澪が命を狙われた一件から数日後。神殿の警備は一層厳しくなり、澪の身の回りには昼夜を問わず護衛がつけられるようになった。蒼嵐は政務に追われながらも、ことあるごとに澪のもとへ顔を出し、わずかな時間でも声をかけ、心を落ち着けさせた。だが、敵は諦めていなかった。
「…懐妊の座を奪うのよ。」
雪蓮は静かに囁いた。声は冷たいのに、その瞳は熱に浮かされたようにざらついていた。
「どうやって?…もう澪様のお腹は大きくなり始めています。」
瑠璃は恐れを含んだ声で問い返す。
「ならば、私も身籠ったふりをすればいい。蒼嵐様の血を受けたと信じ込ませれば……私こそ正妃にふさわしいと思わせられる。」
「で、でも…お体に兆しがなければ、すぐに嘘だと……」
「兆しなら作れるわ。」
雪蓮は懐から一つの小瓶を取り出した。中には怪しい香草を煎じた液体が入っており、これを飲めば吐き気や眩暈を引き起こすという。
「妊娠の兆候はすべて『症』に過ぎないわ。症を作り出せば、誰も疑わないわ。」
瑠璃はごくりと唾を飲んだ。雪蓮の狂気にも似た執念に、背筋が冷たくなったが、それ以上に澪を陥れる甘美な誘惑に耐えられなかった。

 数日後。蒼嵐の前に雪蓮が現れ、涙ぐんだ様子で膝を折った。
「兄上……どうか、どうかお許しください。私、…あなたの子を授かってしまいました…。」
場の空気が一瞬凍りついた。周囲の者たちがざわめき、蒼嵐の眉が深く寄せられる。
「何を、言っている。」
「兄上の優しさに甘えてしまった夜がございました…。私、その時のことをっ……、どうしても忘れられず…。」
雪蓮は袖で顔を覆い、震える声で泣き崩れる。言葉を失う家臣たち。澪の顔色は蒼白に染まり、胸の奥を鋭く抉られるような痛みに耐えていた。まさか、蒼嵐が…?、と。
「…戯言も大概にせよ。」
低い声が場を震わせた。蒼嵐の瞳は氷のように冷たく、雪蓮を射抜く。
「我は一度たりとも、汝に触れたことはない」
「ですが…、この身は確かに…っ!」
「ならば証を示せ。医師を呼べ、今すぐにだ。」
蒼嵐の命により、神殿の医師が雪蓮を診察した。雪蓮は必死に装いを整えていたが、結果はあまりにも残酷だった。
「……殿下。ご懐妊の兆しは一切ございません。」
その一言で、広間はざわめきと冷笑に包まれた。雪蓮の顔は瞬時に真っ赤に染まり、震える指先で地を掴んだ。
「そんなはずは……!わたくしは…確かに……!」
「雪蓮、汝の愚行はもはや許されぬ。」
蒼嵐の声は冷徹で、刃のように鋭かった。その傍で澪は唇を噛み締め、腹に手を当てた。自分の胎に宿る命こそが確かな絆。誰にも奪わせない。誰にも偽らせない。その決意が、母としての強さとなり、澪の瞳を深く光らせていた。