周さん、羽月さんと知り合いだったんですか?」
「いや?羽月君とはついさっき知り合ったんだ。散歩してたら「そこの美人なお姉さん、今お時間ありますか」って話してきたから、話してみれば結衣の知り合いっていうんで」
「……羽月さん、ナンパしたんですか」
「断じてしていない」
結衣の目がめちゃくちゃ怖い。なぜかハイライトが消失している。
「さ、それじゃ行こうか」
周さんが運転席の窓を開けて仕切り直し、俺と結衣は目を見合わせた。
「周さん、これどこ行くんですか?」
「いつものところ」
「いつものところですか」
周さんの答えに、結衣は満足そうに両目を溶かしてシートに収まる。
サイドミラーに反射する伸びをする姿は、頭を撫でられて喉を鳴らすネコみたいだ。
……まぁ、結衣がいいならそれでいいか。
「羽月くん、親御さんには遅くなると連絡しておくといい」
……本当に、大丈夫なんだろうか。
◇◇◇◇◇
それから、また山道を40分ほど走った。
入り組んだ道を超えて、田舎特有の複雑な交差点、落ち葉で地面が見えない坂道を往く。
心地よいリズムがうつらうつらと眠気を誘い、瞼の重さも時間と比例して重くなる。
「さ、到着だ」
周さんの言葉で、吊り下げられた重りがプツンと取れた。
「羽月さん、ここには来た事ありますか?」
「いや名前だけ、実際に来るのは始めてだ」
ついた場所は、景観でそれなりに名の知れる温泉街。
実際、駐車場のほとんどが県外ナンバーだった。
「それじゃ諸君、1時間後にここで」
「周さん、一緒に行かないんですか?」
「あぁ君には言ってなかったな。基本的にここでは、わたしと結衣は別行動だ。わたしは買い出しと挨拶回りがあるからな」
手を振る周さんに背中を見送られ、俺と結衣はすぐ傍のウッドデッキへ足を運んでみる。
そこは観光の目玉でもある渓流と、横にある散策コースを見下ろせるポイントだった。
「おー……」
大自然の緑で染め上げられた、という塗りつぶした言葉では凹凸の過ぎる光景。
苔むした岩や渓流によって磨かれた崖、根の溢れだした地中は、光と影の構造によって幾つにも多彩な顔を一面の中から覗かせ、自然と歴史によって描かれた芸術に思わず唾を飲み込む。
「知らなかった。近所にこんなに凄いところがあったんだな」
当然の話だ。知ろうともしていなかったから。
横に立つ結衣が、渓流の風を受けながら髪を耳に掻き揚げる。
「それじゃ、私たちも散策コースに行きましょうか」
「そうだな……おっと、その前に」
この風景をレンズに捉える為、スマホをカメラモードに切り替えて横に構える。
「ちょっとこっち向いてくれ、結衣」
「………………!」
俺は、画面上のシャッターボタンに指で触れた。
――――パシャリ。
こちらへ振り返る結衣の姿と、背景の雄大な自然のレンズの世界に閉じ込める。
レンズの向こう側の結衣は、紅葉も始まっていないもみじの中で、耳の端までひと際目立った夕焼け色に染まりあがっていて。
「あ」
そうして、はじめて気が付いた。
しまった。周さんとの会話のせいで、なにも考えずに下の名前で呼んでしまった。
出会ってから今日まで、ずっと一色って呼んでたじゃないか、俺。
跳ね上がる心拍数と体温を押し殺して、ひたすら無表情である事に勤める。
「あのな結衣、恥ずかしいかもしれないが、別に友達なら名前で呼ぶのくらい普通だぞ」
「そ、そういうものなんですか」
「そういうものなんですよ」
「なんで敬語なんですか!」
今ばかりは、結衣にこういった経験がなくて本当に助かった。
「よし、それじゃ行くか」
「そ、そうですね! そのぉ……わ、私のおすすめスポットをご案内します!」
結衣は意を決したみたいに大きく、グーっと渓流の新鮮な空気を吸い込んで。
「い、いいいきましょうか! ……か、篝くん!」
「お、おう!」
茹蛸みたいな顔色で変なテンションの結衣を追って、苔むした石畳の階段を下る。
空の面積は透き通る様な快晴から、若葉の淡い緑から歴史を感じる深緑など多種多様なグラデーションの割合が増えていた。瑞々しい空気に触れて、肺の隅まで満ちてゆく。
けれど、どうして。やけに顔が熱かった。
◇◇◇◇◇
散策コースに行くためには、つり橋を渡って行き来する必要があるらしい。
結衣に案内されるがまま、頑丈にワイヤーの張り巡らされた深緑色のつり橋の上を歩く。
「なんか妙に曲がりくねってないか、この橋」
「設計の問題上、橋そのものを歪ませるのが一番効率的だったみたいです」
それは設計ミスと呼ぶんじゃなかろうか。
「あ、あれ見てください篝くん!」
「どこ指してるんだ? ……川か?」
「違います!ほらあそこ、大きな傘がいくつも立ってる場所があるじゃないですか」
結衣が指差す先には、確かに、蓮の葉みたいに大きな傘が幾つもあった。
傘が日光を遮る場所には、風景に馴染み込んだ木材の小箱に畳が敷かれている。
「なんだあれ」
「名物の甘味処です。あそこの抹茶ぜんざいが絶品で、いつも大行列ができてるんです!」
「そうなのか。……あんまり今日は人が並んでないみたいだな」
「篝くんはスーパーラッキーです。混んでる時には、数十分でも耐え忍んで食べる名物ですから!」
そうなのか。スーパーラッキーなのか。
「それじゃ、あそこを目指してみるか」
そこから橋を渡り切った俺たちは、大きく胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込んだ。
渓流のせせらぎと涼やかな風に撫でられて、少しばかり疲労感のたまった全身に山の澄み切った空気が巡る。この感覚、嫌いじゃない。
「体感したことがなかったけど、空気がうまいってこういうことなんだな」
「ですね、身体の内側から元気になってる感じがします」
「俺の父方の爺さんの家が森の中にあるんだが、俺の知ってる森の匂いは何かもう少し腐敗臭というかキツいイメージがあった」
「きっと腐った植物とかなんじゃないでしょうか。渓流なら川の流れで匂いも流れていきますし」
「なるほどな……ここは大自然の作り出した循環装置ってことか」
苔むした石道を一歩、また一歩と俺と結衣が踏み出す度。乾燥した落ち葉がシャクリと聞き心地のいい音を鳴らす。
ふと渓流と逆側をみれば、切り立った地層に小さな窪みが出来ていて、たっぷりと潤った大地から重力に耐えきれなくなった水滴から順に落下していく。
「あ、あれです」
ゆっくりと歩いて十数分後、件の甘味処が見えてきた。
「いらっしゃい」
「あら、お嬢ちゃんでねえの」
深緑の作り出したトンネルを歩いてくる俺たちに、お爺さんは何本か抜けた歯でにんまりと笑って手を振った。奥の吹き抜けの小屋では丁度、前の客が食器の返却を終えたのかお婆さんがゆらゆらと揺れる湯気を纏った手を振っている。
横を歩く結衣もまた一度立ち止まり、丁寧に両手をそろえて頭を下げた。
「こんにちは、お爺さん。お婆さん」
「はい、こんにちはぁ」
「嬢ちゃん、よく来たねぇ」
一色の家の中には、基本的に結衣を快く思う親戚が存在しない。
周さんから聞いた話を、俺はなぜか脈絡もなく思い出した。
「嬢ちゃん、それにしても久しぶりやんねぇ。ほんでま、恰好の良い彼氏さん連れて」
「か、篝くんは彼氏さんじゃないです!」
「ありゃ、そうなのかい。お似合いのイイ男なのに残念だねぇ」
「そ、そういうのじゃないんです! ほんとうに!」
しわの多い顔を緩ませたお婆さんが、横のお爺さんと「ねぇ~」と揃えて首を傾げる。
また体温が上がりそうな思考を堪えて、俺はグッと表情筋を固めた。
「んにゃーん」
すると足元で、何かが擦れる暖かな感覚。
足元を見下ろすと、額から伸びる白毛に両耳を覆う栗色の軟毛のネコが居た。
「あんらぁ珍しい、こんこが人懐くなんてねぇ」
「私、なんやかんやで初めて看板ネコさんに会いました」
「んまぁ嬢ちゃんくると、いつも小屋に隠れちまってでだな」
「えっ」
俺はしゃがみ込んで、ネコと視線を合わせる。
「抱え上げてもいいか?」
「んなーん」
「ありがとう。それじゃ、失礼して」
前足近くの背、それから腰付近を優しく抱き上げる。
撫でられるがままの看板ネコに、思わず緊張していた口端も綻び始めて。
「あっ」
「………」「……」「……」
そこでやっと、視線が俺に集まっている事に気が付いた。
……しまった、あまりにネコに集中し過ぎた。何か話を逸らさなければ。
「そ、そういうえば、結衣とは長いお知り合いなんですか?」
「んー?まぁーそうね嬢ちゃんはね、何週かに一度はこの店に顔を出しに来てくれるのよ。お客足が落ち着いた時には、こんなしわくちゃ爺の話を聞いたり、たまには将棋を指したりねぇ」
「忙しい時には、洗い物を手伝ってくれたりねぇ」
「いつもありがとうよ」と笑うお爺さんとお婆さん、どこか照れ臭そうに一緒に笑う結衣。
それはまるで、蝶よ花よと大切に育てられた暖かい本物の祖父母と孫みたいだった。
「まぁでも嬢ちゃん、将棋の腕はまだまだだんな!」
「ま、まだ二十六連敗ですから!これからが私の伸びしろです!」
わははと笑い飛ばすお爺さんを前に、結衣は頬を膨らませる。
「わはは、嬢ちゃんが言うすけ、儂もまだ死ねんなぁ」
