キュッ! とシューズが床を踏みしめる。
 ダダッとボールが前後に跳ね、まるで生き物のように迅を避けていく。
 手、足、体、全てが極上の連携で動き、フェイントをかけてゴール下へ進入する。
 高い壁に阻まれたがふわりと腕を躍らせ、ふた呼吸ほど遅らせてシュートを打つ。
「おぉぉ!」
「入れた!」
 律のギミックに満ち溢れたシュートに歓声が上がる。
 華奢でほっそりとした律が、迅という大きな壁をものともせずにシュートを決める様子は芸術的だ。
「半年怠けていた割には動けてるわね」
 母の呟きにバレー部・荒木主将は目を白黒させながら拍手を送っていた。
「ほんと、バスケが好きね」
 半ば呆れ気味に言う母はスマホを握りしめていた。万が一の時には、即、救急車を手配するつもりなのだ。心配で堪らないだろうが、好きを満喫させてくれるのは親の愛だろう。
 マンツーマンの練習は攻守を交代しながら行う。
 律の攻撃が終わると、迅だ。迅の攻撃はまさにパワープレイ。長い手足を存分に使い、ダッシュの勢いそのままにゴール下へ飛び込むと、ディフェンスを跳ね飛ばす勢いでシュートする。
「!」
 ガンッと激しくゴールリングが揺れた。
 律は勢いに負けてコートの外へ飛び出していた。その前で、迅が豪快なダンクシュートを決めている。
「すごぉいっ!」
「生のダンク、初めて見た!」
 バレー部のファンも一緒になって歓声を上げている。それを聞きながら律は床に尻もちをついた状態で渋い顔を作った。
「かっこつけて!」
「かっこいいだろう?」
「否定しないけどっ!」
「当たり負けして悔しいか?」
 ニヤッと笑う迅に対し、激しい闘争心が湧き上がってくる。
「負けてない! 次は絶対止めてやるから!」
「どうかな。律くらいなら、小脇に抱えてダンクできる」
「言ったなっ!」
 練習だって手加減はしない。
 滴り落ちる汗をシャツでグイッとぬぐってからコートへ戻った。
「ぼ、僕達もやるよ!」
「おうっ!」
 先輩四人も反対側のゴール下でマンツーマンの練習を始めた。
 気持ちが前のめりで足がついていっていないような動きだし、ボールさばきもたどたどしい。しかし、コートに立ってバスケをしたい、という気持ちが溢れていた。
「いくぞ!」
 律はボールを手に、迅と対峙した。
 汗に濡れた顔。
 鋭く射抜いてくる迅の視線。
 わずかな動きにも反応する敏感なセンサー。
 そして、一瞬の隙も逃さないという貪欲な対抗心。
 その全てが自分に向けられている緊迫感が堪らない。迅の全てを独占できるこの瞬間が最高に思えた。
 そこからは、一進一退の時間が続いた。
 シュートも、セーブも、五分五分。
 律は少し離れた場所からゴールを決めるし、迅はゴール下まで力技で運んで確実に入れる。
 シュートを決めた数は全く同じ。
 練習しているのか、勝負なのか分からない状況になっていた。律も迅も、肩で息をしながら、繰り返し汗を拭ってボールを追っている時だった。
「あっ!」
 滴り落ちた汗だろうか。律の足が滑った。踏ん張りがきかず態勢が崩れてしまう。
 体を立て直せず、足首が変な方へ向いてしまった。
「やばっ!」
 捻挫だ、と思った時だった。
「律!」
 ガシッと胴を抱かれた。
 素晴らしい反射神経で飛び出してきた迅が抱き留めてくれた。
「あっ……、ありがとう」
「大丈夫か? 足! すぐ脱げ! スプレーは!」
 迅の動きは早かった。
 あっという間に抱き上げられ、コートの外へ連れ出された。そして、母がいる場所まで運ばれ、下ろされたと思うとバスケットシューズを脱がされた。
「救急セットは!」
「え、あ、そ、そういうのは、ちょっと用意が無くて……」
