律が病院から出る時には、外は土砂降りだった。バスに乗るわずかな時間でもびしょ濡れだ。しかも、バスは満員。湿気も酷くて不快指数マックスだった。
「担任に大声で言われるし、変なSNS見ちゃうし、挙句の果てに土砂降り。今日は最悪だな」
姉がバイトをしているファミレスに寄って夕飯を食べようと思っていたが、気持ちが萎えた。バスを降りたら、即ずぶ濡れなのは目に見えている。同じ濡れるなら家に帰った方がいい。
渋滞でバスが何度もブレーキを踏むせいで体が揺れ、人に触れるのが嫌だった。早く降りたいのに道路が冠水していたり、故障して動かなくなった車があったりで、なかなか進まない。
バスは通常の倍以上の時間をかけて停留所に着いた。雨はまだ本降り。辟易しながらなんとか降車したものの、あっという間に全身ずぶ濡れになった。
不快感に顔を顰めながら、急流のようになっている道路を急ぎ足で進む。
「?」
もうすぐで家だ、というところで玄関前に立ち尽くす人影に気付いた。長身の者だ。少し首を傾けて、見える方の左目で見ながら駆け寄る。
「迅?」
人にはオカンみたいに言っていたくせに、自分は傘も差さずになにをしているのだろう。
「どうしたんだよ、迅?」
腕を伸ばして傘を差しかけた。
「迅?」
迅は微動だにしない。明らかに様子がおかしい。顔を覗き込むと、その表情に思わず息を飲んだ。雨に濡れただけでなく、泣き崩れ、噛みしめたらしい唇から血が流れている。
「悪かった」
「え?」
「許してくれ、なんて言わない。そんなこと言えない。本当に悪かった」
そう言った迅が突然、座り込んだと思うと額を道路に擦りつけた。
「なっ! なにやってんだ、迅! 立て! 立てよっ!」
土砂降りの中、川のようになった道路に頭をビタリと付けた迅の体は岩のように動かない。
「あの日、部室で寝ていた俺が、寝惚けて腕振り上げたから……。俺の手が律の目に当たったんだ。俺のせいで……、俺が、俺が……、律から視力とバスケを奪ったんだ」
「なんで、それを……」
「本当に、本当に申し訳ありませんでした」
「あの! 止めろって、迅。頭上げろ! 違う、違うから。ほら、立って! 家に入れ!」
雨の中、全力で迅の腕を掴むと必死に引っ張って無理矢理立たせた。雨に濡れた迅の体は異常に重く、なかなか動かない。なんとか家に引き摺り込むと、大急ぎで脱衣所へ駆け込んだ。
「ブレザー脱げ! タオル持って行くから!」
思ったところにタオルが無くて、苛々しながら洗濯機の蓋を開けた。乾燥が終わった物を全部引っ張り出し、バスタオルを数枚掴むと玄関に駆け戻る。
「迅?」
玄関には誰も居なかった。靴も履かずに外へ駆け出したが、土砂降りの雨しか見えなかった。
「迅!」
大声を上げたが、返事はない。
「迅、迅! 迅!」
何度叫んでも声は雷と雨に掻き消されてしまう。
慌てて家に戻ってスマホで掴んだ。電話をかけてみる。
繋がらない。
メッセージを送る。
しかし、いくら待っても既読にならない。
メールも連続で送ったが返事はなかった。
「迅っ!」
何度も何度も電話をしたが、深夜になっても迅とは連絡が付かなかった。
ゴールデンウィークは最悪だった。
姉は泣きながら謝り続けるし、迅は音信不通。何度も家まで行ったが会えず、それどころか迅の母にまで土下座されてしまって、こっちまで涙が溢れてきた。一生償うとか、治療費や賠償金の話まで出てきて「そうじゃない!」と叫びながら家に戻ってきた。
「違うのに……」
部屋に閉じこもり、枕に顔を押し付けて泣いた。
いくら「違う!」と繰り返しても、その声は迅に届かない。
「違う、違うんだって!」
そう。違うのだ。
あの日――、中三の引退日。
部室も最後という日、律は迅と共に部室で思い出話に話を咲かせた。狭いし、汗臭い部室だったが、名残惜しくて無駄に長く過ごしていた。
「迅……、あれ? 寝たのか」
