高校の授業は、なかなか進むのが早かった。進学校の特進ということもあってか、予習している前提で授業が進んでいく。
「あ……」
板書が間に合わないこともあり、結構、焦ってしまう。一番後ろの席が辛く感じることがしばしばだった。
「大丈夫だ。後で俺の写せ」
「ん。ありがと」
ノートを貸してくれる迅に礼を言っていると、四時間目が終わり、クラスメイト達が一斉に廊下へ駆け出した。食堂のパン争奪戦だ。もちろん、迅も駆け出している。
「……速っ」
あっという間に半数が消えた教室を見回してから、迅のノートに目を落とす。
ノートは見開きで使われていた。左のページが教科書の内容、右ページの半分に授業で聞いた解説、右の残り半分に重要ポイントや疑問点などが書かれている。単に黒板を写すだけではないノートだ。
「凄いな、迅」
勉強慣れしている人のノートだ。中学の時「全科ギリ赤点回避男」なんて言われていたとは思えない。
「どんだけ勉強したんだよ」
この秀晰高校の特進科は県内でもトップ5に入る偏差値の高さだ。中三の夏までスポーツ推薦で進学することを決めていた迅にとって、途方もない壁だったに違いない。その努力の一端を見た気がした。
「しっかし、なんでオレを追ってんだよ」
そもそも、どうして律がここを受験すると分かったのだろう。夏以降、目のケガの通院を理由にずっと学校へ行かず、オンライン授業で卒業した律は、担任以外に受験先を話していなかった。まぁ、母と姉が秀晰高校卒業だから、そこへ行くと思われたのかもしれない。
「バ~カ」
呟いてから視線を意識をノートに戻した。優等生ノートを見ていると、ふと、隅にバスケットボールの絵が描かれていることに気付いた。しかも、パラパラ漫画のようになっていた。
「やっぱバスケ好きなんじゃん」
パラパラ捲ると、跳ねたボールがゴールに入る絵になっていた。何度か捲って、ふと気が付いた。最後のシュートが入ったところに「誘導ミサイル」と書いてあった。
「なんでオレのこと書いてんだよ」
中学の時の律は、どこから打ってもシュートが確実に入るので「誘導ミサイル」と言われていた。なぜそんなことをノートに書いているのか。
「言ってもないのに追いかけてくるし、世話焼くし、こんなところにまで書いて……。オレのこと好きすぎだろ」
呟いてからハッとした。
迅がオレを好き?
「オレ、なに言ってんだろ」
なんだか一人でいたたまれなくなって「違う違うっ!」と心の中で呟いてから急いで前のページに戻り、今日の授業の部分を写し始めた。
昨日買ったペンを手にした。色付けしていきながら、迅も昨日買ったペンで色を付けたのだろうか、なんて想像する。口元が緩んでくるのを感じながら、ノートを写し終えた。
「さて、準備するか」
もう少しで迅が戻って来る。手を洗ってから机にランチョンマットを敷き、三段重ねの弁当箱を広げた。
「えっ?」
「うわ、お弁当三つ?」
近くを通り過ぎた女子が二度見してきた。他のクラスメイトの視線も集まってくる。
「……なんか、やらかした気分」
明らかに量が多すぎる弁当だ。注目されて当然だった。しかし隠すわけにもいかず、素知らぬ風を装って迅の分の割り箸も準備した。
「待たせたな。って、弁当?」
腕にパンを抱いた迅が戻って来た。パンの内容は昨日と同じだった。
「なんか、買ってもらってばっかりだと悪いから、その……」
言いながら、箸を差し出した。
改めて見たが、やっぱりおかずは不格好だ。卵焼きは破れたところがあるし、ウインナーは斜めの切れ目が不揃いだ。エビフライも衣が剥がれそうだし、焼き鮭は皮が焦げた上に身が割れてしまっている。
「……下手だけど」
作って来た――。
ボソッと小声で言ったものの、やはり恥ずかしくて蓋で隠そうとした時だった。
「やった! 俺、エビ!」
迅がヒョイッと摘まんで口に放り込んだ。
「ん~、美味っ! 卵焼きももらうぞ」
「あ……、まずくない?」
「美味い美味い! 卵焼き、甘めで俺好みだ」
「ホントに?」
「本当だ。美味いぞ。鮭もしょっぱいの、堪らねぇ!」
