翌朝――。
 一人でキッチンに立ったが、正直、弁当を作る気になれなかった。昨日なんて、一口も食べてくれなかったではないか。
「……でも、カツサンド買いに走るよな」
 律儀にパン争奪戦に参戦してしっかり買ってきてくれる。一方的にもらうのは気が引けるし、自分の分しか持って行かないのは、こちらが壁を作ってしまうようで嫌だ。
「でもさ……」

「俺のこと見てない」ってどういうことだ?

 卵を割り、カシャカシャ混ぜながら考える。
 迅のことを考えていない訳じゃない。一緒にバスケをするために部のことを考えているのだ。
 試合ができるようになるには、ある程度レベルアップしないといけないし、そのために先輩達に教える必要がある。だから、先輩達の相手をしているだけだ。
「先輩の相手ばっかりするなってこと?」
 泡立つくらい混ざってしまった卵液を手にしたまま、開いた口を閉じられなくなった。
「おはよう~。今日も作っていくのね」
 あくびをしながら姉が起きて来た。
「姉ちゃん……」
「なに?」
「迅ってさ」
「うん?」
「バカ?」
 ストレートに気持ちが口から出てしまった。
「まぁ、そうなんじゃない? 一切の連絡を断って、電話も会うのも、全拒否したあなたを半年も信じて追いかけてきたんだもの」
「……」
「大好きなバスケ捨てて、県内トップクラスの高校に数か月で合格するなんて普通じゃないと思うけど?」
「じゃぁ『俺のこと見てない』っていうのは……」
「その言葉通り。『俺のこと見て』ってことなんじゃないの?」
「……は?」
「は? じゃないわよ。律は迅クンのこと、どう思っているの?」
「どうって……、それは……」
「みんな平等に優しくって素敵なことだけど、迅クン的にどうなのかしらね? それに律は? 迅クン足りてる?」
「迅が足りるってなんだよ」
「そのままよ。ほら、律は今はどう感じてるの? 満ち足りてる?」
 手元の卵液を見た。
 いつもどおり、卵を四つ使っているし、イカのピリ辛焼きに定番のミニエビフライの準備をしていた。
「さみしいか、さみしくないかって言ったら、それは……」
 昨日は朝から口をきいてくれなくて困惑したし、パンは買って来てくれたが一緒に食べられなくて寂しかった。
 全く手を付けてもらえなかった弁当を片付ける時は悲しかったし、その辛い気持ちは今も引き摺っている。でも、やっぱり迅のために弁当を作っている。無視はできない。
「どうしたらいいと思う?」
 姉はこちらの心を見透かしたような笑みでうんうん、と首を縦の振っていた。
「どうしたらって……それは……」
「まぁ、そこからは二人の問題ね」
 頑張りなさい、と言い残した姉は廊下の向こうへ消えた。これから朝風呂なのだ。その背中を見送ってから、フライパンを見る。
 迅とのやりとりを思い返しているうちに、保健室での時間が脳裏に浮かんだ。
「……オレ、付き合ってって言ったんだ……」
 そうだ。キスだけでなく、その後、友だち以上の関係になった。
「そうだ、迅は……『朝から朝まで一緒がいい』って言ってた。その意味……」
 ボッと顔が赤く染まった。
 迅の熱い言葉と情熱的な触れ合いが脳裏をよぎる。
 保健室で人には言えない時間を過ごし「ずっと一緒」と誓ったはずだ。
 それなのに、自分は迅をほったらかしにしてバスケ部の先輩達に力を注いでいた。
「ってことは、オレが『ほったらかしにしてゴメンね』とか言うのか?」
 呟いた瞬間、羞恥で全身が熱くなった。
「言えないよ」
 恥ずかしすぎる。
 いや、大体、そうならそうと言えばいいのだ。
 オレが気付くまで拗ねて待っているつもりなのか?
 図体ばかり大きくて、どれだけ繊細なんだよ!
