あれから、どれだけの時間が経っただろうか。

 月光だけが光源の、木々が並ぶ薄暗い山道。
 俺は石畳の道を、自転車で全力で駆けた。
 転び続けてハンドルはひしゃげ、足先の感覚はとっくに無くなっている。
 潰れそうな内臓を無視して、もはや朦朧としている意識に強く鞭を打つ。
 そして、目指していた場所へと辿り着いた。

 寂々として人影一つない温泉街。
 自転車を街灯の下に落とし、力無く歩き始める。
 結衣に向けシャッターを切ったウッドデッキ、石畳の階段。
 その全てが変わっていないのに、足音だけが空虚に響いていた。

 いつか歩いた少し歪な橋の上を、今度は一人で歩く。  
 歩む足場が、上へ下へ。
 前に来た時、こんなにも足場の歪みは極端だっただろうか。

「………んなぁ」

 数メートル先、薄闇の中で何かが蠢いて目を細める。

「お前」
「んにゃぁー」

 見覚えのある、額から頭に掛けて伸びる白毛に両耳を覆う栗色の軟毛。
 あの甘味処で抱き上げた、ネコだった。

「なぁー」

 こちらを一瞥して、歩き出すネコ。
 向かう方向は同じ。思い悩むこともなく、その後に続く。

 苔むした石道、乾燥した落ち葉。
 切り立った地層の小さな窪み、落下してゆく水滴。
 そして渓流に寄り添う、大傘と赤い縁台の群れ。

「やっぱり、ここか」

 ネコは足元で小さく唸って丸くなり、渓流の水面が軟い月明かりを反射した。
 既に誰の影もなく寂寞とした甘味処の奥、その下部が渓流に触れた大岩の上。
 そこに結衣は、一人膝を抱えて座っていた。

「……篝くん」

 結衣は振り向き一瞬、愕然としたものの、すぐに目は光を失う。
 無気力にぶらりと、意思を解さぬ人形が座る様に。
 活気に溢れるいつもの結衣と遠く離れた、少女の姿が、そこにはあった。
 俺は泥に塗れた服と、傷だらけの身体で大岩の影へと身を任せる。
 しばらく、ただ俺と結衣の間を渓流の水音だけが過ぎる。

「……全部、病院で聞いてたのか」
「はい」
「そうか」

 深く息を吸って、胸の端まで渓流の空気を染み渡らせる。

「黙ってて、騙しててすまなかった」

 静かに深く、心の奥深くから言葉を絞り出して頭を下げた。

「どうして篝くんが謝るんですか」

 顔を上げる。

「………聞いてもらえますか、篝くん」

 それから、他愛もない世間話を交わす様に結衣は話を連ねた。
「今日はたまたま好転して命に別条はなかったですが……実は私、このまま目を覚まさなくても不思議じゃない状態だったそうです」

 不意な肺の圧迫感に連鎖して、全身の皮膚の隙間を不快な寒気が囲繞する。

「………」

 何かを言おうとして、辞める。
 全て諦めた様な、結衣の穏やかな表情が深く胸を抉った。

「もう私の症状は、観察の段階ではないみたいです。今後、今日みたいな命を脅かす症状がいつ起こってもおかしくないだろうと。お医者様が言った言葉そのままだと――――」

 ………………………………………………。
 …………何も聞きたくない。

「このままいけば、余命はおそらく1年。もって2年だそうです」

 …………………………。
 渓流の微風だけで、今にも砕けてしまいそうな身体を必死に支える。
 空洞の身体に、結衣の言葉が何度も何度も乱反射した。
 短い息を吐き、震える両腕で押さえつけても、内側に切り傷だけが増えてゆく。

「手術で治療する方法もあるそうですが、成功率は……およそ2割だそうです」

 結衣は、世間話を続ける。

「おまけに、手術に失敗すれば、もう私は意識を取り戻すことは難しいみたいです」

 困った様子で眉端を下げて。

「無理難題ですね」

 美術室で結衣と出会ったあの放課後が、鮮明にフラッシュバッグする。
 変わらない塗料と少しの埃の匂い、紅茶色の世界を区切るボロボロの扉。
 ふわりとしたクロネコの手触り、屈託ない結衣のはにかむ笑顔。
 紅茶色の美術室と月色に染まった渓流。そして結衣が重なり視界が大きくブレる。

