律が病院に行った後――。
近所のファミレスでバイトをしている律の姉・三天紗良は、見慣れた長身の客に満面の笑みを向けた。
「迅クン、いらっしゃい」
「こんにちは、お姉さん」
「いつものでいい? クリーム多めね」
「はい。お願いします」
礼儀正しく会釈しながら答える迅をソファ席に案内し、オーダーを受ける。
「律、病院なの。帰って来るの遅くなるかも」
「はい。待たせてもらっていいですか?」
「もちろんよ。律が来たら夕飯ね。今日の日替わりはオムライスとハンバーグセットよ」
「じゃぁ、それで。律と一緒に食います」
「オッケー」
ドリンクバーはサービスね、と小声で付け加えてから席を離れた。
紗良は、幼い頃からこのファミレスの常連だった。開業医の母が仕事熱心で家になかなか帰ってこない人だったからファミレスが家代わり。体に悪いが、ファミレスの料理がおふくろの味だった。律はもちろん、ミニバスで一緒になった迅も同じだった。
律と迅は、いつも二人一緒。六人掛けのソファ席でおやつと夕食を食べ、ひと寝入りし、宿題をしていた。
そんな日常が崩れたのが、昨年の夏――。
律の部活最後の日。バイトしながら「律も迅も来ない」なんて思っていたら、切羽詰まった声の母から電話があった。律が目をケガしたのだ。
あの日、律は血に染まったタオルで目を抑え、一人で母の病院に現れた。整形外科医の母が目の上の裂傷を縫った後、総合病院へ救急搬送。なにかが目にぶつかったことによる外傷性の網膜剥離に、割れたコンタクトで眼球が傷付くというおまけ付きだった。
入院中の律は、家族と会うことさえ拒否。退院してからも不登校で部屋にこもり、毎日ファミレスと家を訪ねて来た迅にも会わなかった。
スマホも充電せずに放置。庭のバスケゴールにも背を向け、何かを忘れようとするように部屋で勉強に打ち込んでいた。小さく丸まった律は、何かにとり憑かれたのではないか、と思うくらい陰鬱に見えた。
そんな律も、ここしばらくは妙に浮かれているように見える。
急に大量の弁当を作ってみたり、家のリビングで新品の文具やノートを広げて勉強したり、なんだか楽しそうだ。今日は、久しぶりに二人がファミレスに揃う記念の日になるかもしれない。
「はい、おまちどうさま」
迅が必ず注文するパンケーキセットを席に運ぶ。迅は教科書やノート、ペンを広げて課題に取り組んでいた。
「あら? そのペン、律とお揃い?」
「はい。一緒に買いました」
「律、久々の買い物楽しかったでしょうね。あの子、目のことがあってから全然外出しなかったから」
迅のお気に入りは、花飾りの付いたハワイアンパンケーキのバナナアイスと生クリーム添えだ。たっぷりのはちみつもセットされている。見上げる身長で肩幅も胸板もガッシリした高校生が食べるのは、なんとも微笑ましい。
「それにしても、律が迅クンと仲直りできて良かったわ」
フォークを手にした迅がチラリと横目で見て来た。
「引退からこっち、独りっきりで万年お通夜みたいだった律が、毎朝、お弁当作って行ってるなんてね。迅クンと食べてるんでしょ?」
「はい。お姉さんが手伝ってくれている、と言ってました。ありがとうございます。美味しいです」
「な~に、私は横で口出してるだけ。材料切るのも味付けも全部律よ。崩れてたり、焦げてたりするでしょ?」
「でも、美味いです」
「それは良かったわ」
迅は、大きくカットしたパンケーキにはちみつをたっぷり染み込ませ、生クリームを豪快に乗せて頬張っている。ふわふわのパンケーキがスルスルと胃に吸い込まれていくのを見るのは気持ちがいい。
「ねぇ、迅クンはなにがよくて律と居るの?」
「はい?」
「もう付き合い長いでしょ? 小四から? 学校もミニバスも部活もずっと一緒。鬱陶しくならない? ほら、普通は彼女ができたり他に興味が向いたりするものだし」
「そんなことはないです」
迅は即答だった。
「俺が律を『鬱陶しい』と思うことなんてありません」
真顔できっぱりと断言する迅に気圧されてしまう。
「そ、そうなの?」
「俺が生きてるのは律のお陰なんです」
「え?」
「俺、小さい頃はアメリカに居ました」
「そうだったわね」
「あっちじゃアジア系の人間は良い思いをしない。でも、帰国したって『下手くそバイリンガル』『男のくせに帰国子女』っていじめの的。俺はどこの国にも居場所がないのかって思ってたんです。でも、律だけは違った。『アメリカ? バスケじゃん!』ってミニバスに誘ってくれたんです」
