文化祭。
 その単語が持つ独特の熱量に僕はいつも少しだけ気圧される。
 廊下をすれ違う誰もが浮き足立って、教室の空気は普段より二度くらい高い。そんな狂騒の季節が、今年もやってきた。

「えー、じゃあ文化祭の展示について、だけど……」

 僕、瀬川暁人は放課後の写真部の部室にいた。
 西日が差し込む窓際で、部長の田中先輩がゆるく議題を切り出す。
 部員は僕を含めて六人。
 うち三人は三年生で、同学年のもう一人はほぼ幽霊部員。
 だから今年の文化祭は二年生の僕と、今年入部してきた一年生が中心になって動くことになる。

「例年通り、各自で撮った自信作をA4で展示、って感じかな?」

 波風を立てず、これまで通り。それが僕にとっての最適解のはずだった。
 僕は小さく頷く。
 僕の撮る写真はいつも誰もいない風景か、道端に咲く花か、雨上がりの水たまりかーーそこに人はいない。
 人の表情を撮るのはどうしようもなく苦手だった。だから今年も変わり映えのしない風景写真を一枚、隅っこに貼っておけばいい。
 そう思っていた。
 僕以外の全員がその空気感に同意しかけたその時だった。

「あの、ちょっといいすか!」

 快活な声が、気だるい午後の空気を真っ二つに切り裂いた。
 声の主は、成瀬大和。
 入学当初から、彼の存在はちょっとした話題になっていた。「今年の新入生にモデルがいるらしい」という噂は、上級生の僕の耳にも自然と届いていた。
 実際、彼はモデル事務所に所属していて、有名な雑誌の紙面にも時々載っているらしい。
 背が高くてスタイルも良く、中学時代は陸上部で短距離のエースだったとか。
 新学期早々、運動部のあらゆる勧誘を断って、この静かな写真部にひょっこり顔を出した時――部内の空気が一瞬ざわめいたのを今でも覚えている。
 そんな学校の有名人が、こともなげに言い放つ。

「それじゃ、つまんないっすよ!」
「え? つまらないって……」

 部長が戸惑いの声を上げる。僕も、心の中で「冗談だろ」と呟いた。
 この部の伝統は無干渉。
 その穏やかな空気が僕にとっては唯一の救いだったのにーー。

「だって、ただ写真を並べるだけじゃ誰も見てくれないじゃないすか。俺、人の顔が撮りたいです! 笑った顔とか、何かにマジになってる顔とか、そういう『今しか撮れない顔』ってあるじゃないすか!」

 身振りを交えて熱弁する成瀬に、僕以外の全員がぽかんと口を開けていた。
 人の顔。それは僕が最も避けてきた被写体だ。
 ファインダー越しに誰かと向き合うなんて、息が詰まりそうで考えただけでも無理だった。

「だから、今年のテーマは瞬間の顔! これどうすか!? 校内の色んな奴らの不意打ちの笑顔とか撮って並べたら、絶対面白いって!」
「……いいじゃん、それ」

 最初に反応したのは、意外にも部長だった。
 その一言で、部室の空気は一気に成瀬の色に染め上げられていく。
 嘘だろ。僕の平穏な文化祭が、目の前で音を立てて崩れていく。

「じゃあ、撮影はペア組んで回るのが効率的だよな」
「はい! じゃあ、俺、瀬川先輩と組みたいです!」

 え、と声にならない声が出た。
 なんで僕なんだ。
 勢いよくこちらを指さす成瀬とばっちり目が合ってしまう。
 彼の瞳は悪戯っぽく、それでいて有無を言わさぬ強さでまっすぐに僕を射抜いていた。