「篝くん、ごめんなさい」

 違う、そうじゃないんだ。

「私、篝くんから、野球の夢を奪ってしまいました」

 失った今を、取り戻してくれたのは結衣なんだ。

「未来を奪われた篝くんが、どんな気持ちで私に接していたのか知りもせず」

 実は負けず嫌いで、友達が少ないことを気にしてるところも。

「もう一度、色を見て絵を描きたいなんて、浅はかな夢を見てしまいました」

 少しのことでも無邪気に、心から幸せそうに笑うところも。

「あまつさえ、その願いを叶えることも難しそうです」

 たとえ色彩が捉えられなくても、目に入ること以上のことを魅せる結衣の絵も。

「ごめんなさい、篝くん」
「一度だけ、独り言を許してください」

 無意識に、身体が動く。
 泥臭い情けなさとか、動かない身体とか。
 全部置き去りにして。
 ただ、もう一歩先へ。
 ただ、彼女の元へ。
 
「神様なんて、いませんでした」

 俺は……俺は――――

















「――――――――――――結衣が、好きだ」
  











 私、一色 結衣は篝くんに抱きしめられている気が付くまで、少し時間が必要だった。
 そっと手を添えられた私の頭が、篝くんの胸に触れる。
 抱きしめられた服越しに、ふと体温を感じる。力強く響く鼓動を感じる。

 ……篝くん?
 
 声に出そうとするけれど、なぜか喉が掠れて叶わない。
 清々しい渓流と満天の星空の中で、ハッキリと二人のシルエットが浮かぶ。
 灰色だった世界に、音を立てて亀裂が入る。
 静かな渓流と重なっていた胸の中が、じんわりと目の裏に籠る熱と重なった。