部室の真ん中にあるベンチで迅が仰向けになって寝ていた。ベンチから長い手足が完全にはみ出していて、なんとも笑えてしまった。
起こさないよう、そっと近付いて寝顔を見た。
小学生の時は小さくて、引っ込み思案で、居るのか居ないのか分からないくらい存在感が薄かった。しかし、いつの間にか身長を越され、体格も驚くくらい大きくなり、バスケでも居なくてはならない存在になった迅。
確実にボールを拾ってくれる「ゴール下の守護神」のお陰で、律のチームは勝利し続けられた。全国制覇は持ち越しになったけれど、まだまだ練習を重ねて二人で勝ち進んでいきたい。
「高校でも一緒にやろうな」
呟きながら傍にしゃがみこんだ。顔がよく見える。常に冷静沈着でほとんど喜怒哀楽を表さない迅の無防備な寝顔は貴重だ。覗き込んでいるうちに、ふと、この安心しきった顔を独り占めしたい、と思った。
「迅」
そこからは無意識だった。
スゥスゥと寝息を立てている迅に向かって、律はそっと顔を近付けた。
目指していたのは唇――。
そっと、軽く触れるだけのキス――。
迅にさえ知られないよう、秘密の触れ合いを求めて距離をゼロに近付けていった。
「ッ!」
そんなときだった。
バンッ! と衝撃を受けた。
寝ていた迅が、まるでシュートを打つように腕を振り上げたのだ。
激痛が走り、思わず仰け反って右目を抑えた。
「……ッ!」
指の間からなにかが溢れた。
マズイ――。
直感でそう思った。慌ててタオルで右目を覆った。左目に見えたのは血に濡れた手だ。
律はそのまま独りで静かに部室を後にした。
キスをしようとしていたなんて言える訳がない。
夢の中でまでバスケをしている迅に、邪な気持ちで迫っていたなんて恥ずかしくて堪らなかった。だから、迅には会わなかったし、本当のことを言えなかった。
「オレがあんなことをしたから……。オレがキスなんてしなければ……」
迅に酷いことをしたのはオレの方――。
迅が土下座する必要なんて一ミリもないのだ。
「担任に大声で言われるし、変なSNS見ちゃうし、挙句の果てに土砂降り。今日は最悪だな」
姉がバイトをしているファミレスに寄って夕飯を食べようと思っていたが、気持ちが萎えた。バスを降りたら、即ずぶ濡れなのは目に見えている。同じ濡れるなら家に帰った方がいい。
渋滞でバスが何度もブレーキを踏むせいで体が揺れ、人に触れるのが嫌だった。早く降りたいのに道路が冠水していたり、故障して動かなくなった車があったりで、なかなか進まない。
バスは通常の倍以上の時間をかけて停留所に着いた。雨はまだ本降り。辟易しながらなんとか降車したものの、あっという間に全身ずぶ濡れになった。
不快感に顔を顰めながら、急流のようになっている道路を急ぎ足で進む。
「?」
もうすぐで家だ、というところで玄関前に立ち尽くす人影に気付いた。長身の者だ。少し首を傾けて、見える方の左目で見ながら駆け寄る。
「迅?」
人にはオカンみたいに言っていたくせに、自分は傘も差さずになにをしているのだろう。
「どうしたんだよ、迅?」
腕を伸ばして傘を差しかけた。
「迅?」
迅は微動だにしない。明らかに様子がおかしい。顔を覗き込むと、その表情に思わず息を飲んだ。雨に濡れただけでなく、泣き崩れ、噛みしめたらしい唇から血が流れている。
「悪かった」
「え?」
「許してくれ、なんて言わない。そんなこと言えない。本当に悪かった」
そう言った迅が突然、座り込んだと思うと額を道路に擦りつけた。
「なっ! なにやってんだ、迅! 立て! 立てよっ!」
土砂降りの中、川のようになった道路に頭をビタリと付けた迅の体は岩のように動かない。
「あの日、部室で寝ていた俺が、寝惚けて腕振り上げたから……。俺の手が律の目に当たったんだ。俺のせいで……、俺が、俺が……、律から視力とバスケを奪ったんだ」