迅が次々と口に放り込んでいく。見た目を気にした風もなく「美味い、美味い」と食べるのを見て、ホッと胸を撫でおろした。
「箸使えよ」
「おう」
「カツサンド、もらうわ」
「あぁ。なぁ、律。これ全部、朝作ったのか?」
「まぁ、そうだな」
「俺のために?」
「……それは、まぁ、うん。そう、ってことになるかな」
甘党かつ肉より魚介派の迅のために、朝から魚を焼き、エビフライを作ったのだ。
「マジ、嬉しい。こりゃ、全力ダッシュし甲斐がある」
長身で肩幅も広いし、目元が切れ上がっているせいで「怖い」という印象を持たれがちな迅が、本当に嬉しそうな顔でヒョイヒョイと食べる姿が眩しい。
「……作って良かった」
誰かのための弁当なんて初めて作った。自信は無かったが、こんなに喜んで食べてくれるのなら、作り甲斐もあるというものだ。まずまずのできかな、と思えてホッとした。
明日も頑張ろう、と思いながらカツサンドに齧りついた時だった。
「律、大丈夫か?」
「なにが?」
「手、赤くなってる」
「え? あ……、いや、うん。大丈夫」
「もしかして、火傷?」
「大したことないから」
エビフライを揚げている時に失敗した火傷が、迅に見つかってしまった。そっと隠そうとすると、迅の両手で挟まれてしまった。
「痛みは?」
「ないよ」
「早く治れ。痕残さず治れ」
呪文を唱えるように言った迅は、火傷の痕を両手で包み込むようにしてきた。
「律の手……、これで絶対大丈夫」
まるで魔法をかけるように言うと、迅がそっと手を離した。
「ははは。すぐに治りそう」
平気な顔を取り繕って答えたが、心臓はバクバクだった。まさか、両手で優しく握られるなんて思わなかった。
バスケの試合に出ていた時は励まし合うのにハイタッチや拳をぶつけ合うスキンシップが普通だった。なのに――。
(なんか、手握られただけで息が上がるんだけど!)
なぜ、こんなに迅の一挙手一投足に振り回されているのだろう。
迅が自分のことを「好き?」なんて思ってしまったからか?
(バカッ! こっちが困るじゃん!)
心の中で悪態を吐きながら、動揺を悟られないよう視線を逸らせて空いた弁当箱を片付ける風を装う。そうして、デザートのイチゴを口に放り込みながら「パン、さすがに食いきれないわ」と言っている迅をチラ見している時だった。
「ちょっといいかな、佐藤君」
「なに?」
「少し話がしたいから廊下に出て」
女子の一人が迅を呼びに来た。教室中の視線が迅に集まる。イチゴを二つ口に放り込み、しっかり飲み込んでから迅が立ち上がった。
「ちょっと行ってくる」
「うん」
「残り、律が食って」
「分かった」
大きな背中を見送りながら、なんだか腹の底がざわつくのを感じた。女子が男子を呼び出すと言えばアレしかない。教室から出ていく背中を目で追うが、今日は調子が悪いのかいつもより視界が不明瞭だ。
「……」
耳を澄ませても会話は聞こえないし、二人の姿は廊下の向こうに消えて見えない。
口角がグッと下がるのを止められないまま、残り少なくなったイチゴに爪楊枝を刺す。だが、迅のことが気になりすぎて、口に運ぶどころではなかった。ザクザクと何度も刺し直しながら、ざわつく胸の不快感に顔を顰めていた。
「……」
迅はなかなか戻ってこなかった。
そわそわしながら、爪楊枝でイチゴを繰り返し刺す手元を見る。
「律? どうしたか? なんか、イチゴがスプラッターだぞ」
「へ?」
「弁当箱の中が殺人事件の現場みてぇ」
「は? うわっ! あ、いや、べ、別になんでも……」
迅が戻って来た。不意の指摘に焦っていると、迅は席に着いて化学の準備を始めた。何があったか話す気はないようだ。
「なぁ」
「ん?」
「……あぁ、その、なんだった?」
そっぽを向いたまま迷いながら尋ねた。聞かずにいられなかったのだ。
「部活の勧誘。バレー部に入らないかって」
「バレー部?」
「上から目線の偉そうな三年に誘われた」
「なんだよ、それ」
妙にホッとしながら突っ込みを入れた。女子は「連れてきて」と言われただけだったのだ。「そういうこと」では無かったと分かると、急に全身の緊張が解けたように感じた。