「野球を出来なくなった事は辛かった。我慢できないくらいに悲しかったさ」

 ――――ごめんなさい。
 
「それでも……お前と過ごした日々を失う方が、ずっと辛い」

 小さく震えたまま、篝くんはひどく脆いそれを口にした。

「色が見えないのを憐れんで、絵が上手いから隣に居たいんじゃない」

 篝くんのスニーカー、しわくちゃになった病院服がぼんやりと灰色の世界から抜け出す。
 ………………本当は、どんな顔で話せばいいのかさえ分からなかった。

「一色の家の人間だから、結衣の隣に居たい訳でもない」

 夜風に揺れる木々が、二色の暗影から深緑のグラデーションに染まりだす。
 ………………本当は、ずっとずっと不安で。
 ずっと自分自身に、大丈夫と言い聞かせていた。

「結衣だから、隣に居たいんだ」

 丸くなったネコと渓流に流れる月明かりが、穏やかに色彩を取り戻してゆく。
 ………………本当は、「誰か助けて」って、ずっと大声で泣きだしたくて堪らなかった。

「結衣だから、俺は好きになったんだ」




 ………………本当は……本当は――――――

 私はどうしようもなく。篝くんが、好きだ。



「――――――――っうぅ、っあうあああああああっ!」

 目の奥が燃える様に熱くなり、決壊した涙は止めどなく溢れ出る。
 深碧の木々が夜風に揺れて、夜に溶けきった深藍色の水面に揺れる黄金色の月。

 そこは、完全に灰色から抜け出した世界。

「っぁあ……うぅ………」

 篝くんが生きる、こんなにも美しい世界に。
 私は、あと1年しか生きられない。

「わた……し、……ぐすっ……嫌、です!」

 もし手術に失敗したら。
 もう二度と、目を覚ます事も出来なくて。これでずっとお別れになるなんて。

「に、2割の成功率なんて……む、無理に……決まってます!」

 ずるりと抜け出した、胸の奥の栓が転がる。
 とっくに顔はもう涙と鼻水でぐちゃぐちゃで。

「もっど……うぐっ、もっど……絵を、描きたいです!」

 胸のずっと奥を引き裂いて廻る感情を、獣の様にただ叫ぶ。
 止まらない。私も知らない私が。

「ひとりぼっちは……嫌、なんです……」

 叫んで、泣いて。吐き出して。 篝くんを力いっぱいに抱きしめて。

 そして全部、なくなったあと。
 ぽつり、と一番奥の私が呟いた。

「篝くんと、ずっと一緒にいたい……です」


「大丈夫だ」

 出会ってから、いちばん穏やかな表情で篝くんは言った。

「結衣は絶対、ここに帰ってこれる」

 幼子の様に泣きじゃくる私の頭に、そっと手を重ねる。

「だって、描いた絵を一番に見せてくれるって約束。まだ、叶えてもらってないからな」


 篝くんの胸に顔を埋める。

 あぁそうだ。
 何を言ってたんだろう、私。

 生まれた事さえ望まれなくて。
 誰かに助けられて、ずっと生きてきたのに。

 あぁ眠たいなぁ。
 なんだか、 気持ちいいなぁ。

 神様なんて、いないのかもしれない。
 
 だけど今だけは。
 今だけは。
 ずっと、こうして。
 篝くんの鼓動だけを、感じていたい。
 
 ◇◇◇
 






 あの日から。
 渓流で結衣を抱きしめた日から。
 結衣が手術を決意し、入院してから。

 半年が経った。
 
 木枯しに吹かれて落ち葉が舞う街頭を、俺はただ目的もなく呆然と歩く。
 使い古した薄青色のスニーカーとデニムを一定のリズムで動かし、上に羽織ったジャケットは体の動きと風に揺られて不規則にゆらゆらと揺れている。
 休日だというのに、誰一人としてすれ違わない。
 気怠くて無気力で、何をするにもやる気が起きない。
 平日も休日も、午前も午後も晴れも雨も変わらない。
 目に映るすべてが作業的に過ぎ去ってゆく、退屈に溺れるだけの毎日。

 ………ガコン。

 目についた適当な自動販売機に千円を入れ、適当にボタン押すと何かを吐き出した。
 出てきたそれは、見た事もないメーカーの缶コーヒー。
 プルタブに、いつの間にか伸びきった人差し指の爪を立てる。

「……って」

 ぷくり、と指先のささくれに赤い小球が浮かんだ。
 見れば缶の溝についた小さなバリが刺さっている。
 膨れた赤い小球は、次第に限界を迎え、小さな流れとなって指先へと向かう。

「…………」

 特段気にもならなかったので放置して、適当な近くのベンチに腰掛けた。
 何をする訳でもなく、購入した缶コーヒーを飲むわけでもなく。
 ただ、呆然とそこにいる。
 なにもしないために。
 灰色の物憂い空は雨が降る訳でもなく、ただ悄然と変わらないままでいた。
 しばらく経ったあと……ベンチの裏の家のガラスがコンコン、と小さく鳴る。

「んにゃー」
「……よう」

 窓越しに挨拶してきたのは、いつかじゃれ合った真っ白な猫だった。
 新雪みたいに綺麗に整えられた毛並みが、麗らかな風に吹かれる結衣と重なる。

「…………」

 結衣は半年前の例の日以来、美術室には来ていない。
 成功率2割の大手術は東京の大学附属病院でしか出来ないらしく、短くない治療期間を前提として周さんと共に、引っ越す形で俺たちの学校を去ったためだ。

「絶対に帰ってくるので、篝くんはその時まで待っていてください」

 そう言ってはにかんだ結衣は結局、最後まで入院先を俺には明かさなかった。
 それ以来、何の連絡もない。
 こちらから連絡を入れても、メッセージアプリに既読はつかない。

 ようやく手に持った缶コーヒーに、口をつける。
 冷めきったコーヒーは、口に含んだところで味がしなかった。
 もちろん深みなんて大層なものはなく、ただ色と臭いを付けただけの安っぽい液体。
 ぐいっと一気に、喉奥まで残りの缶コーヒーを喉の奥へと流し込む。
 
 また。落ち葉が飛ばされる方向へ、理由も目的地もなく歩き始めた。
 

 ◇◇◇
 
 気が付けば、学校の前まで歩いていた。

 ふと、校舎を眺めて、ある一つの窓が目に留まる。
 職員室前の西階段を下りて、来賓玄関前に飾られた妙に仰々しい石像の正面。
 何度手にしたかも覚えていない、美術室の扉。
 
 何を思うでもなく、俺は生徒玄関へ向かった。
 生徒玄関にカギは掛かっていなかった。
 どうせ誰にも会わないし。
 出会って何を言われようが、心底どうでもいい。
 足が動くままに廊下を歩き、西階段の前までたどり着いた。
 濁った空色の曇りガラスに乾燥した塗装が固まった美術室の扉に手を掛ける。
 軋み音が鳴るも、簡単にスライドできたのでカギは掛かっていないらしい。

