週明けの月曜日は、空気がどこかぎこちなかった。
土曜日のあの瞬間から、僕の世界は少しだけ歪んでしまった気がする。
少なくとも、僕にとっては。
廊下でばったりと出くわした成瀬大和に僕はどう反応していいかわからず、ただ小さく会釈をして足早に通り過ぎてしまった。彼の「おつかれさまです!」という声が背中に刺さった。
気まずい。
土曜日に言われた言葉が、頭の中で何度も再生されていた。
そんな僕の葛藤など知らないかのように、放課後の時間はやってくる。
写真部の部室の隣にある、文化祭準備のために割り当てられた空き教室のドアを開けると、そこには既に大和がいて買ってきた材料を床いっぱいに広げていた。
「瀬川先輩! 待ってましたよ、やりますか!」
彼は僕の顔を見るなり、待ってましたとばかりに腕まくりをする。
その迷いのない姿に、僕のちっぽけな悩みなどどうでもよくなるくらいだった。
僕たちの作業は、自然と役割分担ができていた。
大和は買ってきたパネルを組み立ててブースの骨組みを作ったり、背景になる大きな布を壁に貼り付けたりとダイナミックな作業を担当する。一方の僕は、床に広げたカッティングマットの上で、装飾用の星や月、動物のシルエットなどを黙々と切り出していく。
「うわ、先輩、手つきがプロい……俺がやったら絶対ガタガタになる」
「……慣れてるだけだから」
背後から覗き込んできた大和が、感心したように呟く。
集中している僕の手元を、彼の視線がじっと追っているのがわかって、指先が少しだけ震えた。
静かな作業空間に、大和がスマホで流し始めた今どきのロックバンドの曲が響く。うるさいな、と最初は思った。でも、その疾走感のあるメロディは意外と心地よくて、僕のカッターを動かすリズムと不思議とシンクロしていく。
「先輩、すみません! そこの上、ちょっと一人じゃ貼れないんで、手伝ってもらっていいすか?」
壁の高い位置に、背景布の端を固定する作業。
僕は脚立に上り、大和が下で布の反対側を支える。あと少し、というところで画鋲を刺そうと手を伸ばした、その時だった。
ぐらり、と脚立が揺れた。
「うわっ……!」
「危なっ!」
視界が一瞬、ふわりと傾く。
足元の段差につまずいたその瞬間、世界がスローモーションになったようだった。落ちる、と思った。
次の瞬間――腰に強い力がかかる。
ぐっと、引き寄せられる感覚。
背中が何か柔らかいものに預けられ、反射的に腕で買い物袋を守った。
耳元で、かすかに息を呑む気配。
背後から、ほんのり甘い、洗剤と香水が混ざったような匂いがした。
僕の背中は、大和の胸にしっかりと抱き止められている。
気がつけば、息も忘れていた。指先が震えて、喉がカラカラになる。
「……っ、ご、ごめん」
慌てて声を出すけど、心臓がバクバクうるさい。
「……いえ、俺こそちゃんと支えてなくて……てか先輩、軽すぎ。ちゃんと飯食ってます?」
大和は、少しだけ息を切らしながら、でも冗談っぽく笑う。
それでも、僕の腰に回されたままの彼の腕が、ほんの少しだけ震えているのが伝わった。
――近い。近すぎる。
肌ごしの温度や、彼の呼吸、鼓動までわかってしまいそうな距離。廊下からは生徒たちの楽しそうな声が響いてくるのに、ここだけ静まり返ったみたいに感じた。
「食べてるよ、これは体質だから……っ」
声がやけに高くなっていた。
慌てて、大和の腕から身体を離した。動作がやけにぎこちなくなってしまう。
余韻のように、背中に残る彼の体温と微かな匂い、鼓動の速さがなかなか元に戻らない。
このままくっついていたら、本当にどうにかなってしまいそうだった。
なんでだろう――今、僕が感じているものが全部、成瀬大和のものだという事実が、頭のどこかでぐるぐる回っていた。
「あの……先輩」
「……なに?」
「いや…………なんでもないです」
彼はそう言って、困ったように、でもどこか嬉しそうにはにかんだ。
その笑顔に、僕の心臓はまた、ぎゅうっと掴まれる。彼が何を言おうとしたのか、気になって仕方がない。
「さ、作業の続きしよう?」
慌てて僕が言うと、そうっすね、といつもの大和に戻っていた。
いつもみたいに、僕の隣に座ってくることもない。 奇妙な沈黙が、教室に落ちる。
カッターが紙の上を滑る音と、彼がパネルにペンキを塗るローラーの音だけが、やけに大きく響いていた。
視線が合っては、慌てて逸らす。その繰り返し。
僕が細かいパーツを切り抜いていると、いつもなら軽口を叩いてくる彼が、ただ「……先輩、手、気をつけてくださいね」と、少し硬い声で言う。その優しさが、今は余計に僕の心臓を締め付けた。
気まずい空気に唯一沈黙を破るのは、スマホから流れる音楽だけ。
最近、よくテレビで流れるロックバンドの、でも、今日は少しテンポの遅い、静かな曲だった。切ないギターのアルペジオと、愛しさを歌うボーカルの声。
『言いたいことほど、言葉にならない』
そんなフレーズが、まるで今の僕たちのことみたいで、耳の奥で熱を持つ。 黙って作業を続ける僕たちの間に、そのラブソングだけが静かに流れていた。 この曲が終わるまで。あと数分。そうしたら、何か話さなければ。でも、何を?
