文化祭二日目の朝は、昨日とは比べ物にならないくらい、空気が軽やかだった。
僕は少しだけ早めに写真部の展示室に着いて、一枚一枚、昨日よりも丁寧に写真を飾り直していく。
二日目は展示を変える――これは僕の案だった。
その「瞬間」にしか見られない写真を作りたくて、昨日の夜、ひとりで写真を入れ替えるプランを考えていた。例年なら、二日間通して同じ展示内容。貼りっぱなしの写真――でも今年は違う。
「今日しか見られない一枚」に、わずかな誇りと緊張を込めて指先を動かす。
開場を告げるチャイムが鳴り、廊下に足音と話し声が溢れ始めたその時だった。
「おはざっす、先輩! 一番乗りです!」
宣言通り、朝イチでやってきた大和は、昨日と同じように太陽みたいな笑顔を浮かべていた。
今日は執事じゃなく、いつも通り少し気崩した制服姿。
「……おはよう」
「うわー、やっぱいいっすね、今日の展示も」
大和は本当に楽しそうに、僕たちの創り上げた空間を見渡している。その横顔を、僕はそっとカメラに収めた。もう、彼にレンズを向けることに、ためらいはなかった。
「あ、撮りましたね? じゃあ、約束通り俺も撮ります!」
そう言って、大和は僕の持ってたカメラを手に取る。
「先輩、笑ってください」
「……無理、いきなりそんなこと言われても」
「じゃあ、俺が笑わせます」
大和はそう言うと、フォトブースに置いてあった変なメガネや動物の耳のカチューシャを次々と僕につけようとしてくる。僕は「やめて」と抵抗しながらも、そのやり取りが楽しくて、いつの間にか本当に笑ってしまっていた。
カシャッ。
シャッター音がまだ客のいない展示室に響いた。
「……撮った?」
「はい、最高の笑顔、いただきました」
彼は満足そうに頷くと、「じゃあ、行きましょっか」と、ごく自然に僕の手を引いた。
「え、どこに?」
「決まってるじゃないすか。一緒に、文化祭回りましょうって、約束したじゃないですか」
その言葉に、僕の心臓が大きく跳ねる。
二人で展示室を出て、喧騒の中を歩く。隣を歩く彼との距離が、やけに近い。時々、腕が触れ合うたびに、ドキドキして息が詰まりそうになった。
「瀬川先輩のクラスの論文発表、見に行ってもいいですか?」
「え、いいけど……つまらないよ?」
「先輩が頑張ったやつなら、なんでも面白いです」
そんなことを、真顔で言うからずるい。
僕のクラスの教室に着くと、ちょうど論文の口頭発表が始まるところだった。教室の奥まで、昼の熱気がじっとりと溜まり、窓の外からは遠く模擬店のざわめきが聞こえてくる。
僕たちのグループの代表者が、緊張した面持ちで前に立つ。教室の中は一瞬だけ静まり返った。
「うわ、本格的……」
「まぁね」
後ろの席に並んで座ると、大和は思いのほか真面目な顔で、前のめり気味にスクリーンを見つめていた。
僕は、教卓の隅に置かれた論文の厚みや、資料の隅で光るホチキスの留め跡なんかにまで、ふいに目がいってしまう。
発表の終盤、スクリーンに参考文献のリストが映し出される。
その一番最後、『資料作成協力:瀬川暁人』と小さく僕の名前。
「……先輩、すげぇ」
その一言が耳に触れたとたん、背筋がぞくっとする。隣から吐息のような、心からの感嘆が伝わる。
窓の外、青空の下では誰かが笑っている。なのに今この狭い空間のなかで、大和の言葉だけが僕の世界を満たしていく。
それだけで文化祭のために色々やってきたことが、すべて報われた気がした。
発表が終わって教室を出ると、途端に午後の眩しさが僕たちを包む。
大和が「俺、喉乾いちゃいました。なんか買いに行きません?」といつもの調子で言った。
二人で中庭の模擬店エリアへと歩き出す。
遠くで体育館から吹奏楽部の演奏が漏れてきて、焼きそばのソースやわたあめの甘い香りがむせ返るほど混ざって漂ってくる。
「何飲みます? 俺、奢りますよ。さっきの発表、マジで感動したんで」
「……じゃあ、ラムネ」
「渋いチョイス!」
大和が人混みに吸い込まれていく。その背中を見送りながら僕は模擬店テントの端っこ、木陰のベンチに座って待った。太陽の下は騒がしいのに、ここだけ少し静かで、セミの鳴き声が遠くに響いている。