「ほんとです!長生きしてください。おじいさん」
「そら、将棋で負かす前にぽっくり逝かれたら困るかい?」
「困ります!」
またも「わはは」と数本歯のない口でお爺さんが笑う。
「んなう」
「ん、降りるか。ありがとうな」
看板ネコはぴょんと跳ねて地面に降り、歩いてきた苔道を進んでゆく。
「そうだ嬢ちゃん。いつもの席が開いてるけ、ブランケット置いとくよぅ」
「はーい、ありがとうございます」
それから、5分ほど。
席に着いた俺たちは膝元にブランケットを載せて、ただ渓流をじっと見つめた。
「はいお待ちぃ、抹茶ぜんざい2つね。ほうじ茶はサービスだからぁ」
朱色のお盆には滑らかな木のスプーンと上品な茶碗が二つ、小さな陶器の湯呑が二つ。
お爺さんは俺たちに「ごゆっくりぃ」と手を振って、また小屋へと戻っていった。
「いただきます」
「いただきます」
陶器の湯呑に入った焦げほうじ茶に、そっと口に付ける。
渓流の冷たい風が馴染んだ身体の芯に、濃いほうじ茶の豊潤な香りと熱が沁みてゆく。
「……うまい」
「ですね」
横の生い茂った木々の下で小さな谷となって流れ出ている小川が、ふと目に入った。
小さな青落ち葉は流れて、曲がって、石や木々でたまには緩やかに渦巻いて。穏やかな流れに見える上流では、流れを塞いでいた古い木の幹に穴が開いていた。
きっと、俺が生まれるよりも、ずっと昔から。時間と共に流れ続けた悠久の流れだ。
「いい場所だな」
口端から漏れ出した言葉に、自分でも驚いた。
「そうですね」
太陽みたいな瞳を何度も瞬かせたあと、結衣は穏やかに微笑む。
「私、この場所が好きです。色がわからなくても、色以外の全部を感じられますから」
色以外のすべてを感じる。
なるほど、言いえて妙だ。
ひんやりと心地いい風が、シャツの隙間を優しく吹き抜けてゆく感覚。
擦れた葉々から水滴が水面を打ち、それを飲み込む川のせせらぎの音。
苦みと渋さに寄り添った、さりげない甘さを引き立たせる優しい抹茶ぜんざいの味。
自然の呼吸が生み出した澄んだ空気、それに逆立つことなく香り立つほうじ茶。
こんなに心落ち着く場所があったなんて、さして遠くない場所なのに知らなかった。
……いや、知ろうとすらしなかったんだから当たり前か。
「悪い、結衣」
「なんですか、篝くん」
どうしても、いま胸の奥に刺さった棘だけは、見逃しちゃいけない気がした。
「話さないといけない事がある」
俺は底の方に残ったほうじ茶を、緩やかに飲み干して口を拭う。
「はい」
結衣は何も言わずに、ただ俺の方を向いて頷いた。
「周さんから結衣の事情、全部聞いた。色が見えなくなった原因も、一色の家の事情も」
渓流の風に溶け込む結衣の姿勢は穏やかで、顔には含羞の色も焦りも緊張もない。
「……そうですか」
ただ何も変わらず、木漏れ日を受けながら頷いた。
相応しい言葉が見当たらなくて、咄嗟に語彙の棚から当たり障りのないをひっくり返す。
「大変、だったんだな」
「大変じゃなかった……と言うと、嘘になるかもしれません」
気恥ずかしさとも困惑とも見える結衣の表情が、俺の背中を後悔の刃物でザクリザクリと滅多刺した。
「篝くん?」
強く握りしめた拳に手汗が沁み込む。
何してんだ俺は。違うだろ。
「いや、すまん……何でもない」
「そですか、体調でも悪いのかと思いました」
どこか安堵した様子で、結衣が再びほうじ茶を口元へ運ぶ。
こくり、と小さく一口含んでから、丁寧な所作で湯呑を盆の上に返した。
「一つだけ、私からも聞いていいですか」
結衣と同じく、何も言わずに頷く。
「周さんは、ひとりの男の子について何かお話していましたか?」
「男の子について?」
それは、全く期せぬ単語だった。
周さんから聞いた話に、印象に残る特徴的な男の子は出てこなかった様に思える。
俺の顔を見て確信したのか、結衣はそのまま続ける。
「やっぱり……周さんからは何も聞いていませんか」
「そうだな。特に思い当たる節はない」
普段なら聞き取れないくらい小さな声で、渓流に混ざって結衣が囁く。
「周さん、やっぱりズルいです」
それは渓流と一緒にあっという間に流れ去って、俺は聞こえない振りをした。
「今からお話しするのは、私の身勝手な懺悔です。……それでも聞いてもらえますか」
「もちろん」
俺にできることは、それくらいなんだから。
「…………私は昔、とある男の子の未来を奪ってしまいました」
「未来?」
「はい、未来です」
あまりに抽象的な言葉だ。
「階段で頭を強打した……色が見えなくなったあの日、私は救急車で運び込まれました。容態は一刻を争う、最悪な状態です。脳のダメージは最悪の場合、記憶障害や五感の消失を引き起こす可能性も大いにありました」
語る結衣は、僅かにも動かない。
「脳への深刻なダメージは特殊な医療機器・専門医が必要らしく、その準備には最低4時間の時間がかかる状況だったそうです。……私の容態はそこまで持つかどうか、五分五分でした」
「……」
一瞬だけ、結衣の唇が止まった。
「しかし奇跡的にも、私が救急車で運び込まれたあの日。病院では既に脳の専門医による手術は、用意は万全の状態だったんです」
背中から爪先に掛けて、ちくりと静電気が駆ける。
全身の産毛が不揃いに逆立って、なぜか呼吸も意識的になった。
………なんだ、この違和感は。妙なデジャヴだ。
「私より先に手術を受ける予定だった、同じくらいの年の男の子がいたからです」
潰された内臓と吐瀉物が喉の奥でうごめき、深く静かに嘔吐く。
どうして俺は、その可能性を思いつかなかった。
どうして俺は、ありえないなんて思いこんでいた。
どうして俺は、結衣を無関係な悲劇の少女だと決めつけていた。
「一色家の重圧を受け、病院は……男の子の治療より私を優先する判断を下しました」
葉が水面に落ちる音も、ほうじ茶の匂いも既に感じられない。
長閑な自然に包まれた渓流という絵画の中に、俺はもういなかった。
絶えず呼吸をすること、表情に出さない事。それが精一杯で、必死に繰り返す。
「……結局、私の手術は決行されました」
凍てつく病室の扉に触れた左頬、扉越しで聞いた両親の剣幕が鮮明に脳裏に蘇る。
もしあの日、結衣じゃなく俺が手術を受けていたら。
もしあの日、俺が動体視力を手放していなければ。
――――――もしかしたら、俺は、今も野球を。
「あの、篝くん。どうかしましたか?大丈夫ですか?汗……すごいです」
「…………いや、なんでもない。…………大丈夫だから」
片手にハンカチを取り出した結衣に、俺は静かに掌を振る。
沸騰した血液が心臓を膨張させて、血管は今にも爆発しそうだ。
「……話を、続けてくれ」
「……はい」
結衣もまた、どこか表情に影を拭いきれないまま。
「手術から数日経って、夜中に看護師さんたちがひっそり話しているのが聞こえました」
陰る結衣の目元に、更に深く黒い影が差す。
「……私に手術を奪われた男の子は、動体視力までは回復できなかったって。もう夢を追うどころか、大好きだった野球をすることも難しいだろう……って」
決して短くない沈黙。
泥沼みたいに絡みつく、時間を奪う嫌な沈黙だった。
「それが私の懺悔です。…………名前も知らない誰かの未来を奪ってしまいました」
俺は全力で、頬の奥を噛み締めた。今は痛みでもいいと、そう思ったから。
奥歯が擦れて肉が潰れる微かな音が鳴り、錆びた鉄の味が口内を塗りつぶす。
「結衣」
「はい」
「酷な事を聞く」
「……はい」
手術を待つ少年じゃない。羽月 篝としての言葉だ。
喉を通す前に、胸の内で自分自身にそう怒鳴りつけてから。
「仮にその少年が野球を続けられたとして、プロ野球選手になれる可能性はどれだけあったと思う?」
現実は漫画やアニメの様に甘くはない。
どんなに大きな希望を抱えても、凡人には、いつかはその肩に現実が触れる日が来る。
「そして結衣、お前が一色家の当主になって、世界を引っ張る芸術家になる可能性は?」
才能の保証された天才の結衣と、ただ好きでバットを振る事しか考えていなかった俺。
そんなもの、比べる価値すらない。
強引なやり方だとしても客観的に見て、結衣の治療を優先した一色の家や病院の判断は何一つ間違ってなどいないのだ。
人間はなにひとつ、平等なんかじゃない。夢を見るって事は、そういう事だ。
「それでも結衣は、少年の治療を優先すべきだと思うか?」
「絶対に、男の子を優先すべきでした」
わずか一瞬の迷いもなく、結衣が声を張る。
「私は、絵を描くのが楽しくて。男の子は野球をするのが好きだった。それだけです。彼には先に治療を受ける権利と、その必要があって…………私はそれを無慈悲に、冷酷に奪い取ってしまいました」
俯いた結衣の表情が再び陰る。
その主張はあまりに感情的で、非合理的だ。
「男の子の本心は、野球に大した興味を持ってなかったかもしれない」
「だとしてもです」
結衣は力なく震える身体を、畳に両手をついて支える。
「だとしても、です」
結衣の頬から大粒の水滴が、何度も、何度も落下する。
「今の私には、彼に合わせる顔がないんです。……彼の未来を奪い取った挙句、治療は終えたというのに未だ色も見えず……一つの絵を完成させる事すら叶いません」
