僕は、子供の頃からずっと静かな場所を好んできた。
家でも学校でも、自分から誰かの輪の中心に入ったことなんて、一度もなかったと思う。
ひとりで教室の隅から外を眺めている方が楽だったし、写真部でも、カメラ越しに世界を観ているる時間が何より落ち着いた。
けれど、成瀬大和に出会ってから、僕の日常は、少しずつ色を変えていった。
初めはただの騒がしい後輩。
なんでもストレートに言葉にして、空気なんて読まない。
誰の目も気にせず、まっすぐ僕に「一緒にやろう」と手を伸ばしてくる。
その強引さが、正直ちょっとだけ苦手だった。
でも、気づけば僕は――成瀬大和のことが好きだと自覚してしまった。
文化祭当日の朝は、昨日までとはまるで違う、鮮やかな色をしていた。
校門へと続く坂道を埋め尽くす、カラフルなクラスTシャツの群れ。ワックスで思い思いに髪を立てた男子生徒たちの、いつもより少しだけ高い笑い声。そのすべてが、僕の目には祝祭の始まりを告げる光の粒のように映って見えた。
ただ自分の気持ちを自覚しただけで、世界はこんなにも変わってしまうものなのか。
僕たちの写真部が作り上げたフォトブースは、開場と同時に想像以上の賑わいを見せた。手作りのフレームや、僕が切り抜いた星形のガーランドの前で、たくさんの生徒たちが楽しそうにポーズをとっている。
フォトブース。
これも大和の案だった。来場者の一瞬をインスタントカメラで撮り、出てきた写真を渡す。
「はい、撮りまーす! もっと笑ってー!」
カメラを構えた僕の口から、ごく自然にそんな言葉が飛び出して、自分でも少し驚いた。
レンズの奥で跳ねる光。フレームの中に、思い思いのポーズを取る友人同士や、小さな弟を連れてきた先輩。何度も通りがかった先生が「まさか瀬川が人を撮ってるとはな」と感心したように声をかけてくる。手渡したインスタント写真を見て「これ、持って帰ってもいいですか?」と目を輝かせる後輩。こんなふうに、誰かの今を切り取ることが、こんなに楽しいなんて――僕をこの場所に連れてきてくれた、太陽みたいな後輩の顔を思い浮かべて、胸の奥が温かくなる。
昼休み。
交代で休憩に入った僕は、意を決して、三階の二年生のフロアへと向かった。
目的の教室の前には、既に長蛇の列ができていた。入り口に置かれた手作りの看板には『執事&メイド喫茶♡』という、いかにも文化祭らしい文字が踊っている。そのあまりの陽気な雰囲気に、僕は一瞬、踵を返しそうになった。
でも、約束したんだ。「絶対来てくださいね」って、彼が笑っていたから。
ぎゅっと拳を握りしめ、僕は列の最後尾に並んだ。
数十分後、ようやく中に通された僕の目に飛び込んできたのは想像をはるかに超える光景だった。
黒いベストに白いシャツ、首元にはきっちりと締められたタイ。
完璧な執事姿の成瀬大和が、そこにいた。
彼はまるで、本物の王子様みたいだった。女子生徒のグループに囲まれ、優雅な仕草でお茶をサーブしている。その一挙手一投足に、黄色い歓声が上がっていた。
すごいな。
素直にそう思った。誇らしいような、でも、ほんの少しだけ寂しいような。自分とは違う、光の当たる場所にいる人間なのだと、改めて思い知らされる。
「――あ」
不意に、彼がこちらを向いた。
大勢の客の中から、僕のことを見つけたらしい。
次の瞬間、彼は周りの女子生徒たちに「申し訳ございません、少々お待ちを」と完璧な笑顔で断りを入れると、迷いのない足取りで、まっすぐに僕の元へとやってきた。
「お待ちしておりました、ご主人様」
僕の目の前で、彼はわざとらしいほど丁寧に、恭しくお辞儀をした。その声と仕草に、近くのテーブルから一斉に視線が集まる。
「え、誰?」
「今の、大和くんの知り合い?」
ひそひそ声が周囲でさざ波のように広がる。なんだか、自分が舞台の上にでも立たされたみたいで、落ち着かない。
「先輩! 本当に来てくれたんすね!」
一瞬で執事の仮面が外れて、いつもの無邪気な笑顔になる。
そのギャップに、思わず心臓が跳ねる。
「う、うん。約束、したから……」
「うわ、マジで嬉しい! どうすか、俺の執事姿!」
「……似合ってる、すごく」
「でしょ! あ、ご注文は――」
手際よく席に案内され、椅子を引かれる。机の上には白いテーブルクロス、ガラスのコップに一輪の花。手作り感があって、だけどちゃんと特別な場所になっていた。
大和がメニューを手渡し、誰にも聞こえない声で「アイスミルクティーがおすすめです」と耳打ちする。
