文化祭まで二週間を切った放課後は久々に、写真部員が全員揃っての部会が開かれた。
 目的は、これまで撮りためてきた写真の選定だ。
 机の上に、たくさんの写真が並べられていく。 大和が撮った生徒の弾けるような笑顔の写真。僕が撮った、少し硬いけど真剣な横顔の写真。三年生の先輩たちが撮った、部活引退の瞬間の泣き顔の写真。
 一枚一枚を眺めながら部員たちが「この笑顔、いいね」「これはエモい」と盛り上がる中、部長の田中先輩は何も言わずに、二枚の写真を指でそっと隣に並べた。 一枚は、僕が撮った、屋上での大和の写真。
 もう一枚は、海で大和が撮った、メガネを外した僕の写真だ。

「成瀬、いい顔してるな。お前が撮ったんだろ」

 静かな声だった。僕はこくりと頷く。

「……逆も然りだ」
「え……?」
「お前、最近いい顔してる。去年とは全然違う顔だ」

 田中先輩は、それだけを残して、「さて、レイアウト決めるか!」と、またいつもの調子に戻っていった。
 その背中をぼんやり見送りながら、僕は言葉の意味をすぐには咀嚼できなかった。

 なんで? 全然違う?
 ――どうしてそんなふうに言われたんだろう。

 田中部長が無造作に並べた二枚の写真。
 一枚は夕日に照らされた大和のまぶしい笑顔。もう一枚は、青空の下に立つ僕の姿――自分でも見たことのない、どこか柔らかい表情をした僕。
 まるで、光と影みたいに並んでいる。

「どうしたんすか?」

 背後から大和の声。思わず写真から目を離せなくなっていた僕は、はっと我に返る。

「……ん、なんでもない」

 そう答えたつもりだったけど、胸の奥がざわざわしているのが隠しきれなかった。
 どうしてだろう。自分の顔なのに、自分のことなのに――見つめるたびに、胸の奥が静かに熱を持つ。
 目の前の写真が、僕の世界を少しずつ塗り替えていく。
 僕の心臓は、理由もなくばくばくと脈打っていた。

「あ、そうだ!」

 しんみりとした空気を吹き飛ばすように、大和が突然大きな声を出した。
 彼は自分のバッグからくしゃくしゃになったノートを取り出す。

「展示、もっと面白くするためにフォトブース作りません? こんな感じで!」

 彼が見せてきたページには、お世辞にも上手いとは言えないけれど、楽しそうなアイデアが詰まったラフスケッチが描かれていた。手作りのフレーム、キラキラのガーランド、来場者が使える面白い小道具。
 今までの写真部の文化祭は、ふらりと人が入ってきてはそっと出ていく、そんな展示だった。けれど、今回の展示は今までにない、展示になる予感がした。

「どうすか? これなら、もっとたくさんの人の『瞬間の顔』が映えると思いません?」
「お、それ面白そうじゃん!」
「確かに、ただ見るだけより参加できた方が楽しいかもな」

 先輩たちが、彼のアイデアに次々と賛同していく。
 楽しそうに計画を語る彼の横顔が、傾き始めた夕日に照らされて、昼間とは違う、少しだけ大人びた色を帯びていた。
 僕の世界にはなかった、騒がしくて、まっすぐで、どうしようもなく眩しい光。
 その光景に、僕はまた、ファインダー越しでもないのに、まぶたの裏に焼き付けてしまっていた。

「じゃあ、このブース作りは成瀬と……あと、瀬川も手先器用だから、二人で担当してくれるか? 買い出しとかもお願いしたいんだけど」

 部長のその一言に、僕は「え」と声を上げる間もなかった。

「よっしゃ! 決まりっすね!」

 大和が今日一番の笑顔でガッツポーズをする。

「やった! じゃあ先輩、買い出し行きましょ! 荷物多くなるから、土曜の方がいいっすよね? 文化祭まであと二週間だし、早めに準備したいし!」

 まるで当然のように予定が決まっていく。

(……いや、放課後でもいい気がするけど……)

 僕が何か言う前に、大和が「じゃあ土曜、駅前で待ち合わせっすね!」と笑っていた。



 部会でそう公式に決定してしまった僕たちの買い出しは、土曜、時間通りに始まった。
 駅前のロータリーは、午前十時だというのに人で賑わっている。
 僕は時計をちらりと見て、改札の脇で落ち着きなくスマホを握った。大和くんと約束した待ち合わせより、早く着いてしまった。
 どこかそわそわと落ち着かない。ふと周囲を見回すと、向こうから手を振りながら駆けてくる背の高い影があった。

