現在。

「………また、この夢か」

 ホームルームをサボって寝ていた俺――羽月(はづき) (かがり)は美術準備室で目を覚ました。
 高校三年生になった今でも、あの頃を夢に見る。
 悪夢というより走馬灯の方が正しいかもしれない。

 「目覚めとしては……最悪だな」

 色が戻ってきた世界で、俺はまた野球がしたかった。バッターとして土を踏みたくて、退院後すぐに部活へ復帰した。

 ――――結果は、悲惨なものだった。
 何度バッターボックスに立とうとも、バットが球に触れる事はなく。

 ウォーミングアップの球拾いノックすら、動きを視界に捕らえる事が出来ず。
 あっという間に俺は、レギュラーから降板された。
 今まで見えていた情報が下手糞に縫い合わされた様な世界で、薄っぺらいキャプテンマークを背負ったまま。ただグラウンドの熱に焼かれていた。

 練習後、何人かのチームメイトが「いつか、もう一度バッターボックスに」「新しい戦い方を」声を掛けてきて、空元気の笑顔を返す。言われた分だけ、事故前の数倍のトレーニングを深夜まで繰り返した。
 ……野球が俺を拒絶している。そんな妄想が時折、頭の端を過る。

 試行錯誤を重ねる程に、薄々と感じていたソレは実感になった。技術やトレーニングでカバーできる範囲を大きく逸脱している。どんな工夫も足掻きも物理的に効果を成さない。

 そして、ある日の夜。ぷつりと糸が切れるように、俺は察した。胸の奥で糸に吊るされていた透明な薄い膜が、心の端で最後に燃えていた蝋燭へと覆いかぶさった。
 蝋燭の灯は静かに消えた。驚くほど、静かに消えた。

 その日からほどなく――俺は野球部を辞めた。

 それからは、永遠とも思える退屈が肩を組んだ。
 すっかり握る事に馴染んでしまった夢は失って初めて、その輪郭に気が付く。
 野球が生活から消えた瞬間に、俺は毎日の過ごし方が分からなくなった。
 終礼の鐘が鳴った後も、夕飯の直後も土曜日の早朝も。何をしたらいいのかわからない。
 夢のすり抜けた空洞が、呪いの様に日常の不意に顔を覗かせる。

 納得した。
 俺は、ただ野球が好きだったんじゃない。
 野球に一生懸命になれる自分を誇っていた。野球への熱が、俺を形作っていたらしい。

 熱だ。俺が本当に失ったのは、熱だった。
 何かを成したいという願い。それは生きるための、欲求を燃やす熱。
 俺は、自分に冷めていた。
 やりたい事がある人間を見て羨ましがった。そのくせ、やりたい事なんて思いつかない。
 薄い膜を張った向こう側から俯瞰的に見つめていた。

 それは。
 色を失った、寂しすぎるあの世界と。
 何が違うんだろうか。

「……帰るか」

 軽く制服の裾を直し、紅茶パックから溶けた光が漏れる方へと向かう。
 美術室へと続く扉。
 錆びて埃のたまった扉へ、俺は手を掛けた。



「いい子です。そのまま、そのままでお願いします」



 刹那。呼吸する事すらもったいなくて。
 文字通り、息を呑み込んだ。
 光を全身に受けた瞬間。時間が美術室に溶け込んで、この空間だけがすべてになった。

 美術室前方の机で、欠伸をして寝転ぶクロネコが一匹。
 その向かいの席、軽快な音を立てて手元のスケッチブックで鉛筆を遊ばせる少女が一人。
 彼女の幼げな面影に、襟の立ったこの学校の制服は似合っていない。
 新雪の様な髪の下に覗く深縹色の目でスケッチブックを見て、たまにネコをみて、またスケッチブックを見る。
 可愛いだとか、美しいだとか。そんなありふれた外見的な言葉じゃなくて。
 陽を浴びた種が芽吹かせる瞬間みたいに、母がお腹の子を愛おしそうに撫でるみたいに。目の前にある光景はもっと尊いものだと、そう思った。
 