「え、と……」
 
 断り文句は、喉まで出かかった。けれど、成瀬のまっすぐな目が、まるで僕を射抜くようだった。

「瀬川も、それでいいよな?」

 部長の言葉に、誰もが僕を見た。
 逃げ道はなかった。

「……はい」

 僕の返事は、ため息みたいに小さかった。

「やった! 決まりっすね!」

 パチンと大和が指を鳴らす。
 その音が、僕の敗北を告げるゴングのように部室に響いた。
 こうして、僕の平穏だったはずの文化祭準備は最悪の形で幕を開けたのだ。

 部会が終わり、三年生の先輩たちが「じゃ、あとはよろしくなー」と軽い足取りで帰っていく。
 僕も鞄を手に、逃げるように部室を出ようとした。

「瀬川先輩!」

 背後からかけられた声に、心臓が跳ねる。
 振り返るとそこには案の定、人懐っこい犬のような笑顔を浮かべた成瀬大和がいた。

「よろしくお願いします! 絶対、いい展示にしましょうね!」
「……うん」

 よろしくなんか、ない。
 心の声は、もちろん口には出せない。
 僕はただ、曖昧に頷く。

「あの、成瀬くん。何度も言うけど、僕は本当に人を撮るのは得意じゃないんだ……だから、たぶん足手まといになると思う」

 せめてもの抵抗として事実を伝える。
 これで少しでもやる気を削いでくれれば、と思ったのだが。

「成瀬くんなんて他人行儀すぎる! 大和でいいっすよ、俺のことは」

 彼は気にした様子もなく、距離をぐっと詰めてくる。

「それに、足手まといなんてことないですって! この前の写真見ましたけど先輩の技術、俺より全然上だし。構図とか、光の捉え方とか、マジですげーなって思ってたんすよ」
「え……」
「だから、俺がモデル見つけてきて最高の笑顔を引き出すんで、先輩は最高のタイミングでシャッターを押すだけ。これって最強のコンビじゃないすか?」

 にっと笑う顔に、嘘や社交辞令は微塵も感じられなかった。
 ただ、まっすぐに僕の写真を評価して、その上で「一緒にやりたい」と言っている。
 その事実が、僕の心の壁を、ほんの少しだけ削った。

「……わかった。やってみるよ」
「マジ! よかった!」

 僕の小さな承諾に、大和は心の底から嬉しそうな顔をした。そして、待ってましたとばかりにスマホを取り出す。

「じゃあ、さっそく明日から撮り始めましょうよ! まずは手始めに、昼休みに校内の部活とか回ってみません?」
「え、明日から……?」
「善は急げって言うじゃないすか! あ、そうだ、LINE交換しときましょ! 連絡とかしたいんで!」

 畳みかけるような提案に、僕が「えっと」と戸惑っている隙に僕のスマホは彼の手によって軽々と操作され、LINEのQRコードが表示されていた。その手際の良さに、陽キャという生き物の生態を垣間見た気がした。
 ピロンとすぐに通知が鳴る。
 スマホの画面には『大和です!よろしく!』という、元気な犬のスタンプが表示されていた。

「じゃ、また明日!昼休みに教室まで迎えに行きますね!」

 嵐のように一方的な約束を取り付けて、大和は「おつかれっしたー!」と手を振りながら部室を去っていった。
 一人残された静寂の戻った部室で、僕はため息をつく。

「瞬間の顔か……」

 僕が撮りたいのは、そんな騒がしいものじゃない。
 誰もいない放課後の校庭や窓ガラスを滑る雨粒のような、静かで名前のない風景のはずだった。
 それなのに。けれど、彼のあのまっすぐな瞳を思い出して、胸の奥が少しだけざわついていた。



 翌日、金曜日の昼休み。
 僕は自分の席で、売店で買ってきたサンドイッチを黙々と口に運んでいた。
 教室は賑やかなグループがいくつか出来上がっていて、楽しそうな笑い声がBGMのように響いている。僕はその輪に加わることもなく、ただ窓の外を眺めていた。

(……本当に、来るんだろうか)

 昨日の放課後、嵐のように去っていった後輩の顔を思い出す。
 「昼休みに迎えに行きますね!」なんて、一方的に言っていたけれど。社交辞令か、あるいはただの勢いだったのかもしれない。
 来てほしくないという気持ちが九割。
 でも、もし本当に来なかったらそれはそれで……ほんの少しだけ、胸のあたりがもやもやする。
 そんな矛盾したことを考えていた、その時だった。
 ガラッ、と教室の後ろのドアが勢いよく開いた。

