放課のチャイムが鳴ってから、何時間が経っただろうか。
音楽室の外は、気がつけば深海へと変わっていた。
メンテナンスを終えたトランペットを、あたしは丁寧に赤地のケースに仕舞い込む。
閉じた革ケースの角に記入された、あたしの名前。
千秋高等学校吹奏楽部部長、間宮 明澄夏。高校2年生。
「真宮先輩、お先に失礼します」
「はい、お疲れさまー」
メガネを掛けた後輩の女の子は、扉の前で振り向くと丁寧に旋毛を見せた。
「今日はご指導、ありがとうございました」
「ううん、気にしないで。外も暗いから気をつけてね〜」
彼女の演奏はお世辞にも上手く無い。でも、目に灯る情熱は誰にも負けていなかった。
今日もあたしの練習時間はすっかり無くなったけど、これも部長の責務なのだ。
西棟、最上階にある音楽室から校舎全体を覗き込んでみる。
体育館以外の電気は消えていて。昼は活気に溢れる校舎も、今は寂しさで浸っていた。
篝……は、もう流石に帰ったかな。
あたしも音楽室の戸締りをして、静寂以外とは誰ともすれ違わない廊下を下る。この時間の校舎は開場前の水族館みたいで嫌いじゃない。
「うぅーさむ」
外に出るとすっかり暗くなっていて、風が吹く度に寒さは身体の芯に爪を立てた。
今朝出る時に迷ったトレンチコート、絶対着てくるべきだったなぁ。でも可愛くないんだよなぁアレ。
学校から駅に着いても、無人駅だから駅員もいなくて閑散としている。
フクロウ達の会話だけが、誰もいないホームに響く。
しばらくして、無機質にホームからアナウンスが鳴る。
『――――電車が参ります。白線の内側まで、下がってお待ちください』
電車はものの数分でやってきた。
乗り込んだ電車の中にも、乗客はいなかった。
もしかして、運転手もいないんじゃないか。なんて、意味不明な尚早に駆られて、あたしは運転席を覗き見てみた。普通にいた。何を焦ってるのかな、あたし。
揺れる電車の窓に自身が反射する。その奥では、暗がりの中に河川敷が広がっていた。
◇◇◇◇◇
――――一年前の篝と出会ったあの日を、今でも鮮明に思い出す。
入学してから先輩たちと全部の時間を使って練習した。
けれど、金賞の表彰台に乗った学校はあたし達じゃなかった。
先輩たちが「あんた達には来年がある」「託したよ」って肩を叩く。
でも、あたしは知ってた。先輩たちが、控え室で大声で涙を流してたこと。
悔しくて悔しくて、悔しくて。悔しがる事しか出来ない自分が、何より不甲斐なくて。
気が付けばあたしは、流れ出る涙を全部放ったまま。この河川敷で、感情の全部を載せてトランペットを吹き鳴らしていた。
話したこともないクラスメイトの男の子が、隣で寝転んでいる事も気づかずに。
我ながら、きっと演奏も顔も凄いことになってたと思う。
篝は黙って文庫本のページを捲り続け、日が暮れるまでめちゃくちゃな演奏を聞いていた。
「……ぅ」
「おい……ちょっと!」
酸欠で千鳥足のあたしが、地面に直撃する直前。篝は文庫本を投げ出して飛び込んだ。
「大丈夫か?」
抱きかかえられる形で、あたしの身体は篝の手中に身体は収まっていた。
なんて返したのかは、正確には覚えていない。非常に申し訳ないけど、変なテンションで半分逆ギレした気がする。溢れだした感情が、一杯一杯だったから。
彼にとって知ったこっちゃないの数々。思い返すほどにあたしは半分、いや全部八つ当たりの最悪な通り魔だ。
「そうだな……素人の俺には正直よくわからないけど」
支離滅裂な質問を篝は律儀に受け取って、埋もれた本を探す様に頭を左右に揺らしてから言った。
「なんというか俺は……感情の溢れだしてる演奏が、綺麗だと思ったかな」
次の瞬間、脳内は氷水をぶっ掛けられたみたいに冷静になった。いや、もしかしたら掛けられたのは煮えたぎる熱湯だったかも。
途端に彼に抱きかかえられた状況が、噴火しそうなくらい恥ずかしくなった。
あるいは。あたしの中にある、目には見えない万華鏡がゆっくりと回りだした。
◇◇◇◇◇
不規則に小さく上下する電車に、無言で揺れる。
あれから、一年が経った。
昨年に涙を流したコンクール、長岡祭もそう遠くない。
…………努力が足りなかった。なんて絶対に言わせない。
吹奏楽部のみんなは、あたしを信じて厳しい練習の毎日を必死について来てくれた。
やりたい事があった人も、趣味があった人も、全部を捧げて付いてきてくれた。
結果を出せなかったとしたら、それは部員を導けなかった部長の責任だ。
吹奏楽部の部長として、先輩たちの無念を、部員たちの希望を。
本懐を、遂げるんだ。
『次はぁ――――三条ぅ、三条ぅ』
それで全部、全部が終わったら。あたしは羽月に。
包み隠さず――――――この想いを伝えるんだ。
肩から掛けた皮製のトランペットケースカバーを握る手に、ギュッと力が籠った。