「………………そうか」
ただ、一つだけ断言できる事はある。
ここに座っている俺があの日の少年でなく、羽月 篝でいられるのだから。
目の前の結衣が血の滲んだ包帯の少女ではなく、一色 結衣でいられるのだから。
「……なら、もう迷うこともないだろ」
少なくとも、結衣の信念と、口一杯に広がる鉄の味は無駄ではなかった。
「あとは、これから一歩ずつ前に進んでいけ」
「………え?」
顔を上げた結衣の瞳は涙で揺れていて、凝縮された太陽光が反射した。
頼んだぞ羽月 篝。決して空中で溺れてくれるなよ。
「結衣にそんな過去があったとして、時間ってやつは戻らないんだ。じゃあ、そいつの分まで結衣が夢を叶えるしかないだろう。難しい理論でもない、簡単かつ合理的な話だ」
すぅと空気を吸い込んで、澄み渡る渓流の空気を肺の隅々まで循環させる。
「それが、託された側の責任ってやつなんじゃないか」
「託された側の……責任」
言い換えれば、呪いだ。託された、奪った者を蝕む深く重い呪い。
奪われた名も知らぬ彼の人は、どれだけ思いを馳せてもこの地を踏むことを許されないのだから。誰の許可で足を緩めるつもりか、と何度も絶え間なく罪悪感が鞭を打つ。
………いま俺が出来る事は。俺だけに出来る事は。
「結衣」
俺はただ真っすぐに、結衣の目を見つめる。
「まだ絵を、描きたいか?」
「……っ」
結衣の身体が、怯えた子供の様に大きく震える。
他の道に逃げられないのならば、それは良くも悪くも一本道だ。
「は……い」
「そうか。なら描こう。それだけが、きっと償いになる」
一本道ならば進む。それだけだ。
奪ってしまった者が、自分を許せる唯一の方法なんてものは。
「――――っつあぁ。わた、し……! ぁっあ、うあぁ……」
結衣は空を仰いで溢れる涙も気に留めず、大声で泣いた。
渓流に反射した音が何度も何度も木霊して、水の音に消えてゆく。
お婆さんとお爺さんは受付の小屋で背を向けたままで聞こえない振りをしてくれた。
喉がしゃがれるまで、結衣は泣いて、泣いて泣き続けた。
「もう、大丈夫か」
「………はい。あ、ありがとうございます」
結衣はシルクの様な柔肌に目立つ、真っ赤に腫れた鼻と目を隠そうとはしなかった。
とりあえず、そのままという訳にもいかない。制服からハンカチを差し出す。
「い、いえ! ハンカチくらい自分で!」
「腰が抜けてるんじゃ、上手く出せないだろ」
結衣の鼻や目だけじゃなく、顔全体が真っ赤に染まる。
どうやら図星だったらしい。
思い切り泣くのって案外、かなりの体力を消費するものだ。
「あの、恥ずかしいので……」
「別に俺たち以外に人もいない。気にするな」
おずおずとハンカチを受け取った結衣が、真っ赤な目を上半分だけ覗かせる。
「また、篝くんに助けられてしまいました」
「何のことだ。助けたつもりはない」
「そうやって補助されるのも、なんか悔しいです」
思いっきり大声で泣いてたやつが、何を言ってるんだ。
「あの、篝くん」
「なんだ」
お日様みたいに結衣が笑った。
「絵が完成したら、一番に見てください」
「あぁ、楽しみにしておく」
俺も責任を負わなければならない。
奪われた者の、沈黙する物の責任だ。
結衣が未来を奪ってしまった少年が、俺であること。
この秘密だけは、絶対に隠し通す。俺の為にも、結衣の為にも。
「まいどありぃ。またいつでも来んしゃいねぇ」
おじいさんとおばあさんに挨拶をして食器を返却し、俺たちは甘味処を発った。
結構な時間を甘味処で過ごしていたのか、周さんとの集合時間にあまり余裕はない。
「ここを行くのか」
「はい、こっちです」
来る時と打って変わって、帰りは苔が蒸した古風な石橋を歩いて渡る。
対岸の不恰好な石階段を昇ると、はじめに眺めたウッドデッキに繋がっていた。
「周さんは……まだ来てないみたいですね」
「ここらで座って待つか」
「ですね」
端にあったベンチに腰掛けると、結衣も次いで膝が当たるほど隣に腰掛けた。
ベンチはそれなりに大きく、ゆったりと隣に座ることも出来そうだが。友人関係に疎いい結衣の事だ、深い意味もないだろうし敢えて言うこともあるまい。
ふと、赤らんだ空を見上げる。
「……うんざりするほど、いい天気だ」
「ちょっと寒いです」
「そのフードでも被ったら、少しは暖かくなるんじゃないか?」
「……ものは試しです」
モゾモゾとフードを広げて被り始める結衣。
既に日は沈んでいるものの、周囲は道路標識を視認できる程度には明るい。
「…………」
ふと、重みを感じる。結衣の身体が俺に寄りかかっていた。
「結衣?」
「…………」
返事はない。薄い夜の中で俯いたまま、結衣は俺にしばらく身体を預けていた。
先ほど思い切り泣いた疲れがまだ抜けきっていないんだろうか。
やがて、結衣の身体はゆったりと前方へと傾き、ついにベンチから投げ出され――――
「おいっ」
結衣の身体が地面に倒れる前に、慌てて受け止める。
「……はぁ、っはぁ」
その拍子にフードがハラリと解け、結衣の荒く不安定な呼吸が露になる。
「結衣? ……おい、大丈夫か結衣!」
「っあ、はぁ……はぁ」
身体が上下に揺れる度、結衣は苦悶に顔を歪ませる。
だらりと力の抜けた身体や血色の薄い顔は、今にも溶け消える蝋燭を想像させた。
「結衣っ!」
荒々しく車の扉が開くと同時に、少し先から周さんの声が聞こえる。
「周さん、結衣が急に体調が悪くなって!」
俺は、精一杯に声を張った。
「状況はわかってる! 君は自販機で水を買ってきてくれ!」
「はい!」
周さんに結衣を任せ、自動販売機の方向へと走り出す。
がむしゃらに両足を動かすも、前方でほんのりと輝く自販機との距離は一向に縮まる気がしない。永遠にも感じる暗闇の中を、俺は全力で走り続けた。
あれから周さんの車に控えてあった錠剤を飲ませ、症状は少しばかり落ち着いた。
そのまま周さんは車をブッ飛ばし、病院へ運び込まれた結衣はすぐに検診を受けた。
「周さん、結衣の容態はどうですか」
「大丈夫、もう落ち着いたみたいだ。担当医も、もう少し休んでいけば良くなるだろうってさ」
「……よかった」
身体の震えと、青ざめた病人みたいに血色の悪い唇。
確か、明澄夏が美術室で演奏した日にも、似た症状を見た。
「例の持病ですか」
「持病?」
「錠剤を定期的に飲んで検診を受けないといけないって、結衣が言ってました」
「あぁなるほど」
周さんが、呆れと礼賛の混ざった様な複雑な表情を浮かべる。
「結衣に持病はないよ」
「え?」
「あの子の体調不良の原因は、脳内の傷だ」
途端に恥ずかしくなった。とんだ勘違い、自惚れをしていたから。
俺が心因性の症状を改善することができれば、結衣は健康体になると思っていた。
バカか俺は。涙を誘うドラマでもあるまい。階段から突き落とされたんだ、心因性の症状とは別に物理的な傷もあるに決まっている。
「頭の怪我ってことは、階段の件が原因ですよね」
「……そうだね。同じ頭の怪我でも、手術で治療できた視覚に携わる部分とは違って、脳の奥深くの怪我だから失敗した時のリスクも非常に高い。出来るだけ手術したくない以上、自然治癒に任せるくらいしかないのが現状だ」
病院の待合室には、俺と周さんの二人だけ。
時折香る病院特有の薬臭さが、妙に背筋を硬らせる。
「呑んでた錠剤の薬じゃダメなんですか?」
「あれはあくまで痛み止めで、根本的な治療薬ではないからね。残念ながら、痛みが酷くなったら薬を飲んで病院で検査するしかない」
静寂の中で、いつもの放課後みたいに秒針だけが存在を主張する。
それは穏やかな美術室の秒針と違って、何かの足音を刻むカウントダウンに聞こえた。
「さて羽月くん、今日はありがとう。家まで送るよ」
「いえ、ここから家は近いんで大丈夫です」
温泉街なら流石に無理だが、この病院から家はそう遠くない。
「そういうな。外も暗いだろうし、連れ出したわたしの責任でもある」
「俺は大丈夫なんで、結衣の横にいてやってください」
吐いた言葉は紛れもない本心であり、同時に一人で居たいのも本心だった。
周さんが何か言うより先に自動ドアを潜って待合室、そのまま病院を出る。
病院を背にして右手側。車通りもなく長い坂道を、濡れた靴底で踏みしめながら登る。
重い雨の濡らす、銀杏の葉が敷かれた長い坂をゆっくりと。
――――ヴゥゥゥゥゥ。ヴゥゥゥゥゥ。
病院を出て、10分ほど歩いた頃、冷たくなったスマホの明かりが点いた。
通知欄で光る、明澄夏のトランペットの写真。
画面に触れたスマートフォンは、あの日の病院の扉みたいに冷たかった。
色んな塗料が付着した美術室の木扉に手を掛ける。
「よう一色」
「こんにちは、羽月さん」
スケッチブックと鉛筆を持った一色が、穏やかに口端を上げる。
一色と出会ってから数日。俺は放課後に決まって美術室に顔を出していた。
「にゃー」
「お前また来たのか。毎日ご主人の元へついてくるなんて律儀な奴だな」
クロネコはいつも通り、一色の隣の席でごろんと寝転んでいた。
耳の間を撫でると、心地よさそうに目を細めてゴロゴロと喉を鳴らす。
