――――あの日。
球場はオーブンみたいに暑くて、口の中まで砂利の味がした。
九回表、一点差。二アウト、走者は一、二塁。
四条中学校野球部キャプテン、背番号四番。羽月 篝。
バッターボックスに立つ俺は、握る手を強めて投手を見つめた。
「キャプテン、がんばれー!」
「かっとばせー!」
狙うは、ジャストミート。逆転サヨナラホームラン。
帽子を深くかぶったピッチャーが、大きく振りかぶる。
間違いない。この試合、最速の一球。
違和感に気が付いたのは、この一瞬だった。
避けようと身体を倒した瞬間、視界に映るボールは見たことないくらい巨大で。
…………………………。
審判と仲間たち、監督が必死に何かを声掛けているのが薄っすらと耳に届く。
指一本動かせない飛び散った意識の欠片の中。
気が付いた時、俺は病院のベッドの上だった。
違和感。それも、世界が滅亡したかと見間違うほどの。
駆けつけた医者の問診は、かなり長かったと思う。
「君、今このペンはどんな風に見えるかね」
その時、俺は初めて体感している違和感の正体を理解した。
当たり前すぎて、考えた事もなかった。だから気が付きもしなかったのだ。
「…………色が、見えない」
この上ないくらい、寂しい世界。
何もかも滅んでしまった後に、走馬灯を見ている様な。視界に写るすべてが古い映画で、他人の物語を見ている様な。幼かった俺にとって。刻一刻と精神を蝕むその感覚は、絶望と名付けても大袈裟じゃなかった。
「にゃーん」
翌日。
ベッドで呆然と窓の外を見ていた俺に、窓の縁を渡って一匹の三毛猫が訪ねてきた。
そいつは妙に人懐っこくて、ベットで横たわる俺に身をスリスリと添えては、ゴロゴロと喉を鳴らして甘えている。
看護師さん曰く、この猫は病院全体で飼育している猫らしい。
「きっと、同じ悩みを持つ篝くんを励ましに来てくれたのね」
「同じ悩み?」
「あら、知らない? 猫って色が判別できないのよ」
視線を膝元に落とす。
猫は変わらず、両足の間で作られた布団の谷間で幸せそうに身体を捩っていた。
「それでも、気ままに。自由に楽しそうに生きているでしょう? だから、元気出してって。篝くんを励ましに来てくれたのよ」
「にゃーっ」
頭を撫でると、目尻を垂らして猫が鳴く。その瞬間。まるで言葉を交えられた気がした。
「極めて……稀有なケースです」
詳しい検査を受けた数日後、両親を交えて病院の一室に呼ばれた。
むすっとした糸目で、頂上にしか髪の生えてない医者の先生(モグラ先生と勝手に呼んでいる)が神妙な顔で告げる。
デッドボールによって俺は、脳の視覚に携わる部分にダメージを受けてしまったらしい。
俺の症状は二つ。
一つ目、現段階で発生している色彩能力の低下。これが極めて稀有なケースの症状らしいが、治療の難易度としては比較的難しい方ではないらしい。
二つ目、動体視力の低下。
俺の脳みそは、パソコンのモニターでいうフレーム数が大幅に落ちてしまったらしい。
後者を修復する手術が、非常に難易度が高い。負荷か大きく、再手術が不可能なのだ。
「早期の治療が必要なため、考える時間はありません。手術を受けますか」
俺の両親はその場で手術について了承した。
診察室を出てから、親父と母さんは倒れるように待合室のソファーに座り込む。
顔は少しばかり朗らかだったけど、まるで糸の切れた操り人形みたいだった。
それから親父は急に俺の頬を摘んで、あっと声を挙げた。
「そうだ篝!あの試合はあの後、逆転サヨナラヒットで勝ったぞ!」
「そうなの⁉ やった! デッドも無駄じゃなかった!」
野球を教えてくれたのは親父で、この父あって、この子ありなのだ。
「野球を楽しみに出来るくらい、篝が元気そうでよかったわ」
母さんは、深く深くため息をついた後。何度か言葉を反芻してから、眉を八の字にした。
「篝は、まだ野球をやりたいの?」
「やりたい!」
病院で目覚めてから、一番気合の入った即答だった。
同時に診察室の扉が開いて、先ほどと同じ看護師が半身だけ覗かせる。
「羽月さぁん、よろしいですかぁ」
親父が再び診察室へと向かっていく。母さんも立ち上がり、俺の頭にぽんと掌を乗せた。