「……この曲、いいな」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからなかった。ただ、思ったことをそのまま口に出していた。
その言葉に、ペンキを塗っていた大和の手がぴたりと止まる。彼はゆっくりとこちらを振り返ると、驚いたように少しだけ目を見開いて、それから、ふっと表情を緩めた。
「でしょ? 俺も、この曲一番好きなんすよ……てか、先輩、疲れたでしょ。ちょっと休憩しません?」
不意に、大和が声をかけてきた。
彼は自分のジャージのポケットから小銭を取り出すと、「ちょっと待っててください」と言って部屋を出ていく。 数分後、戻ってきた彼の手には、缶ジュースが二本握られていた。
「はい、これ」
「……え」
差し出されたのは、僕が土曜日の買い出しの時に飲んでいた、少しマイナーなブランドのフルーツソーダだった。
「俺、昨日先輩が飲んでたやつ、覚えてたんすよ」
どうして、そんな些細なことを。 驚きと、胸の奥からじわじわと湧き上がってくる喜びで、僕の思考は完全に停止した。受け取った缶の冷たさで、自分の頬がどれだけ熱を持っているかを思い知らされる。
「……ありがとう」
それが、僕の言えた精一杯だった。
二人で床に座り込み、ジュースを飲む。
僕たちは少しだけ形になってきたフォトブースを眺めていた。まだ骨組みと背景があるだけだけど、それでも、自分たちの手で何かを創り上げているという実感が、胸の奥を温かくする。
「……なんか、形になってくると、楽しいな」
ぽつりと、自分でも驚くほど素直な言葉がこぼれた。 その言葉に、隣に座っていた大和が、嬉しそうに顔をほころばせる。
「でしょ? 俺、先輩と一緒なら絶対いいのできるって思ってました」
そのまっすぐな瞳に、僕はまた、どうしようもなく目を逸らした。
「去年、来た時。勿体無いって思ったんです。瀬川先輩の写真、もっとたくさんの人に見てもらいたいって、ずっと思ってた」
その言葉に僕は言葉を詰まらせた。
「なんか順調に準備進んでるけど、文化祭終わっちゃうの、ちょっと寂しいっすね」
「……うん」
大和の言葉に同じ気持ちが湧き上がる。
この、二人きりの時間が終わってしまうことが、今は何よりも怖かった。
きっと、これが終わってしまえば、彼は彼の日常に戻ってしまうから。
僕とは違う、たくさんの人に囲まれた明るくて眩しい世界。
「文化祭が終わっても、また……写真、撮りに行ったりしません?」
探るような、少しだけ不安そうな彼の声が降ってきた。
一瞬、驚いて彼を見る。
優しく笑みを浮かべた表情はどこか頼りなさげで、けれども真剣に見えて。僕はその声に背中を押されて、ずっと言えなかった言葉を口にした。
「……君が、撮らせてくれるなら」
それは、僕なりの精一杯の気持ちを言ったつもりだった。「君を撮りたい」と、そう言っているのと同じだったから。 僕の言葉に、大和は一瞬、大きく目を見開いた。そして、その瞳にみるみるうちに喜びの色が広がっていく。
「マジすか! じゃあ約束ですね! え、どこがいいかな?」
彼のとびきりの笑顔が眩しかった。
彼の心からの笑顔に張り詰めていた空気の糸が、ぷつりと切れた気がした。
その日の作業を終え、片付けをする。ぎこちないながらも、空気はずっと和らいでいた。 「じゃ、また明日」と僕が言うと、彼は「はい」と頷いた後、何かを言いかけるように口を開いた。
一人になった帰り道。 さっきのラブソングのメロディが、頭の中でリフレインしていた。
大和が言いかけた言葉と、彼の照れたような笑顔を思い出す。胸の奥がきゅうっと締め付けられて、苦しいのに、温かい。
ああ、そうか。 僕は、この感情の名前を、もう知っている。この胸の痛みも、熱も、全部。
その自覚は、夕暮れの空みたいにじんわりと、でもどうしようもなく鮮やかに、僕の世界を染め上げていった。
土曜日のあの瞬間から、僕の世界は少しだけ歪んでしまった気がする。
少なくとも、僕にとっては。
廊下でばったりと出くわした成瀬大和に僕はどう反応していいかわからず、ただ小さく会釈をして足早に通り過ぎてしまった。彼の「おつかれさまです!」という声が背中に刺さった。
気まずい。
土曜日に言われた言葉が、頭の中で何度も再生されていた。
そんな僕の葛藤など知らないかのように、放課後の時間はやってくる。
写真部の部室の隣にある、文化祭準備のために割り当てられた空き教室のドアを開けると、そこには既に大和がいて買ってきた材料を床いっぱいに広げていた。