「一色。こいつ、名前はなんて言うんだ?」
「え? その子って羽月さんの飼い猫じゃないんですか?」
俺たちは互いに、ぱちくりと目を瞬かせてから。
「一色の飼い猫じゃないのか。いつも美術室にいるから、家から一緒について来てるものかと思ってた」
「いえ、いつも私が美術室で絵を描いてると、いつの間にか隣に座ってます。羽月さんが撫でると落ち着いて全く動きませんし、てっきり羽月さんの飼い猫さんなのかと思ってました」
二人して、再び視線をクロネコに戻す。
「んにゃーん」
誰の飼い猫なんて、そんな人間の都合などネコには関係ないらしい。
大あくびのクロネコを見て、俺と一色は少しだけ噴き出して笑い合った。
「まぁ首輪もついてるし、どこかの飼い猫なんだろ」
「ですね。よく考えたら私たち、この子の名前も知りませんでした」
椅子に座った一色がスケッチブックを開いたので、俺も対面の俺も椅子に座る。
クロネコはバーの常連がいつもの席に座るみたいに小慣れた様子で俺の膝上で丸まった。
「今日は何を描いてるんだ?」
「今日もこの子です」
「にゃーん」
制服のボタンが気になるのか、膝元のクロネコがネコパンチを繰り返す。
「この子、羽月さんが撫でてないと、すぐにどこか行っちゃうんです。ポーズも保持してくれないですし、デッサンのモデルとしては困ったさんです」
「困ったさんですってお前な、ネコにそこまで要求するなよ」
「そのために羽月さんが撫でてくれるんじゃないですか?」
そういわれると、そんな気もしてくる。
それから、十数分後。
ふと思い立った俺は、スケッチブックの向こう側の一色に尋ねてみる。
「なあ一色。今書いてる絵、ちょっと見てもいいか?」
「いいですけど……私には色が濡れないので、絵として完成しませんよ?」
「ああ、全然かまわない――――――」
――――色が見えない一色が、作り出しのか。これを。
鉛筆一つで作り出された世界は、実に暖かみで溢れていた。
素人の俺でも理解できるほど、一色の絵は線の一本一本が繊細で軽やかで、それでいて泣きそうなくらい穏やかで。
写生の極点を正確な現実世界の情報を描写するならば、写真を超える美術は存在しない。
しかし、逆説的に言えば写真では現実以上の情報を詰め込むことは出来ないのだろう。
一色の絵には現実世界では存在しない何かが。
ただ存在を感じる事しかできない、掴むことの出来ない何かが。確かに存在していた。
「キレイだな」
「あ、あ……りがとうご、ざいます」
視線を上げると、頬に赤い斜線が入った一色が顔を逸らしている。
「どうかしたのか?」
「い、いえ。上手いと言ってもらえる事はままあるのですが……綺麗、とは初めて言われたので」
「そ、そうか」
なんだか俺も、妙に気恥ずかしい。
頭を振って、思い付きの話題に逸らす。
「そ、そういえば一色、いつも俺以外は誰も美術室には来ないのか?」
「ですね。羽月さんがこのネコさんがいつも来てくれるまでは、一人と一匹です」
なるほど、つまるところ。
「ボッチなのか」
「やめてくださいボッチじゃないです」
思ったより気にしてたらしい。
「小学校とか中学校とか、仲良かった奴はいないのかよ」
「……なにぶん、絵の道一筋で生きてきたものでして」
なるほど。
美術に詳しい訳じゃないが、たった16年の月日で一色の腕前を手にしている方が異常な様な気すらする。
「ちょっと待ってろ」
制服のポケットから取り出したスマホに指を滑らせ、連絡先をタップする。
スマホがコール音を鳴らしている間、撫でる手が止まったことに困惑するクロネコと、目の前の一色が一緒に首を傾げた。
◇◇◇
翌日の放課後。
俺の数少ない友人である間宮 明澄夏が美術室に立っていた。
事情ありそうな「色が見えない」事を伏せ、明澄夏に一色を紹介したところ、深くは問わずに美術室にやってきてくれた。
「はじめまして。一色さん、だよね?クラスメイトの間宮 明澄夏です」
「は、はじめました。い……一色 結衣です」
噛んでいる一色は委縮しているのか、俺の背後で縮こまっている。
通常ですら小さいのに、今は小学生と見紛うほどに小さい。
「悪いな明澄夏。部活中だったろ」
「ううん、だってここで練習するだけでしょ?お安い御用、それくらい」
サブバッグから譜面台を用意し、光沢のある楽器を取り出し始めた明澄夏。その様子を一色は、少し興味深そうに俺の背後から覗き込んでいる。口空いてるぞ、一色。
「ねぇ一色さん」
「は、はい⁉」
突然語り掛けられ驚いたのか、再び俺を盾にする一色。
「音楽、好き?」
「……お、音楽、ですか」
明澄夏が、覗き込む形で俺の奥の一色に声かける。
「そう、音楽。あたしはね、好き!大好き!」
そう語らなくともわかる。
楽器を手にした太陽の様に無邪気な、はにかんだ明澄夏の笑顔が何よりの証明であった。
「篝も久々でしょ? あたしの演奏聞くの」
「確かにそうだな」
言われてみれば、いつ以来だろうか。二か月、四カ月、いやもっとかもしれない。
「威厳をみせてくれよ、部長さま」
「あったりまえ!」
すぅっと、胸いっぱい。明澄夏が息を吸い込んだ。
楽器からあふれ出すソレは、希望の音。
「…………あ」
一色は真っ白な絹の様な髪の隙間から明澄夏をじっと見つめて、意識してか否か、取り出したスケッチブックに一本また一本と線が描かれる。
ただ楽譜を見つめて、楽器を通じて魂を音に乗せる明澄夏。
目に見えないモノ、聞こえないモノを絵の中に丁寧に描き上げる一色。
俺がどこかに落としてしまった、希望に満ち溢れた真っすぐな音と線。
熱を見つめるだけの俺は、この美術室から下手糞な切り取り線でハブかれたみたいで。
「…………またバットが振れたら、どれだけ良かったか」
小さな小さな俺の弱音は、誰の耳には入る事もなく消えていった。
それからしばらくして。
明澄夏の奏でる演奏に聞き入っていると、ふと右肩に違和感を感じた。
「……あっ……っうぅ」
右肩には、隣に座った一色が小さな呻き声と共に寄りかかっていた。
「一色、どうかしたか」
「い……え、すみません、大丈夫……です、なんでもないです」
小さくふらふらと左右に揺れて、唇をかみしめている一色。
顔色はいつもの綺麗なミルク色から、青ざめた病人みたいに血色が悪くなっていた。
「どう見ても大丈夫じゃないだろ」
「いえ、持病みたいなものなんです。薬を飲めばすぐ治りますから」
明澄夏の集中を切らさない様、静かに一色はバックから錠剤を取り出す。
小さな口で数種類の錠剤を何度も分けて水で飲み込む一色の姿が、美術室の窓から見えた曇り始めた空と重なって。
なんでもないその瞬間は、どうも俺の脳裏から離れないでいた。
◇◇◇
数週間が過ぎ去った。
俺と一色は、やはり放課後は美術室に居て。
一色のデッサンを、俺とクロネコは静かに見る。暗くなったら、解散する。
その繰り返しの、悪くない毎日。
それから明澄夏は、タイミングが合う時には美術室に顔を出してくれた。
「一色、いるか」
退屈な授業を終えた俺は、今日も美術室の古びた扉を開ける。
「いないよ」
返答の通り、紅茶に浸った美術室の中に一色の姿はなかった。
代わりに声の主であろう見知らぬ女性が一人、いつもの一色の席の机に腰掛けていた。
大きなサングラスを頭に掛けて、革ジャンとダメージジーンズはパリッと引き締まっている。オシャレに気を使う大学生というより、自分を最も活かす選ぶべき服を知っている、ブラックコーヒーみたいな余裕のある格好良さがあった。
「や、少年」
「どうも」
誰だこの人。少なくとも学校内では見た事がない。
お姉さんが、ふとジャケットの内ポケットから取り出した白いものを口に咥える。
「ここ、禁煙ですよ」
「知ってる、だからココアシガレットだ」
なんてベタな。
それでもかっこよく似合ってしまうんだから、余裕のある恰好の良さはズルい。
「ん、いるかい少年」
「いただきます」
差し出されたココアシガレットを受け取ったまま口に放り込み、一口で噛み砕いて、俺もその辺の席に座る。
「へぇ案外、図々しいんだな」
「くれるって言ったもんはもらいますよ。身体に有害じゃなかったら」
「はははは、間違いない。嫌いじゃないよ」
軽快な笑いのあと、お姉さんも残りのココアシガレットを一気に噛み砕いた。
「それで、うちの学校になんのようですか」
「まぁそんなに警戒するなよ君、寂しいだろう。……さては、君が羽月くんか?」
驚いた。知ってるのか、俺のこと。
「……まぁはい。お姉さんはどちら様で?」
「お姉さん、お姉さんね。ずいぶん嬉しいこと言ってくれるね」
革ジャンのお姉さんは細身だけど、ずいぶんと背が高い。
177cmの俺と同じか、それより少し小さいくらいだろうか。
「はじめまして。わたしは大田 周。一色 結衣の母親だ」
「え」
あまりに間の抜けた声が漏れた。
だって、一色と目の前のお姉さんはあまりに。
「わたしと結衣、似てないだろ? まぁ当然なんけどな、わたしは実母じゃないから」
言葉を挟む前に「それとも」と言葉を連ねた周さんは、こくんと首を傾けた。
「君は、わたしがあの魔窟に住まう一色家の人間に見えるか?」
あの、魔窟に住まう一色家?