「律『アメリカから転校生来た! NBAだよ! ミニバス誘った!』って嬉しそうに話してたわ。バスケ好き小学生男児の頭じゃ、アメリカ=NBA=すげぇ! だったのよねぇ」
「俺、最初、律のこと女の子だと思ったんです。可愛くて、活発で、ふわふわ揺れる髪がきれいで、声もよく通る素敵な子だって」
「分かる! ボーイッシュな女の子だったわ。それ言うと怒ってたけど」
「でもコートに立ったら群を抜いて上手くて、打つシュートが次々決まるのが気持ちよくて。見学した瞬間に全身鳥肌が立ったのを今でも覚えてます」
「シュートの感覚は天才だったわ。あだ名が『誘導ミサイル』だったわね」
「俺は『無敵の女神』って思いました」
「アハハ。中学じゃ本当に無敵だったわね。迅クンが来て無敵のペア。律も生き生きしてたわ」
「律と一緒ならいじめられなかったし夢中になれた。律のお陰で今の俺が居ます」
「そう」
もう半分になってしまった皿を見ながら、心からの安堵の吐息が漏れた。
「本当に良かった。律にはね、何回も『ちゃんと話をしなさい』って言ったの。本当のことを話せない仲じゃないでしょって」
そこで迅のフォークを持つ手がピクッと動いたが、気付かないまま言葉を続けてしまった。
「当たっちゃったってことは、それだけ距離の近い仲だったってこと。迅クンの手が当たったのは事故。視力も治るって言われてるし、誰も悪くないんだからホントに気にしないで」
「……俺の、手が……?」
カシャン、とフォークが落ちる音がした。迅の目は驚愕で見開かれている。その顔を見て、ハッとした。
「え? もしかして、迅クン、まだ律から……」
本当のことを聞いてなかった?
サァッと全身から血の気が引いた。わざわざ弁当を手作りして行ったり、お揃いの文具を買ったりしているし、二人の間のわだかまりはすっかり消えたのだと思っていた。
「あの、違うの。ごめんなさい。アハハ、私、なに言ってるのかしら。違うのよ、忘れて?」
慌てて取り消したものの、時すでに遅し。
スクッと立ち上がった迅の表情には、この世の絶望全てが塗りこめられていた。
近所のファミレスでバイトをしている律の姉・三天紗良は、見慣れた長身の客に満面の笑みを向けた。
「迅クン、いらっしゃい」
「こんにちは、お姉さん」
「いつものでいい? クリーム多めね」
「はい。お願いします」
礼儀正しく会釈しながら答える迅をソファ席に案内し、オーダーを受ける。
「律、病院なの。帰って来るの遅くなるかも」
「はい。待たせてもらっていいですか?」
「もちろんよ。律が来たら夕飯ね。今日の日替わりはオムライスとハンバーグセットよ」
「じゃぁ、それで。律と一緒に食います」
「オッケー」
ドリンクバーはサービスね、と小声で付け加えてから席を離れた。
紗良は、幼い頃からこのファミレスの常連だった。開業医の母が仕事熱心で家になかなか帰ってこない人だったからファミレスが家代わり。体に悪いが、ファミレスの料理がおふくろの味だった。律はもちろん、ミニバスで一緒になった迅も同じだった。
律と迅は、いつも二人一緒。六人掛けのソファ席でおやつと夕食を食べ、ひと寝入りし、宿題をしていた。
そんな日常が崩れたのが、昨年の夏――。
律の部活最後の日。バイトしながら「律も迅も来ない」なんて思っていたら、切羽詰まった声の母から電話があった。律が目をケガしたのだ。
あの日、律は血に染まったタオルで目を抑え、一人で母の病院に現れた。整形外科医の母が目の上の裂傷を縫った後、総合病院へ救急搬送。なにかが目にぶつかったことによる外傷性の網膜剥離に、割れたコンタクトで眼球が傷付くというおまけ付きだった。
入院中の律は、家族と会うことさえ拒否。退院してからも不登校で部屋にこもり、毎日ファミレスと家を訪ねて来た迅にも会わなかった。
スマホも充電せずに放置。庭のバスケゴールにも背を向け、何かを忘れようとするように部屋で勉強に打ち込んでいた。小さく丸まった律は、何かにとり憑かれたのではないか、と思うくらい陰鬱に見えた。
そんな律も、ここしばらくは妙に浮かれているように見える。
急に大量の弁当を作ってみたり、家のリビングで新品の文具やノートを広げて勉強したり、なんだか楽しそうだ。今日は、久しぶりに二人がファミレスに揃う記念の日になるかもしれない。