少しして、大和がラムネを二本手に戻ってきた。
ビー玉の栓に手こずる僕のところまで来て、「貸してください」と優しい声で瓶を受け取る。その指先が、ガラス越しに僕の手に一瞬触れて、ひやりとした冷たさが肌に残った。
「はい、どーぞ」
「……ありがとう」
受け取ったラムネは、炭酸の泡がしゅわしゅわと小さな音を立てている。ふたりで並んで瓶を傾ける。何でもない一瞬。
けれど、ふと視線を上げると、すぐ隣で大和が僕の顔をまじまじと見ていた。
「……なに?」
「いや……なんか、デートみたいだなって」
ゴホッと、僕は盛大にむせる。炭酸が鼻に抜けて、目まで熱くなった。
大和が慌てて僕の背中をさすってくれる。その手のひらが、やけに大きくて、安心する温度だった。
「前も言ってたけど……冗談、やめて」
「冗談じゃないすよ」
彼の声は、いつもみたいに明るいのに、今だけは真剣な響きを帯びている。
僕はもう、どうしても彼の顔をまともに見ることができなくて、手の中の瓶をきゅっと握ることしかできない。
「あー、ずっと先輩と回れたらいいのに……」
「今日も執事するんだっけ?」
「はい、午後から……」
しょぼんと項垂れる大和。
彼の瓶を持つ手が、どこか未練がましく空中で揺れている。
僕は息を吸い込んで、短く、でも精一杯の声で言った。
「……頑張って」
その言葉に大和は一瞬きょとんとし、それから、どこか名残惜しそうに瓶を持ち上げる。
「先輩、俺、クラスの展示終わったら写真部の片付け手伝いに行きますから」
「うん……分かった、待ってる」
そう言った時、彼のスマホのアラームが鳴った。
「あ、時間だ……」
彼は残念そう言うと、「じゃ、また後で!」と元気よく模擬店の人混みへ駆けていった。
その後ろ姿が、日差しのなかに溶けていく。
僕は残された木陰で、胸の中に熱いものを抱えたまま、静かに瓶のラムネを飲み干した。
でも、僕はこの気持ちを言葉にはしない。
口にしてしまったら、泡のように消えてしまいそうな気がしたから。
文化祭二日目の写真部も、最後まで大盛況だった。
来場者が一番足を止めたのは、僕が撮った成瀬大和の写真――あの屋上で撮った一枚だ。
特に女の子たちの人気はすごくて写真の前で感嘆の声や小さな歓声があがるたび、なんだかむずがゆいような、誇らしいような気持ちになった。
すべての喧騒が過ぎ去った後、教室の外はもう夜の帷を落としている。
賑やかだったフォトブースも、今はもうガランとした空間に戻っていて。僕は最後のゴミ袋の口を結び、静かに息をついた。
あれだけ騒がしかったのに、今は物音ひとつしない。
その静けさが、なんだか少しだけ現実味を帯びていないようで――この二日間が、全部夢だったみたいに思えてくる。
楽しかった。本当に、心から楽しかった。
でも、片付けをしながらふと気づくと、胸の奥にぽっかりと空いた穴のようなものがあった。
片付けの時間に大和が来るかもしれない――そんな期待をどこかで抱いていた自分に、今さら気づく。
(大和くん……来なかったな)
期待していなかったつもりだったけど、気づけば何度もドアに視線を向けていた自分がいた。
僕だけがいまここに残っている。
あとはこのゴミを捨てるだけだから、と鍵だけ預かって部長や部員たちは先に帰ってもらった。
いや、きっと忙しかったんだ。クラスの片付けもあるし、他にもやることがあったのかもしれない。自分にそう言い聞かせても、胸の奥に残る小さな痛みは、どうしても消えてくれなかった。
そろそろ帰ろうーーそう思ったその時だった。
ガラッ、と準備室のドアが勢いよく開いた。見慣れた太陽(かれ)が、いつもよりずっと必死な顔をして立っていた。
「はぁ……っ、はぁ……! せ、先輩……!」
成瀬大和は肩で大きく息をする。執事のベストは着崩れ、額には汗が滲んでいる。
全力で走ってきたのだと、一目でわかった。
「ごめんなさい、本当に遅くなって……クラスの片付けもあって、何回も先生に呼ばれたりして……」
申し訳なさそうに眉を下げる彼に、僕はかける言葉が見つからなかった。
「大和くんは人気者だから、仕方ないよ」
やっとのことで絞り出したのは、そんな可愛げのない言葉。響いた声に、僕は思わず視線を手元に落とした。