「まったくもう!」
 実は、寂しがり屋の構ってちゃんなのか? いや、考えてみればそうだろう。ミニバスの時から迅はずっと律を追いかけてきていた。
 それが、急にバスケ部の先輩のことばかり考えて迅を放置していた。そこは反省すべき点かもしれない。
「……まったくもう」
 唇を尖らせながら、弁当作りを再開する。
 毎日作っていると、少しずつ慣れてくるものだ。手順も覚えてしまえば難しくはない。
 余計なことをあれこれ考えていたせいで時間が無かった。
 朝練の時間に間に合うか、ドキドキしながら弁当を作り上げて鞄に仕舞った。
「あ!」
 なんとかギリギリ間に合った、と思ったところでインターフォンが鳴った。
「……迅?」
 おそるおそる玄関のドアを開けると、そこにはポーカーフェイスの迅が立っていた。
「おはよう」
 なんだかんだ言っても、誘いに来るのか。
 少しホッとしながら隣に並ぶ。迅は右側に立って無言のまま歩き始めた。
「……」
 気まずかった。
 頭の中で「言えよ!」という声が響くが「迅だって正直に言ってくれればいいのに」という思いも消えない。
 なんとも微妙な距離を保って歩いているうちに、長い坂を下り終えてしまった。そして、そのまま二人で部室に入る。
 迅はこちらを見ない。なんとなく、意識的に見ないようにしている風に感じた。そのせいで余計に心が急いてしまう。結局、言葉を交わさないまま部室を出ることになった時だった。
「これ」
 迅がたった一言だけ発した。
「DVD?」
「動画で見る方が分かり易いだろ」
「動画?」
「あぁ」
「もしかして、練習動画探してくれた?」
「違う」
「ん?」
「俺が良いと思う練習メニューを、俺がやってるのを撮って編集した」
「え! なにそれ! オレも見たい!」
 思わず身を乗り出して迅が持っているDVDプレイヤーを見た。少し照れくさそうな表情の迅はさっさと歩き出してしまう。
「あ、ちょっと待てって!」
 慌ててボールが入ったカゴを押しながら追いかけた。ベンチにDVDプレイヤーを置いた迅が再生ボタンを押した。横に引っ付いて画面を覗き込む。
「うわ……、迅だ」
「俺がやってるって言っただろ」
「うん、迅だ。迅ってドリブルの技、上手いよな。オレ、迅の流れるような動き好き」
「……コレがあれば律が張り付かなくても練習できるだろ」
 迅が視線を遠くへ向けながらボソボソと言った。
 口元や頬が緩んでいるように見えるのは気のせいだろうか。耳の辺りも赤らんでいた。
「確かに。オレが傍についてなくても、好きなだけ止めたり再生したりできる」
「律が張り付かなくてもいい」
 そこが重要、というように迅が繰り返した。
 不貞腐れていた割に、実は迅なりに考えてくれていたのか。
「ありがとう。これでオレも練習できる」
「あぁ」
 迅の声が少し弾んで聞こえた。頬を人差し指でカリカリと掻いているのがかわいい。
 ボールを持ち、ドリブルをしながらドンと体を迅にぶつけて誘う。
「軽くマンツーやろうぜ」
「あぁ」
 今朝は体がとても軽く感じられた。ドリブルの音も軽快で、ゴールリングに向かって弧を描くボールも気持ちがいいくらいきれいに入る。
 二人で交互に攻撃しながら練習していると、先輩達が走ってきた。DVDを見せると歓声が上がり、早速、何度も止めたり戻したりしながら練習を始めた。
 そんな様子を見た迅は、どこか得意そうだった。真横で見ていると、こちらまで気分が良くなってくる。フフッ、と笑いが漏れそうになるのを堪えながらコートに戻った。
「迅、いくぞ!」
 弾んだ声で迅を誘い、ここぞとばかりにスリーポイントシュートを決める。すると、闘争心に火が付いたのか、迅の攻撃のギアが上がった。
「あ!」
 長い手足を活かした攻撃にディフェンスが追いつかない。
「フッ」
 口角の端をクイッと上げる笑みが憎らしいけれど、かっこいい。
 そういうことなら、と真正面から勝負を挑む。
 あっという間に朝練の時間が終わり、後片付けを先輩達にお願いして迅と部室に戻る。並んで着替えながらチラリと迅を見た。
「……」 
 一言「ごめん」と言えばいい。今なら雰囲気が悪くないし、サラリと言えそうだ。
 あの、と言いかけた時、迅がこちらを向いた。目が合ってしまい、言葉が喉で止まってしまう。
「なに?」
 迅が不思議そうな顔になった。
「別に……」
「ふぅん?」
 言葉を濁した迅だったが、その顔がスゥッと近付いてきた。
 次の瞬間、唇に柔らかい感触を得た。キスだ。
「!」
「悪い。キスしたくなった。嫌だったか?」
「え、あの、いや……」
「嫌?」
「い、いや……、その、嫌じゃない」
 なにを言っているのか分からなくなってくる。直接的な愛情表現に声を失う。
「バスケ部のことは我慢する。でも、その分、補充させてもらうから」
「補充?」
「俺には律が全然足りてない」
「た、足りるって、オレはプロテインとかじゃないぞ」
「足りないんだ。本当はずっと腕の中に閉じ込めておきたい。傍に居るだけじゃ足りない。律の肌も、熱も、息遣いも全部感じていたいから」
「……迅、お前って……」
「律は俺のこと、足りてるのか?」
 なんという質問だろう。
 顔色一つ変えずにシャァシャァと言ってのける迅が憎らしい。
「教えて? 俺のこと、足りてる?」
「それは……」
 目を真っすぐに見られない。
 昨日一日を思い出せば、足りていないのは明白だ。
 喋ってもらえず、一緒に居られなかっただけで、寂しい、悲しい、虚しい。とにかく色んな負の感情が沸き起こって悶々としていた。
「それは……、足りて、ない」
「じゃぁ、補給するか?」
 上半身裸の迅が両手を大きく広げた。抱きしめてやる、とのジェスチャーだ。運がいいのか悪いのか。律も上半身裸だ。
「……」
 どうしよう。
 ここで拒絶すれば、迅がまた「足りない」とか言い出すだろう。
 でも、抱きつけば肌を重ね合うことになる。そのことを思うだけで、顔どころか全身が熱くなってしまう。
「……律」
 低く優しい声で呼ばれた。耳から染み込んだ声に操られるように、フラフラと迅に近付いた。とても顔を見られなくて、そっぽを向いた状態で迅の腕の中に納まる。
「律」
 ギュッと抱きしめられ、耳元で名前を呼ばれる。
 その熱と圧に、体の奥から意識が飛びそうなくらい幸せな熱が沸き起こった。
「迅……、ごめん」
「なにが?」
「バスケ部に夢中で、迅のこと、放置した」
「あぁ。俺の方こそガキだった。駄々こねて悪かった」
 しばらく二人で抱き合い、どちらからともなく柔らかなキスをしてからシャツを着た。その直後、部室のドアが開いて先輩達が帰って来た。
「お、お疲れ様でした」
 危なかった!