「篝、ここで待ってられる?」
「……何歳だと思ってんだよ」
母さんは優しく微笑みながら、俺の頭をくしゃくしゃと撫でてた。
後に知った事だが、この呼び出しは正式な手術の確認書類などの契約だったらしい。
急遽として手術室の枠を取り、手術は翌週に決定された。
◇◇◇
手術前日の深夜。俺は、天井を見上げていた。
眠れない。
怖いものは恐い。乾燥した唇をキュッと噛み締める。
すると、静まり返った病院の廊下のずっと向こう側から小さく話し声が響いてきた。
「親父と……母さん?」
氷の様に冷たい病室の扉に、耳をそっと当ててみる。
二人は聞いたこともない程に凄まじい剣幕で、相手は声からしてモグラ先生。
子供ながらに、大人の話なのかもしれない。と思ってそっと扉から耳を離す。
「篝くん、失礼するよ」
翌朝、モグラ先生が病室に入ってきた。
以前よりゲッソリしていて、もうモグラよりもトカゲみたいだった。
モグラ先生は備え付けの椅子に座り、子供の俺にもわかりやすく、ゆっくりと語りだす。つまりは、緊急事態が発生し俺の手術は翌日へと変更されたらしい。
緊急ならば仕方がないと思い、俺は「そうなんですか」と素直に返事した。
翌日、15時23分53秒。
手術は終了した。
「それじゃ包帯、取るわね」
手術から数日。
頬には無意識に涙が伝った。
眩しすぎる太陽も病院着の青染めも、全部に世界の息遣いを感じて。
もう寂しくない世界に、俺は何度も何度も瞬きを繰り返した。
「……親父? 母さん?」
だから。横に座っていた両親が、俯いたままなのか分からなかった。
「篝」
親父は何度も視線を宙に彷徨わせて。
ぐっと強く、噛み締めていた唇をようやく開いた。
「篝…………すまない。動体視力までは、元に戻らなかった」
手術が遅れたから、成功しなかったのか。
それとも、純粋に手術そのものが失敗したのか。その真実はわからない。
けれど、ただ一つはっきりと言えること。
俺はもう、以前の様に野球をする事は出来ない。
ただ――――それだけだった。
球場はオーブンみたいに暑くて、口の中まで砂利の味がした。
九回表、一点差。二アウト、走者は一、二塁。
四条中学校野球部キャプテン、背番号四番。羽月 篝。
バッターボックスに立つ俺は、握る手を強めて投手を見つめた。
「キャプテン、がんばれー!」
「かっとばせー!」
狙うは、ジャストミート。逆転サヨナラホームラン。
帽子を深くかぶったピッチャーが、大きく振りかぶる。
間違いない。この試合、最速の一球。
違和感に気が付いたのは、この一瞬だった。
避けようと身体を倒した瞬間、視界に映るボールは見たことないくらい巨大で。
…………………………。
審判と仲間たち、監督が必死に何かを声掛けているのが薄っすらと耳に届く。
指一本動かせない飛び散った意識の欠片の中。
気が付いた時、俺は病院のベッドの上だった。
違和感。それも、世界が滅亡したかと見間違うほどの。
駆けつけた医者の問診は、かなり長かったと思う。
「君、今このペンはどんな風に見えるかね」
その時、俺は初めて体感している違和感の正体を理解した。
当たり前すぎて、考えた事もなかった。だから気が付きもしなかったのだ。
「…………色が、見えない」
この上ないくらい、寂しい世界。
何もかも滅んでしまった後に、走馬灯を見ている様な。視界に写るすべてが古い映画で、他人の物語を見ている様な。幼かった俺にとって。刻一刻と精神を蝕むその感覚は、絶望と名付けても大袈裟じゃなかった。
「にゃーん」
翌日。
ベッドで呆然と窓の外を見ていた俺に、窓の縁を渡って一匹の三毛猫が訪ねてきた。
そいつは妙に人懐っこくて、ベットで横たわる俺に身をスリスリと添えては、ゴロゴロと喉を鳴らして甘えている。
看護師さん曰く、この猫は病院全体で飼育している猫らしい。
「きっと、同じ悩みを持つ篝くんを励ましに来てくれたのね」
「同じ悩み?」
「あら、知らない? 猫って色が判別できないのよ」
視線を膝元に落とす。
猫は変わらず、両足の間で作られた布団の谷間で幸せそうに身体を捩っていた。