彼は、大和は苦笑し首を横に振った。
「そういうことじゃなくて……」
「……?」
「――先輩、俺のこと待っててくれたんですよね?」
まっすぐな声だった。
その一言が、部屋の空気を一変させる。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
その視線に向き合う結城がなくて、僕は思わず視線を落とす。
「……帰ろうと思ったとこ」
「でも、写真部(ここ)の電気ついてるって思った時、俺すっげー嬉しかった」
僕は次の言葉を出せず、ただうつむいたまま黙っていた。
待ってたのは本当。
でも、いざ、こんな表情で来るなんて思ってなかったから。
彼が数歩、僕の方へと近づくーー。
「……俺、先輩のことが好きです」
声が震えていた。
勇気を振り絞った告白――僕は、言葉にならないまま、ゆっくりと、彼の顔を見た。
「最初は、先輩の写真に一目惚れしました。でも会って、話して、一緒に過ごすうちに瀬川先輩をもっともっと好きになりました」
時間が、止まったみたいだった。
窓の外から聞こえていたはずの後夜祭の準備の音も、何もかもが遠くなる。ただ、彼の声だけが、僕の世界のすべてになった。
胸が、熱い。嬉しいのに、苦しい。
「……僕は」
声が、震えた。
「僕も、大和くんのことが……」
僕の言葉に、彼が息をのむのがわかった。
「君といると、モノクロだった自分の世界が、鮮やかに色づいて見えるんだ。だから……これからも君を撮りたい。君の、誰も知らない顔を、俺が一番近くで、撮り続けさせてほしい」
それが、僕なりの、精一杯の返事だった。
顔が熱い、たぶん耳まで赤い。
返事を聞いた大和は一瞬驚いたように僕を見つめてから、すぐに子供みたいに嬉しそうな笑顔になった。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥にあった不安や寂しさ、全部がふっと消えていく気がした。
窓の外から、遠く後夜祭のはじまりを知らせるアナウンスが聞こえてくる。
「すっげー、嬉しい……!」
あふれる感情が零れるような声になったかと思うと、次の瞬間、僕はぎゅっと抱きしめられていた。
大和の腕の中は、驚くほどあたたかくて力強かった。
耳元で、彼の早まった心臓の音が聞こえる。
ずっと遠いと思っていた場所に、今、自分がいる。
僕は、彼の背中にそっと腕を回した。
「……僕は君が居なかったら多分、人の写真撮ってなかったと思う」
腕の中で、僕はぽつりと呟いた。
それは、心の底からの本音だった。
「ずっと、モノクロの世界のままだった。……君が、色をくれたんだ」
僕の言葉に、大和の腕の力が、さらに強くなる。
彼は一度だけ、僕の肩に顔をうずめるようにして、それから、ゆっくりと体を離した。でも、両手は僕の肩に置かれたままだ。
潤んだ瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。
「……俺、知ってましたよ」
「え?」
「去年、先輩の写真を見た時から、ずっと。この人は、すごいものを持ってるのに、まだ誰もそれに気づいてないんだって……世界に見つかってない、宝物みたいだって」
彼の言葉が、僕の心の奥に、じんわりと染み込んでいく。
「だから、俺が一番最初に見つけたかった。先輩の世界を、俺が一番近くで、色鮮やかにしたかったんです」
嬉しそうに、誇らしそうに、彼はそう言った。
ああ、そうか。彼はずっと、僕を見つけてくれていたんだ。僕が僕自身のことさえ、見つけられずにいた時から。
もう、何も言えなかった。ただ、彼の名前を呼ぶ。
「……大和くん」
彼は、僕の頬にそっと手を伸ばすと、親指で涙を優しく拭ってくれた。
「もう、モノクロじゃないですよ。俺が、絶対させないんで」
力強く言う彼に、僕は今度こそ心の底から笑い返した。
今だけは――僕たち二人だけの時間が、静かに流れていく。
この部屋から出れば、きっとすぐに現実に戻る。
けれどもう、モノクロの世界じゃない。
僕の目に映る景色は、彼と出会ったあの日よりも、ずっと鮮やかで、ずっとあたたかい。
繋いだ手の温かさだけで、十分だった。
