秘密の副主将は、にじんだ世界でアイツと一緒にやり直したい

 放課後――。
 部活の一覧表が教室に貼り出され、体験入部の案内も配られた。受け取ったものの、正直いい気分がしなかったし、気乗りしなくて机の中に入れた。チラリと迅を見たが、迅も目を通すことなく机に入れていた。どこにも入る気はないのだろうか。一緒に帰宅部? なんて思いながら帰る準備を整えた。
「律、ちょっといいか?」
「なに?」
「セミナー室行こう」
「どこ?」
「図書館棟だ。自習用の机があって参考書なんかが借り放題なんだ」
「なにそれ! そんな所あるんだ」
「テスト前は争奪戦らしいから、早めに参考書チェックしとくといいって聞いた」
 それは助かる。すでに授業に置いて行かれている律にとって朗報だった。
 この学校は母と姉の卒業校だ。情けない成績は残したくないし、まだ決めていないが母の病院を継ぐ可能性だってゼロじゃない。「高校で頑張ることは勉強」と決めた以上、セミナー室は避けられない場所に思えた。
「図書館棟ってどっから行く?」
「体育館棟の二階と繋がってる」
「体育館棟って……食堂があるところ?」
「そう。渡り廊下でここの棟と繋がってる」
 校舎が複数の棟で構成されている上、中学とは比べ物にならないくらい色々な教室があるので、覚えるまで時間がかかりそうだ。
 荷物を持ち、迅に連れられてセミナー室を目指した。
 廊下をジャージ姿で移動している生徒もいるし、窓から見えるグラウンドもサッカー部やハンドボール部なんかが準備をしている。声を張り上げている生徒もいて、これから新入部員の勧誘が本格化しそうな雰囲気だった。
「?」
 体育館の脇を通り過ぎようとした時だった。
「邪魔なんだよ! どけ!」
「でも今日はバスケ部が体育館を使う番で……」
「笑わせるな! 地区大会で一勝もできない奴等が体育館を使うなんておこがましいんだよ」
「勝てなくても体育館は学校のルールで順ば……」
「いいか? 俺達バレー部は全国制覇目前! 毬付きお遊び部とはレベルが違うんだ。分かったらとっとと出ていけ!」
 どうやら、体育館の利用を巡ってバレー部とバスケ部が揉めているようだ。というか、バスケ部が一方的に追い出されている。
「出・て・け! 出・て・け!」
 バレー部員や、そのファンと思しき生徒達が「出ていけ」と連呼し始めた。
 バスケ部の四人の反論は大きな「出ていけコール」にかき消されている。しかも、バレー部がサーブ練習と称して、バスケ部員に向かってボールを打ち込み始めたから堪らない。
「ほらほら! 逃げねぇと当たるぞ! このカス!」
 バレー部の主将らしい生徒の嘲笑を合図に、部員たちが練習用ネットなどの準備を始めた。
「……なんだよ、アレ」
 部外者でもはらわたが煮えくり返るほどの横暴さだ。元バスケ部としては看過できない状況だった。どれだけバレー部が強いか知らないが、勝率や成績を理由にルールを無視したり他の部を蔑ろにしたりしていいはずがない。怒りで全身の毛という毛が逆立ちそうだった。
「おい律、セミナー室行くぞ」
 迅に呼ばれた。
「迅! いくらなんでも、あれ……」
 言いかけてハッと口を閉じた。迅の顔は怒りに満ちていた。鞄を持つ手は血管が浮き上がるくらい強く握りしめられていて、怒り心頭なのが見て取れた。
「行くぞ。俺達はバスケ部員じゃない」
「うん……」
 何もできないし、何もしない自分に物凄く腹が立ったが、あの中に入ったとして何ができるだろう。きっと迅も同じ気持ちに違いない。
 バレー部の嘲笑や沸き起こる挑発の言葉を背中で聞きながら、黙って二人で廊下を進んだ。
「さぁ、あそこだ」
 セミナー室は静かで広い教室だった。
「図書室と勉強部屋が一緒になった感じ?」
「あぁ。家よりも便利で集中できていいぞ」
 部屋には半個室状の学習スペースとオープンスペースがあり、既に数人が個室ブースを利用していた。迅と共に窓辺のオープンスペースに座った。教科書やワーク、ノート、筆記用具などをバサッと広げる。
「ほら、律が休んでた時の授業ノート。写すだろ?」
「ありがと。助かる」
 英語も数学も、売り物かと思うくらいよくまとめられたノートだった。
「練習問題、シールにして貼ってるのか?」
「あぁ。スマホで教科書撮って、このアプリで印刷すれば……」
 迅がミニプリンターを取り出した。スーパーのレシートのような形でシールが出てくる。
「すごい! 問題書き写さなくていいんだ」
「だろ? これがあると楽にまとめノートが作れる」
「いいなぁ。オレもこれ欲しい」
「便利だぞ。あ、昨日の文具屋にもあったかもな」
 迅は昨日買ったペンも取り出し「自分なりに決めたルールで色分けする」「ノートは分割して使う」といったテクニックを教えてくれた。
「分かり易いけど、迅って、そんなに勉強熱心だったっけ?」
「なんか失礼な言い方だな」
