それからも僕たちは文化祭に向けて昼休みや放課後、たくさんの写真を撮った。
 大和の提案で運動部の練習風景や、吹奏楽部の演奏に打ち込む真剣な横顔、図書室で静かに本を読む女子生徒。校内のあらゆる「瞬間の顔」を、二人で切り取っていった。 僕が人を撮る恐怖心は、彼の隣にいることで、少しずつ薄れていった気がする。
 そんなある日の放課後。

「ねぇ、先輩。今度の休日、写真撮りに行きませんか?」
「え、どこに?」
「海!」

 そんな大和の提案で、僕たちは夏の終わりに出かけることになった。

 その日の夜、スマホが短く震えた。
 大和からのLINEだった。

『明日、楽しみっすね! 服装、動きやすいやつで大丈夫なんで!』

 僕は「うん、わかった」とだけ返信した。すると、すぐにまた通知が鳴る。

『先輩って、普段どんな服着るんですか?』

 何気ない質問に、指が止まった。

 ――僕のクローゼットの中身なんて、黒かグレーか白か。
 色のない世界だ。
 それを「普通だよ。黒とか」とだけ返すと、

『へー! なんか見てみたいかも。じゃあ、また明日!』

 と、明るいスタンプが返ってきた。
 会話はあっさり終わったけど、しばらくスマホの画面を見つめたまま動けなかった。

 ……モデルの成瀬くんと出かけるのに、「普通」で本当に大丈夫か?
 いや、全然大丈夫じゃない気がする。
 今さらそんなことに気づいて、クローゼットの扉の前で固まってしまった。

 明日、何着て行けばいいんだ――。

 翌日。
 結局、僕のクローゼットから導き出された最適解はいつもと同じ、黒いTシャツにグレーのパーカー、細身のパンツだった。
 約束の時間より十分も早く駅に着いてしまった僕は、改札前の柱に寄りかかり、行き交う人々をぼんやりと眺める。
 ……僕の「普通」は、彼の目にはどう映るんだろう。

「せーんーぱーい!」

 不意に、人混みの中から突き抜けるような声がした。
 見ると、少し離れたところから、大和が大きく手を振りながら小走りでこちらへ向かってくるところだった。
 褪せた色のジーンズに、白いロゴTシャツ。その上に緩く羽織ったパーカー。彼が着ると、ただのカジュアルな服装も、なんだか特別なものに見えるから不思議だ。

「結構待ちました?」
「いや、今来たとこ」

 嘘だ。本当は十分も前から、ここで落ち着かずにそわそわしていた。

「先輩、私服だと雰囲気違いますね。なんか、大人っぽいっていうか」
「……そう?」
「はい。つーか、そのパーカー、俺が好きなブランドのやつじゃないすか。マジか、趣味合うかも」

 屈託なく笑う大和に、昨日からずっと胸につかえていた小さな不安が、ふっと溶けていくのを感じた。
 電車を降りて、シーズンの終わった砂浜にたどり着くと、ただ寄せては返す波の音だけが響いている。
 大和は駅から砂浜に降り立つなり、迷いなくスニーカーを脱いで裸足になり、「うわ、冷た!」と無邪気に叫んだ。
 次の瞬間、誰に遠慮することもなく一直線に波打ち際へと駆けていく。

 ――なんだろう、彼の持つ眩しさは。

 遠くから、僕はその背中をファインダー越しに追いかける。
 子どもみたいに自由で、光の粒を全身で浴びて――その輪郭ごと世界がきらきらと滲んでいく。
 気づけば、僕はただ夢中でシャッターを切っていた。

「瀬川先輩! 気持ちいいっすよ! こっち来てください!」

 砂浜の上で振り返った大和が、濡れた手を大きく振っている。
 その声に思わず笑ってしまいそうになった。
 僕は頷いて、砂に足を取られながら彼のもとへ歩いていった。

「先輩ばっか撮ってないで、俺にも撮らせてくださいよ。せっかく海に来た記念じゃないすか」

 不意に、彼が持っていたカメラを掲げてレンズをまっすぐにこちらへ向けた。
 心臓が、どきりと跳ねる。
 僕がずっと避けてきた、被写体になるという行為。

「……僕はいい。大和くんは海でも撮ってれば」
「だめです。今の俺のテーマは『休日の先輩の顔』なんで!」

 有無を言わさぬ、彼のまっすぐな瞳。
 僕は抵抗を諦め、潮風に吹かれながら、こわばった表情のまま固まった。大和はファインダーを覗き込み、何度かシャッターを切った後、少しだけ考え込むように首を傾げた。

「……あ、そうだ。先輩、ちょっとだけメガネ外してみてくれません?」

 無邪気な、悪意のない残酷な一言だった。
 僕にとって、メガネはただの視力矯正器具じゃない。他人との間に引いた、心の境界線そのものだったから。

「え……なんで」
「いや、先輩、ちゃんと見てみたいんです。素顔。たぶん、すげー綺麗だと思うから」

 一瞬、冗談かと思った。けど大和の声は本気で。
 ――やめてくれ。僕は、自分の顔が、目が、嫌いだ。
 レンズ越しなら、どんなものもごまかせる。でも、素のままじゃ、すぐにバレる。

(……それでも、拒絶できなかった)

 震える手で、メガネを外す。
 霞む世界の中、大和の瞳だけが、やけに真っ直ぐだった。

 カシャッ。

 砕ける波の音に混じって、シャッター音がやけにクリアに響いた。
 自分の素顔をこの開放的な場所で、彼に撮られてしまった。その事実に、全身の血が逆流するような感覚に陥る。
 僕は反射的に顔を伏せた。