僕たちの文化祭はこうして終わり、そして僕たちの新しい毎日がこの瞬間、静かに始まった。
僕は少しだけ早めに写真部の展示室に着いて、一枚一枚、昨日よりも丁寧に写真を飾り直していく。
二日目は展示を変える――これは僕の案だった。
その「瞬間」にしか見られない写真を作りたくて、昨日の夜、ひとりで写真を入れ替えるプランを考えていた。例年なら、二日間通して同じ展示内容。貼りっぱなしの写真――でも今年は違う。
「今日しか見られない一枚」に、わずかな誇りと緊張を込めて指先を動かす。
開場を告げるチャイムが鳴り、廊下に足音と話し声が溢れ始めたその時だった。
「おはざっす、先輩! 一番乗りです!」
宣言通り、朝イチでやってきた大和は、昨日と同じように太陽みたいな笑顔を浮かべていた。
今日は執事じゃなく、いつも通り少し気崩した制服姿。
「……おはよう」
「うわー、やっぱいいっすね、今日の展示も」
大和は本当に楽しそうに、僕たちの創り上げた空間を見渡している。その横顔を、僕はそっとカメラに収めた。もう、彼にレンズを向けることに、ためらいはなかった。
「あ、撮りましたね? じゃあ、約束通り俺も撮ります!」
そう言って、大和は僕の持ってたカメラを手に取る。
「先輩、笑ってください」
「……無理、いきなりそんなこと言われても」
「じゃあ、俺が笑わせます」
大和はそう言うと、フォトブースに置いてあった変なメガネや動物の耳のカチューシャを次々と僕につけようとしてくる。僕は「やめて」と抵抗しながらも、そのやり取りが楽しくて、いつの間にか本当に笑ってしまっていた。
カシャッ。
シャッター音がまだ客のいない展示室に響いた。
「……撮った?」
「はい、最高の笑顔、いただきました」
彼は満足そうに頷くと、「じゃあ、行きましょっか」と、ごく自然に僕の手を引いた。
「え、どこに?」
「決まってるじゃないすか。一緒に、文化祭回りましょうって、約束したじゃないですか」
その言葉に、僕の心臓が大きく跳ねる。
二人で展示室を出て、喧騒の中を歩く。隣を歩く彼との距離が、やけに近い。時々、腕が触れ合うたびに、ドキドキして息が詰まりそうになった。
「瀬川先輩のクラスの論文発表、見に行ってもいいですか?」
「え、いいけど……つまらないよ?」
「先輩が頑張ったやつなら、なんでも面白いです」
そんなことを、真顔で言うからずるい。
僕のクラスの教室に着くと、ちょうど論文の口頭発表が始まるところだった。教室の奥まで、昼の熱気がじっとりと溜まり、窓の外からは遠く模擬店のざわめきが聞こえてくる。
僕たちのグループの代表者が、緊張した面持ちで前に立つ。教室の中は一瞬だけ静まり返った。
「うわ、本格的……」
「まぁね」
後ろの席に並んで座ると、大和は思いのほか真面目な顔で、前のめり気味にスクリーンを見つめていた。
僕は、教卓の隅に置かれた論文の厚みや、資料の隅で光るホチキスの留め跡なんかにまで、ふいに目がいってしまう。
発表の終盤、スクリーンに参考文献のリストが映し出される。
その一番最後、『資料作成協力:瀬川暁人』と小さく僕の名前。
「……先輩、すげぇ」
その一言が耳に触れたとたん、背筋がぞくっとする。隣から吐息のような、心からの感嘆が伝わる。
窓の外、青空の下では誰かが笑っている。なのに今この狭い空間のなかで、大和の言葉だけが僕の世界を満たしていく。
それだけで文化祭のために色々やってきたことが、すべて報われた気がした。
発表が終わって教室を出ると、途端に午後の眩しさが僕たちを包む。
大和が「俺、喉乾いちゃいました。なんか買いに行きません?」といつもの調子で言った。
二人で中庭の模擬店エリアへと歩き出す。
遠くで体育館から吹奏楽部の演奏が漏れてきて、焼きそばのソースやわたあめの甘い香りがむせ返るほど混ざって漂ってくる。
「何飲みます? 俺、奢りますよ。さっきの発表、マジで感動したんで」
「……じゃあ、ラムネ」
「渋いチョイス!」
大和が人混みに吸い込まれていく。その背中を見送りながら僕は模擬店テントの端っこ、木陰のベンチに座って待った。太陽の下は騒がしいのに、ここだけ少し静かで、セミの鳴き声が遠くに響いている。