「じゃあ、それで」
「承知いたしました、ご主人さま」
思わず吹き出しそうになったけれど、慌てて堪える。その時、店の奥から大きな声。
「大和ー! こっちのテーブル、オーダーお願い!」
大和は「すぐ戻りますから!」と小さくウインクして、軽やかに他のテーブルへと駆けていった。残された僕は、まだ胸の鼓動が収まらないまま、初めて見る彼のクラスの雰囲気にちょっとだけ圧倒されていた。
落ち着かずにカップを両手で包み、ふと視線を上げると、大和は忙しなくフロアを行き来している。
そのたび、女子生徒のグループから小さな歓声や「カッコいい……」なんて声が漏れてくる。
やっぱり、彼はみんなの大和なんだな、と少しだけ距離を感じてしまう。
それでも、大和の姿をつい目で追ってしまう自分がいた。
「お待たせいたしました、ご主人様」
しばらくして、慌てた様子で大和が戻ってきた。アイスティーを置く手が少しだけ震えているのは、忙しさのせいか、それとも……。
「大和くん、ちょっと疲れてる?」
「俺、こういう接客の仕事、したことないんすよね……グラス置く時こぼさないか心配で……」
笑いながら大和が言う。
「おーい、大和ー! 次こっちなー!」
またクラスメイトに呼ばれた。
「あ、はい、今行く! ……すみません、先輩。後で絶対、写真部の方行きますから! 絶対ですよ!」
彼はそう早口で言うと、名残惜しそうに一度だけ僕を見て慌ただしく持ち場へと戻っていった。
一人残された僕は、大和と親しく話していた所為かチラチラと見られたりして、その場にいるのが急に恥ずかしくなってしまい、出されたミルクティーを飲むみおわると逃げるように大和のクラスを後にした。
胸の中に、温かいものと、少しだけちくりと痛むものが混ざり合う。
嬉しいのに、少しだけ、苦しい。
僕は一人、そんな感情を抱えながら文化祭の喧騒の中へと戻り、彼が来てくれるのを待つ午後の長い時間を思った。
文化祭1日目の終了時刻が近づく。
写真部の展示室も、だんだんと人がまばらになっていく。壁際の時計の針が、そろそろ「閉室」の時間を指し示そうとしていた。
その時、扉が静かに開いて、
「瀬川先輩!」
大和が、少し慌てたような顔で姿を見せた。
息は切れていないけれど、髪が少し乱れていて、急いできたことが伝わってくる。
「すみません、めちゃくちゃ遅くなって……! もう、終わりっすよね」
「……うん。もうそろそろかな」
僕が腕時計を見ながらそう答えると、大和は肩の荷を下ろすように息をつき展示室を見回す。
「……でも、今日ずっと盛況だったじゃないですか。先輩の写真、すごく評判よかったですよ」
その声に、不思議と心の疲れがほぐれる気がした。
平静を装って答えるが、心臓が大きく音を立てているのを止められない。来てくれた。その事実だけで、一日の疲れと寂しさが、全部吹き飛んでいくようだった。
「うわー……でも、すごい。……やっぱ、瀬川先輩の写真、好きだな、俺」
大和は、片付けのために壁際に立てかけられた写真パネルを、一枚一枚、本当に愛おしそうに眺めている。特に、瀬川君が撮った風景写真の前で、彼は足を止めた。
「俺、この写真があったから、ここに来たんですよね」
それは去年の文化祭で大和が見た、あの音楽室の写真だった。 そして彼は隣に展示されていた、海で撮られたメガネなしの瀬川君の写真にも目を向ける。
「でも、今は……こっちの写真の方が、もっと好きかも」
「え……」
「俺だけが知ってる、先輩の顔だから」
「ほんとは展示されたくなかったんだけど……」
「え、でも俺の傑作だし」
いたずらっぽく笑う彼の顔が、夕日でオレンジ色に染まった廊下に照らされてやけに綺麗に見えた。
「すみません、長居しちゃって。俺も片付け戻らないと……」
「……うん」
「明日は、朝イチで来ます! 俺、午前中は空いてるから、先輩一緒に回ってくれます? ていうか、ほんとは写真部で先輩と居たかったなぁ……」
大和がぼやいた。
「……ふふっ」
思わず、笑みがこぼれた。その自分の反応に、自分でも驚く。
「先輩、今、笑った」
「……笑ってない」
「いーや、笑いましたね! その顔、明日絶対撮るんで、覚悟しといてください!」
大和はそう言って、名残惜しそうに一度だけ手を振ると、また慌ただしく自分の教室へと戻っていった。
一人になった廊下で、僕はさっき彼が見つめていた写真にそっと触れる。
明日は、今日よりもきっと、もっといい日になる。