「迅は背高いし、運動神経いいし、足も速いから引っ張りだこだな」
恵まれた体格だ、と褒めるとガタン、と椅子の音を立てて迅が立ち上がった。
「バカ言うな」
怒っている声に聞こえた。驚いて見上げると、明らかに不機嫌な顔で迅が続けた。
「俺を引っ張っていいのは律だけだ」
「は? なに言ってんの?」
思わせぶりというか、なんというか……。
真意が知れない迅の言葉に眩暈がしてくる。なんと返していいか分からなくて、とりあえずため息を吐いた。
「なに疲れてるんだ。次、化学だろ。実験室行くぞ」
「え? もう行くの?」
「特別棟遠いし、準備の手伝いがある」
「手伝いか……、分かったよ」
委員長って大変だな、と思いながら急いで教科書とワークノートを出した。先に行けば良いのに、と言いかけたが「律の右は任せろ」という昨日の言葉が頭に浮かんだ。これは喜ぶべきなのだろうか。なんとなく心が浮つくのを感じながら準備をする。
「待たせた」
「あぁ」
右側に迅を感じながら教室を出た。歩きながら、特別棟の行き方や実験室の場所が分からないことに気付いた。迅が居なければ迷ってしまっただろう。
(なんか、オレ、迅なしじゃ単なるポンコツ?)
情けない高校生活のスタートだ、と思いながら廊下を進む。このままでは情けなさすぎるので、迅に教室の場所や校舎の配置を尋ねた。迅の説明は分かりやすかった。
その頃、一足早く二人が出ていった教室では――。
「あのバレー部の勧誘を断ったってまじ?」
「なんか、興味ないって一蹴したみたいよ」
「やっぱりバスケ部?」
「え~! バスケって最弱なんでしょ?」
「二人一緒にどっか入るのかな?」
「目ダメなら運動無理でしょ。なんか、三天さんが佐藤さんを無駄に縛ってない?」
勝手な憶測や噂話に花が咲いているのだった。
「あ……」
板書が間に合わないこともあり、結構、焦ってしまう。一番後ろの席が辛く感じることがしばしばだった。
「大丈夫だ。後で俺の写せ」
「ん。ありがと」
ノートを貸してくれる迅に礼を言っていると、四時間目が終わり、クラスメイト達が一斉に廊下へ駆け出した。食堂のパン争奪戦だ。もちろん、迅も駆け出している。
「……速っ」
あっという間に半数が消えた教室を見回してから、迅のノートに目を落とす。
ノートは見開きで使われていた。左のページが教科書の内容、右ページの半分に授業で聞いた解説、右の残り半分に重要ポイントや疑問点などが書かれている。単に黒板を写すだけではないノートだ。
「凄いな、迅」
勉強慣れしている人のノートだ。中学の時「全科ギリ赤点回避男」なんて言われていたとは思えない。
「どんだけ勉強したんだよ」
この秀晰高校の特進科は県内でもトップ5に入る偏差値の高さだ。中三の夏までスポーツ推薦で進学することを決めていた迅にとって、途方もない壁だったに違いない。その努力の一端を見た気がした。
「しっかし、なんでオレを追ってんだよ」
そもそも、どうして律がここを受験すると分かったのだろう。夏以降、目のケガの通院を理由にずっと学校へ行かず、オンライン授業で卒業した律は、担任以外に受験先を話していなかった。まぁ、母と姉が秀晰高校卒業だから、そこへ行くと思われたのかもしれない。
「バ~カ」
呟いてから視線を意識をノートに戻した。優等生ノートを見ていると、ふと、隅にバスケットボールの絵が描かれていることに気付いた。しかも、パラパラ漫画のようになっていた。
「やっぱバスケ好きなんじゃん」
パラパラ捲ると、跳ねたボールがゴールに入る絵になっていた。何度か捲って、ふと気が付いた。最後のシュートが入ったところに「誘導ミサイル」と書いてあった。
「なんでオレのこと書いてんだよ」
中学の時の律は、どこから打ってもシュートが確実に入るので「誘導ミサイル」と言われていた。なぜそんなことをノートに書いているのか。
「言ってもないのに追いかけてくるし、世話焼くし、こんなところにまで書いて……。オレのこと好きすぎだろ」
呟いてからハッとした。
迅がオレを好き?