 反対のゴール下で練習していた二、三年生が駆け寄って来る。
「なら、保健室だな」
 再び抱き上げられた律は、そのまま保健室へ運ばれた。途中、母が「やろうか」と近付いてきたが、迅は「俺がやります」と拒否した。その表情があまりに真剣で強い拒絶だったためか、母はすぐに退いた。そして「酷かったら病院にいらっしゃい」と言い残して帰って行ったのだった。
「迅? どうした?」
「……」
 迅は答えなかった。硬い表情のまま真っすぐに保健室に向かう。
 ドアが静かに閉められ、消毒液の匂いがする保健室で二人っきりになった。
 そっとベッドサイドに座らされた。
「痛むか?」
「大丈夫。ちょっとひねっただけだ」
「バッソクも脱げ。冷やすぞ」
「うん」
「目は?」
「あ~……、ちょっと見えにくい」
「お前っ!」
「違うって。汗が入っただけ」
「本当か?」
「本当だってば。迅って、そんなに心配症だったっけ?」
 どうしたんだよ、と困惑しながら尋ねると、迅が傍に跪いた。足首を動かさないようにしながら、冷却スプレーを吹き付けてくる。
「心配するに決まってるだろ。無茶するな」
「いや、だから無茶は……」
「無茶じゃなきゃ、なんだよ。俺の心臓、一回止まったぞ。『お前が立つコート、オレが用意する』なんて言うから」
 怒りと困惑が入り混じった声だった。
 グッと返す言葉に詰まり、自分の行動を振り返った。まぁ、確かに一人でバレー部に喧嘩を売ったのは無茶だったかもしれない。
「……迅、来てくれてありがとう」
「あぁ」
「一緒にバスケができて……嬉しかった」
 足ばかり見て顔を上げない迅に言葉をかける。
 嬉しかったのは本音だ。
 ただ、まだ胸につかえているものがある。目のことだ。本当のことを自分の口から話していない。姉が口を滑らせたが、真相――キスのこと――は知らないはずだ。それをどうやって切り出そうか、迷ってしまう。どうしよう、と言葉に詰まっていると迅が言った。
「……律は」
「なに?」
「律は俺のこと、恨んでないのか?」
「恨むなんて……なんで?」
「だって、俺の手が当たったせいでバスケができなくなったんだぞ」
「それは……」
 迅が顔を上げた。今にも泣き出しそうな表情だった。こっちまで息ができなくなるような悲痛な顔だ。
「そんな顔するなよ。迅は悪くない」
「俺が悪くない訳がないだろう!」
 迅が語気を荒げる。どうしても自分のことが許せないらしい。
「だから、迅は悪くないんだって」
「慰めはいらない。俺が律の……、律の目を……」
 迅が自分の手を見ながら声を震わせる。逞しい腕も震えていた。
「違うんだって!」
 思わず立ち上がってしまった。自分で自分を責め続ける迅に居ても立っても居られない。
 迅は悪くない。オレが否定しているのに、それを聞き入れようとしない態度が腹が立つ。
「オレの話を聞け!」
 迅との間合いを詰め、その胸倉をガツッと掴んだ。
「あの日、確かに迅の腕が目に当たった。瞼が切れたし、外傷性網膜剥離に、コンタクトが裂けて眼球にも傷が付いた。視力が極端に落ちて、視界もぼやけてる!」
「だから、それは俺……」
「違うんだって! こんなことになった本当の理由は、オレが迅に、迅に!」
 そこまで言ってから言葉を止めた。
 胸倉を掴んだ手に力を籠め、全力で迅を引き寄せた。そして、そのまま口付けした。
 汗が匂う距離どころか、柔らかな唇が重なるゼロの距離だ。
「……」
 チュッと小さな音を伴うキスを交わしてから律は手を離した。
「迅の腕がオレの目に当たったのは、オレが迅の寝込みを襲ってキスしたからだ」
「……」
「夢の中でもバスケしている迅を襲ったオレが悪い。恥ずかしすぎて言えなかった。ごめん」