 顔が引き攣るのを感じながら挨拶をして、そそくさと教室へ向かう。
 ポーカーフェイスで付いてくる迅はしばらく歩いてから「フッ」と吹き出した。
「なんだよ」
「教室でいちゃつくの我慢しないといけないな」
「当たり前だろう!」
「俺は気にしないぞ。むしろ見せつけたい」
「はぁ?」
「気付いてないのか? 律、弁当作るの凄いって女子達が騒いでる。黙らせるために皆の前でキスを……」
「おいおい! 人前は勘弁しろ!」
「人目が無ければいいんだな?」
「……」
 しまった、と思ったものの、迅の真剣な目に気圧されてしまう。
「な、内緒でなら」
「分かった」
 迅は嬉しそうな顔で頷き、そのまま距離を詰めて腰を抱いてきた。
「おい!」
「これはキスじゃない」
「それはそうだけどっ」
「俺はずっとそばに居たいし、触れていたいし、熱も感じ続けたい」
「TPOって知っているか?」
「俺が足りないと思った時、俺が良いと思う場所で、律と良い感じになりたい」
 俺のTPOだ、と堂々と言ってのける迅に呆れてしまう。このまま学校内で好き放題されては、素行を問題視されるリスクがある。それは避けたい。
「なぁ、迅」
「なんだ?」
「今日からオレの全部をくれてやる。だから『オレ・ファースト』にしろ」
 全部、というところに迅が反応した。食いつきが良いことに気を良くしながら律は頷く。
「律ファースト?」
「そう。オレ第一主義。オレを最優先に考えてくれ。色々バタバタしたけど一緒に高校生活スタートしよう」
 好きな物を全部手にしたスタートだ、と言うと、迅は少し考えた後で頷いた。
「朝はバスケ、昼は授業、放課後バスケで、夜は一緒に勉強。ずっと一緒だ」
「嫌だ」
「は? い、嫌?」
「あぁ。朝から晩までじゃ嫌だ。朝から朝まで一緒じゃないと嫌だ」
「……なに、同棲ってこと?」
「どっちがどっちに行ってもいい。どうせ親は仕事三昧だし」
「まぁ、確かに」
 迅の父親はアメリカで、母親も税理士事務所を切り盛りしている。
 律の父親はスーパーカーなど特殊な車両の整備士で工場に入り浸っているし、母親は病院や往診で忙しい。家に帰って来ない両親を持つ者同士だ。本当に朝から朝までか、と呟きながら、脳裏に過る妙な期待に心臓が高鳴るのを感じた。
「ナニか想像したか?」
 見透かしたように迅が突っ込みを入れてくる。
「べ、別に! ナニってなんだよ!」
「俺は想像している。いつもだ。あぁ、いつでもいいぞ」
「ナニがだよ!」
 バカッと迅の背中を叩き、歩調を速めた。教室までもう少しだ。
「馬鹿にするならエビフライ、食わせてやらない!」
「いや、食う。絶対、食う」
 大股で追い付いてきた迅が間髪入れずに食い下がってくる。
「作ってきてくれないかと思っていた」
「実は迷った……」
「でも、作ってくれたんだ。ありがとう」
「……まぁ、迅だからな」
 フイッと顔を背けながら言い、教室に入った。すぐにチャイムが鳴り響いた。朝のHRの始まりだ。
 迅がスッと立ち上がり、委員長として号令をかける。
 その姿を横目で見ながら、ぼやけた視界がクリアになっていく期待に胸を膨らませるのだった。