「あの一色家……って言われても、俺も別に一色と出会ってからまだ数週間ですし」
「……ちょっと待て、君」
お姉さん、もとい周さんは素早い瞬きで俺を見て。
「もしかして一色の家について何も知らずに結衣と一緒にいたのか?」
一色の家の事情なんて知りようもないし、考えたこともなかった。
「そんなに有名なんですか、一色の家って」
「………まるで、わたしが恥ずかしいやつみたいじゃないか」
周さんが呟いて頬を掻く。
「今日、美術室に一色が来てないのは、その特殊な家系が関係してるんですか」
「うーん、関係しているといえばしてるし、近からず遠からずってところかな」
首を軽く竦めてから、にやりと笑う周さん。
「ところで君、一色一色って、家の話か結衣の話かわかりずらいな。あの子のことは結衣って呼んでくれない?」
周さんはニタリと露骨に小馬鹿にした笑顔を見せた。
「あ、ごめん思春期の男子高校生には恥ずかしかったか」
「……それで、結衣がどうしたんですか」
「お、いいね。がんばるね君」
いいから、無視だ無視。
名前呼びなんて小学生の時は、誰彼構わず当たり前だっただろ。明澄夏だって名前で呼んでるし。いちいち恥ずかしがってる方が意識してるみたいで更に恥ずかしい。
周さんは教壇に置いてあった教科書を適当に手に取って、俺に放り投げる。
「ほら、これの適当なページを開いてみな」
「はぁ」
湿気と乾燥を繰り返してヨレヨレになった教科書のページを開いてみる。
そこには世界の美術を作り上げてきた、名画の数々が紹介されていた。
「これがどうしたんですか」
「作者名、順番に見ていってごらん」
意識したこともなかったが、周さんに言われて違和感に初めて気がついた。
「一色って名前ばかりですね」
「そう。一色って文字は、美術界においてそれほどの尊厳と価値がある」
どのページを開いても、日本人、外国人問わず作者のほとんどに『一色・イッシキ』の文字が刻まれている。どれだけ教科書を捲っても『一色』とついていない作者を見つけるのが難しいくらいだ。
「いいかい、少年。一色の家が歩んできた道のりとは、現代に続く美術そのものだ。つまるところ、一色の家の未来は、現代美術の未来に直通していると言って過言じゃない。世界美術の発展、その最先端を常に走り続ける巨匠たちのほとんどは、一色の血を分けた遠い親戚なんだよ」
再びココアシガレットを口に放り込んだ周さんは、どこか、ずっと遠くを見つめる。
「美術界を牛耳る一色の家系において、美術の腕前は全てに勝る絶対的なルール。一族内での地位、教育環境、後継への秘伝の承継。その全てが、美術の腕前のみにおいて判断される」
ふと静かに、俺の脳裏にはスケッチブックを持つ一色の姿が過ぎる。
「生きる価値でさえ、ね」
美術の腕が全ての世界で、色を失った少女はどうなるか。
………俺は苗字の違う周さんが、一色の母親を名乗る思考に蓋をする。
「そんなこと、俺に話してよかったんですか」
「君だから話したんだよ、結衣に共感することが出来る唯一の君だから」
ふいの一言に、思わず拳に力が籠る。
「君、色が見えなかったことがあるんだろ?」
「………」
何も、言えなかった。
「…………結衣はさ、特殊な一色の家系の中でも、更に特殊だったんだ」
周さんがゆっくりと瞼を閉じる。
「あの子は一色家当主の愛人として一夜抱かれた女が身籠った子だ。だから一色の家の中でも扱いは分家も分家、妊娠が発覚した当時は一色の姓を与えるのすら大きく揉めたくらいさ。もちろん結衣は、本家の後継が受ける英才教育なんて受けられないし、最低限の生活費しか支給されてなかった」
どこかずっと遠くを見ながら、周さんは続ける。
「それを差し引いても、色が見えていた頃の結衣は、一色家の中で頭ひとつ抜けていた」
娘を得意げに話す周さんの姿は、紛れもなく愛情を注ぐ母親。
「結衣の絵に対する情熱は、まるで桁が違ったんだ。他の後継者が一色の家で生きるために絵を描いている間、結衣だけは絵を描くためにだけ生きていた。あの子に教育者なんていない。本当に天才だよ。一色の家の作品の見様見真似と、ひたすらの修練。それだけであの子は、一色の後継の中で圧倒的な技術を手に入れたんだから」
窓に反射した日差しが目を刺して、俺は思わず右手を翳す。
「美術の力は一色の家において、あらゆるものより価値がある。結衣が成長するにつれて一色家のバランスは大きく崩れ、まぁ一族を巻き込んだ大混乱に発展したさ。腫れものみたいに扱われていた結衣の実の母親も、いつの間にか正妻みたいに丁重に扱われる様になった」
再びポケットから取り出したココアシガレットを、周さんは俺に差し出した。
俺はそれを受け取り、口の中に投げ入れる。
「結衣は基本的に父親には会えなかった。一色家の当主なんて、日本にいる時間の方が珍しい。正妻の子じゃないのもあるし、当主としても結衣にここまでの才能があるのは予想外だったんだろうさ。そして結衣の母親だが……いい親かと聞かれれば、間違いなく悪い親だったよ」
右の奥歯で、受け取ったココアシガレットを一気にかみ砕く。
「嫉妬で捻じれた性格、尽きない欲望のまま金を振るい酒に溺れる毎日。災厄を振りまく姿はまさに魔女だった。ただ、生まれ持った面の良さだけは誰にも譲らなかった。当主が結衣に会いたがらなかったのは、過ちで抱いた魔女の面影を重ねてしまうから、って理由も少なくないだろうね」
一人キャンバスに向かう一色の、結衣の姿が眩んだ光と重なる。
「血のつながった娘としてなのか、自分と一色の家を結ぶ楔としてなのか、金色の鶏としてなのかはわからなかったけど、邪知暴虐の魔女でも娘は愛していたらしい。当時は一色の屋敷でメイドとして働いていたわたしも、屋敷の中で何度か二人が仲睦まじく食事をしているところを見た事がある」
それから「けど」と続けたあと、次に周さんが口を開くまで何度の秒針が鳴っただろうか。
数回だった気もするし、もしかすると一度もなっていない気もする。
「結衣はある日、色が見えなくなった」
「……階段から転んで、ですか」
せめて、不幸な事故であったならば。俺は周さんが首を縦に振る事を願って尋ねた。
「いいや、階段から突き落とされたんだ。本家の後継候補の一人にね。……正直言って、誰がどう言おうと言い逃れできない程に明確な状況だった」
些細な願いが、泥に覚えれて静かに朽ちていく。
「結衣の最高傑作になるはずの作品が完成間際だったんだ。あとは色鮮やかに染めていくだけ。あの時の楽しそうな、嬉しそうな結衣の顔は一生忘れられないよ」
その続きは、語られなくても理解できた。
結衣は間違いなく美術史に名を刻む美術家……一色家の当主になっていた筈だ。
「もちろん、突き落とした本人は認めてないけどね。少なくとも一色の家で、そんな事件があったなんて世間には公表できない。だから世間には、階段から足を滑らせたって公表されてる。もちろん扱いとしては事故だから、犯人の跡継ぎ候補を罰する事も出来ない」
淡々と事実だけを羅列する周さんに、先の穏やかな母親の面影はもう残っていない。
「結衣が色が見えなくなったその日……………実の母親は行方を眩ませた」
乾燥した唇が切れて、鉄の味が口端で淀んでいる。……実に不快だ。
「それからは……あっという間だった。ようやく腫物を切り落とせると言わんばかりに、結衣は追い出される形で施設に預けられた。それを見かねた一人の出しゃばりメイドが当主に啖呵を切って仕事を辞めて、お節介にも結衣を引き取り一緒に生活していますとさ。……あたしと結衣の関係は、ただそれだけだ」
周さんの、長い長い御伽噺みたいに残酷な昔話が幕を下ろした。
一服のため再び内ポケットを開くも、その中は既になにも入っていない。
「羽月 篝くん、君に頼みがある」
「………………なんですか」
「どうか結衣に、色を取り戻させてやってくれないか」
ようやく理解できた。なぜ周さんがここにいて、俺にここまで話をしたのか。
あの灰色の世界を知っている人間は、この世界にはそういない。
「簡潔に説明しよう。君、心因性って知ってるかい」
「いえ、知りません」
「医療用語の一つだよ。簡単に言うと、肉体そのものは回復しているけど、精神が拒絶を起こす事で発生する症状のことだ」
なるほど、似たような話の類は聞いた事がある。
重症の事故を起こした運転手が再度運転しようとすると身体が拒絶反応を起こし、上手く運転できなくなるとか。それと似た現象が、結衣にも起こってるってことなのか。
「実のところ、結衣の色彩能力自体はとっくに回復している。つまり本当は、結衣の目は色を前と変わらずに捉える事が出来ている筈なんだ」
見えている筈なのに、感じる事が出来ない。
「自覚できないくらい、あの子に深く刻まれたんだ。またこんな命の危機にあうならば、もう絵を完成させちゃいけない。色を塗っちゃいけないってね。……だから、無意識的に色が見えなくなった。回復の兆しも見えず、正直もう二度と色が見える事は無いと思ってた」
声に出さなくとも、周さんが一色の家に向ける軽蔑を肌で感じる。
「けど君が現れた」
静かだった秒針が、再び鳴り始めた。
「帰ってきた結衣から満面の笑みで聞いた時には、本当に驚いたよ。ずっと回復の兆しが見えなかった結衣が「同じ体験をしていた友達ができました」って、はしゃぎまわってたんだから」
「……話したことは嘘じゃありません。俺も昔、野球で事故って色が見えなくなって手術でなんとか治療しました。……………後遺症で、野球を続けられなくなりましたけど」
「そう、色の無い世界を体験した君と、この美術室で出会ったから。結衣は灰色の世界から孤独感から少しずつ解放され、心因性の症状が回復し始めた訳だ」
ようやく、話は終着点にたどり着いた。
「つまり、君に頼みたいことは理解できたかな?」