「なんで、それを……」
「本当に、本当に申し訳ありませんでした」
「あの! 止めろって、迅。頭上げろ! 違う、違うから。ほら、立って! 家に入れ!」
雨の中、全力で迅の腕を掴むと必死に引っ張って無理矢理立たせた。雨に濡れた迅の体は異常に重く、なかなか動かない。なんとか家に引き摺り込むと、大急ぎで脱衣所へ駆け込んだ。
「ブレザー脱げ! タオル持って行くから!」
思ったところにタオルが無くて、苛々しながら洗濯機の蓋を開けた。乾燥が終わった物を全部引っ張り出し、バスタオルを数枚掴むと玄関に駆け戻る。
「迅?」
玄関には誰も居なかった。靴も履かずに外へ駆け出したが、土砂降りの雨しか見えなかった。
「迅!」
大声を上げたが、返事はない。
「迅、迅! 迅!」
何度叫んでも声は雷と雨に掻き消されてしまう。
慌てて家に戻ってスマホで掴んだ。電話をかけてみる。
繋がらない。
メッセージを送る。
しかし、いくら待っても既読にならない。
メールも連続で送ったが返事はなかった。
「迅っ!」
何度も何度も電話をしたが、深夜になっても迅とは連絡が付かなかった。
ゴールデンウィークは最悪だった。
姉は泣きながら謝り続けるし、迅は音信不通。何度も家まで行ったが会えず、それどころか迅の母にまで土下座されてしまって、こっちまで涙が溢れてきた。一生償うとか、治療費や賠償金の話まで出てきて「そうじゃない!」と叫びながら家に戻ってきた。
「違うのに……」
部屋に閉じこもり、枕に顔を押し付けて泣いた。
いくら「違う!」と繰り返しても、その声は迅に届かない。
「違う、違うんだって!」
そう。違うのだ。
あの日――、中三の引退日。
部室も最後という日、律は迅と共に部室で思い出話に話を咲かせた。狭いし、汗臭い部室だったが、名残惜しくて無駄に長く過ごしていた。
「迅……、あれ? 寝たのか」
部室の真ん中にあるベンチで迅が仰向けになって寝ていた。ベンチから長い手足が完全にはみ出していて、なんとも笑えてしまった。
起こさないよう、そっと近付いて寝顔を見た。
小学生の時は小さくて、引っ込み思案で、居るのか居ないのか分からないくらい存在感が薄かった。しかし、いつの間にか身長を越され、体格も驚くくらい大きくなり、バスケでも居なくてはならない存在になった迅。
確実にボールを拾ってくれる「ゴール下の守護神」のお陰で、律のチームは勝利し続けられた。全国制覇は持ち越しになったけれど、まだまだ練習を重ねて二人で勝ち進んでいきたい。
「高校でも一緒にやろうな」
呟きながら傍にしゃがみこんだ。顔がよく見える。常に冷静沈着でほとんど喜怒哀楽を表さない迅の無防備な寝顔は貴重だ。覗き込んでいるうちに、ふと、この安心しきった顔を独り占めしたい、と思った。
「迅」
そこからは無意識だった。
スゥスゥと寝息を立てている迅に向かって、律はそっと顔を近付けた。
目指していたのは唇――。
そっと、軽く触れるだけのキス――。
迅にさえ知られないよう、秘密の触れ合いを求めて距離をゼロに近付けていった。
「ッ!」
そんなときだった。
バンッ! と衝撃を受けた。
寝ていた迅が、まるでシュートを打つように腕を振り上げたのだ。
激痛が走り、思わず仰け反って右目を抑えた。
「……ッ!」
指の間からなにかが溢れた。
マズイ――。
直感でそう思った。慌ててタオルで右目を覆った。左目に見えたのは血に濡れた手だ。
律はそのまま独りで静かに部室を後にした。
キスをしようとしていたなんて言える訳がない。
夢の中でまでバスケをしている迅に、邪な気持ちで迫っていたなんて恥ずかしくて堪らなかった。だから、迅には会わなかったし、本当のことを言えなかった。
「オレがあんなことをしたから……。オレがキスなんてしなければ……」
迅に酷いことをしたのはオレの方――。
迅が土下座する必要なんて一ミリもないのだ。