音楽室の外は、気がつけば深海へと変わっていた。
メンテナンスを終えたトランペットを、あたしは丁寧に赤地のケースに仕舞い込む。
閉じた革ケースの角に記入された、あたしの名前。
千秋高等学校吹奏楽部部長、間宮 明澄夏。高校2年生。
「真宮先輩、お先に失礼します」
「はい、お疲れさまー」
メガネを掛けた後輩の女の子は、扉の前で振り向くと丁寧に旋毛を見せた。
「今日はご指導、ありがとうございました」
「ううん、気にしないで。外も暗いから気をつけてね〜」
彼女の演奏はお世辞にも上手く無い。でも、目に灯る情熱は誰にも負けていなかった。
今日もあたしの練習時間はすっかり無くなったけど、これも部長の責務なのだ。
西棟、最上階にある音楽室から校舎全体を覗き込んでみる。
体育館以外の電気は消えていて。昼は活気に溢れる校舎も、今は寂しさで浸っていた。
篝……は、もう流石に帰ったかな。
あたしも音楽室の戸締りをして、静寂以外とは誰ともすれ違わない廊下を下る。この時間の校舎は開場前の水族館みたいで嫌いじゃない。
「うぅーさむ」
外に出るとすっかり暗くなっていて、風が吹く度に寒さは身体の芯に爪を立てた。
今朝出る時に迷ったトレンチコート、絶対着てくるべきだったなぁ。でも可愛くないんだよなぁアレ。
学校から駅に着いても、無人駅だから駅員もいなくて閑散としている。
フクロウ達の会話だけが、誰もいないホームに響く。
しばらくして、無機質にホームからアナウンスが鳴る。
『――――電車が参ります。白線の内側まで、下がってお待ちください』
電車はものの数分でやってきた。
乗り込んだ電車の中にも、乗客はいなかった。
もしかして、運転手もいないんじゃないか。なんて、意味不明な尚早に駆られて、あたしは運転席を覗き見てみた。普通にいた。何を焦ってるのかな、あたし。
揺れる電車の窓に自身が反射する。その奥では、暗がりの中に河川敷が広がっていた。
◇◇◇◇◇
――――一年前の篝と出会ったあの日を、今でも鮮明に思い出す。
入学してから先輩たちと全部の時間を使って練習した。
けれど、金賞の表彰台に乗った学校はあたし達じゃなかった。
先輩たちが「あんた達には来年がある」「託したよ」って肩を叩く。
でも、あたしは知ってた。先輩たちが、控え室で大声で涙を流してたこと。
悔しくて悔しくて、悔しくて。悔しがる事しか出来ない自分が、何より不甲斐なくて。
気が付けばあたしは、流れ出る涙を全部放ったまま。この河川敷で、感情の全部を載せてトランペットを吹き鳴らしていた。
話したこともないクラスメイトの男の子が、隣で寝転んでいる事も気づかずに。
我ながら、きっと演奏も顔も凄いことになってたと思う。
篝は黙って文庫本のページを捲り続け、日が暮れるまでめちゃくちゃな演奏を聞いていた。
「……ぅ」
「おい……ちょっと!」
酸欠で千鳥足のあたしが、地面に直撃する直前。篝は文庫本を投げ出して飛び込んだ。
「大丈夫か?」
抱きかかえられる形で、あたしの身体は篝の手中に身体は収まっていた。
なんて返したのかは、正確には覚えていない。非常に申し訳ないけど、変なテンションで半分逆ギレした気がする。溢れだした感情が、一杯一杯だったから。
彼にとって知ったこっちゃないの数々。思い返すほどにあたしは半分、いや全部八つ当たりの最悪な通り魔だ。
「そうだな……素人の俺には正直よくわからないけど」
支離滅裂な質問を篝は律儀に受け取って、埋もれた本を探す様に頭を左右に揺らしてから言った。
「なんというか俺は……感情の溢れだしてる演奏が、綺麗だと思ったかな」
次の瞬間、脳内は氷水をぶっ掛けられたみたいに冷静になった。いや、もしかしたら掛けられたのは煮えたぎる熱湯だったかも。
途端に彼に抱きかかえられた状況が、噴火しそうなくらい恥ずかしくなった。
あるいは。あたしの中にある、目には見えない万華鏡がゆっくりと回りだした。
◇◇◇◇◇
不規則に小さく上下する電車に、無言で揺れる。
あれから、一年が経った。
昨年に涙を流したコンクール、長岡祭もそう遠くない。
…………努力が足りなかった。なんて絶対に言わせない。
吹奏楽部のみんなは、あたしを信じて厳しい練習の毎日を必死について来てくれた。
やりたい事があった人も、趣味があった人も、全部を捧げて付いてきてくれた。
結果を出せなかったとしたら、それは部員を導けなかった部長の責任だ。
吹奏楽部の部長として、先輩たちの無念を、部員たちの希望を。
本懐を、遂げるんだ。
『次はぁ――――三条ぅ、三条ぅ』
それで全部、全部が終わったら。あたしは羽月に。
包み隠さず――――――この想いを伝えるんだ。
肩から掛けた皮製のトランペットケースカバーを握る手に、ギュッと力が籠った。