「ハハッ。でも、中三最初のテストで全教科……」
「言うな。忘れろ。でも、だから死ぬ気で頑張ったんだ。どうだ? 頼り甲斐ある男になってるだろ?」
「めっちゃ頼れる。ありがと」
「あぁ」
 フフン、と片方だけ口角を吊り上げる顔が、なんとも笑いを誘ってくる。
「ちょっとこっちのノート、借りる」
 明日の授業の予習をする迅の横で、休んでいた間の授業ノートを写させてもらう。書き心地が良いノートにサラサラと書き写し、教科書の重要ポイントをシール化した物を貼っていく。
 不意に視線を感じて顔を上げた。迅と目が合う。
「なに?」
「いや……、律、まつ毛長くて肌きれいで、いつまででも見てられるなって」
「どこ見てんだよ」
「指も長いし、字がきれいだし。指先から頭のてっぺんまで、きれいが渋滞してる」
「なんだよ、それ」
 馬鹿言うな、と言っていると、迅が質問してきた。
「律、高校入試の勉強は独りでやったのか?」
「あ~、姉貴と母さんが家庭教師? あと、オンライン塾。独りというかなんというか」
「ならいい」
「は?」
 なに言ってんだ? と視線を向けていると、迅はフルフルッと首を左右に振った。
「変なやつ。言いたいことがあるなら言えよ」
「……どっかの馬の骨と二人っきりなんて、相手の息の根止めるわ」
「? なんか言った?」
「いや、別に」
 サラッと流した迅に怪訝そうな顔を向けたが、何も返事がない。渋くていい声をしているが、時々、低く小さすぎて聞こえない時があるのだ。
「あ、迅、ここ教えて」
「そこは教科書の……」
 迅の顔がスッと近付いてくる。どれだけアップにしても粗さがない端正な顔が、普通ではありえないくらい間近にある。それが妙にくすぐったく感じてしまうが、今は真面目な時間だ。意識を手元に向ける努力をしながら、最終下校時刻まで実に勤勉な時間を過ごした。
「じゃぁ、また明日」
「あぁ」
 桜並木の長い坂道を登り、家のすぐ近くで左右に分かれる。迅の家は目視できないが、もう少し先に行ったところだ。自転車も要らない距離で、いわゆるご近所さんだった。
「ただいま~」
 家には誰も居なかった。母は病院、姉は大学の後、バイトだ。下駄箱の上にキーホルダー付きの鍵を置いて鞄を下ろした。
「……高校生活か」
 中三の夏に目のことがあって以降、学校に行かず、ずっと家に籠っていた。母と姉に尻を叩かれ、なんとか勉強して私立高校に入学。心機一転、新しい高校生活を送るんだ、と思っていた――。
「なんか、意外……」
 目のことが初日にバレるし、迅と同じクラスだし、なによりバスケが視界から消えない。
 ふ、と思い出して庭に目を向けた。
「……」
 塗装が剥げて錆びたバスケットゴールがあった。
 何とはなしに庭に出る。ベンチ型の収納ボックスには蜘蛛の巣が張っていたし、中のボールは空気が足りなくなっていた。
「……」
 頼りないボールを手の中で遊ばせ、感触を確かめてからシュッと投げてみた。
 ドンッという鈍い音がしてリングからボールが跳ね返ってくる。
「っ」
 もう一回、今度は手首のスナップを意識しながら投げた。またリングに当たったが、クルクルとしつこいくらい回ってからなんとか入った。
「半年触ってなくても、感覚は覚えているもんなんだな」
 小学三年生の時にミニバスを始め、それからボールに触れない日はないくらい夢中になった。昨年の夏以降、初めてボールを持ったが、感覚は体に染みついているらしい。
「練習は裏切らない、って本当だったんだな」
 ミニバス時代のコーチの言葉を思い出す。その言葉は迅がいたく気に入り、中学でキャプテンになった時に口癖のように言っていた。
 スリーポイントの位置まで下がり、ゴールを見た。視界はぼやけている。左目で見るように顔の角度を変え、数回腕を動かしてイメージを描いてから投げた。
「……」
 ダンッと音がした。
「はぁ……」
 さすがにスリーポイントは無理か。落ちたボールが不格好に跳ねるのを見ながらため息を吐く。
「迅が居れば……、ちゃんと拾ってダンク決めるよな」

 かっこいいんだよなぁ――。

 ゴール下の守護神と呼ばれ、律も全幅の信頼を寄せていた。もし、こんな目になっていなかったら、今も迅と一緒にボールを追っているだろう。
 中三で引退した部活最後のあの日……。
「部室で俺が迅にあんなことしなければ……」
 迅の手が右目に当たることはなかったし、外傷性の網膜剥離なんてことにはならなかった。秀晰高校に進学することはなく、強豪校でバスケを続けていたはずだ。
「オレが……迅からバスケを奪った」
 自分がバスケをできなくなったのは自業自得だ。
 ただ、迅まで巻き添えにした自分が許せない。それに「本当のこと」を言う勇気もなく、ただ、流されて迅の傍にいる自分も情けなくて堪らない。
「オレって、サイテー……」
 胸が潰れるような思いに眩暈を覚えながら、自分の部屋に戻ったのだった。