「瀬川先輩! 待ってましたよ、やりますか!」
彼は僕の顔を見るなり、待ってましたとばかりに腕まくりをする。
その迷いのない姿に、僕のちっぽけな悩みなどどうでもよくなるくらいだった。
僕たちの作業は、自然と役割分担ができていた。
大和は買ってきたパネルを組み立ててブースの骨組みを作ったり、背景になる大きな布を壁に貼り付けたりとダイナミックな作業を担当する。一方の僕は、床に広げたカッティングマットの上で、装飾用の星や月、動物のシルエットなどを黙々と切り出していく。
「うわ、先輩、手つきがプロい……俺がやったら絶対ガタガタになる」
「……慣れてるだけだから」
背後から覗き込んできた大和が、感心したように呟く。
集中している僕の手元を、彼の視線がじっと追っているのがわかって、指先が少しだけ震えた。
静かな作業空間に、大和がスマホで流し始めた今どきのロックバンドの曲が響く。うるさいな、と最初は思った。でも、その疾走感のあるメロディは意外と心地よくて、僕のカッターを動かすリズムと不思議とシンクロしていく。
「先輩、すみません! そこの上、ちょっと一人じゃ貼れないんで、手伝ってもらっていいすか?」
壁の高い位置に、背景布の端を固定する作業。
僕は脚立に上り、大和が下で布の反対側を支える。あと少し、というところで画鋲を刺そうと手を伸ばした、その時だった。
ぐらり、と脚立が揺れた。
「うわっ……!」
「危なっ!」
視界が一瞬、ふわりと傾く。
足元の段差につまずいたその瞬間、世界がスローモーションになったようだった。落ちる、と思った。
次の瞬間――腰に強い力がかかる。
ぐっと、引き寄せられる感覚。
背中が何か柔らかいものに預けられ、反射的に腕で買い物袋を守った。
耳元で、かすかに息を呑む気配。
背後から、ほんのり甘い、洗剤と香水が混ざったような匂いがした。
僕の背中は、大和の胸にしっかりと抱き止められている。
気がつけば、息も忘れていた。指先が震えて、喉がカラカラになる。
「……っ、ご、ごめん」
慌てて声を出すけど、心臓がバクバクうるさい。
「……いえ、俺こそちゃんと支えてなくて……てか先輩、軽すぎ。ちゃんと飯食ってます?」
大和は、少しだけ息を切らしながら、でも冗談っぽく笑う。
それでも、僕の腰に回されたままの彼の腕が、ほんの少しだけ震えているのが伝わった。
――近い。近すぎる。
肌ごしの温度や、彼の呼吸、鼓動までわかってしまいそうな距離。廊下からは生徒たちの楽しそうな声が響いてくるのに、ここだけ静まり返ったみたいに感じた。
「食べてるよ、これは体質だから……っ」
声がやけに高くなっていた。
慌てて、大和の腕から身体を離した。動作がやけにぎこちなくなってしまう。
余韻のように、背中に残る彼の体温と微かな匂い、鼓動の速さがなかなか元に戻らない。
このままくっついていたら、本当にどうにかなってしまいそうだった。
なんでだろう――今、僕が感じているものが全部、成瀬大和のものだという事実が、頭のどこかでぐるぐる回っていた。
「あの……先輩」
「……なに?」
「いや…………なんでもないです」
彼はそう言って、困ったように、でもどこか嬉しそうにはにかんだ。
その笑顔に、僕の心臓はまた、ぎゅうっと掴まれる。彼が何を言おうとしたのか、気になって仕方がない。
「さ、作業の続きしよう?」
慌てて僕が言うと、そうっすね、といつもの大和に戻っていた。
いつもみたいに、僕の隣に座ってくることもない。 奇妙な沈黙が、教室に落ちる。
カッターが紙の上を滑る音と、彼がパネルにペンキを塗るローラーの音だけが、やけに大きく響いていた。
視線が合っては、慌てて逸らす。その繰り返し。
僕が細かいパーツを切り抜いていると、いつもなら軽口を叩いてくる彼が、ただ「……先輩、手、気をつけてくださいね」と、少し硬い声で言う。その優しさが、今は余計に僕の心臓を締め付けた。
気まずい空気に唯一沈黙を破るのは、スマホから流れる音楽だけ。
最近、よくテレビで流れるロックバンドの、でも、今日は少しテンポの遅い、静かな曲だった。切ないギターのアルペジオと、愛しさを歌うボーカルの声。
『言いたいことほど、言葉にならない』
そんなフレーズが、まるで今の僕たちのことみたいで、耳の奥で熱を持つ。 黙って作業を続ける僕たちの間に、そのラブソングだけが静かに流れていた。 この曲が終わるまで。あと数分。そうしたら、何か話さなければ。でも、何を?