「それでも、気ままに。自由に楽しそうに生きているでしょう? だから、元気出してって。篝くんを励ましに来てくれたのよ」
「にゃーっ」
頭を撫でると、目尻を垂らして猫が鳴く。その瞬間。まるで言葉を交えられた気がした。
「極めて……稀有なケースです」
詳しい検査を受けた数日後、両親を交えて病院の一室に呼ばれた。
むすっとした糸目で、頂上にしか髪の生えてない医者の先生(モグラ先生と勝手に呼んでいる)が神妙な顔で告げる。
デッドボールによって俺は、脳の視覚に携わる部分にダメージを受けてしまったらしい。
俺の症状は二つ。
一つ目、現段階で発生している色彩能力の低下。これが極めて稀有なケースの症状らしいが、治療の難易度としては比較的難しい方ではないらしい。
二つ目、動体視力の低下。
俺の脳みそは、パソコンのモニターでいうフレーム数が大幅に落ちてしまったらしい。
後者を修復する手術が、非常に難易度が高い。負荷か大きく、再手術が不可能なのだ。
「早期の治療が必要なため、考える時間はありません。手術を受けますか」
俺の両親はその場で手術について了承した。
診察室を出てから、親父と母さんは倒れるように待合室のソファーに座り込む。
顔は少しばかり朗らかだったけど、まるで糸の切れた操り人形みたいだった。
それから親父は急に俺の頬を摘んで、あっと声を挙げた。
「そうだ篝!あの試合はあの後、逆転サヨナラヒットで勝ったぞ!」
「そうなの⁉ やった! デッドも無駄じゃなかった!」
野球を教えてくれたのは親父で、この父あって、この子ありなのだ。
「野球を楽しみに出来るくらい、篝が元気そうでよかったわ」
母さんは、深く深くため息をついた後。何度か言葉を反芻してから、眉を八の字にした。
「篝は、まだ野球をやりたいの?」
「やりたい!」
病院で目覚めてから、一番気合の入った即答だった。
同時に診察室の扉が開いて、先ほどと同じ看護師が半身だけ覗かせる。
「羽月さぁん、よろしいですかぁ」
親父が再び診察室へと向かっていく。母さんも立ち上がり、俺の頭にぽんと掌を乗せた。
「篝、ここで待ってられる?」
「……何歳だと思ってんだよ」
母さんは優しく微笑みながら、俺の頭をくしゃくしゃと撫でてた。
後に知った事だが、この呼び出しは正式な手術の確認書類などの契約だったらしい。
急遽として手術室の枠を取り、手術は翌週に決定された。
◇◇◇
手術前日の深夜。俺は、天井を見上げていた。
眠れない。
怖いものは恐い。乾燥した唇をキュッと噛み締める。
すると、静まり返った病院の廊下のずっと向こう側から小さく話し声が響いてきた。
「親父と……母さん?」
氷の様に冷たい病室の扉に、耳をそっと当ててみる。
二人は聞いたこともない程に凄まじい剣幕で、相手は声からしてモグラ先生。
子供ながらに、大人の話なのかもしれない。と思ってそっと扉から耳を離す。
「篝くん、失礼するよ」
翌朝、モグラ先生が病室に入ってきた。
以前よりゲッソリしていて、もうモグラよりもトカゲみたいだった。
モグラ先生は備え付けの椅子に座り、子供の俺にもわかりやすく、ゆっくりと語りだす。つまりは、緊急事態が発生し俺の手術は翌日へと変更されたらしい。
緊急ならば仕方がないと思い、俺は「そうなんですか」と素直に返事した。
翌日、15時23分53秒。
手術は終了した。
「それじゃ包帯、取るわね」
手術から数日。
頬には無意識に涙が伝った。
眩しすぎる太陽も病院着の青染めも、全部に世界の息遣いを感じて。
もう寂しくない世界に、俺は何度も何度も瞬きを繰り返した。
「……親父? 母さん?」
だから。横に座っていた両親が、俯いたままなのか分からなかった。
「篝」
親父は何度も視線を宙に彷徨わせて。
ぐっと強く、噛み締めていた唇をようやく開いた。
「篝…………すまない。動体視力までは、元に戻らなかった」
手術が遅れたから、成功しなかったのか。
それとも、純粋に手術そのものが失敗したのか。その真実はわからない。
けれど、ただ一つはっきりと言えること。
俺はもう、以前の様に野球をする事は出来ない。
ただ――――それだけだった。