「…………ほら、やっぱり」

 大和が息を飲むような、小さな声で呟いた。

「すげー、いい顔してるじゃないですか」

 カメラの液晶画面を見ながら大和が笑った。
 その言葉に、僕は顔を上げられない。耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかった。
 彼は僕が一番見られたくない顔を、一番嫌いな僕の素顔を、たった一言で肯定してしまったのだ。

「……消して」
「え?」
「そのデータ、今すぐ消して」
「ダメです。これ、俺の宝物なんで」

 大和はカメラを大切そうに胸に抱え、悪戯が成功した子どものように笑った。
 太陽みたいに眩しいその顔に、心臓がめちゃくちゃにかき乱される。

「プリントしたら渡しますよ」
「……いや、いらない」
「俺の撮った写真、先輩にも絶対見てほしいんですけど」

 少し口を尖らせて、拗ねたように言う。
 僕は何も言い返せず、ただ黙り込む。

 その沈黙を了承と受け取ったのか、大和はまた明るく笑った。

「じゃあ、休み明けにプリントして持っていきますね。楽しみにしといてください!」

 やっぱり、大和は押しが強い。
 僕は結局、小さく頷くことしかできなかった。



 月曜日の午前中、僕は最悪の気分だった。
 授業の内容なんて、右から左へ通り抜けていくだけ。僕の意識はただ一点、昼休みに成瀬大和が持ってくるであろう、一枚の写真に集中していた。  どんな顔をして渡してくるのか。クラスの他の奴らがいる前で渡されたらどうしよう。
 考えれば考えるほど、心臓が小さく縮こまっていく気がした。
 そして、無情にも昼休みを告げるチャイムが鳴り響く。
 僕は弁当を広げる気にもなれず、ただ机の上で指を組んで教室のドアが開くたびに心臓を跳ねさせていた。

「瀬川先輩、おつかれさまです」

 不意に、すぐそばから声がした。
 顔を上げると、いつの間に来たのか、大和が僕の机の横に立っていた。いつもより少しだけ、落ち着いたトーンの声だった。
 彼は周りの視線を気にするように、少しだけ屈んで、小さな写真用の封筒を、そっと僕の机の上に滑らせた。

「これ、約束の」

 小声でそう言う彼の視線の先にある、真っ白な封筒。
 僕はごくりと唾を飲み込んだ。すぐにはそれに手を伸ばせず、ただ「……ありがとう」とだけ呟いて自分の教科書の中に、隠すようにそっと差し込んだ。

「……やっぱ、いらない?」

 少しだけ、寂しそうな声だった。
 彼のそんな表情を初めて見て僕は驚いて顔を上げる。
 いつも自信に満ちた太陽みたいな彼が、まるで捨てられた子犬のような顔をしていた。

「……ここで見るのは、ちょっと」

 僕がそう言うと、彼はぱっと顔を輝かせた。

「じゃあ、ちょっとだけ外行きません? 屋上、また鍵借りてきたんすけど」

 二人きりの屋上。
 突き抜けるような青空の下で、僕は意を決して、教科書から封筒を取り出した。
 中から出てきた写真に写っていたのは、僕が知らない僕だった。
 夏の終わりの強い日差しを浴びて、潮風に髪が揺れている。向けられたレンズに少し戸惑いながらもどこか力の抜けた柔らかい表情。
 僕が一番嫌っていた無防備な顔。

「これが、僕……?」
「……はい」

 自分の知らない顔を、彼だけが知っている。
 その事実が、胸の奥からどうしようもない羞恥心を引っ張り出してきて、顔がじわりと熱くなる。

「俺、この時の先輩の顔、すげーいいなって思ったんです」

 大和は、言葉を選ぶみたいに、ぽつぽつと続ける。

「いつものクールな先輩もカッコいいんですけど……この、無防備な感じ。俺だけが見つけたみたいで。……あ、なんか、気持ち悪いこと言ってますね、俺」

 照れ隠しのように、バツが悪そうに頭を掻く。
 気持ち悪いなんて、全然思えない。
 僕がずっと隠してきた弱さを、彼はためらいなく「好きだ」って言ってくれた。

「……気持ち悪くなんかない」

 僕は、俯いたまま呟いた。

「ただ……恥ずかしい、だけ」

 自分の写真、子供の頃撮られただけで自分が被写体になることなんか考えてなかったから。
 顔を上げて彼の目をまっすぐに見る。心臓は、今にも張り裂けそうだった。
 大和は僕の反応を少しだけ楽しむように笑っていた。

「……ありがとう。この写真、もらう」

 それは僕にとって、人生で一番の勇気を出した言葉だったかもしれない。
 僕の言葉を聞いて大和は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、本当に、心の底から嬉しそうにへにゃりと笑った。

「……はい!」

 その笑顔を見て、僕もつられて少しだけ口元が緩んだ気がした。

「放課後も、準備室で待ってますね」

 穏やかにそう言って笑う彼に、僕はただ黙って頷くことしかできなかった。
 教室に戻り、誰にも見られないようにそっと写真を生徒手帳にしまう。
 写真に写る自分と、それを「宝物だ」と言ってくれた彼のことを思うと、胸の高鳴りは一向に収まらず午後の授業の内容などもうまったく頭に入ってきそうになかった。