 いつか、いつも見ていた時と変わらない。黒板より少し深い緑色の床。
 換気扇だけがカラカラなっていて、他の音は秒針くらいしか聞こえない。
 後方には作品を乾燥させるための棚や、木材加工用の機械。右側には洗浄用の水道と、もう何年前か分からない擦った様な絵具の跡。
 いつも通りの美術室に、ぽっかりと穴が空いて結衣だけがいない。
 それだけで紅茶に浸った部屋の色彩は失せ、ひどく無機質な冷たい箱に思えた。
 
 黒板前のいつもの席に座り、スマホを取り出して写真アプリを起動する。
 ライブラリの中には、今まで撮り溜めた景色の数々が並んでいた。
 川にいたクロネコ、道路で寝ていたシロネコ。
 灰ネコ、三毛ネコ、キジシロネコ、トビネコ、ムギワラネコ、キジトラネコ。
 山、カフェ、庭、駅、商店街、神社、田んぼ、バス停。
 次々にスクロールされていく写真の中、一枚の写真で手が止まる。
 
 風が髪を靡かせ、小さな口がポカンと開いて耳の端まで真っ赤に染まった結衣の写真。
 渓流のウッドデッキで、振り向きながらに輝く大きな瞳がカメラを見つめている。
 はじめて、結衣を名前で呼んだ瞬間にとった写真だった。
 
 ――――ポロン。
 
 スマホが、小さく振動する。
 画面上部に現れたチャットアプリの通知欄。
 その通知に俺は、ニヒルにぼやけていた目を大きく見開いた。

『結衣 : 動画が送信されました』
 
 落としそうになったスマホを掴みなおし、急いでアプリを起動。
 身体の末端まで小針が刺す感覚を覚えながら、メッセージを確認する。

 着信していたのは、ひとつの動画だけだった。
 真っ黒な画面から始まる、5分ほどの動画。
 酷く冷たい液晶を握る手に、力が籠る。
 乾燥した血液のついた指先を震わせて、動画をタップした。
 
『えっと、見えてますか。篝くん』

 黒い暗幕がぼんやりと消えて、次第にとある病室の一角が映し出される。
 そこに、ベッドに状態を起こした結衣の姿が映った。

『連絡、ぜんぜん返信できずにごめんなさい』

 服装はあの日と同じ病院着。
 日の当たる穏やかな病室と儚く微笑む結衣に、一抹の不安が背を走る。

『さて。まずはひとつ、私から渡したいものがあります』

 むむむ、と眉を寄せた結衣は、大袈裟に手を合わせて。

『では篝くん、行きますよ? うーん……はい!』

 ぷくっと頬を膨らませた結衣が、パン、と景気よく叩く。

『それでは、机の物入れを見てみてください』

 今度は、はにかむ結衣がカメラへと軽く掌を差し出した。
 無意識に、俺の視線は目の前、いつもの机に落ちる。

 ………いや、まさか。
 机下の小さな収納スペースに手を入れると、何かが指先に触れる。
 恐る恐るそれを取り出すと、細く刺した光の筋がそれを照らす。

 小さな額縁に入った、一枚の絵。
 綿菓子の様に柔らかな水彩で、優しい色が朗らかな雰囲気を引き立て合う。
 そこに、描かれていたのは。

「……………俺?」

 ネコを膝に抱えて、頭を撫でる俺だった。
 その表情は安閑であり、纏う雰囲気はほんのりと暖かい。
 背中には真っ白な大きな翼が描かれていて。
 まるで、優しい夢を見ている様な絵だった。

『書き上げた絵を、最初に見てもらうって。約束しましたから』

 そう言って、結衣はどこか照れ臭そうに笑う。
 
 結衣は約束を守った。
 結衣は色を取り戻した。だから、色を取り戻すための日々はもう訪れない。
 しかし、それによって守られない何かある気がして。ズキンと胸の奥が痛む。

『さて、そろそろ本題のお話をしましょう』

 画面の向こうで結衣が、ぱん、と再び小さく両手を合わせた。

『なぜこの動画を撮っているかというと、篝くんには真実をお伝えしなければならないからです』

 充血しきった目の瞬きさえ忘れて、俺はスマホを見た。

 ……真実?
 