「瀬川せーんぱい! お迎えに来ましたよー!」

 クラス中の視線が、槍のように僕に突き刺さる。
 その中心で、成瀬大和は太陽みたいな笑顔を浮かべて、僕に向かって大きく手を振っていた。

 嘘だろ。なんでこんな、クラス全員に聞こえるような大声で……。

「え、瀬川って成瀬君と知り合いなの?」
「なんで? 罰ゲームとか?」

 隣の席の女子たちが、ひそひそと話しているのが聞こえる。
 やめてくれ。
 僕の平穏な高校生活にこれ以上の波風を立てないでほしい。

「先輩? 聞いてます?」
「……っ、聞いてる」

 いつの間にか僕の机の真横まで来て、顔を覗き込んでくる大和。
 距離が近い。
 整った顔が間近にあって、心臓が変な音を立てた。

「早く行きましょ! いい笑顔、撮り放題っすよ!」
「ちょ、ちょっと待って……! まだ食べ終わってない……」

 僕の抵抗も虚しく大和は「じゃあこれ持って! 歩きながら食えますって!」と、僕の手に残りのサンドイッチを握らせるとカメラバッグをひょいと肩にかけた。
 その強引さに、僕はもうため息しか出ない。
 半ば引きずられるようにして教室を出ると、大和は早速、廊下で談笑していた自分のクラスの友達に声をかけた。

「よっ! お前ら、ちょっとモデルになって!」
「え、何?」
「文化祭の出し物でさ、写真撮ってんの」
「何? 大和、写真部だったの?」

 大和の手にしたカメラを見ながら友人たちが口々に言う。

「そーそー。文化祭で使うからさ、最高の笑顔でよろしく!」

 大和が軽口を叩きながら輪の中心に入っていくと、そこにはあっという間に楽しそうな空気が生まれる。
 僕は少し離れた場所から、言われるがままカメラを構えた。
 望遠レンズに付け替え、ファインダーを覗き込む。

 カシャッ。カシャッ。

 シャッター音が、やけにクリアに聞こえた。
 うるさいな、と思っていた。
 騒がしいな、と線を引いていた。
 でも、ファインダー越しに切り取られた一瞬は、不思議と嫌いじゃなかった。
 レンズを通すと大げさな身振りや大声が消えて、純粋な「表情」だけが残る。友達とじゃれ合う屈託のない笑顔。ふとした瞬間に見せる、少し大人びた横顔。
 そして、その中心で笑う、成瀬大和。
 彼はまるで光そのものみたいだった。
 彼がいるだけで、その場の空気が明るく色鮮やかになる。その光景に、僕は知らず知らずのうちに何度もシャッターを切っていた。

「瀬川先輩! ちゃんと撮れてますー?」
「……たぶん」

 遠くから手を振る彼に僕はそっけなく答えながらも、カメラを持つ手に少しだけ力がこもる。

「じゃ、次行きますよ! 次は運動部っすね! グラウンド行きましょ!」

 そう言って笑う彼の顔もファインダー越しに見ると、これまで撮ってきたどんな風景よりも鮮やかで綺麗だなんて思ってしまった。
 昼休みが終わるチャイムが鳴り響くまで、僕は彼のペースに巻き込まれながら、ただ、シャッターを切り続けた。



 昼休みが終わった後も、僕の頭の中ではシャッター音が鳴り止まなかった。
 授業中、ノートに書き写す数式の合間にファインダー越しに見た彼の笑顔がちらついて、僕は何度かシャーペンの芯を折った。
 そして放課後。
 僕は一人、写真部の部室でカメラのメンテナンスをしていた。
 昼休みに撮ったデータを液晶画面で確認する。
 再生ボタンを押す指が、成瀬大和の写真でぴたりと止まる。
 友達に囲まれて笑う顔、遠くを見つめるふとした横顔。そのどれもが、僕の撮ってきた風景写真にはない、強い生命力に満ちていた。

「おつかれさまです、瀬川先輩!」

 背後から聞こえた声に僕はびくりと肩を揺らし、慌ててカメラの電源を切った。

「……おつかれ」
「うわ、もう準備してるんすね! さすが!」

 大和は自分のバッグを無造雑作に床に置くと、僕の隣に腰を下ろした。
 彼の登場で、静かだった部室の空気がまた鮮やかに色づき始める。

「放課後はどこ撮りに行きます? 俺、どこでも付き合いますよ」
「……どこでも、って言われても」
「じゃあ、屋上とかどうすか? もうあんま人いないだろうし、夕日が絶対エモいって!」