そんな確信を胸に、僕は文化祭の1日目を終えた。
家でも学校でも、自分から誰かの輪の中心に入ったことなんて、一度もなかったと思う。
ひとりで教室の隅から外を眺めている方が楽だったし、写真部でも、カメラ越しに世界を観ているる時間が何より落ち着いた。
けれど、成瀬大和に出会ってから、僕の日常は、少しずつ色を変えていった。
初めはただの騒がしい後輩。
なんでもストレートに言葉にして、空気なんて読まない。
誰の目も気にせず、まっすぐ僕に「一緒にやろう」と手を伸ばしてくる。
その強引さが、正直ちょっとだけ苦手だった。
でも、気づけば僕は――成瀬大和のことが好きだと自覚してしまった。
文化祭当日の朝は、昨日までとはまるで違う、鮮やかな色をしていた。
校門へと続く坂道を埋め尽くす、カラフルなクラスTシャツの群れ。ワックスで思い思いに髪を立てた男子生徒たちの、いつもより少しだけ高い笑い声。そのすべてが、僕の目には祝祭の始まりを告げる光の粒のように映って見えた。
ただ自分の気持ちを自覚しただけで、世界はこんなにも変わってしまうものなのか。
僕たちの写真部が作り上げたフォトブースは、開場と同時に想像以上の賑わいを見せた。手作りのフレームや、僕が切り抜いた星形のガーランドの前で、たくさんの生徒たちが楽しそうにポーズをとっている。
フォトブース。
これも大和の案だった。来場者の一瞬をインスタントカメラで撮り、出てきた写真を渡す。
「はい、撮りまーす! もっと笑ってー!」
カメラを構えた僕の口から、ごく自然にそんな言葉が飛び出して、自分でも少し驚いた。
レンズの奥で跳ねる光。フレームの中に、思い思いのポーズを取る友人同士や、小さな弟を連れてきた先輩。何度も通りがかった先生が「まさか瀬川が人を撮ってるとはな」と感心したように声をかけてくる。手渡したインスタント写真を見て「これ、持って帰ってもいいですか?」と目を輝かせる後輩。こんなふうに、誰かの今を切り取ることが、こんなに楽しいなんて――僕をこの場所に連れてきてくれた、太陽みたいな後輩の顔を思い浮かべて、胸の奥が温かくなる。
昼休み。
交代で休憩に入った僕は、意を決して、三階の二年生のフロアへと向かった。
目的の教室の前には、既に長蛇の列ができていた。入り口に置かれた手作りの看板には『執事&メイド喫茶♡』という、いかにも文化祭らしい文字が踊っている。そのあまりの陽気な雰囲気に、僕は一瞬、踵を返しそうになった。
でも、約束したんだ。「絶対来てくださいね」って、彼が笑っていたから。
ぎゅっと拳を握りしめ、僕は列の最後尾に並んだ。
数十分後、ようやく中に通された僕の目に飛び込んできたのは想像をはるかに超える光景だった。
黒いベストに白いシャツ、首元にはきっちりと締められたタイ。
完璧な執事姿の成瀬大和が、そこにいた。
彼はまるで、本物の王子様みたいだった。女子生徒のグループに囲まれ、優雅な仕草でお茶をサーブしている。その一挙手一投足に、黄色い歓声が上がっていた。
すごいな。
素直にそう思った。誇らしいような、でも、ほんの少しだけ寂しいような。自分とは違う、光の当たる場所にいる人間なのだと、改めて思い知らされる。
「――あ」
不意に、彼がこちらを向いた。
大勢の客の中から、僕のことを見つけたらしい。
次の瞬間、彼は周りの女子生徒たちに「申し訳ございません、少々お待ちを」と完璧な笑顔で断りを入れると、迷いのない足取りで、まっすぐに僕の元へとやってきた。
「お待ちしておりました、ご主人様」
僕の目の前で、彼はわざとらしいほど丁寧に、恭しくお辞儀をした。その声と仕草に、近くのテーブルから一斉に視線が集まる。
「え、誰?」
「今の、大和くんの知り合い?」
ひそひそ声が周囲でさざ波のように広がる。なんだか、自分が舞台の上にでも立たされたみたいで、落ち着かない。
「先輩! 本当に来てくれたんすね!」
一瞬で執事の仮面が外れて、いつもの無邪気な笑顔になる。
そのギャップに、思わず心臓が跳ねる。
「う、うん。約束、したから……」
「うわ、マジで嬉しい! どうすか、俺の執事姿!」
「……似合ってる、すごく」
「でしょ! あ、ご注文は――」
手際よく席に案内され、椅子を引かれる。机の上には白いテーブルクロス、ガラスのコップに一輪の花。手作り感があって、だけどちゃんと特別な場所になっていた。
大和がメニューを手渡し、誰にも聞こえない声で「アイスミルクティーがおすすめです」と耳打ちする。
「じゃあ、それで」