『私が受ける手術ですが、実は……脳内の傷を治療する手術、というのは嘘なんです』
『当然、篝くんにお話した、成功率が2割の大手術だというのも嘘です』

 そんな、バカな。
 結衣の言葉が、理解できなかった。
 乾いた喉は掠れた音を出すだけで、疑問符の一つも発する事が出来ない。

『本当は、私がネコになる簡単な手術なんです。成功率は100%の安心安全の手術です』

 俺は、突っ立って。ただ茫然と聞いていた。
 人間が、ネコになる手術?
 そんな手術、存在するわけがないだろう。
 発言の意図も、現実味の無さも、全くもって意味が分からない。

『ネコと言っても、一匹のネコじゃありません』
『どのネコでもあって、どのネコでもない。ネコの概念になる手術なんです』

 画面の向こうの日向の中で、結衣が穏やかにニコッと眉を傾けて言う。

『だから、ふと目の合ったネコは、私であって、私じゃないのです』

 病室の中のカーテンが、ふわりと舞う。
 雲の上で微笑む結衣は、想い馳せる様に、祈る様に目を瞑った。
 
『篝くんの未来の話をしたいと思います。
 これから先、
 篝くんの人生はきっと輝いています』

『数えきれない人と、
 数えきれない季節と出会って。
 満ち溢れた希望と、底知れない絶望を知って。
 そしてまた、きっと篝くんは、立ち上がって歩み始めると思います』
 
 宙を舞う結衣の白い指先が、空を舞う小鳥と重なる。

『春が来て。夏が来て。
 秋が来て。冬が来て。
 朝を撫でて。夜を踊って。
 希望を抱いて。絶望に挫けて。
 涙を流して。汗を拭って。
 また、春が来て。
 ……そしていつか。
 きっといつか、私ではない別の誰かに恋をして』

 白の中にいる結衣は、穏やかに微笑んだ。
 とても下手糞な、微笑みだった。
 切なさも、儚さも、やるせなさも。
 そのどれも隠しきれない、下手糞な微笑みだ。

『でも。
 でも、きっと。
 そのすべての時間に。
 篝くんの横に、私は立っていません』
 
 ただ立ち尽くしていた俺の頬を、大きな何かが伝う。
 それは意思と関係なく。
 止まることなく、溢れだすままに流れ続ける。

『だから、私は。
 ネコになる事にしました』 
 
 そして俺は、やっと気が付いた。
 気が付かざるを、得なかった。
 
 これは、嘘だ。
 結衣が俺に残した、最後の色だ。

 この世界に、ネコになる手術など存在しない。
 それでも。
 結衣はネコになる。

 シュレディンガーの、ネコ。

 手術が、失敗したのか。
 生きているのか、死んでいるのかは教えない。

 だから決して、これは遺書なんかではない。
 2割の成功なんて、8割の失敗なんて、関係ない。

 俺と、結衣は。
 もう二度と出会わない事で、その結果を観測しないのだから。

『篝くんが取り戻してくれた、この鮮やかな世界を知っています。
 だから私は、世界の色を知っている特別なネコさんです。
 気の向くままに。
 穏やかな日向の中を散歩するんです』

『のんびりと気ままな生活です。
 好物の煮干しと、日向ぼっこを満喫します。
 近所のおばあさんと仲良くなって。
 お気に入りの散歩道を見つけて。
 商店街から、愛されちゃったりします』

『気ままなネコの私は、世界をふらっと散歩します。
 きっと次の日には、もう違うネコかもしれません。
 だから、もしかしたら。
 この広い世界のどこかで。
 ばったり急に、ネコの私は、篝くんと再会する事もあるかもしれません』

 照れ恥ずかしそうに、結衣が頬を小さく掻く。
 病室を覆う虚ろなシロに、眩しすぎる闇に呑まれてゆく。

『すれ違ったら、篝くんは気が付かないかもしれないけど、
 きっと私はきっとすぐに気が付きます』

『道で篝くんを見かけた時には、塀の上からついて行ってみたりします』

『お昼寝してるところにやってきて、横で一緒に寝転んじゃうかもしれません』

『篝くんと仲のいい女の子が現れたら、ちょっとシャーシャー言ってみちゃったりします』

 少し意地悪に、くすっと笑って。
 笑顔の裏に、隠しきれない切なさを隠して。
 小さく震えた声で、結衣は言った。

『でも……でも』

『残念ながらネコの私と、人間の篝くんが恋仲になる事はできません』

『だから、どうか私に囚われずに、篝くんは自分の道を生きてください』

 その時、くしゃりと、結衣の表情が涙で歪む。
 けれど、結衣は微笑む事を辞めない。
 降り積もる、何かを。
 縛り付ける、何かを。
 振り切って、優しく押して、結衣は涙ぐんだまま言葉を続けた。