「にゃーん」
「もう終わるので、もう少しだけ我慢できませんか?」

 退屈なのか、前足を伸ばしてぐぐぐっと伸びるネコ。
 彼女は椅子から降りて腰を下げ、ネコと同じ目線で鼻先を寄せた。

「ただジッとしててくれなんて、ネコにはちょっと酷なお願いじゃないか?」
 
 ようやく俺に気が付いたのか、彼女は大きな瞳をぱちくりと瞬かせる。

「触っていいか」
「んにゃー」

 クロネコは目を細めて快く承諾してくれた。
 隣の椅子を寄せて腰掛ける。するとネコの方から俺の膝上へと寝床を移動してきた。
 ネコの首から肩へ。ゆったりと優しくマッサージする。

「こうやって、俺が撫でてれば動かないでいてくれると思う。ネコが嫌じゃなければな」
「……本当に、撫でられるがままですね」

 僅かに口を開けて感心していた彼女は、再び鉛筆を静かに持ち上げる。

「ありがとうございます、そのままでお願いします」

 驚いた表情も束の間、彼女の視線はまたスケッチブックに吸い込まれていく。
 鉛筆の音が秒針に変わった頃、彼女は眉も動かさず独り言みたいに囁いた。

「よければ、一つ聞いてもいいですか」
「ああ」

 彼女の視線はスケッチブックのまま。
 俺は手を止めずにネコを撫でながら答えた。

「美術室の扉は立て付けが悪いので開いたら気が付きますし、美術室の中には誰もいませんでした。一体、あなたは……どこから?」
「サボって美術準備室で寝てたんだ。それで起きて、出てきた」
「なるほどです。納得しました」

 白髪の間から一瞬、俺を見て、また視線と指先はスケッチブックに戻ってゆく。
 距離にして数メートルの俺と彼女の間に、会話はない。
 けれど、収まるべき全部が、収まっている様な。なんとも心地がいい空間。

「にゃー」 
「あ、ほら撫でてください。動いちゃいます」
「……悪い。ほらもうちょっと撫でてやるから。ジッとしててくれ」

 ネコからの助け舟を借りて、ふと思い立った話題へと切り替える。

「制服着てるって事は、あんたもうちの生徒だろ? 学校内であんたの事は見たことないけど」

 少なくとも、うちの高校に白髪の女子なんて一人も見た事はない。
 そんな個性の強い生徒がいたら、あっという間に学年問わず知れ渡っている筈だ。

「そですね。二週間ほど前に転校してきたばかりです」
「転校生だったのか」

 なるほど、転校生。転校生か。
 それならこれほどの個性を持ちながら知れ渡っていないのも頷ける。

「ちなみに何年何組なんだ?」
「……三年四組です」
「クラスメイトか」

 担任がそんな事を言ってた記憶は一切ない。

「クラスメイト、なんですか」

 彼女の鉛筆が、ピタリと止まる。
 俺と彼女に面識はない。
 つまり彼女は転校してから、一度も自分の教室に来ていないのだ。
 そこには何か。教室ではなく、誰もいない美術室で彼女と出会った訳がきっとある。

「……美術室にいるのは、何か事情があったりするのか?」
「………………」

 彼女のダイヤモンドの瞳が、真っすぐに俺を見ていた。
 過ぎ去った逡巡の後に、彼女は小さな唇をゆっくりと開く。

「……色が、見えないんです」

 秒針が、停止していないことを精一杯に証明する。
 俺は、痛烈に思い出していた。
 すべてが灰色に染められた、熱の概念が去った孤独の世界を。寂しすぎるあの世界を。

「そうか。生まれついてなのか?」
「………いえ。数年前に事故で階段から転げ落ちて。頭を打って。それからです」
 俺は膝元で心地よさそうに身体を捩らせるネコを見つめて。また彼女の方を見た。
「それじゃ、俺とコイツとお揃いだな」
「…………?」