「承知いたしました、ご主人さま」
思わず吹き出しそうになったけれど、慌てて堪える。その時、店の奥から大きな声。
「大和ー! こっちのテーブル、オーダーお願い!」
大和は「すぐ戻りますから!」と小さくウインクして、軽やかに他のテーブルへと駆けていった。残された僕は、まだ胸の鼓動が収まらないまま、初めて見る彼のクラスの雰囲気にちょっとだけ圧倒されていた。
落ち着かずにカップを両手で包み、ふと視線を上げると、大和は忙しなくフロアを行き来している。
そのたび、女子生徒のグループから小さな歓声や「カッコいい……」なんて声が漏れてくる。
やっぱり、彼はみんなの大和なんだな、と少しだけ距離を感じてしまう。
それでも、大和の姿をつい目で追ってしまう自分がいた。
「お待たせいたしました、ご主人様」
しばらくして、慌てた様子で大和が戻ってきた。アイスティーを置く手が少しだけ震えているのは、忙しさのせいか、それとも……。
「大和くん、ちょっと疲れてる?」
「俺、こういう接客の仕事、したことないんすよね……グラス置く時こぼさないか心配で……」
笑いながら大和が言う。
「おーい、大和ー! 次こっちなー!」
またクラスメイトに呼ばれた。
「あ、はい、今行く! ……すみません、先輩。後で絶対、写真部の方行きますから! 絶対ですよ!」
彼はそう早口で言うと、名残惜しそうに一度だけ僕を見て慌ただしく持ち場へと戻っていった。
一人残された僕は、大和と親しく話していた所為かチラチラと見られたりして、その場にいるのが急に恥ずかしくなってしまい、出されたミルクティーを飲むみおわると逃げるように大和のクラスを後にした。
胸の中に、温かいものと、少しだけちくりと痛むものが混ざり合う。
嬉しいのに、少しだけ、苦しい。
僕は一人、そんな感情を抱えながら文化祭の喧騒の中へと戻り、彼が来てくれるのを待つ午後の長い時間を思った。
文化祭1日目の終了時刻が近づく。
写真部の展示室も、だんだんと人がまばらになっていく。壁際の時計の針が、そろそろ「閉室」の時間を指し示そうとしていた。
その時、扉が静かに開いて、
「瀬川先輩!」
大和が、少し慌てたような顔で姿を見せた。
息は切れていないけれど、髪が少し乱れていて、急いできたことが伝わってくる。
「すみません、めちゃくちゃ遅くなって……! もう、終わりっすよね」
「……うん。もうそろそろかな」
僕が腕時計を見ながらそう答えると、大和は肩の荷を下ろすように息をつき展示室を見回す。
「……でも、今日ずっと盛況だったじゃないですか。先輩の写真、すごく評判よかったですよ」
その声に、不思議と心の疲れがほぐれる気がした。
平静を装って答えるが、心臓が大きく音を立てているのを止められない。来てくれた。その事実だけで、一日の疲れと寂しさが、全部吹き飛んでいくようだった。
「うわー……でも、すごい。……やっぱ、瀬川先輩の写真、好きだな、俺」
大和は、片付けのために壁際に立てかけられた写真パネルを、一枚一枚、本当に愛おしそうに眺めている。特に、瀬川君が撮った風景写真の前で、彼は足を止めた。
「俺、この写真があったから、ここに来たんですよね」
それは去年の文化祭で大和が見た、あの音楽室の写真だった。 そして彼は隣に展示されていた、海で撮られたメガネなしの瀬川君の写真にも目を向ける。
「でも、今は……こっちの写真の方が、もっと好きかも」
「え……」
「俺だけが知ってる、先輩の顔だから」
「ほんとは展示されたくなかったんだけど……」
「え、でも俺の傑作だし」
いたずらっぽく笑う彼の顔が、夕日でオレンジ色に染まった廊下に照らされてやけに綺麗に見えた。
「すみません、長居しちゃって。俺も片付け戻らないと……」
「……うん」
「明日は、朝イチで来ます! 俺、午前中は空いてるから、先輩一緒に回ってくれます? ていうか、ほんとは写真部で先輩と居たかったなぁ……」
大和がぼやいた。
「……ふふっ」
思わず、笑みがこぼれた。その自分の反応に、自分でも驚く。
「先輩、今、笑った」
「……笑ってない」
「いーや、笑いましたね! その顔、明日絶対撮るんで、覚悟しといてください!」
大和はそう言って、名残惜しそうに一度だけ手を振ると、また慌ただしく自分の教室へと戻っていった。
一人になった廊下で、僕はさっき彼が見つめていた写真にそっと触れる。
明日は、今日よりもきっと、もっといい日になる。
そんな確信を胸に、僕は文化祭の1日目を終えた。