 彼の言う「エモい」がどういうものか、僕にはよくわからない。だけど彼の勢いに逆らうという選択肢は、もう僕の中には存在しなかった。
 古い鍵を管理室で借りて錆びたドアを開けると、生ぬるい風が僕たちの頬を撫でた。
 金網のフェンスの向こうには、オレンジ色に染まり始めた空とミニチュアみたいな街並みが広がっている。
 僕はカメラを構え、いつものようにその風景をファインダーに収めようとした。

「先輩。せっかくだから、俺も撮ってくださいよ。夕日をバックに」

 大和はそう言うと、フェンスに軽く寄りかかり、遠くを見つめた。ポーズをとるわけでもなく、ただ、そこにいる。 僕は言われるがまま、彼にレンズを向けた。
 ファインダー越しに捉えた彼は、僕の知らない生き物みたいだった。
 風に遊ばれる、色素の薄い髪。
 通った鼻筋に、すっきりとした顎のライン。夕日のオレンジ色の光が、その顔の造形をくっきりと浮かび上がらせる。 他の誰かが着ると野暮ったく見える制服も、背が高くしなやかな彼が纏うと、それだけで様になっていた。
 雑誌の表紙を飾るべき顔だ。埃っぽい部室にあるべき顔じゃない。
 それにモデル……ああ、女子たちが噂するわけだ。僕とは住む世界の違う、眩しい場所にいる人間。
 なのになんで。なんで、こんな人が写真部に?
 その答えが見つからないまま、僕はただ、彼の存在感に圧倒されて、息を詰めてシャッターを切った。

 カシャッ。

 シャッターを切った瞬間、彼がふとこちらを向いた。

「先輩、俺のこと撮るの緊張してる?」
「……ちょっとだけ」
「やっぱり? なんか動きがぎこちないなって……俺がモデルやってるって知ってるから構えちゃう感じ?」

 大和の言葉に僕は小さく頷いた。

「でも、こういう自然なとこでカメラ向けられるの、けっこう新鮮なんすよ」
「……新鮮?」
「うん。仕事だと作った顔しか撮られないからさ。本当はもっと何でもない瞬間を残したいって、ずっと思ってたんすよね」
 僕は思わず彼の横顔を見つめる。
 いつもはあんなに屈託なく笑っているのに、今はどこか遠くを見ていた。
「それで、写真部……?」
「そう。自分が撮る側なら、どんな瞬間も閉じ込められるでしょ? ――でも、先輩といると、逆に自分もその中に入りたくなるっていうか。ちょっと、ズルいっすよね」

 大和は照れ隠しみたいに笑って、カメラを自分の方に向けた。

「先輩、今日は一枚だけ俺の素の写真、撮ってくれません? ポーズとかじゃなくて、俺で」
「……うん」

 シャッターを切ると、大和は目を細めて、静かに「ありがとうございます」と呟いた。

「先輩は、なんで今まで人を撮らなかったんですか?」
 その質問は、あまりにもまっすぐで僕は息を飲んだ。
 心臓の、一番柔らかい場所を指で突かれたような気がした。
「……怖い、から」
 やっとのことで絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「表情とか、感情とか……こっちが勝手に切り取って、一枚の写真に閉じ込めていいものじゃない気がして。僕には、その責任が取れない」
 それは、ずっと僕の中にあった本音だった。
 大和は黙ってそれを聞いていた。馬鹿にされるか、あるいはよくわからないと一蹴されるか。どちらにしても、気まずい沈黙が流れるだけだと思っていた。
「そっか……」
 彼は少しだけ考え込むように視線を落とした後、顔を上げて僕の目をまっすぐに見た。
「でも俺は、撮ってもらえたら嬉しいけどな。先輩の綺麗な写真の中に、俺がいたら、すげー嬉しい」
「……え」
「先輩に撮ってもらえてるって思ったら、なんか、自分が特別な人間になれた気がすると思う」
 特別な、人間。
 その言葉が、僕の心の壁をいとも簡単に溶かしていく。僕がずっと恐れていたことが、彼にとっては嬉しいことだなんて。
 同じ写真部ではあったけれど、いままであまり話をした事もなかった彼の意外な一面を知った気がした。