「はい、おまちどうさま」
迅が必ず注文するパンケーキセットを席に運ぶ。迅は教科書やノート、ペンを広げて課題に取り組んでいた。
「あら? そのペン、律とお揃い?」
「はい。一緒に買いました」
「律、久々の買い物楽しかったでしょうね。あの子、目のことがあってから全然外出しなかったから」
迅のお気に入りは、花飾りの付いたハワイアンパンケーキのバナナアイスと生クリーム添えだ。たっぷりのはちみつもセットされている。見上げる身長で肩幅も胸板もガッシリした高校生が食べるのは、なんとも微笑ましい。
「それにしても、律が迅クンと仲直りできて良かったわ」
フォークを手にした迅がチラリと横目で見て来た。
「引退からこっち、独りっきりで万年お通夜みたいだった律が、毎朝、お弁当作って行ってるなんてね。迅クンと食べてるんでしょ?」
「はい。お姉さんが手伝ってくれている、と言ってました。ありがとうございます。美味しいです」
「な~に、私は横で口出してるだけ。材料切るのも味付けも全部律よ。崩れてたり、焦げてたりするでしょ?」
「でも、美味いです」
「それは良かったわ」
迅は、大きくカットしたパンケーキにはちみつをたっぷり染み込ませ、生クリームを豪快に乗せて頬張っている。ふわふわのパンケーキがスルスルと胃に吸い込まれていくのを見るのは気持ちがいい。
「ねぇ、迅クンはなにがよくて律と居るの?」
「はい?」
「もう付き合い長いでしょ? 小四から? 学校もミニバスも部活もずっと一緒。鬱陶しくならない? ほら、普通は彼女ができたり他に興味が向いたりするものだし」
「そんなことはないです」
迅は即答だった。
「俺が律を『鬱陶しい』と思うことなんてありません」
真顔できっぱりと断言する迅に気圧されてしまう。
「そ、そうなの?」
「俺が生きてるのは律のお陰なんです」
「え?」
「俺、小さい頃はアメリカに居ました」
「そうだったわね」
「あっちじゃアジア系の人間は良い思いをしない。でも、帰国したって『下手くそバイリンガル』『男のくせに帰国子女』っていじめの的。俺はどこの国にも居場所がないのかって思ってたんです。でも、律だけは違った。『アメリカ? バスケじゃん!』ってミニバスに誘ってくれたんです」
「律『アメリカから転校生来た! NBAだよ! ミニバス誘った!』って嬉しそうに話してたわ。バスケ好き小学生男児の頭じゃ、アメリカ=NBA=すげぇ! だったのよねぇ」
「俺、最初、律のこと女の子だと思ったんです。可愛くて、活発で、ふわふわ揺れる髪がきれいで、声もよく通る素敵な子だって」
「分かる! ボーイッシュな女の子だったわ。それ言うと怒ってたけど」
「でもコートに立ったら群を抜いて上手くて、打つシュートが次々決まるのが気持ちよくて。見学した瞬間に全身鳥肌が立ったのを今でも覚えてます」
「シュートの感覚は天才だったわ。あだ名が『誘導ミサイル』だったわね」
「俺は『無敵の女神』って思いました」
「アハハ。中学じゃ本当に無敵だったわね。迅クンが来て無敵のペア。律も生き生きしてたわ」
「律と一緒ならいじめられなかったし夢中になれた。律のお陰で今の俺が居ます」
「そう」
もう半分になってしまった皿を見ながら、心からの安堵の吐息が漏れた。
「本当に良かった。律にはね、何回も『ちゃんと話をしなさい』って言ったの。本当のことを話せない仲じゃないでしょって」
そこで迅のフォークを持つ手がピクッと動いたが、気付かないまま言葉を続けてしまった。
「当たっちゃったってことは、それだけ距離の近い仲だったってこと。迅クンの手が当たったのは事故。視力も治るって言われてるし、誰も悪くないんだからホントに気にしないで」
「……俺の、手が……?」
カシャン、とフォークが落ちる音がした。迅の目は驚愕で見開かれている。その顔を見て、ハッとした。
「え? もしかして、迅クン、まだ律から……」
本当のことを聞いてなかった?
サァッと全身から血の気が引いた。わざわざ弁当を手作りして行ったり、お揃いの文具を買ったりしているし、二人の間のわだかまりはすっかり消えたのだと思っていた。
「あの、違うの。ごめんなさい。アハハ、私、なに言ってるのかしら。違うのよ、忘れて?」
慌てて取り消したものの、時すでに遅し。
スクッと立ち上がった迅の表情には、この世の絶望全てが塗りこめられていた。