「心因性の症状が治るまで、出来るだけ結衣の近くにいる事。ですか」
パチン、と心地いい周さんの指パッチンが美術室に響く。
「そうだ。それだけが、あの子を灰色の世界から救いだす唯一の方法だ」
結衣が受けた心の傷で生まれた孤独を、寄り添う事で灰色の世界を壊す。
明澄夏の様に、誠実でなく。
結衣の様に、天才でもない。
できるだろうか、何も成していない俺に。
「……………………………」
俺が一度、世界から色を、野球を失った事で。救われる人が、何かがあるのなら。
これまでのすべてが、きっと無駄じゃないのなら。
だとしたら、俺は。これが俺にしかできない事ならば。
「……………………やります」
「うん、いい返事だ」
机から飛び降りた周さんは、指先でチャラチャラと鍵を回す。
「それじゃ、いこうか?」
「どこにですか」
ニヤッと頬の端を釣り上げ、周さんは言った。
「わたしと結衣の家」
「……はい?」
◇◇◇
そこから30分ほど。
周さんの運転する車に揺られ、しばらく山道を走った。
車内で気まずくなるのが嫌だったので、俺は後部座席に座った。
「君、今日の事は結衣には秘密だよ」
「……言えるわけないじゃないですか」
高速道路の下を通って住宅街の端、小さなアパートの前に車が止まる。
こぢんまりとしたアパートの2階の右端、白色の扉から結衣が顔を覗かせた。
階段をゆっくりと降りてくる結衣はいつもの制服ではなく、少し大きめの白Tシャツにフィットした黒ジーンズと、頭にはベージュの帽子を被っている。
なんとなくおしゃれだな、としか感想を持てない俺には、アンバランスな服装も相まっていつもより少し幼く見えた。
うぃんと助手席の窓を開ける周さん。
「ただいま、結衣」
「おかえりなさい、周さん。随分と時間がかかりましたね。何かあったんですか?」
「あぁちょっと野暮用でね。結衣、これからちょっと出かけるよ。このままいける?」
「はい、大丈夫です」
結衣が助手席に乗り込み、シートベルトを着ける。
それと同時に、周さんは「あぁそれから」とわざとらしく手筒を打って。
「後ろの席、プレゼントあるから」
「後ろの席?」
「よう」
「わぁぁあああああ⁉」
俺は住人に出くわした空き巣みたいに、下手糞な引きつり笑いで片手で挨拶する。
飛び跳ねた結衣はの目は、みるみる目は半分閉じて、その頬はぷくぷくと膨らんでいく。
「…………羽月さん、なんでここにいるんですか」
「知らん、俺も周さんに連れてここまで連れてこられたんだ」
実際、なにも聞かされずにここまで連れてこられたのは事実だ。
「周さん、羽月さんと知り合いだったんですか?」
「いや?羽月君とはついさっき知り合ったんだ。散歩してたら「そこの美人なお姉さん、今お時間ありますか」って話してきたから、話してみれば結衣の知り合いっていうんで」
「……羽月さん、ナンパしたんですか」
「断じてしていない」
結衣の目がめちゃくちゃ怖い。なぜかハイライトが消失している。
「さ、それじゃ行こうか」
周さんが運転席の窓を開けて仕切り直し、俺と結衣は目を見合わせた。
「周さん、これどこ行くんですか?」
「いつものところ」
「いつものところですか」
周さんの答えに、結衣は満足そうに両目を溶かしてシートに収まる。
サイドミラーに反射する伸びをする姿は、頭を撫でられて喉を鳴らすネコみたいだ。
……まぁ、結衣がいいならそれでいいか。
「羽月くん、親御さんには遅くなると連絡しておくといい」
……本当に、大丈夫なんだろうか。
◇◇◇◇◇
それから、また山道を40分ほど走った。
入り組んだ道を超えて、田舎特有の複雑な交差点、落ち葉で地面が見えない坂道を往く。
心地よいリズムがうつらうつらと眠気を誘い、瞼の重さも時間と比例して重くなる。
「さ、到着だ」
周さんの言葉で、吊り下げられた重りがプツンと取れた。
「羽月さん、ここには来た事ありますか?」
「いや名前だけ、実際に来るのは始めてだ」
ついた場所は、景観でそれなりに名の知れる温泉街。
実際、駐車場のほとんどが県外ナンバーだった。
「それじゃ諸君、1時間後にここで」
「周さん、一緒に行かないんですか?」
「あぁ君には言ってなかったな。基本的にここでは、わたしと結衣は別行動だ。わたしは買い出しと挨拶回りがあるからな」
手を振る周さんに背中を見送られ、俺と結衣はすぐ傍のウッドデッキへ足を運んでみる。
そこは観光の目玉でもある渓流と、横にある散策コースを見下ろせるポイントだった。
「おー……」
大自然の緑で染め上げられた、という塗りつぶした言葉では凹凸の過ぎる光景。
苔むした岩や渓流によって磨かれた崖、根の溢れだした地中は、光と影の構造によって幾つにも多彩な顔を一面の中から覗かせ、自然と歴史によって描かれた芸術に思わず唾を飲み込む。
「知らなかった。近所にこんなに凄いところがあったんだな」
当然の話だ。知ろうともしていなかったから。
横に立つ結衣が、渓流の風を受けながら髪を耳に掻き揚げる。
「それじゃ、私たちも散策コースに行きましょうか」
「そうだな……おっと、その前に」
この風景をレンズに捉える為、スマホをカメラモードに切り替えて横に構える。
「ちょっとこっち向いてくれ、結衣」
「………………!」
俺は、画面上のシャッターボタンに指で触れた。
――――パシャリ。
こちらへ振り返る結衣の姿と、背景の雄大な自然のレンズの世界に閉じ込める。
レンズの向こう側の結衣は、紅葉も始まっていないもみじの中で、耳の端までひと際目立った夕焼け色に染まりあがっていて。
「あ」
そうして、はじめて気が付いた。
しまった。周さんとの会話のせいで、なにも考えずに下の名前で呼んでしまった。
出会ってから今日まで、ずっと一色って呼んでたじゃないか、俺。
跳ね上がる心拍数と体温を押し殺して、ひたすら無表情である事に勤める。
「あのな結衣、恥ずかしいかもしれないが、別に友達なら名前で呼ぶのくらい普通だぞ」
「そ、そういうものなんですか」
「そういうものなんですよ」
「なんで敬語なんですか!」
今ばかりは、結衣にこういった経験がなくて本当に助かった。
「よし、それじゃ行くか」
「そ、そうですね! そのぉ……わ、私のおすすめスポットをご案内します!」
結衣は意を決したみたいに大きく、グーっと渓流の新鮮な空気を吸い込んで。
「い、いいいきましょうか! ……か、篝くん!」
「お、おう!」
茹蛸みたいな顔色で変なテンションの結衣を追って、苔むした石畳の階段を下る。
空の面積は透き通る様な快晴から、若葉の淡い緑から歴史を感じる深緑など多種多様なグラデーションの割合が増えていた。瑞々しい空気に触れて、肺の隅まで満ちてゆく。
けれど、どうして。やけに顔が熱かった。
◇◇◇◇◇
散策コースに行くためには、つり橋を渡って行き来する必要があるらしい。
結衣に案内されるがまま、頑丈にワイヤーの張り巡らされた深緑色のつり橋の上を歩く。
「なんか妙に曲がりくねってないか、この橋」
「設計の問題上、橋そのものを歪ませるのが一番効率的だったみたいです」
それは設計ミスと呼ぶんじゃなかろうか。
「あ、あれ見てください篝くん!」
「どこ指してるんだ? ……川か?」
「違います!ほらあそこ、大きな傘がいくつも立ってる場所があるじゃないですか」
結衣が指差す先には、確かに、蓮の葉みたいに大きな傘が幾つもあった。
傘が日光を遮る場所には、風景に馴染み込んだ木材の小箱に畳が敷かれている。
「なんだあれ」
「名物の甘味処です。あそこの抹茶ぜんざいが絶品で、いつも大行列ができてるんです!」
「そうなのか。……あんまり今日は人が並んでないみたいだな」
「篝くんはスーパーラッキーです。混んでる時には、数十分でも耐え忍んで食べる名物ですから!」
そうなのか。スーパーラッキーなのか。
「それじゃ、あそこを目指してみるか」
そこから橋を渡り切った俺たちは、大きく胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込んだ。
渓流のせせらぎと涼やかな風に撫でられて、少しばかり疲労感のたまった全身に山の澄み切った空気が巡る。この感覚、嫌いじゃない。
「体感したことがなかったけど、空気がうまいってこういうことなんだな」
「ですね、身体の内側から元気になってる感じがします」
「俺の父方の爺さんの家が森の中にあるんだが、俺の知ってる森の匂いは何かもう少し腐敗臭というかキツいイメージがあった」
「きっと腐った植物とかなんじゃないでしょうか。渓流なら川の流れで匂いも流れていきますし」
「なるほどな……ここは大自然の作り出した循環装置ってことか」
苔むした石道を一歩、また一歩と俺と結衣が踏み出す度。乾燥した落ち葉がシャクリと聞き心地のいい音を鳴らす。
ふと渓流と逆側をみれば、切り立った地層に小さな窪みが出来ていて、たっぷりと潤った大地から重力に耐えきれなくなった水滴から順に落下していく。
「あ、あれです」
ゆっくりと歩いて十数分後、件の甘味処が見えてきた。
「いらっしゃい」
「あら、お嬢ちゃんでねえの」
深緑の作り出したトンネルを歩いてくる俺たちに、お爺さんは何本か抜けた歯でにんまりと笑って手を振った。奥の吹き抜けの小屋では丁度、前の客が食器の返却を終えたのかお婆さんがゆらゆらと揺れる湯気を纏った手を振っている。
横を歩く結衣もまた一度立ち止まり、丁寧に両手をそろえて頭を下げた。
「こんにちは、お爺さん。お婆さん」
「はい、こんにちはぁ」
「嬢ちゃん、よく来たねぇ」
一色の家の中には、基本的に結衣を快く思う親戚が存在しない。
周さんから聞いた話を、俺はなぜか脈絡もなく思い出した。
「嬢ちゃん、それにしても久しぶりやんねぇ。ほんでま、恰好の良い彼氏さん連れて」
「か、篝くんは彼氏さんじゃないです!」