「オレ、なに言ってんだろ」
なんだか一人でいたたまれなくなって「違う違うっ!」と心の中で呟いてから急いで前のページに戻り、今日の授業の部分を写し始めた。
昨日買ったペンを手にした。色付けしていきながら、迅も昨日買ったペンで色を付けたのだろうか、なんて想像する。口元が緩んでくるのを感じながら、ノートを写し終えた。
「さて、準備するか」
もう少しで迅が戻って来る。手を洗ってから机にランチョンマットを敷き、三段重ねの弁当箱を広げた。
「えっ?」
「うわ、お弁当三つ?」
近くを通り過ぎた女子が二度見してきた。他のクラスメイトの視線も集まってくる。
「……なんか、やらかした気分」
明らかに量が多すぎる弁当だ。注目されて当然だった。しかし隠すわけにもいかず、素知らぬ風を装って迅の分の割り箸も準備した。
「待たせたな。って、弁当?」
腕にパンを抱いた迅が戻って来た。パンの内容は昨日と同じだった。
「なんか、買ってもらってばっかりだと悪いから、その……」
言いながら、箸を差し出した。
改めて見たが、やっぱりおかずは不格好だ。卵焼きは破れたところがあるし、ウインナーは斜めの切れ目が不揃いだ。エビフライも衣が剥がれそうだし、焼き鮭は皮が焦げた上に身が割れてしまっている。
「……下手だけど」
作って来た――。
ボソッと小声で言ったものの、やはり恥ずかしくて蓋で隠そうとした時だった。
「やった! 俺、エビ!」
迅がヒョイッと摘まんで口に放り込んだ。
「ん~、美味っ! 卵焼きももらうぞ」
「あ……、まずくない?」
「美味い美味い! 卵焼き、甘めで俺好みだ」
「ホントに?」
「本当だ。美味いぞ。鮭もしょっぱいの、堪らねぇ!」
迅が次々と口に放り込んでいく。見た目を気にした風もなく「美味い、美味い」と食べるのを見て、ホッと胸を撫でおろした。
「箸使えよ」
「おう」
「カツサンド、もらうわ」
「あぁ。なぁ、律。これ全部、朝作ったのか?」
「まぁ、そうだな」
「俺のために?」
「……それは、まぁ、うん。そう、ってことになるかな」
甘党かつ肉より魚介派の迅のために、朝から魚を焼き、エビフライを作ったのだ。
「マジ、嬉しい。こりゃ、全力ダッシュし甲斐がある」
長身で肩幅も広いし、目元が切れ上がっているせいで「怖い」という印象を持たれがちな迅が、本当に嬉しそうな顔でヒョイヒョイと食べる姿が眩しい。
「……作って良かった」
誰かのための弁当なんて初めて作った。自信は無かったが、こんなに喜んで食べてくれるのなら、作り甲斐もあるというものだ。まずまずのできかな、と思えてホッとした。
明日も頑張ろう、と思いながらカツサンドに齧りついた時だった。
「律、大丈夫か?」
「なにが?」
「手、赤くなってる」
「え? あ……、いや、うん。大丈夫」
「もしかして、火傷?」
「大したことないから」
エビフライを揚げている時に失敗した火傷が、迅に見つかってしまった。そっと隠そうとすると、迅の両手で挟まれてしまった。
「痛みは?」
「ないよ」
「早く治れ。痕残さず治れ」
呪文を唱えるように言った迅は、火傷の痕を両手で包み込むようにしてきた。
「律の手……、これで絶対大丈夫」
まるで魔法をかけるように言うと、迅がそっと手を離した。
「ははは。すぐに治りそう」
平気な顔を取り繕って答えたが、心臓はバクバクだった。まさか、両手で優しく握られるなんて思わなかった。
バスケの試合に出ていた時は励まし合うのにハイタッチや拳をぶつけ合うスキンシップが普通だった。なのに――。
(なんか、手握られただけで息が上がるんだけど!)
なぜ、こんなに迅の一挙手一投足に振り回されているのだろう。
迅が自分のことを「好き?」なんて思ってしまったからか?