『最後になりますが』

 俺は、震える腕で画面を必死に抑えた。
 指先の傷口が、痛い。
 口の中が、どうしもなく苦い。
 鼻も目も、溢れだすモノを止められない。
 焼ける様に、ひたすらに目の奥が熱い。

『篝くんの、名前が好きです。
 一人ぼっちで泣いていた私を照らしてくれた、世界で一番優しい炎の名前です』

『篝くんの、体温が好きです。
 もう身体もボロボロなのに、真っすぐに駆けつけてくれる無鉄砲さが好きです』

『篝くんの、時間が好きです。
 二人でなにもしなくても暖かくて、一緒にいるだけで溢れる幸せの時間です』

 そこで一度。
 結衣が、言葉に詰まる。
 ずっと目端からはボロボロと大きな光の粒が溢れ、唇は小さく震えていた。
 
 それでも。
 結衣は、大きく息を吸って。
 次々に頬に光り流れる、大粒の涙さえ誇らしげに。
 朗らかに笑って、陽だまりの中でカメラへと手を伸ばした。

『………私の事を、好きになってくれて。ありがとう』

『私も、あなたのことが――――――大好きです。どうか、お元気で』
 





 動画は、終了した。
 
 画面上部に表示されている、結衣の名前があった部分は――――Unknown。
 無機質な名前が、既にアカウントが完全に消去されたことを告げる。
 結衣とのチャット履歴や動画はそのまま残っていた。
 しかし、もう2度とこのチャット欄が更新される事はない。
 
 俺は、美術室に強く膝を打った。
 肩の力は抜けきって、だらりと両腕がぶら下がる。
 静寂なままの美術室が感傷を酷く抉った。
 息を吸う度、吐き出す度に、鼻内を淡い痛みが貫いてゆく。

 真っ白なシーツに、プロジェクターで映し出されるみたいに。
 何度でも、何度でも。どこまでも響く。
 俺の名前を呼ぶ、結衣の顔を鮮明に思い出す。
 
 ――――篝くん!

 美術室でデッサンしながら。
 ネコと俺を、窺う様に下から覗き込んでくるのが好きだった。

 愛でながら、慈しむ様に鉛筆を舞わせる横顔が。
 垂れる雪みたいに白い髪を、掻き揚げる仕草が好きだった。

 俺が撮ったネコと風景の写真を。
 宝物だって言って、大切に胸に抱えてくれる姿が好きだった。

 ――――篝くん?

 いつだって本気で、全力で。
 不満がるとすぐに、焼き立てのパンみたいに頬が膨らむのが好きだった。

 全力でなにかを頑張る人が大好きで。
 頑張る人を、全力で応援して感動する姿が好きだった。

 ――――篝くん……

 車酔いしても、強がって。すぐにどこか迷子になって。
 小さな子を助けて、少し恥ずかし気に、誇らしげにはにかむ姿が好きだった。

 チャップリンで、口いっぱいにオムライスを頬張って。
 これ以上ないくらいに幸せそうで、口端のケチャップに気が付きもしないのが好きだった。

 ――――篝くん。
 
 結衣から。
 名前を、呼ばれるのが好きだった。
 自分の名前が、誇らしく思えた。

 結衣の。
 名前を、呼ぶのが好きだった。
 名前を呼ぶ度に、暖かい気持ちになれた。

「――――――――っ」

 込み上げてくる何かにえずいて、瞬きで目の前が眩く霞む。
 酸素を求める身体は痙攣するみたいに大きく震える。

 俺は。
 ただ泣いた。

 泣いて、泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて。
 泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて。
 泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて。


 身体の全ての水分が流れ出てしまうくらいに。

 泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて。
 泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて。
 泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて。
 泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて。
 泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて。
 泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて。


 その果てに。

 紅茶色の美術室の中で、ゆっくりと立ち上がった。
 もう、この美術室に、ネコはいないのだから。