少しして、大和がラムネを二本手に戻ってきた。
ビー玉の栓に手こずる僕のところまで来て、「貸してください」と優しい声で瓶を受け取る。その指先が、ガラス越しに僕の手に一瞬触れて、ひやりとした冷たさが肌に残った。
「はい、どーぞ」
「……ありがとう」
受け取ったラムネは、炭酸の泡がしゅわしゅわと小さな音を立てている。ふたりで並んで瓶を傾ける。何でもない一瞬。
けれど、ふと視線を上げると、すぐ隣で大和が僕の顔をまじまじと見ていた。
「……なに?」
「いや……なんか、デートみたいだなって」
ゴホッと、僕は盛大にむせる。炭酸が鼻に抜けて、目まで熱くなった。
大和が慌てて僕の背中をさすってくれる。その手のひらが、やけに大きくて、安心する温度だった。
「前も言ってたけど……冗談、やめて」
「冗談じゃないすよ」
彼の声は、いつもみたいに明るいのに、今だけは真剣な響きを帯びている。
僕はもう、どうしても彼の顔をまともに見ることができなくて、手の中の瓶をきゅっと握ることしかできない。
「あー、ずっと先輩と回れたらいいのに……」
「今日も執事するんだっけ?」
「はい、午後から……」
しょぼんと項垂れる大和。
彼の瓶を持つ手が、どこか未練がましく空中で揺れている。
僕は息を吸い込んで、短く、でも精一杯の声で言った。
「……頑張って」
その言葉に大和は一瞬きょとんとし、それから、どこか名残惜しそうに瓶を持ち上げる。
「先輩、俺、クラスの展示終わったら写真部の片付け手伝いに行きますから」
「うん……分かった、待ってる」
そう言った時、彼のスマホのアラームが鳴った。
「あ、時間だ……」
彼は残念そう言うと、「じゃ、また後で!」と元気よく模擬店の人混みへ駆けていった。
その後ろ姿が、日差しのなかに溶けていく。
僕は残された木陰で、胸の中に熱いものを抱えたまま、静かに瓶のラムネを飲み干した。
でも、僕はこの気持ちを言葉にはしない。
口にしてしまったら、泡のように消えてしまいそうな気がしたから。
文化祭二日目の写真部も、最後まで大盛況だった。
来場者が一番足を止めたのは、僕が撮った成瀬大和の写真――あの屋上で撮った一枚だ。
特に女の子たちの人気はすごくて写真の前で感嘆の声や小さな歓声があがるたび、なんだかむずがゆいような、誇らしいような気持ちになった。
すべての喧騒が過ぎ去った後、教室の外はもう夜の帷を落としている。
賑やかだったフォトブースも、今はもうガランとした空間に戻っていて。僕は最後のゴミ袋の口を結び、静かに息をついた。
あれだけ騒がしかったのに、今は物音ひとつしない。
その静けさが、なんだか少しだけ現実味を帯びていないようで――この二日間が、全部夢だったみたいに思えてくる。
楽しかった。本当に、心から楽しかった。
でも、片付けをしながらふと気づくと、胸の奥にぽっかりと空いた穴のようなものがあった。
片付けの時間に大和が来るかもしれない――そんな期待をどこかで抱いていた自分に、今さら気づく。
(大和くん……来なかったな)
期待していなかったつもりだったけど、気づけば何度もドアに視線を向けていた自分がいた。
僕だけがいまここに残っている。
あとはこのゴミを捨てるだけだから、と鍵だけ預かって部長や部員たちは先に帰ってもらった。
いや、きっと忙しかったんだ。クラスの片付けもあるし、他にもやることがあったのかもしれない。自分にそう言い聞かせても、胸の奥に残る小さな痛みは、どうしても消えてくれなかった。
そろそろ帰ろうーーそう思ったその時だった。
ガラッ、と準備室のドアが勢いよく開いた。見慣れた太陽(かれ)が、いつもよりずっと必死な顔をして立っていた。
「はぁ……っ、はぁ……! せ、先輩……!」
成瀬大和は肩で大きく息をする。執事のベストは着崩れ、額には汗が滲んでいる。
全力で走ってきたのだと、一目でわかった。
「ごめんなさい、本当に遅くなって……クラスの片付けもあって、何回も先生に呼ばれたりして……」
申し訳なさそうに眉を下げる彼に、僕はかける言葉が見つからなかった。
「大和くんは人気者だから、仕方ないよ」
やっとのことで絞り出したのは、そんな可愛げのない言葉。響いた声に、僕は思わず視線を手元に落とした。