「ありゃ、そうなのかい。お似合いのイイ男なのに残念だねぇ」
「そ、そういうのじゃないんです! ほんとうに!」
しわの多い顔を緩ませたお婆さんが、横のお爺さんと「ねぇ~」と揃えて首を傾げる。
また体温が上がりそうな思考を堪えて、俺はグッと表情筋を固めた。
「んにゃーん」
すると足元で、何かが擦れる暖かな感覚。
足元を見下ろすと、額から伸びる白毛に両耳を覆う栗色の軟毛のネコが居た。
「あんらぁ珍しい、こんこが人懐くなんてねぇ」
「私、なんやかんやで初めて看板ネコさんに会いました」
「んまぁ嬢ちゃんくると、いつも小屋に隠れちまってでだな」
「えっ」
俺はしゃがみ込んで、ネコと視線を合わせる。
「抱え上げてもいいか?」
「んなーん」
「ありがとう。それじゃ、失礼して」
前足近くの背、それから腰付近を優しく抱き上げる。
撫でられるがままの看板ネコに、思わず緊張していた口端も綻び始めて。
「あっ」
「………」「……」「……」
そこでやっと、視線が俺に集まっている事に気が付いた。
……しまった、あまりにネコに集中し過ぎた。何か話を逸らさなければ。
「そ、そういうえば、結衣とは長いお知り合いなんですか?」
「んー?まぁーそうね嬢ちゃんはね、何週かに一度はこの店に顔を出しに来てくれるのよ。お客足が落ち着いた時には、こんなしわくちゃ爺の話を聞いたり、たまには将棋を指したりねぇ」
「忙しい時には、洗い物を手伝ってくれたりねぇ」
「いつもありがとうよ」と笑うお爺さんとお婆さん、どこか照れ臭そうに一緒に笑う結衣。
それはまるで、蝶よ花よと大切に育てられた暖かい本物の祖父母と孫みたいだった。
「まぁでも嬢ちゃん、将棋の腕はまだまだだんな!」
「ま、まだ二十六連敗ですから!これからが私の伸びしろです!」
わははと笑い飛ばすお爺さんを前に、結衣は頬を膨らませる。
「わはは、嬢ちゃんが言うすけ、儂もまだ死ねんなぁ」
「ほんとです!長生きしてください。おじいさん」
「そら、将棋で負かす前にぽっくり逝かれたら困るかい?」
「困ります!」
またも「わはは」と数本歯のない口でお爺さんが笑う。
「んなう」
「ん、降りるか。ありがとうな」
看板ネコはぴょんと跳ねて地面に降り、歩いてきた苔道を進んでゆく。
「そうだ嬢ちゃん。いつもの席が開いてるけ、ブランケット置いとくよぅ」
「はーい、ありがとうございます」
それから、5分ほど。
席に着いた俺たちは膝元にブランケットを載せて、ただ渓流をじっと見つめた。
「はいお待ちぃ、抹茶ぜんざい2つね。ほうじ茶はサービスだからぁ」
朱色のお盆には滑らかな木のスプーンと上品な茶碗が二つ、小さな陶器の湯呑が二つ。
お爺さんは俺たちに「ごゆっくりぃ」と手を振って、また小屋へと戻っていった。
「いただきます」
「いただきます」
陶器の湯呑に入った焦げほうじ茶に、そっと口に付ける。
渓流の冷たい風が馴染んだ身体の芯に、濃いほうじ茶の豊潤な香りと熱が沁みてゆく。
「……うまい」
「ですね」
横の生い茂った木々の下で小さな谷となって流れ出ている小川が、ふと目に入った。
小さな青落ち葉は流れて、曲がって、石や木々でたまには緩やかに渦巻いて。穏やかな流れに見える上流では、流れを塞いでいた古い木の幹に穴が開いていた。
きっと、俺が生まれるよりも、ずっと昔から。時間と共に流れ続けた悠久の流れだ。
「いい場所だな」
口端から漏れ出した言葉に、自分でも驚いた。
「そうですね」
太陽みたいな瞳を何度も瞬かせたあと、結衣は穏やかに微笑む。
「私、この場所が好きです。色がわからなくても、色以外の全部を感じられますから」
色以外のすべてを感じる。
なるほど、言いえて妙だ。
ひんやりと心地いい風が、シャツの隙間を優しく吹き抜けてゆく感覚。
擦れた葉々から水滴が水面を打ち、それを飲み込む川のせせらぎの音。
苦みと渋さに寄り添った、さりげない甘さを引き立たせる優しい抹茶ぜんざいの味。
自然の呼吸が生み出した澄んだ空気、それに逆立つことなく香り立つほうじ茶。
こんなに心落ち着く場所があったなんて、さして遠くない場所なのに知らなかった。
……いや、知ろうとすらしなかったんだから当たり前か。
「悪い、結衣」
「なんですか、篝くん」
どうしても、いま胸の奥に刺さった棘だけは、見逃しちゃいけない気がした。
「話さないといけない事がある」
俺は底の方に残ったほうじ茶を、緩やかに飲み干して口を拭う。
「はい」
結衣は何も言わずに、ただ俺の方を向いて頷いた。
「周さんから結衣の事情、全部聞いた。色が見えなくなった原因も、一色の家の事情も」
渓流の風に溶け込む結衣の姿勢は穏やかで、顔には含羞の色も焦りも緊張もない。
「……そうですか」
ただ何も変わらず、木漏れ日を受けながら頷いた。
相応しい言葉が見当たらなくて、咄嗟に語彙の棚から当たり障りのないをひっくり返す。
「大変、だったんだな」
「大変じゃなかった……と言うと、嘘になるかもしれません」
気恥ずかしさとも困惑とも見える結衣の表情が、俺の背中を後悔の刃物でザクリザクリと滅多刺した。
「篝くん?」
強く握りしめた拳に手汗が沁み込む。
何してんだ俺は。違うだろ。
「いや、すまん……何でもない」
「そですか、体調でも悪いのかと思いました」
どこか安堵した様子で、結衣が再びほうじ茶を口元へ運ぶ。
こくり、と小さく一口含んでから、丁寧な所作で湯呑を盆の上に返した。
「一つだけ、私からも聞いていいですか」
結衣と同じく、何も言わずに頷く。
「周さんは、ひとりの男の子について何かお話していましたか?」
「男の子について?」
それは、全く期せぬ単語だった。
周さんから聞いた話に、印象に残る特徴的な男の子は出てこなかった様に思える。
俺の顔を見て確信したのか、結衣はそのまま続ける。
「やっぱり……周さんからは何も聞いていませんか」
「そうだな。特に思い当たる節はない」
普段なら聞き取れないくらい小さな声で、渓流に混ざって結衣が囁く。
「周さん、やっぱりズルいです」
それは渓流と一緒にあっという間に流れ去って、俺は聞こえない振りをした。
「今からお話しするのは、私の身勝手な懺悔です。……それでも聞いてもらえますか」
「もちろん」
俺にできることは、それくらいなんだから。
「…………私は昔、とある男の子の未来を奪ってしまいました」
「未来?」
「はい、未来です」
あまりに抽象的な言葉だ。
「階段で頭を強打した……色が見えなくなったあの日、私は救急車で運び込まれました。容態は一刻を争う、最悪な状態です。脳のダメージは最悪の場合、記憶障害や五感の消失を引き起こす可能性も大いにありました」
語る結衣は、僅かにも動かない。
「脳への深刻なダメージは特殊な医療機器・専門医が必要らしく、その準備には最低4時間の時間がかかる状況だったそうです。……私の容態はそこまで持つかどうか、五分五分でした」
「……」
一瞬だけ、結衣の唇が止まった。
「しかし奇跡的にも、私が救急車で運び込まれたあの日。病院では既に脳の専門医による手術は、用意は万全の状態だったんです」
背中から爪先に掛けて、ちくりと静電気が駆ける。
全身の産毛が不揃いに逆立って、なぜか呼吸も意識的になった。
………なんだ、この違和感は。妙なデジャヴだ。
「私より先に手術を受ける予定だった、同じくらいの年の男の子がいたからです」
潰された内臓と吐瀉物が喉の奥でうごめき、深く静かに嘔吐く。
どうして俺は、その可能性を思いつかなかった。
どうして俺は、ありえないなんて思いこんでいた。
どうして俺は、結衣を無関係な悲劇の少女だと決めつけていた。
「一色家の重圧を受け、病院は……男の子の治療より私を優先する判断を下しました」
葉が水面に落ちる音も、ほうじ茶の匂いも既に感じられない。
長閑な自然に包まれた渓流という絵画の中に、俺はもういなかった。
絶えず呼吸をすること、表情に出さない事。それが精一杯で、必死に繰り返す。
「……結局、私の手術は決行されました」
凍てつく病室の扉に触れた左頬、扉越しで聞いた両親の剣幕が鮮明に脳裏に蘇る。
もしあの日、結衣じゃなく俺が手術を受けていたら。
もしあの日、俺が動体視力を手放していなければ。
――――――もしかしたら、俺は、今も野球を。
「あの、篝くん。どうかしましたか?大丈夫ですか?汗……すごいです」
「…………いや、なんでもない。…………大丈夫だから」
片手にハンカチを取り出した結衣に、俺は静かに掌を振る。
沸騰した血液が心臓を膨張させて、血管は今にも爆発しそうだ。
「……話を、続けてくれ」
「……はい」
結衣もまた、どこか表情に影を拭いきれないまま。
「手術から数日経って、夜中に看護師さんたちがひっそり話しているのが聞こえました」
陰る結衣の目元に、更に深く黒い影が差す。
「……私に手術を奪われた男の子は、動体視力までは回復できなかったって。もう夢を追うどころか、大好きだった野球をすることも難しいだろう……って」
決して短くない沈黙。
泥沼みたいに絡みつく、時間を奪う嫌な沈黙だった。
「それが私の懺悔です。…………名前も知らない誰かの未来を奪ってしまいました」
俺は全力で、頬の奥を噛み締めた。今は痛みでもいいと、そう思ったから。
奥歯が擦れて肉が潰れる微かな音が鳴り、錆びた鉄の味が口内を塗りつぶす。
「結衣」
「はい」
「酷な事を聞く」
「……はい」
手術を待つ少年じゃない。羽月 篝としての言葉だ。
喉を通す前に、胸の内で自分自身にそう怒鳴りつけてから。
「仮にその少年が野球を続けられたとして、プロ野球選手になれる可能性はどれだけあったと思う?」
現実は漫画やアニメの様に甘くはない。
どんなに大きな希望を抱えても、凡人には、いつかはその肩に現実が触れる日が来る。
「そして結衣、お前が一色家の当主になって、世界を引っ張る芸術家になる可能性は?」