 彼女の目が丸くなる。

「……色、見えないんですか?」
「そう、意外と知られてない雑学だろ。ネコって明暗で色の区別をしてるだけで、見えてないんだ」

 彼女が小さく横に首をふる。それから掌の先を、そっと俺の方に向けて。

「俺か」
「はい」
「……昔の話なんだけどな」

 今度はこくん、と小さく縦に首を振った。

「頭にダメージを受けて、病院で目覚めたら色の区別が出来なかった。……全部が壊れたカメラで撮ったモノクロみたいに見えてたんだ。怖かったさ。どこで誰と居ても孤独を感じて、幼かった俺には涙が出るほど怖くて、病院のベッドでずっと震えてた」
「………………」

 眉一つ動かさない、彼女の目の奥を見つめる。

「色のない世界って本当にショックだったんだ。まるで味気ないっていうか、誰も生きてる感じがしない感じ。自分が自分でなくなったみたいで、子供ながらに絶望してた」
 自分以外全てが無機物の、熱を感じない世界。
 でもそれはきっと、子供の感性だから。なんて理由じゃないと思う。

「そこから…………立ち直れたんですか」

 俺は両手を伸ばして、身体の筋を伸ばした。

「あぁ立ち直ったさ。こいつらのお陰でな」

 呼応して、膝元のネコが「にゃーん」と頭を掌に擦りつける。
 
「自分以外にも色が見えていない存在がいるって知った時、不安から解放されたのをよく覚えてる。色が見えなくなっても気ままに生きてるネコの姿が、ただ優しくて暖かった」
 
 掌に触れた猫の毛並みは、あの頃から変わっていない。
 
「そこから手術を受けて、まぁ最終的に人並みには色は見えるまで戻ったってオチだ」
 
 …………元に戻らなかったモノもある。
 だからこそ、彼女には話すべきだと思った。
 
「あんたにも事情があるんだろうし、赤の他人の俺が解決できるなんて自惚れも言わない。けど、色の見えない世界の寂しさくらいは理解できる。……だから覚えておいてほしいんだ。ネコだって色が見えてないけど、この世界を気楽に生きてる」
 
 清廉な彼女に、ただ野球が好きだった自分を重ねていた。
 綺麗事でも、身勝手でもいいから。
 あの世界の寂しさを知る俺が、今なお囚われる彼女の孤独を分かち合えたなら。
 
「色の無い世界だって、孤独なんかじゃない」

 あの世界にいた俺が、一番言って欲しかった言葉。ネコが俺に言ってくれた言葉。

「だから、見えてるモノまで見失っちゃダメだ。掴んでいる熱があるなら、ソレだけは離さないでくれ」

 ソレを握り続ける手段があるなら、諦めないでくれ。
 熱を完全に失った時、人は本当の意味で孤独になってしまうから。

「んなーん」

 俯いた彼女をと心配そうにネコが窺う。
 窓の閉まっている教室に風が吹いた。彼女と俺の髪を、静かに小さく靡かせる。
 
「……ありがとう……ございます」

 風が吹かなければ、俺は白い手で隠された目元が濡れていた事に気が付けなかった。だから俺は何も見ていない。彼女が少しでも不安じゃないために。

「あ、あの!」
「どうかしたか」

 ややあって、彼女の声が響いた。出会ってから、一番大きな声だ。
 人見知りの子供みたいに顔を赤くした彼女は、大きく縦に頭を振って。
 
「あの、お名前は」

 既に紅茶色も溶けきった半分夜の美術室で、プツンと放送機具の電源が入った音が鳴る。

羽月(はづき) (かがり)。羽の月で羽月で、篝火の篝」
「私は一色(いっしき) 結衣(ゆい)。一つの色で一色、結ぶ衣で結衣です」

 こうして灰色と灰色が。俺と一色《いっしき》 結衣(ゆい)という人間が出会った。

 遠い音楽室から、小さくトランペットの音が響く。
 それを掻き消すように、下校時刻を告げるチャイムが鳴り響いた。
 俺はスマホに光る『真宮(まみや) 明澄夏(あすか)』の通知に気が付いていなかった。