彼は、大和は苦笑し首を横に振った。
「そういうことじゃなくて……」
「……?」
「――先輩、俺のこと待っててくれたんですよね?」
まっすぐな声だった。
その一言が、部屋の空気を一変させる。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
その視線に向き合う結城がなくて、僕は思わず視線を落とす。
「……帰ろうと思ったとこ」
「でも、写真部(ここ)の電気ついてるって思った時、俺すっげー嬉しかった」
僕は次の言葉を出せず、ただうつむいたまま黙っていた。
待ってたのは本当。
でも、いざ、こんな表情で来るなんて思ってなかったから。
彼が数歩、僕の方へと近づくーー。
「……俺、先輩のことが好きです」
声が震えていた。
勇気を振り絞った告白――僕は、言葉にならないまま、ゆっくりと、彼の顔を見た。
「最初は、先輩の写真に一目惚れしました。でも会って、話して、一緒に過ごすうちに瀬川先輩をもっともっと好きになりました」
時間が、止まったみたいだった。
窓の外から聞こえていたはずの後夜祭の準備の音も、何もかもが遠くなる。ただ、彼の声だけが、僕の世界のすべてになった。
胸が、熱い。嬉しいのに、苦しい。
「……僕は」
声が、震えた。
「僕も、大和くんのことが……」
僕の言葉に、彼が息をのむのがわかった。
「君といると、モノクロだった自分の世界が、鮮やかに色づいて見えるんだ。だから……これからも君を撮りたい。君の、誰も知らない顔を、俺が一番近くで、撮り続けさせてほしい」
それが、僕なりの、精一杯の返事だった。
顔が熱い、たぶん耳まで赤い。
返事を聞いた大和は一瞬驚いたように僕を見つめてから、すぐに子供みたいに嬉しそうな笑顔になった。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥にあった不安や寂しさ、全部がふっと消えていく気がした。
窓の外から、遠く後夜祭のはじまりを知らせるアナウンスが聞こえてくる。
「すっげー、嬉しい……!」
あふれる感情が零れるような声になったかと思うと、次の瞬間、僕はぎゅっと抱きしめられていた。
大和の腕の中は、驚くほどあたたかくて力強かった。
耳元で、彼の早まった心臓の音が聞こえる。
ずっと遠いと思っていた場所に、今、自分がいる。
僕は、彼の背中にそっと腕を回した。
「……僕は君が居なかったら多分、人の写真撮ってなかったと思う」
腕の中で、僕はぽつりと呟いた。
それは、心の底からの本音だった。
「ずっと、モノクロの世界のままだった。……君が、色をくれたんだ」
僕の言葉に、大和の腕の力が、さらに強くなる。
彼は一度だけ、僕の肩に顔をうずめるようにして、それから、ゆっくりと体を離した。でも、両手は僕の肩に置かれたままだ。
潤んだ瞳が、まっすぐに僕を見つめていた。
「……俺、知ってましたよ」
「え?」
「去年、先輩の写真を見た時から、ずっと。この人は、すごいものを持ってるのに、まだ誰もそれに気づいてないんだって……世界に見つかってない、宝物みたいだって」
彼の言葉が、僕の心の奥に、じんわりと染み込んでいく。
「だから、俺が一番最初に見つけたかった。先輩の世界を、俺が一番近くで、色鮮やかにしたかったんです」
嬉しそうに、誇らしそうに、彼はそう言った。
ああ、そうか。彼はずっと、僕を見つけてくれていたんだ。僕が僕自身のことさえ、見つけられずにいた時から。
もう、何も言えなかった。ただ、彼の名前を呼ぶ。
「……大和くん」
彼は、僕の頬にそっと手を伸ばすと、親指で涙を優しく拭ってくれた。
「もう、モノクロじゃないですよ。俺が、絶対させないんで」
力強く言う彼に、僕は今度こそ心の底から笑い返した。
今だけは――僕たち二人だけの時間が、静かに流れていく。
この部屋から出れば、きっとすぐに現実に戻る。
けれどもう、モノクロの世界じゃない。
僕の目に映る景色は、彼と出会ったあの日よりも、ずっと鮮やかで、ずっとあたたかい。
繋いだ手の温かさだけで、十分だった。
僕たちの文化祭はこうして終わり、そして僕たちの新しい毎日がこの瞬間、静かに始まった。