「おはようございます、瀬川先輩!」

 いつもの制服姿とはまた違う、洗いざらしの白いTシャツに、すっきりとしたシルエットの黒のスラックス、軽やかなブルーグレーのジャケットを羽織った大和くんが、人並みの向こうに現れた。
 どこかの雑誌からそのまま抜け出してきたみたいな、都会の風景に溶け込む、洗練された雰囲気。
 無造作に流した前髪とシンプルなアクセサリー、足元は白のスニーカー。決して派手じゃないのに、すれ違う人がみんなちらりと振り返るほど――彼はやっぱり、どこか「普通」とは違う眩しさを纏っていた。
 その大和くんが、太陽みたいな笑顔で僕に手を振る。

「早いね」

 そう言うと、大和は首をかしげて笑った。

「だって、先輩と買い物デートですから。遅刻なんてしたら失礼でしょ?」
「デートって」

 思わず僕の声が上がった。

「似たようなものでしょ?」
「全然似てないし」

 冗談めかして大和がウインクまでしてみせるから、僕は視線を落としごまかすように「買い物だからな」と小さくつぶやいた。

「――じゃ、行きましょ!」

 大和は自然に僕の歩調に合わせて歩きだし、商店街の方へとリュックを軽く揺らしながら先導していく。その後ろ姿は、休日の朝の空気によく馴染んで見える。
 ……けれど、やっぱり目立つ。
 すれ違う女子高生たちが「ねえ、あれ成瀬くんじゃない?」とひそひそ声を上げるのが耳に届く。
 この前はあまり人のいない海だったから気づかなかったけれど、街中だと彼の存在感は隠しようもないらしい。
 大和はそんな周囲の視線もどこ吹く風で、振り返って僕に無邪気な笑顔を向けた。

「先輩、何か欲しいものとかあれば、ついでに買っちゃいましょうよ!」

 ――なんだか、当たり前のように隣に立って歩いているのが、少しだけ不思議だった。

「……大和くん、今日みたいな私服だとやっぱりモデルみたいだね」

 思わず出た本音に、大和は一瞬だけ振り返り、にかっと得意げな顔を見せる。

「ほんとっすか? 先輩も黒のジャケット似合ってますよね。この前とは違う雰囲気。うちの制服もブレザーだけど、やっぱちょっと雰囲気が違うっていうか……」

 足を止めて大和が僕の姿を見た。
 僕はちょっとだけ頬が熱くなるのを感じて、慌てて話題を変えた。

「とりあえず、まずは百円ショップだね。リストの一番上、画用紙から」
「ラジャー! 今日はいっぱい運びますよ!」

 駅前の大きな百円ショップは、休日のせいで家族連れや学生でごった返している。
 人混みをかき分けるようにして、僕たちはまず、画用紙のコーナーへと向かった。

「やっぱ、色は暖色系がいいっすよね!キラキラさせたいし!」
「待って。暖色ばかりだと、写真の色が沈んで見える。ベースは寒色系にして、アクセントでゴールドとかシルバーを入れた方が………」
「え、なんで?」
「……被写体の肌の色が、綺麗に映えるから」
「……さっすが先輩!そういうこと、全然わかんなかった!」

 大和は目を丸くして感心している。自分の知識が役に立ったことが、なんだか少しくすぐったかった。
 それから僕たちは、大和が「これ使えそう!」と見つけてきた突飛なアイデアに、僕が「それなら、こっちの素材の方がいい」と現実的な修正を加えるという奇妙な連携プレイで、次々と買い物リストを埋めていった。

 気づけば昼過ぎ。
 両手にたくさんの袋を抱えた僕たちは、駅前の少しレトロな喫茶店の窓際の席に座っていた。

「いやー、ちょっと買いすぎたかもですね」

 レジ袋を膝に置いたまま、大和がテーブルの上のレシートを苦笑いで眺めている。

「君が、これも必要、あれも便利って全部カゴに入れるからだろ」

 僕はアイスコーヒーのグラスをひと口飲んで、ため息混じりにそう返す。
 大和はその言葉に「えへへ」と肩をすくめ、クリームソーダのさくらんぼを爪楊枝でつまみながら、楽しそうに僕の顔を覗き込んだ。