 さっきまでの悲壮感はどこへやら。
 呆然とした表情で迅が見上げてくる。その視線を真正面から受け止められなくて、ベッドの端に座り直し、自分でコールドスプレーを使う。
「自業自得なんだ。迅が謝る必要ない。あんまり謝られると叫びたくなるよ」
 早口で言うが、どう思われるか怖くて堪らなかった。
 小学生の時から切磋琢磨して来た同性の相手に、いきなりキスされるなんて気持ち悪いに決まっている。しかも、真相を秘密にし続けていたのだ。軽蔑されても仕方がない。
 プシューッと冷却スプレーの音だけが響く。
 何度もしつこいくらい足首にスプレーを吹き掛ける。感覚が分からなくなるくらい足首が冷たくなってしまっても、気まずくてスプレーを止められなかった。
 嫌われた――。
 そう思った時だった。唐突にベッドが激しく揺れた。
 なにが起こったか分からなかった。
 気が付いたらベッドで仰向けに倒れていて、迅が覆いかぶさってきていた。
 ギシギシとベッドが軋む音が聞こえる。
「迅?」
「サイテーだ」
「え……」
 迅の言葉が耳に刺さった。低く鼓膜を揺さぶった言葉に全身が凍り付く。
 最低――。そう言われても仕方がない。
「ごめん、迅。オレ……最低だ」
 バスケに真っすぐ向き合って主将になった幼馴染に、性的な感情をぶつけるなんて最低だ。軽蔑されても仕方がない。完全に嫌われた。そう思った時だった。
「!」
 胸倉ではなく顎を掴まれた。あ、と思った次の瞬間には息ができなくなっていた。
 唇を触れ合わせるだけのキスではなかった。初めて大人の世界を垣間見た。
「んっ」
 熱い。
 柔らかい。
 気持ちいい。
 なにより、信じられない近さで迅を感じられる特別感に頭がボーッとしてくる。
「俺、サイテーだ。なんか、もう、止められねぇ」
 鼻先を触れ合わせたまま、迅が言った。その声には、これまで聞いたことがないくらい熱がこもっていた。そして、再びキスしてくる。もう、遠慮もなにもない感情丸出しのキスだった。
「律、好きだ。小学生の時からずっと、ずっと好きだ」
 目を逸らせることができないし、逃げることもできない。
 吐息でさえも聞こえてしまう距離で熱い気持ちをぶつけられる。
「会ったあの日に心臓掴まれた」
 会った日――。
 それは、小学四年生の夏休み明けだった。
 ミニバス三昧の夏休みが終わって「学校かぁ」とため息を吐きながら迎えた始業式の日。
 朝礼で担任が転校生を紹介した。先生に促された転校生は俯いたままボソボソッと名乗った。
「声ちっさ! 背もちっちぇ!」
「チビ帰国子女」
「男のくせに子女だって!」
 クラスの問題児がはやし立てたのを皮切りに、男子達が一斉に笑い声を上げた。そんな中、律はハッとして目を輝かせた。
「アメリカ! NBAじゃん! バスケやろう!」
 椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、転校生に向かって大声で言った。
「うわ! 出た、バスケ馬鹿」
「馬鹿で結構! 会ってすぐの奴いじめるダサい奴は黙ってろ!」
「ダサくない!」
「ダサいしウザいっ!」
 律はバンッと机を叩いて問題児を威嚇してから、隣の空いている席を示した。早くこっちに来い、と何度も手招きする。気弱であきらめの早い担任は逆らうことなく「座りなさい」と迅を促し、律の隣に座るよう言った。
 そこから、律と迅のコンビが始まったのだ。
「初めて会った時から律は最高だった。女神様だって思った。俺は、なにがあってもついていくって心に決めたんだ」