才能の保証された天才の結衣と、ただ好きでバットを振る事しか考えていなかった俺。
そんなもの、比べる価値すらない。
強引なやり方だとしても客観的に見て、結衣の治療を優先した一色の家や病院の判断は何一つ間違ってなどいないのだ。
人間はなにひとつ、平等なんかじゃない。夢を見るって事は、そういう事だ。
「それでも結衣は、少年の治療を優先すべきだと思うか?」
「絶対に、男の子を優先すべきでした」
わずか一瞬の迷いもなく、結衣が声を張る。
「私は、絵を描くのが楽しくて。男の子は野球をするのが好きだった。それだけです。彼には先に治療を受ける権利と、その必要があって…………私はそれを無慈悲に、冷酷に奪い取ってしまいました」
俯いた結衣の表情が再び陰る。
その主張はあまりに感情的で、非合理的だ。
「男の子の本心は、野球に大した興味を持ってなかったかもしれない」
「だとしてもです」
結衣は力なく震える身体を、畳に両手をついて支える。
「だとしても、です」
結衣の頬から大粒の水滴が、何度も、何度も落下する。
「今の私には、彼に合わせる顔がないんです。……彼の未来を奪い取った挙句、治療は終えたというのに未だ色も見えず……一つの絵を完成させる事すら叶いません」
「………………そうか」
ただ、一つだけ断言できる事はある。
ここに座っている俺があの日の少年でなく、羽月 篝でいられるのだから。
目の前の結衣が血の滲んだ包帯の少女ではなく、一色 結衣でいられるのだから。
「……なら、もう迷うこともないだろ」
少なくとも、結衣の信念と、口一杯に広がる鉄の味は無駄ではなかった。
「あとは、これから一歩ずつ前に進んでいけ」
「………え?」
顔を上げた結衣の瞳は涙で揺れていて、凝縮された太陽光が反射した。
頼んだぞ羽月 篝。決して空中で溺れてくれるなよ。
「結衣にそんな過去があったとして、時間ってやつは戻らないんだ。じゃあ、そいつの分まで結衣が夢を叶えるしかないだろう。難しい理論でもない、簡単かつ合理的な話だ」
すぅと空気を吸い込んで、澄み渡る渓流の空気を肺の隅々まで循環させる。
「それが、託された側の責任ってやつなんじゃないか」
「託された側の……責任」
言い換えれば、呪いだ。託された、奪った者を蝕む深く重い呪い。
奪われた名も知らぬ彼の人は、どれだけ思いを馳せてもこの地を踏むことを許されないのだから。誰の許可で足を緩めるつもりか、と何度も絶え間なく罪悪感が鞭を打つ。
………いま俺が出来る事は。俺だけに出来る事は。
「結衣」
俺はただ真っすぐに、結衣の目を見つめる。
「まだ絵を、描きたいか?」
「……っ」
結衣の身体が、怯えた子供の様に大きく震える。
他の道に逃げられないのならば、それは良くも悪くも一本道だ。
「は……い」
「そうか。なら描こう。それだけが、きっと償いになる」
一本道ならば進む。それだけだ。
奪ってしまった者が、自分を許せる唯一の方法なんてものは。
「――――っつあぁ。わた、し……! ぁっあ、うあぁ……」
結衣は空を仰いで溢れる涙も気に留めず、大声で泣いた。
渓流に反射した音が何度も何度も木霊して、水の音に消えてゆく。
お婆さんとお爺さんは受付の小屋で背を向けたままで聞こえない振りをしてくれた。
喉がしゃがれるまで、結衣は泣いて、泣いて泣き続けた。
「もう、大丈夫か」
「………はい。あ、ありがとうございます」
結衣はシルクの様な柔肌に目立つ、真っ赤に腫れた鼻と目を隠そうとはしなかった。
とりあえず、そのままという訳にもいかない。制服からハンカチを差し出す。
「い、いえ! ハンカチくらい自分で!」
「腰が抜けてるんじゃ、上手く出せないだろ」
結衣の鼻や目だけじゃなく、顔全体が真っ赤に染まる。
どうやら図星だったらしい。
思い切り泣くのって案外、かなりの体力を消費するものだ。
「あの、恥ずかしいので……」
「別に俺たち以外に人もいない。気にするな」
おずおずとハンカチを受け取った結衣が、真っ赤な目を上半分だけ覗かせる。
「また、篝くんに助けられてしまいました」
「何のことだ。助けたつもりはない」
「そうやって補助されるのも、なんか悔しいです」
思いっきり大声で泣いてたやつが、何を言ってるんだ。
「あの、篝くん」
「なんだ」
お日様みたいに結衣が笑った。
「絵が完成したら、一番に見てください」
「あぁ、楽しみにしておく」
俺も責任を負わなければならない。
奪われた者の、沈黙する物の責任だ。
結衣が未来を奪ってしまった少年が、俺であること。
この秘密だけは、絶対に隠し通す。俺の為にも、結衣の為にも。
「まいどありぃ。またいつでも来んしゃいねぇ」
おじいさんとおばあさんに挨拶をして食器を返却し、俺たちは甘味処を発った。
結構な時間を甘味処で過ごしていたのか、周さんとの集合時間にあまり余裕はない。
「ここを行くのか」
「はい、こっちです」
来る時と打って変わって、帰りは苔が蒸した古風な石橋を歩いて渡る。
対岸の不恰好な石階段を昇ると、はじめに眺めたウッドデッキに繋がっていた。
「周さんは……まだ来てないみたいですね」
「ここらで座って待つか」
「ですね」
端にあったベンチに腰掛けると、結衣も次いで膝が当たるほど隣に腰掛けた。
ベンチはそれなりに大きく、ゆったりと隣に座ることも出来そうだが。友人関係に疎いい結衣の事だ、深い意味もないだろうし敢えて言うこともあるまい。
ふと、赤らんだ空を見上げる。
「……うんざりするほど、いい天気だ」
「ちょっと寒いです」
「そのフードでも被ったら、少しは暖かくなるんじゃないか?」
「……ものは試しです」
モゾモゾとフードを広げて被り始める結衣。
既に日は沈んでいるものの、周囲は道路標識を視認できる程度には明るい。
「…………」
ふと、重みを感じる。結衣の身体が俺に寄りかかっていた。
「結衣?」
「…………」
返事はない。薄い夜の中で俯いたまま、結衣は俺にしばらく身体を預けていた。
先ほど思い切り泣いた疲れがまだ抜けきっていないんだろうか。
やがて、結衣の身体はゆったりと前方へと傾き、ついにベンチから投げ出され――――
「おいっ」
結衣の身体が地面に倒れる前に、慌てて受け止める。
「……はぁ、っはぁ」
その拍子にフードがハラリと解け、結衣の荒く不安定な呼吸が露になる。
「結衣? ……おい、大丈夫か結衣!」
「っあ、はぁ……はぁ」
身体が上下に揺れる度、結衣は苦悶に顔を歪ませる。
だらりと力の抜けた身体や血色の薄い顔は、今にも溶け消える蝋燭を想像させた。
「結衣っ!」
荒々しく車の扉が開くと同時に、少し先から周さんの声が聞こえる。
「周さん、結衣が急に体調が悪くなって!」
俺は、精一杯に声を張った。
「状況はわかってる! 君は自販機で水を買ってきてくれ!」
「はい!」
周さんに結衣を任せ、自動販売機の方向へと走り出す。
がむしゃらに両足を動かすも、前方でほんのりと輝く自販機との距離は一向に縮まる気がしない。永遠にも感じる暗闇の中を、俺は全力で走り続けた。
あれから周さんの車に控えてあった錠剤を飲ませ、症状は少しばかり落ち着いた。
そのまま周さんは車をブッ飛ばし、病院へ運び込まれた結衣はすぐに検診を受けた。
「周さん、結衣の容態はどうですか」
「大丈夫、もう落ち着いたみたいだ。担当医も、もう少し休んでいけば良くなるだろうってさ」
「……よかった」
身体の震えと、青ざめた病人みたいに血色の悪い唇。
確か、明澄夏が美術室で演奏した日にも、似た症状を見た。
「例の持病ですか」
「持病?」
「錠剤を定期的に飲んで検診を受けないといけないって、結衣が言ってました」
「あぁなるほど」
周さんが、呆れと礼賛の混ざった様な複雑な表情を浮かべる。
「結衣に持病はないよ」
「え?」
「あの子の体調不良の原因は、脳内の傷だ」
途端に恥ずかしくなった。とんだ勘違い、自惚れをしていたから。
俺が心因性の症状を改善することができれば、結衣は健康体になると思っていた。
バカか俺は。涙を誘うドラマでもあるまい。階段から突き落とされたんだ、心因性の症状とは別に物理的な傷もあるに決まっている。
「頭の怪我ってことは、階段の件が原因ですよね」
「……そうだね。同じ頭の怪我でも、手術で治療できた視覚に携わる部分とは違って、脳の奥深くの怪我だから失敗した時のリスクも非常に高い。出来るだけ手術したくない以上、自然治癒に任せるくらいしかないのが現状だ」
病院の待合室には、俺と周さんの二人だけ。
時折香る病院特有の薬臭さが、妙に背筋を硬らせる。
「呑んでた錠剤の薬じゃダメなんですか?」
「あれはあくまで痛み止めで、根本的な治療薬ではないからね。残念ながら、痛みが酷くなったら薬を飲んで病院で検査するしかない」
静寂の中で、いつもの放課後みたいに秒針だけが存在を主張する。
それは穏やかな美術室の秒針と違って、何かの足音を刻むカウントダウンに聞こえた。
「さて羽月くん、今日はありがとう。家まで送るよ」
「いえ、ここから家は近いんで大丈夫です」
温泉街なら流石に無理だが、この病院から家はそう遠くない。
「そういうな。外も暗いだろうし、連れ出したわたしの責任でもある」
「俺は大丈夫なんで、結衣の横にいてやってください」
吐いた言葉は紛れもない本心であり、同時に一人で居たいのも本心だった。
周さんが何か言うより先に自動ドアを潜って待合室、そのまま病院を出る。
病院を背にして右手側。車通りもなく長い坂道を、濡れた靴底で踏みしめながら登る。
重い雨の濡らす、銀杏の葉が敷かれた長い坂をゆっくりと。
――――ヴゥゥゥゥゥ。ヴゥゥゥゥゥ。
病院を出て、10分ほど歩いた頃、冷たくなったスマホの明かりが点いた。
通知欄で光る、明澄夏のトランペットの写真。
画面に触れたスマートフォンは、あの日の病院の扉みたいに冷たかった。