(バカッ! こっちが困るじゃん!)
心の中で悪態を吐きながら、動揺を悟られないよう視線を逸らせて空いた弁当箱を片付ける風を装う。そうして、デザートのイチゴを口に放り込みながら「パン、さすがに食いきれないわ」と言っている迅をチラ見している時だった。
「ちょっといいかな、佐藤君」
「なに?」
「少し話がしたいから廊下に出て」
女子の一人が迅を呼びに来た。教室中の視線が迅に集まる。イチゴを二つ口に放り込み、しっかり飲み込んでから迅が立ち上がった。
「ちょっと行ってくる」
「うん」
「残り、律が食って」
「分かった」
大きな背中を見送りながら、なんだか腹の底がざわつくのを感じた。女子が男子を呼び出すと言えばアレしかない。教室から出ていく背中を目で追うが、今日は調子が悪いのかいつもより視界が不明瞭だ。
「……」
耳を澄ませても会話は聞こえないし、二人の姿は廊下の向こうに消えて見えない。
口角がグッと下がるのを止められないまま、残り少なくなったイチゴに爪楊枝を刺す。だが、迅のことが気になりすぎて、口に運ぶどころではなかった。ザクザクと何度も刺し直しながら、ざわつく胸の不快感に顔を顰めていた。
「……」
迅はなかなか戻ってこなかった。
そわそわしながら、爪楊枝でイチゴを繰り返し刺す手元を見る。
「律? どうしたか? なんか、イチゴがスプラッターだぞ」
「へ?」
「弁当箱の中が殺人事件の現場みてぇ」
「は? うわっ! あ、いや、べ、別になんでも……」
迅が戻って来た。不意の指摘に焦っていると、迅は席に着いて化学の準備を始めた。何があったか話す気はないようだ。
「なぁ」
「ん?」
「……あぁ、その、なんだった?」
そっぽを向いたまま迷いながら尋ねた。聞かずにいられなかったのだ。
「部活の勧誘。バレー部に入らないかって」
「バレー部?」
「上から目線の偉そうな三年に誘われた」
「なんだよ、それ」
妙にホッとしながら突っ込みを入れた。女子は「連れてきて」と言われただけだったのだ。「そういうこと」では無かったと分かると、急に全身の緊張が解けたように感じた。
「迅は背高いし、運動神経いいし、足も速いから引っ張りだこだな」
恵まれた体格だ、と褒めるとガタン、と椅子の音を立てて迅が立ち上がった。
「バカ言うな」
怒っている声に聞こえた。驚いて見上げると、明らかに不機嫌な顔で迅が続けた。
「俺を引っ張っていいのは律だけだ」
「は? なに言ってんの?」
思わせぶりというか、なんというか……。
真意が知れない迅の言葉に眩暈がしてくる。なんと返していいか分からなくて、とりあえずため息を吐いた。
「なに疲れてるんだ。次、化学だろ。実験室行くぞ」
「え? もう行くの?」
「特別棟遠いし、準備の手伝いがある」
「手伝いか……、分かったよ」
委員長って大変だな、と思いながら急いで教科書とワークノートを出した。先に行けば良いのに、と言いかけたが「律の右は任せろ」という昨日の言葉が頭に浮かんだ。これは喜ぶべきなのだろうか。なんとなく心が浮つくのを感じながら準備をする。
「待たせた」
「あぁ」
右側に迅を感じながら教室を出た。歩きながら、特別棟の行き方や実験室の場所が分からないことに気付いた。迅が居なければ迷ってしまっただろう。
(なんか、オレ、迅なしじゃ単なるポンコツ?)
情けない高校生活のスタートだ、と思いながら廊下を進む。このままでは情けなさすぎるので、迅に教室の場所や校舎の配置を尋ねた。迅の説明は分かりやすかった。
その頃、一足早く二人が出ていった教室では――。
「あのバレー部の勧誘を断ったってまじ?」
「なんか、興味ないって一蹴したみたいよ」
「やっぱりバスケ部?」
「え~! バスケって最弱なんでしょ?」
「二人一緒にどっか入るのかな?」
「目ダメなら運動無理でしょ。なんか、三天さんが佐藤さんを無駄に縛ってない?」
勝手な憶測や噂話に花が咲いているのだった。