「……この曲、いいな」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからなかった。ただ、思ったことをそのまま口に出していた。
その言葉に、ペンキを塗っていた大和の手がぴたりと止まる。彼はゆっくりとこちらを振り返ると、驚いたように少しだけ目を見開いて、それから、ふっと表情を緩めた。
「でしょ? 俺も、この曲一番好きなんすよ……てか、先輩、疲れたでしょ。ちょっと休憩しません?」
不意に、大和が声をかけてきた。
彼は自分のジャージのポケットから小銭を取り出すと、「ちょっと待っててください」と言って部屋を出ていく。 数分後、戻ってきた彼の手には、缶ジュースが二本握られていた。
「はい、これ」
「……え」
差し出されたのは、僕が土曜日の買い出しの時に飲んでいた、少しマイナーなブランドのフルーツソーダだった。
「俺、昨日先輩が飲んでたやつ、覚えてたんすよ」
どうして、そんな些細なことを。 驚きと、胸の奥からじわじわと湧き上がってくる喜びで、僕の思考は完全に停止した。受け取った缶の冷たさで、自分の頬がどれだけ熱を持っているかを思い知らされる。
「……ありがとう」
それが、僕の言えた精一杯だった。
二人で床に座り込み、ジュースを飲む。
僕たちは少しだけ形になってきたフォトブースを眺めていた。まだ骨組みと背景があるだけだけど、それでも、自分たちの手で何かを創り上げているという実感が、胸の奥を温かくする。
「……なんか、形になってくると、楽しいな」
ぽつりと、自分でも驚くほど素直な言葉がこぼれた。 その言葉に、隣に座っていた大和が、嬉しそうに顔をほころばせる。
「でしょ? 俺、先輩と一緒なら絶対いいのできるって思ってました」
そのまっすぐな瞳に、僕はまた、どうしようもなく目を逸らした。
「去年、来た時。勿体無いって思ったんです。瀬川先輩の写真、もっとたくさんの人に見てもらいたいって、ずっと思ってた」
その言葉に僕は言葉を詰まらせた。
「なんか順調に準備進んでるけど、文化祭終わっちゃうの、ちょっと寂しいっすね」
「……うん」
大和の言葉に同じ気持ちが湧き上がる。
この、二人きりの時間が終わってしまうことが、今は何よりも怖かった。
きっと、これが終わってしまえば、彼は彼の日常に戻ってしまうから。
僕とは違う、たくさんの人に囲まれた明るくて眩しい世界。
「文化祭が終わっても、また……写真、撮りに行ったりしません?」
探るような、少しだけ不安そうな彼の声が降ってきた。
一瞬、驚いて彼を見る。
優しく笑みを浮かべた表情はどこか頼りなさげで、けれども真剣に見えて。僕はその声に背中を押されて、ずっと言えなかった言葉を口にした。
「……君が、撮らせてくれるなら」
それは、僕なりの精一杯の気持ちを言ったつもりだった。「君を撮りたい」と、そう言っているのと同じだったから。 僕の言葉に、大和は一瞬、大きく目を見開いた。そして、その瞳にみるみるうちに喜びの色が広がっていく。
「マジすか! じゃあ約束ですね! え、どこがいいかな?」
彼のとびきりの笑顔が眩しかった。
彼の心からの笑顔に張り詰めていた空気の糸が、ぷつりと切れた気がした。
その日の作業を終え、片付けをする。ぎこちないながらも、空気はずっと和らいでいた。 「じゃ、また明日」と僕が言うと、彼は「はい」と頷いた後、何かを言いかけるように口を開いた。
一人になった帰り道。 さっきのラブソングのメロディが、頭の中でリフレインしていた。
大和が言いかけた言葉と、彼の照れたような笑顔を思い出す。胸の奥がきゅうっと締め付けられて、苦しいのに、温かい。
ああ、そうか。 僕は、この感情の名前を、もう知っている。この胸の痛みも、熱も、全部。
その自覚は、夕暮れの空みたいにじんわりと、でもどうしようもなく鮮やかに、僕の世界を染め上げていった。