「……恥ずかしっ。あの頃って、みんなサッカーか野球やってて、一緒にバスケできる友だちが欲しかったんだ。でも、転校初日に『NBAだ! バスケやろう!』ってないよな」
「いや、律が居てくれて良かった。あの時、律が引っ張ってくれなかったら、俺は多分、生きてない」
「言いすぎだろ、それ」
「本当だ。アメリカじゃ『アジア人』って蔑まれたし、帰国しても初日にいきなり『男のくせに帰国子女』なんていじめ。担任は頼りないし、最悪としか言いようがなかった」
 迅は言葉を切ると、コツンと額をぶつけてきた。
「俺に居場所を作ってくれてありがとう」
「いや」
「あの日から、俺は律しか見てなかった」
「……」
「律から視力奪ったって分かった時には、死のうかと思った」
「そんな……」
「俺がさっさと律に告白してキスしておけばよかったんだ。そうすれば、律が俺の寝込みを襲うこともなかった。俺がもっと早く律に手を出して、律を満足させておけば……」
「いや、あの、キスって……、その、満足って……」
「俺が立つコートを準備してくれてありがとう。もう、なにがあっても絶対に離れないから」
 再び唇が重なった。
 同時に、全身に心地よい圧を感じる。迅に抱きつかれていた。
「ずっと……ずっと、こうやって抱きしめたかった。律の身長を追い越した時、本当に嬉しかったんだ」
「あ?」
「デカくなった俺が抱けば、律は俺以外が見えなくなるし、俺の腕から逃げられなくなるだろ」
「お前って奴は……」
「もう、離れたくない。ずっと傍に居る。ずっと……ずっと」
 迅の熱い語りが止まらない。抱きつぶされそうなくらい強く抱きしめられた。
「律の右だけじゃない。全部、俺が守るから」
 ギシッとベッドが軋んだ。その激しさに苦笑してしまう。
「お前、気持ち伝えるのもパワープレイなんだな」
「笑うなよ」
「なぁ、迅」
「なんだ?」
「オレと付き合って」
 恥ずかしくて小さい声になってしまったが、はっきりと告白した。
「もちろんだ。別れたいって言っても、俺、死ぬまで離れないから」
「分かった。ず~っと一緒だ」
「朝から朝まで、律とずっと一緒がいい」
「朝まで?」
「学校行くのも、学校も、昼も、バスケも、帰りも、晩飯も。ずっと」
「全部じゃん」
「あぁ。人生全部一緒がいい。いや……、一緒じゃなきゃ嫌だ」
「なんか、駄々こねてるガキみたい」
 バーカ、と言いながら迅の背中に手を回した。
 お互いに笑い合いながら「好き」と何度も言い合う。抱き合いながらふざけ合ううちに、ふ、と思い出したことがあった。
「あ、迅!」
「なんだ?」
「服脱げ!」
「なんだよ、律。ここ学校だぞ? そういうのはホテルか家で……」
「違う! ほら、脱げよ。バレーボールが当たったところ見せろ」
「ん? あぁ、あれ? 大丈夫だって」
「いいから見せろよ」
 無理矢理、服を脱がせた。案の定、背中が赤くなっている。よく見れば、内出血で青くも見えた。
「最低だな、あいつ!」
「最低なのは確かだが、そんなにひどいか?」
「うん。冷やした方がいい」
「じゃぁ、律が舐めてくれよ」
「はぁ?」
「そしたら、すぐに治る」
「馬鹿か、お前は!」
「律は? どこにもぶつけられない?」
 そう言いながら、迅が体中を撫で回し始めた。
「あ! ちょっと! くすぐったい! や、やめ……!」
「あ。足が赤くなってる。当てられたのか?」
「ん~、そうかも?」
「あの野郎……」
 迅は奥歯を噛みしめながら吐き捨てた後、足を優しく撫で、口付けしてきた。
「あっ!」
「ん? どうかしたか?」
「いや、迅、ちょっとくすぐったい」
 迅の唇がすぅっと肌の上を滑っていく。
 妙な危うさを感じながら、しばらくベッドでじゃれ合ったのだった。