「そういえば、先輩のクラスって文化祭で何やるんすか?」

 唐突な話題転換に、僕は手元のコップを指先で回しながら答える。

「うちのクラス? 地域の歴史を調べて、論文発表。展示も作るけど……まぁ、地味だよ」
「うわ、めちゃ真面目! 俺たちのブース作りとは大違いっすね」

 大和はストローをくるくる回しながら、素直に感心している様子だ。

「大和くんのクラスは?」
「うちはね、メイド&執事の喫茶店っす。男女とも希望で役割決めて。俺、一応執事やらされる予定……」

 そう言うと、大和は手のひらでスッとお辞儀の仕草をしてみせる。

「似合いそう。ていうか、行ったら大和くんに「おかえりなさいませ」って言ってもらえるの?」
「もちろん! 絶対来てくださいね。先輩が来るなら本気出します」

 そう言って、大和はわざと真面目な顔で僕の目を覗き込む。
 その視線がまっすぐすぎて、僕は思わず視線をそらした。

「……ひとりじゃ入りづらいよ」
「じゃあ、一緒に回りましょうよ、文化祭」

 勢いよく身を乗り出して言う大和。
 僕はつい、テーブルの下で指をもぞもぞと組み直す。

「え……そんな、別に……」
「瀬川先輩が俺のこと気にしてくれるの、嬉しいっす」

 そう言うと、彼はクリームソーダのグラスを両手で持ち上げて、また屈託なく笑った。
 ――他愛もない会話と、少しずつ近づく距離。
 学校にいる時とは違う、こんな時間が不思議と心地よかった。
 僕は、ずっと気になっていたことを、思い切って尋ねてみることにした。

「……大和くんは、どうして写真部に入ったの?」

  僕の言葉に、大和はクリームソーダをかき混ぜる手をぴたりと止めた。

「君みたいなタイプは、運動部に入るんだとばかり思ってたから」
「あー……」

 彼は少しだけ視線を泳がせた後、観念したように、ぽつり、ぽつりと話し始めた。

「写真を撮りたいってのもあったんですけど……俺、去年、中三の時にここの文化祭に来たんすよ。学校見学も兼ねて。で、たまたま写真部の展示室に入って」

 その時のことを思い出すように、彼は少しだけ遠い目をした。

「別に、全然期待してなかったんすけど……一枚だけ、なんか、すげー惹きつけられる写真があって」
「……写真?」
「はい。誰もいない放課後の音楽室の写真。西日で、ピアノの鍵盤がキラキラ光ってて……すげー静かなのに、めちゃくちゃ色んなこと言ってる気がして……なんか、感動しちゃったんすよね」

 その写真は、僕が撮ったものだった。去年、なんとなく提出した一枚だ。

「それで、写真の横にあった名前見たら、『一年 瀬川暁人』って書いてあって。だから、この高校受かったら、絶対写真部入って、この人に会おうって決めてたんです」

 心臓が、大きく音を立てて跳ねた。
 僕が?
 僕の写真が?
 目の前にいる、この太陽みたいな男の子の心を、動かした?

 ――現実感がなかった。
 去年、たった一枚だけ提出したあの写真。誰にも注目されずに展示の隅に貼られて、ほとんどの人は素通りしていったはずの一枚。
 それを、大和くんは覚えていた。
 音楽室の西日、静かなピアノ。
 その時の空気や音や、自分の小さなこだわりまで、ちゃんと受け取ってもらえていたことが、なんだか信じられなかった。
 思考がぐるぐる空回りする中で、顔がどんどん熱くなっていくのがわかった。
 こんな風に、誰かに認められたのは初めてだった。
 それも、大和くんみたいな、世界の真ん中で光っている人に。
 ――僕の写真が、彼をここに連れてきた。

 実感がじわじわと胸に広がっていく。

「じゃあ、今日はありがとうございました! 来週、早速作り始めましょうね!」
「うん。おつかれ」

 僕がそう言って背を向けようとした時、大和が「あ、先輩」と僕を呼び止めた。

「今日の先輩、いつもよりよく笑ってましたよ」

 不意打ちだった。 え、と振り返った時には、彼はもう「じゃ、また!」と手を振って、人混みの中に消えていくところだった。
 一人になったホームで、僕はさっきの彼の言葉を反芻する。
 僕に会うために、彼は写真部に来た。
 その事実と、両手に抱えた買い物袋の重さ。
 そして、胸の中に生まれたたくさんの名前のつけられない熱い感情。
 そのすべてを抱えて、僕はしばらく、その場から動けずにいた。